馬鹿琴の独り言

独り言を綴ります。時にはお相手して下さい。

超意訳:南総里見八犬伝【第三回 安西景連、麻呂信時、暗に里見義実を断る/杉倉氏元、堀内貞行、災厄と知るも舘山行きに従う】

2024-01-29 01:19:09 | 南総里見八犬伝

 こうして安西三郎大夫景連は、近習の報告から、結城の落人里見義実がたった主従三人、船で安房を訪れてきたことを知った。
 訪問の理由をおおよそ推察しながらも、後で厄介ごとに巻き込まれるのはかなわないとばかりに、近習への回答を渋っていた。麻呂信時を見て、
「ううむ、こんなことになってしまった。麻呂殿はどう思われるか」
 聞いたそばから、
「里見は名のある源氏の血筋の者だが、ここには縁も所縁もない。無二の足利持氏方であるから、結城氏朝に加担し三年も籠城し、京の将軍や鎌倉の関東管領を敵にしては、命が幾つあっても足らず、普通は無謀なことと思うはずなのに」
 麻呂の口調は辛らつだった。
「落城するに及んで、親も見捨てて、おめおめと逃げ出した挙句、安房へ流れてきたに違いない。取るに足らない愚か者になぜお会いするというのか。さっさと追払いなさるが良いでしょう」
 非難しながら説得してみるが、安西はしばらく考えてから言うのだった。
「私もそう思ったが、使い様がありそうだ。彼らは三年籠城して、戦に慣れている。義実は年が若いと言っても、数万の敵軍を相手に切り抜けて、ここまでたどり着いたのだ。招き入れて会ってみよう。その手腕と勇気を試してみて、使える者であれば山下定包を討つ一手の将にしてやろうよ。使えない者であるなら追出すまでもなく、すぐに刺し殺して後の災いを払うまでだ。これでどうだろうか」
 この囁きに麻呂は何度もうなづき、
「良いお考えだ。私も会おう、ご用意を」
 と急がせた。
 安西景連は急いで老党を呼びつけ、いろいろと指示を申しつけた。腕に覚えのある武士たちを集めて言い含めて、指図をする。
 麻呂信時もまた供についてきた家臣を呼び、安西の謀略を聞かせて、二人は連れだって客間に行った。
 戦支度をした軍装の安西の家臣二十人、麻呂の従者十数人がいかめしく両側に並ぶ。大きな弓、槍や薙刀が幾つも飾り立てられた。
 廊下には幕を垂れており、その陰には鎧を身に着けた武士が十人あまり、いつでも里見主従を生け捕る様に手ぐすねを引いて待っていた。

 里見冠者義実は半刻(約一時間)も城の主を待たせられ、ようやく別室に招き入れられた。
 衝立の襖の陰から、薄い藍色の麻の裃を着けた安西の家臣が四人現れ、
「どうぞこちらへおいで下さいませ、我らがご案内いたします」
 と義実の前後を囲みだした。だが半弓に矢をつがえるのを見て、少し遅れて従っていた杉倉氏元と堀内貞行がとっさに主君を守ろうとする。
 しかし黒い小袖にたすき掛けの安西の家臣が六人出てきて、短い槍の先を揃えて二人に向かう。先の藍の裃を着た四人は、義実を残して去って行った。
 当の里見義実と言えば、騒ぎ慌てる様子もなく、
「物々しいもてなしであることだ。この三年以来、結城城において、敵の矢面に立ってきた。槍の先を何度も潜り抜けてきたが、安房は海より他に何もない。この土地は波風立たず、身分の高い者も低い者も平和を楽しんでいる、と聞いてたが違うらしい」
 独り言を言った。
 後から着いてきた二人の郎党も立ち止まり、
「平和の中にも戦乱を忘れず、小敵と見ても侮らずとは兵書には記してありますが、三人に過ぎない主従に対して、鏑矢の吸い物に弓弦の素麺とは、変わったご馳走ですね。こちらの主の手料理を頂きましょう、さあ早くご案内を」
 と皮肉を言って案内を急がせた。

