金碗八郎孝吉が急に自決してしまったが、その深い思いを知らない者は、
「死ななくても良かったのに。手柄があったのに賞を辞退し、惜しむべき命を失ってしまったのは、裁きの場で玉梓に罵られたことを恥じたのだろう」
と酷いことを言うのだった。
それはまったくの的外れで、昔の賢人は、男子の無欲は百害を退け、女子は嫉妬がないのであれば百の短所を覆い隠すと言った。
道徳や仁義もその通りで、里見義実の徳も孤立することはなく、隣国の武士たちの敬慕することとなった。友好を求め、婚姻の打診をする話も出てくるようになった。
その中に上総国椎津の城主、真里谷入道静蓮(まりやのにゅうどうじょうれん)の息女、五十子(いさらご)が賢くもあり、美人であると伝え聞き、縁があって娶ったのである。
一女一男が生まれ、娘は1442年嘉吉二年、夏の終わりに生まれた。三伏の時節、すなわち七月中旬から八月上旬の酷暑のことに生まれたので伏姫と名づけられた。
男の子は二郎、その次の年、1443年嘉吉三年の終わりに生まれた。二郎太郎と称せられたが、後に父祖の業を継いで安房守義成となる。稲村城に置かれて、里見家の武威はますます盛んになっていった。
一方伏姫はおむつを巻いていたころから可愛らしく、あの竹の中から生まれた乙女かと思わせるほどに美しかったので、父母の慈愛は深く、世話付きの女房を普通よりも多く付けるのだった。
しかし伏姫は昼も夜もむずがり、三歳になっても言葉を話せず、笑うこともできず、ただ泣くばかりであった。父母は苦しみ、悩み、この三年この方、治療を試み、高僧や修験者の加持祈祷をいろいろ試したものの、一向に効果は現れなかった。
ここにまた安房郡に洲崎明神という古く神々しい神社があった。
この神社の山の裾野に