 主従が席に臨むと、安西と麻呂の配下の武士は、弓を伏せ、槍を引き下げて、左右の幕の中へ入っていった。
 里見義実は、安西景連と麻呂信時を見ても少しも顔色を変えずに、客の席に着き、扇を持ちながら、
「結城の敗将、里見又太郎義実でございます。亡父治部少輔季基の遺言に寄りまして、何とか敵軍を突破して、漂泊しながらこちらに参りました。海女の粗末な家でもはかない今の身を寄せて、都はもちろん鎌倉の管領にも従わず、この安らかな国の民となれればこの上ない幸いでございます」
 一度里見義実は言葉を切った。
「でもそれも昨日までのこと、聞くことと異なる世間の噂、義によって我が微力を尽くせることもあろうかと思いまして、恐れながらもご面談をお願いしましたところ、敗軍の将とてお断りにならずにお会いいただき、胸中は極まりました。供は杉倉木曽介氏元、堀内蔵人貞行でございます。お目通りいたします」
 礼儀正しく名乗り、従者二人も頭を下げた。
 しかし、安西景連は思っていたよりも若く見える義実を侮って、礼を返さない。
 麻呂信時は城の主を待たずに目を見張り、大声を出して、
「私は麻呂小五郎である。今朝、別件で平舘から来たのでこの席上に参加している」
 麻呂は里見義実を罵倒した。
「お主は生意気な若武者であるな。我が安房の国は小国であるが、東南の果てで三面ともすべて海。室町の将軍の命令も受けず、関東管領にも従わないが、隣国の敵にも敢えてこちらから国境を攻めることはない。私は言うまでもなく安西殿に所縁もないお主が、京、鎌倉の敵となって身の置き場もないのに、若造の癖にさえずって利害を説くなど愚かなこと。慈愛深い御仏のごとくお主らを受け入れたとしても、罪人を匿い祟りを招くことなど誰がいたそうか。面会するなどまったく意味がない」
 と顎をさすりながらも笑い、嘲り罵った。
 しかし里見義実もにっこりと笑って返した。
「そう言われるは有名な麻呂様でおられるか。麻呂、安西、東條は当国の旧家として、勇猛で知略に長けておられると思っておりましたが、違う様でございますな。悔しいことでございますが、私の父の里見季基は生涯ただ義の一字を守って、長くは守れないと思われる結城城に立て篭もり、京と鎌倉の大軍を三年もの間防ぎ、死に臨んでも後悔しませんでした。父には及びませんが、私は敵を恐れて逃げず、命を惜しんで逃げたりもしません。亡父の遺言によりやむを得ず、ただ運命を天に任せて時を待とうと思うだけなのです」
 改めて義実は二人を見た。
「鎌倉公方の足利持氏卿、勢い盛んな時節には安房、上総はもちろん関八州の武士は、全員心から忠誠を誓い出仕しない者はおりませんでした。永享の乱で持氏卿がご逝去されては、幼君のためにすべてを投げ出して、結城氏朝に協力し、結城に籠城した者は少のうございましたぞ。強い方につこうという人の心、頼りにならないものでございますから、麻呂殿、安西殿、持氏卿の恩義に応えず、関東管領を恐れ、私を受け入れないというのであれば、袂を分かって出て行きましょう」
 義実は更に皮肉交じりに言った。
「現在、二人の関東管領、扇谷定正殿と山内顕定殿の勢力は強うございますからな。関東の国々の武士は追従しております。恐れるのも当然でございますが、たった三人の主従にに過ぎない義実をひどく怖がって、武器を持った家臣らに案内させ、ここは安全であると口にはされるものの、用心に用心を重ねて席上に弓矢を掛け、太刀の鞘を外し、それどころか幕の内に多くの武士を隠されているのは一体どういうご了見なのか!」
 問い詰められた麻呂信時は怒りで顔を赤くし、安西景連に合図を送る。当の安西は思わず大きな息を吐き、
「里見殿の言われることは至極全うなことだ。弓矢も刀も武士に必要な物、身を守るために座る時も寝る時も手放したりはせんが、あなたを脅すためではない。だが案内をさせた者が武器を持っていたこと、幕に武士が隠れていたことは、景連はまったく知らん」
 安西景連は家臣たちを叱った。
「そもそもお前たちは何のためにこんなことをしたのだ。とっとと出て行け」
 と退く様に命令し、飾り立てていた槍や薙刀を屏風で隠させた。
 すべて主の命令した通りの用立てではあったが、全部無駄となり、安西と麻呂の家臣は、汗を拭いながら本来の持ち場に戻って行った。

 それでも麻呂信時は懲りずに膝を進めて、里見義実に向かって、
「今そなたが申されたことは尤もらしく聞こえるが、納得がいかん。敵を恐れず、命を惜しまず、運を天に任せて、時を待とうと言うのならば、坂東には源氏が多い。他に身を寄せるべきところもあるだろうに、元から親交もない、一国の主でもない安西氏を頼んで、船でやってきたというのは理解できん」
 麻呂信時は声を強めた。
「飢えた者は皿を選ばないし、追われる者は道を選ばない。敵を恐れ、命を惜しんで逃げ迷った挙句、恥を掻いてここまで来たのだろう。甲斐性のない身の上を飾らずに、その通りであると明確に告げてこそ、憐みもひとしおだろうに。この席にせっかくおるのだから、仲介してやろう。逃げ出したと言いなさい、はっきりと本当のことを言いなさい」
 麻呂信時が再三繰り返すのを聞いていられなくなった堀内貞行は、杉倉氏元の袂を引いて、主人のところに進んで、
「当て推量で人を計ってみれば、当たらないこともあるのです。麻呂殿の推量は、雑兵、端武者のものでございます。源氏にはこの様な大将はおりませぬ。そもそも主人の義実は命を惜しみ、敵に追われて、道に迷って、思わず当国に来たのでございません」
 あくまで涼やかに言うのだった。
「昔、源頼朝卿は石橋山の戦で敗れて、安房へ行かれた時、あなた様の先祖、麻呂信俊殿、安西様の先祖阿安西景盛殿、東條殿とご一緒に一番で付き従われ、無二の忠誠をお示しになったではありませんか。頼朝卿は三人を先導とし、上総へ入った際も上総広常、千葉常胤が迎えになり、たちまち大軍になって、更に鎌倉を本拠とされ、遂に平家を滅ぼされたのでございます。里見も同じ源氏の嫡流、八幡太郎源義家殿のご子孫です。この様に先例がございますのに、あまりに無下に貶めなさるのが残念でなりませんので、この際申上げました。言い過ぎはお許し下さい」
 と言い返す。
 智も勇もともに兼ね備えた二人の里見の老臣に説き伏せられて、麻呂信時は怒りに任せて何も言えなかった。

【景連、信時、義実を威す】

下段中央が里見義実、左上に堀内貞行、右隣に杉倉氏元、右上に安西、麻呂が仲良く座ってます。

にしても義実に安西家臣の弓矢が近すぎ、手が滑ったら ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

 

 

 だが義実は麻呂の顔色を見て、
「貞行、氏元、無礼であるぞ。それになぜ私を頼朝卿と比べるのだ。馬鹿げているぞ」
 と大きな声で二人を叱り、下がるように命じた。
 詫びようともしない来客の態度に、麻呂信時は怒った眼差しだったが、手をこまねいているばかりで何も言わない。
 そこで安西景連は、肩を揺るがして嘲った。 
「里見の従者よ、良く聞け。源頼朝の父、義朝は十五か国の将軍だった。もし朝敵とさえならなければ、平清盛もなす術がなかったろうな。従って、頼朝は伊豆へ流人になったが、一度挙兵するに及んで、旧恩を慕う坂東武士は自ら鎌倉に従ったのだ。里見家は頼朝と違うではないか。その始めは太郎義成、頼朝卿に仕えたころから、領地はわずかなものにしか過ぎず、手勢も百騎に足らない。鎌倉以降は南朝に従い、あちらこちら世の中を逃げ惑い、鎌倉公方へ降参してようやく本領を安堵してもらったが、それも少しの間で、今は落人ではないか。主人すら口をつぐんでいるのに、お前たちは何の議論をしていると言うのか。考えを改めて、この安西に仕えるというのならそれ相応のことをしてやらんでもないが、身の程を知らないのだな」
 あくまで里見主従を侮辱するが、氏元も貞行も主人の心を汲んで反論をしなかった。
 当の義実は微笑を浮かべ、
「安西殿の言われる通りだ。しかし人の口には戸は立てられません。私がこの地に来て以来聞きますのは、どこでも同じ噂です。民の誹謗や文句が静まることはございませんが、家臣は主君の耳を塞いで、お伝えもせずお諫めしないということは、甚だしく不忠ではございませんか。先ほど当家への仕官の話をされましたが、氏元、貞行に思いがけなくも、高禄をもって召し抱えようとなさっても、不忠の人と肩を並べるお耳の不自由な主君に仕えることは願わないでしょう」
 こう言われて安西景連は顔色を変えた。
「それは何を誹謗しているのか。噂とはどんなものか」
 と問うが、義実は扇を膝に立てたまま、
「まだお分かりにならんのか。これは安西殿だけではなく、麻呂殿もまた同じなのだ。神余、安西、麻呂の三家は旧交深く、相互いに助け合って、当国を無事に治めてこられた。しかし神余の寵臣、山下定包が悪巧みによって主人を喪わせ、二郡を横領し、安房の国主と僭称するのを、神余のためにこれを討伐もせず、おめおめと奴の下風に立って、ともに穢れるというのであれば、民からも非難されるでしょう」
 静かな口調ではあったが、かすかに憤りが感じられた。
「私はこのことを申上げて、受け入れられることがあれば精いっぱいお働きしましょうと思っていましたが、どうやら無駄でございましたな。出陣のご用意もなく、お話合いもないようであれば、思いを告げることもございません。我が主従をひたすらに非難されるだけで、神余がために定包を討つ勇も義もない武士は頼もしくございませんな、今はこれまで、お邪魔いたします」
 と言うが早いか席を立とうとするが、安西景連は何とか義実を呼び止めた。
「こちらの心中をお見せしていないので、そう思われるのも無理はない。今もう少し座られよ」
 しかし相方の麻呂信時は少しも納得しない。
「分からないのか義実、今日私がここに来たのは本当は軍議のためなのだ。謀は人目を忍ぶが良いという。初めての対面となるお主に軽々しく言うものか。我々が勇気があるのか、それともないのか、知りたければまずこの刃に聞け」
 麻呂信時が息巻いて反り返った刀の柄に手を掛けると、身構えていた杉本氏元と堀内貞行は、改めて主人の周りを固めて用心の眼を配った。
 麻呂の家臣たちも拳を握って振り上げ、近づこうとしていた。
 その時、城の主である安西景連が慌てふためき、麻呂信時を抱き止め、耳に口を近づけて何ごとかを囁き、言い含めた。
 やがて麻呂と安西は配下たちを見て、首を振った。
 配下たちはそれを見て、麻呂を連れてその場を去って行った。里見義実は扇を小さく扇ぐだけで、何も言わずにいた。
 席上はますますしらけ切っていく。
 安西景連は自分の席に戻り、
「義実、どのように思われるか。一言の言葉に死を賭けるのは武家の習いであるが、麻呂殿はおふざけになっただけだ。お気にされるな」
 安西の言葉は少々調子が良い。
「しかし時と勢いを知る者は耐え忍ぶをことを知っていて負けないものだ。こうしていろいろ試させてもらったが、そなたは真に武人だ。例え結城の守将であっても、今この安房を流浪って我が一軍に加わり、山下定包を討とうとするのであれば、我が軍令に背くことはできまい。士卒とともに忠を励んで、戦場で大功があれば、恩賞の沙汰もあるであろう。家柄を誇り、自分の才を頼んで、我が安西の軍勢につくのを嫌、とするならば軍令に背くものだ。そういう風に思うのであれば軍勢には加えまい。お主自身の力を持って、かの賊を打ち滅ぼし滝田の城を取ってみよ。もし平群と長狭の二郡をの主になっても少しも恨みはない。行くも留まるもこの一義で決めなされ。心を定めて回答してみせよ」
 最後の方は言い方も改まっていた。
 里見義実は困難なことと知りつつ、
「行き先も帰る港もない船となってから、その時その時に寄せてもらった場所を岸として、この身を預けてきたのです。ここに恩を頂き、用いていただけるものならば、何を嫌っていられましょうか。包み隠さずに仰って下さい」
 言われた安西景連はうなづき、
「それではことの始めだ。万が一にも背いてはならん。我が家の祝いごととして、出陣の門出に軍神を祀るのだが、供え物としてそれはそれは大きな鯉を用意することになっているのだ。私のために針を垂らして、鯉を釣ってくれれば、良き敵と戦って首を得たようなものだ。分かってくれるな」
 と説得すると、里見義実は断る様子もなく、
「承りました」
 返答するのだった。
 立とうとした義実の後ろに控えていた杉倉氏元と堀内貞行は、左右からその袂を引き、二人は同時に前に出た。
「安西殿へ申し上げまする。祝いごととおっしゃいますが、竿を差して船に乗り、針を降ろして魚を捕る、その手管は漁師より得意な者はございませんし、武士のすることではございません、主人義実には似つかわしいものでございます」
 もう一人が後を引き取った。
「君が辱められる時は、臣も死す、とこそ古人も申しております。ただ私たち二人の首を持って、軍神への供え物となさって下さい」
 最後まで言わせず、安西景連は杉倉氏元らをきっと睨み、
「無礼な奴らめ。義実が掟に従ってすでに承諾したことを、耳の聞こえぬ者が何を言っている。下僕として軍令を犯した罪、軽くはない。外に引き出して斬って捨てよ」
 激しい怒りをものともせず、杉倉氏元と堀内貞行は、更に前に出て反論しようとしたが、義実は家臣らを叱り後ろに下がらせた。
 同時に安西景連に対し家臣の非礼を詫びると、城の主もようやく機嫌を直した。
「であれば鯉を見るまでは二人をお主に預けよう。お主、自ら釣りをされよ。それも三日間に限る。約束を守らず日々を過ごせば、二人の愚か者どもだけではなくお主もどうなるか、心得るが良い」
 と念を押して言うことに、里見義実は恭しく承諾した。
「そろそろ宿に戻ろう」
 何か言い足りなさそうな老臣たちを急き立てて、里見主従は出て行った。
 隣の部屋で立ち聞きをしていた麻呂小五郎信時が夏向きの障子を開けて入って来た。冷笑を浮かべて主従の出て行った方向をしばらく見てから、城の主の元に近づいた。
「安西殿は手ぬるい。どうして里見の従者たちを助けてそのまま行かせてしまうのだ。私はひたすらに義実を討ち果たそうとしたけれど、安西殿が盾となるから、網に掛かった魚を逃がしてしまったわ」
 とやかましく言えば、安西景連は微笑んで、
「私も初めはそう思ってはいたが、義実は名家の子で、若造だが、思慮といい才能といい、普通の者ではない。それに従者たちも一騎当千というべき者たちだ。下手に手を下せば、こちらも多くの者を失うことになる。窮鼠猫を噛むと言うではないか。まして奴らは勇将に猛卒、黙って刀を受ける訳もない。窮鳥懐に入れば猟師これを殺さずの諺通り、今、山下定包を討たずに、恨みもない人々を殺してしまえば民の誹謗は日に増して、大事をなすことができなくなる。しかし義実をここに置いては猛獣を養うようなもので、安心して眠ることもできん。山下を討つか討たないのか、私が日和見している様に見せて、あの主従の態度に我慢をして、祭祀の生贄として使ってやろうと思っていると思っている。これは落し穴を作っているのだ」
 安西景連は得意気な顔になった。
「風土によるものなのか、安房の国には鯉はいない。奴らはきっとそれを知らないから、水辺の淵に立ち、瀬を漁り、日数だけをいたずらに過ごすであろう。空しく帰ってきたところを軍法によって斬ってやる。罰するにも罪が必要、私怨とは呼ばせず、だからな。どうして奴を助けてやるだろうか」
 と自慢げに説明すると、麻呂信時は上機嫌になって笑い出して手を打った。
「名案ではないか。なまじ打ち損じて、山下の滝田城にでも入られて、向こう側についてしまえば、虎に翼を与えるようなものだ。かと言ってこちらで使えば、庇を貸して母屋を取られる、の例えになれば後悔するだろう。こちら側に留めて、後で始末する、こんな謀の他に名案はないな。よしよし」
 ひたすらに称賛するのだった。

 里見義実は白浜の旅宿に向かって足の運びを急がせてはいたが、距離があったために到着するまでには日は暮れた。
 そもそも安房の白浜は、朝夷郡の中であり、「和名鈔」という書物にその名前が乗っており、古い郷なのである。滝口村に隣接しているという。今は七浦と言い、この浜辺の総称である。里見氏の旧跡、縁のある寺社などもここにある。所謂、安房の七浦は、川下、岩目、小戸、塩浦、原、乙浜、白間津である。

 無駄話はさておき、義実は、明け方に白浜に帰りついた。休みもせずに釣りの準備をしていると、氏元や貞行は怒った。
「我が君、そろそろお気づきになりませんか。麻呂信時は思慮分別がなく、安西景連は他人を妬み、そしり、僻んでいます。私を見る眼が仇を見る様な眼差しでした。あんな頼りない人のために、鯉を探して何になるのでしょう。早く上総に向かって害毒どもから逃れましょう」
 二人は諫めたが、義実は首を振って、
「いいや、お前たちの意見は間違っている。麻呂殿も安西殿も利には聡く義には疎い。言動一致せず、山下定包を恐れているだけだ。滝田の城を討つつもりはなく、と分からない訳ではないけれど、ここを避けて上総へ向かっても、そこがまた同様であれば下総は敵地、その時はどこへ向かえば良いのだ」
 杉倉と堀内は義実の言葉を待った。
「君子は時を得て楽しみ、時を失ってもまた楽しむと言うぞ。太公望呂尚がそうではないか。七十になるまで世間では無名だったが、渭水で釣りをしている途中に周の文王に出会い、悪である殷の紂王を打ち滅ぼす大功をお持ちの人だ。斉の国に封じられて、子孫数十世にまで栄えた。太公望ですらそうだ。私は時も勢いも両方とも持っていない。だから釣りを嫌がったりはしない。また鯉はめでたい魚だ。安南(ベトナム)では鯉は、龍門の滝を登る時には龍に変身するというぞ。私は三浦で龍尾を見て、白浜へ来た時には鯉を釣れと人がいう。前兆後兆、頼もしいと思わぬか。もし釣れたら持って行って、安西景連の態度を見てみたい。夜が明けたら出発するとしよう」
 と急がせるので、杉倉氏元も堀内貞行も主人に従って、針と竿を準備して、弁当箱を腰に括った。主従三人は名も知らぬ淵を尋ねて出発する。
 烏も梢を離れて、夜は静かに明けていくのだった。

(続く……かも)

 

2023年2月11日、タイトル修正。

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東大寺に行ってきました

2024-01-27 21:39:29 | 日記

2023年1月27日奈良の東大寺に行ってきましたよ。

近鉄奈良駅に12時ごろ到着、お好み焼きのおかるで昼食です。おかるさんはこちら。

 

おかる (近鉄奈良/お好み焼き)

★★★☆☆3.49 ■予算(夜):¥2,000~¥2,999

食べログ

 

お好み焼きはもちろん、焼きそばが絶品でした。

 

食べてから向かいましょう。土曜日ですが結構な人出。中国語ばっかりですよ(´・ω・`)

駅から10分くらいで到着。

写っていませんがもう鹿だらけなんです。

東大寺南大門、華厳宗大本山ですので大華厳寺と扁額が掛かっています。

鏡池の横から中門と大仏殿が見えます。

中門。大きいですねえ。

聖武天皇勅令によりますので、菊の紋が見えます。

左側の入口からチケットを買って中へ。

大きな大仏殿。

お手水の後、金銅八角燈籠に接近です。

天女の伎楽が聞こえて……はきませんね。

細かい細工がされています。

いよいよ大仏の御許へ。何と撮影可なのですよ!!

鎮座まします盧舎那仏。

はえー大きい……大きい

靴じゃありませんよ、鴟尾です、火除けのおまじないです。

脇侍の虚空蔵菩薩。遠くを見ておりますな。

斜めから見た大仏さん。表情が違いますね。

盧舎那仏&虚空蔵菩薩。

左奥の西北には四天王から広目天さん。

大仏真後ろには、少年刑務所の方々作成のジオラマが。

東北を守る多聞天さん。お顔もポーズもカッコ良いのです。

持国天と増長天は何と未完成なんですって……是非、完成してあげて下さいよ。

この横には柱があり、穴が開いてます。お子様や大きなお友達が先を争って潜ろうとしています。

それらをスルー、平常心平常心……

脇侍の如意輪観音さん。

ここから見る大仏さんもステキ。

大きな手のひら。

華厳 東大寺の御朱印をいただきました。

御朱印を貰ってから大仏殿の外へ。屋根の装飾も細かいです。

雲太、和二、京三の口遊びがあるそうですが、さすが和二。今は高さは約47メートル。

ちなみに雲太は出雲大社、京三は京都御所太極殿です。

【雲太】出雲大社が【和二】大仏殿より本当に大きいかどうかは、この際関係ないのです。

そう考えられてきた、言伝えされてきたことが大事なのですね。

大仏殿の壁。北へ続いています。

顔が険しいですが霊亀ちゃん。屋根の上で守ってくれています。

人が来ないコースを歩きます。

猫段を登ります。昔お坊さんが転んで、猫になってしまったそうです。雨が降ったら気をつけて。

猫段を登ると、辛国神社。

振り返ると大仏殿の屋根が見えます。

行基さんを祀った行基堂。

行基堂の脇から進むと二月堂に到着。その手前に閼伽井屋(あかいや)があります。

ここで水を汲んで、お水取りをします。

高いところにある二月堂を見上げます。階段を登りましょう。

ここを左に曲がって、

二月堂へ。清水の舞台みたいに高いのです。

二月堂の風情のある階段を降りて行きます。

二月堂裏参道から二月堂をパシャリ。人が多いのですねえ。

もう帰り道。毛並みの悪い悲しそうな鹿くん。

ごめんね、餌を持ってないの。

山桜と鹿のマンホールがありました。

16時半ごろ近鉄奈良駅で近鉄に乗りましたが、大混雑でした。

今度は春日大社もお邪魔したいものです。歩いてくたくたになりました、でわ~

 

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安倍晴明を探してⅤ

2024-01-22 19:25:50 | 安倍晴明を探して

2024年1月19日二条を巡った後、晴明神社に寄ってみました。

足利義昭専用二条城跡からたった20分、急急如律令で一条戻り橋に到着です。

①一条戻り橋

川を覗き込むと……

堀川が流れていますよ!

反対側からも一条戻り橋。

晴明はこの橋の下に式神を隠していたそうで、誰かが橋を渡ってくるのを見ていたそうです。

あれ、降りれますよ。昔は降りられなかったはずなんですが、整備してくれたのでしょうか。

橋の下に式神はいるかな?

残念、お出掛け中みたいです。

上に上がって今度は晴明神社に行きましょう。

②晴明神社

京都市上京区晴明町806(堀川通一条上ル)

五芒星も鮮やかな一の鳥居です。

 

晴明神社 〜陰陽師 安倍晴明公をお祀りする晴明神社〜

京都・一條戻橋。平安時代の陰陽師「安倍晴明公」をお祀りする神社。魔除け、厄除けにご利益がある。境内に社紋である五芒星がいたるところに施されている。

晴明神社 〜陰陽師 安倍晴明公をお祀りする晴明神社〜

 

戻り橋からはすぐなんですよ。

神社御由緒。主祭神はもちろん安倍晴明さんです。

傍らには戻り橋と式神が。

昔実際に掛かっていた橋……といっても1922年大正11年から1995年平成7年までですが、だそうです。

道(葭屋町通り)を挟んで二の鳥居へ。

隣接したところに千利休屋敷跡があったのですが、忘れてしまいスルーしてしまいました。(・ω≦) テヘペロ

怪しい五芒星。

清明によって水が湧くという晴明井。

かつては井戸の脇に北斗七星が描かれていたはずなんですが、今もう跡形もありませんでした。

本殿です、畏み畏み。

本殿横には晴明像がありました。

何か怪しい光が出ていますね(単なる逆光)

厄除けの桃。最近すっかり桃づいています。

クリアファイル付きの御朱印をいただきました。

去る間際、式神ちゃんにご挨拶。

ふう。良く歩きましね。

しかしまた変な疑問が生じました。

一条戻り橋に式神がいて、誰かが占いやら呪詛返しについて依頼ごとを持ってくるのを晴明に報告する、と小説などで読んだのですが、おかしくありませんか?

旧二条城に御所があったとしたら、晴明の屋敷に行くには北上するしかありません。

多分、一条戻り橋を通らないでしょう。

今の京都御所近辺に移ってからでないと、戻り橋を渡ることはないのでは?

道長の父藤原兼家が929年延長7年生まれ、晴明が921年延喜21年生まれとほぼ同世代。

東三条院の東に御所が移って以降、晴明への屋敷に行く場合、一条戻り橋を渡って行ったのでしょう。

ほうら、悩むあなたを式神ちゃんが見ておりますよ~

 

この後、家に帰る途中寒くて寒くて仕方がありません。

誰かが呪詛を私に?ブルブルブル

SLIMの月面着陸のYOUTUBEを見ていましたが、外を写すカメラが欲しいところでした(無理かな?)

ああ、ダメだ、限界です。もう寝ますね、でわ。

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京都探訪(二条城近辺、神泉苑、妙顕寺城址、東三条院址、二条殿址、金座遺址、斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址、旧二条城址)

2024-01-21 16:01:22 | 日記

2024年1月19日、元離宮二条城を攻略した後、近くの神泉苑他二条城関連の史跡を歩いて回ってみました。

①神泉苑

神泉苑はこんなところです。

神泉苑

また空海さん関連。

二条城に向いている北向きの門です。

果てしなく遠い泉の先にお社があるのです。

赤い法成橋。結構、勾配がキツいんです。

でも渡ると楽しい(笑)

善女竜王社です、合掌。

南側に一回出て鳥居を激写。

12時45分ごろですので一旦お昼ご飯を取ります。お店はどこも混んでいて写真が撮れませんでした。

②妙顕寺城

妙顕寺城跡はこんなところ。

 

豊臣秀吉妙顕寺城跡|【京都市公式】京都観光Navi

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本能寺の変の後、1583年(天正13年)に秀吉が拠点として築城、聚楽第ができるまでの拠点だそうです。

今はお寺さんの前にこの石碑が立っているだけでした。

そのまま次の目標に向かっているとまたもや怪しい石碑を発見。

東三条院址、ですって。

③東三条院址

 

東三条院址|【京都市公式】京都観光Navi

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今季の大河ドラマ、「光る君へ」の藤原兼家、道長の住まいとして有名です。

惜しくも1177年安元3年に焼失とのこと。

うーん、名前が気になりますね。ここらは御所の西側なのですよ。「東三条」という名称が気になって仕方がない。

今の地図です。どう考えても西三条院ですよねえ。

しかしWikiを見て疑問が解消しました。

神泉苑の並びにあるのですが、今の元離宮二条城の場所に内裏があった訳ですね。

御所が移ったのだと思います。これならば東三条、と呼ぶのも分かる気がします。

更に東に向かいましょう。

目印は京都マンガ国際ミュージアムです。正面玄関の左にあるとのことですが、全く見当たらず。

お店の方に伺って、裏口を見る様に言われました。

見つけましたよ~

④二条古城

本能寺の変で信長の息子である織田信忠が籠り、皇太子誠仁親王を逃がして後、自刃したところです。

烏丸通を一本奥に入ったところにありました。

その横には更に徳川時代の金座遺址。

⑤金座遺址

石碑しかありません。

更に北上しますよ。

平安女学院のところまでやってきました。

⑥斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址

ちょっと胸熱な場所です。

室町幕府管領斯波義将の邸宅というより、足利義輝が最期を遂げた場所なのです。

足利14代将軍足利義輝が三好党に襲われて、無双したのですが、最期を遂げたところなのです。

石碑しかないのが悲しいです(´・ω・`)

こちらを参照のこと。

https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ka080.html

更に北上します。女子大付近ですので、怪しい動きをしていると捕まりそうですので要注意ですよ(笑)

⑦旧二条城

上京した足利義昭のために作られた二条城です。

 

旧二条城跡|【京都市公式】京都観光Navi

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二条城近辺を攻略いたしました。

この後もう一か所行けるかな、でわ。

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二条城に登ってきました

2024-01-19 23:14:39 | 城攻め

2023年1月19日金曜日お休みでしたので二条城近辺に行ってみることにしました。

明日から土日天気が悪いそうですので、二条城近辺に一点集中ですよ。

100名城53番目で4回目くらい。前は209年12月ですが、二の丸御殿見学だけで出てしまったんですよ、大量に混んでたからなんです。

二条城はこんなところ。

二条城 世界遺産・元離宮二条城

三条京阪から地下鉄東西線で3駅たった5分で二条城駅です。

お城まで近いです、神泉苑も気になりますねえ。

余裕があれば行ってみます。

1番出口でエスカレーターで上に出ると、

東南隅櫓がお出迎えです。

ちなみに二条城も撮影スポットを事前に検索しています。参考サイトさんはこちら。

 

世界遺産を撮影ー元離二条城

ある用事で京都に行くことになったのですが、それがなんとあの世界遺産二条城の近くだったのです。用事が昼すぎで終わったので、これは滅多にない機会だと思い、行ってみま ...

初心者のための写真講座|Hiro Photo

 

①撮影スポット:東南隅櫓

お堀に反射する逆さ東南隅櫓。

10時10分過ぎですが結構空いていますよ、さすが京都二条城、外国人が多いです。

東大手門と城址史跡の碑です。

入場料と二の丸御殿見学料併せて1,300円を払って中へ。

撮影スポット②:東大手門

裏側はこんな感じ。

左は番所跡、右の階段はいい感じです。登れないのが残念。

見渡しますと東南隅櫓の背中を見ることができます。装飾はほぼない感じですね。

広場を進みますと……

撮影スポット③:唐門

綺麗ですね。見上げると細工が凄いのです。

中に入って振り返ります。素晴らしい彫刻の数々。

更に奥には二の丸御殿。

靴を脱いで上がらないといけません。ちなみに二の丸御殿内は全面撮影禁止でした。

遠侍の間、牡丹の間、蘇鉄の間、式台の間、白書院、黒書院、大政奉還を行った例の大広間がありました。

大政奉還の慶喜が座った上座の畳の数を数えたのですが、24畳でした(笑)

広くて羨ましいのです。中は20分で回れました。もちろん廊下は常にキュッキュッ鳴っていました。鶯張りってやつです。

二の丸庭園と本丸へ向かいましょう。

鐘がありました。

一つは京都所司代のものを移築したみたいです。

お~二の丸庭園に入ります。

撮影スポット④:二の丸庭園

天気がもうちょっと良いといいのですが。

蓬莱島でもかたどっているのでしょうか。後ろにも建物があります。

二の丸御殿を振り返ります。

葵のご紋。

こちらは菊の御門。

二の丸を抜けると本丸です。本丸の石垣と櫓門。

撮影スポット⑤:本丸櫓門

鯉の餌が売っています、皆さん橋の上から大番振舞いしていました。

綺麗な櫓門ですね。私初めてこっちに来ました。

本丸の石組み、特徴的ですね。無造作に積んでる感がありました。

良いです、良いです。黒いネットで石垣を守ってます。

良い角度です。

中側から外を伺います。何だか天気が良くなってきました。

また御殿。二の丸に比べると若干小振りです。

本丸庭園の中を突っ切ると天守台です。

関ケ原以降に望楼型の5重天守が出来て、惜しくも1750年寛延3年に落雷で焼失しちゃったそうです。

ちなみに家康と秀頼が面会して、サシのTOP会談を行ったところは二の丸御殿なんですって。

東側本丸御殿を望みます。

西南方面、西南隅櫓を望みました。

こちらは西側。

伏見城移転されまくりですね(笑)

大和郡山城からだったり、淀城へ移したり、何が何やらとっ散らかっております。

後水尾天皇がお渡りになり、これが唯一天皇が登った例って、なるほど。

撮影スポット⑥:本丸御殿

残念、今は工事中で入れないのです。

二条城の雁木です。青く苔むしていました。

本丸出口の西側にある食い違い虎口。

良いですねえ。

しっかり作られているのですね。

外に出てしまいましたよ。

本丸のお堀と天守台。

旧二条城の石垣。転がっていました。

西南の隅にひっそりと佇む西南櫓。

撮影スポット⑦:梅林

まだ早いかな……でもところどころ咲いていました。

可憐なお花でした。

撮影スポット⑦:天守閣跡

人気もない南中仕切門。

私だけで独占してしまいました。

桃山門。ここをまっすぐ行くと左に本丸櫓が見えてきます。

桃山門から見えた本丸堀と石垣。

西側には西北土蔵と西南土蔵がありました。

進めませんが西門。

北中仕切門へ向かいます。

見えてきましたよ。

逆光になってしまいました。

撮影スポット⑧:北中仕切門

南の仕切門と対になるのでしょうか。

お堀沿いに鴨ちゃんの集団がいました。

日本庭園の清流園。

撮影スポット⑨:清流園

中で食事も出来るようです。

撮影スポット⑩:北大手門

ここから先には入れません。これにて撮影スポット完了です。

東側の土蔵を歩きます。

白く果てしない壁が続きます。

二の丸御殿がチラッと見えました。

左側に売店と休憩所がありました。

愛好家による刀コレクションが展示されています。

虎徹、孫六、村正、正宗、来国俊……

御城印もGET。

一旦外に出て外から見たかった場所を見ます。

こちらは南門。

西南櫓。

石垣の色に濃淡がありますね。

道路を回って西南櫓をもう一枚。

これにて元離宮二条城の探索終了。

ざっと2時間20分でした。

この後いろいろ巡ってみます。まずは神泉苑から。

でわ。

コメント (1)
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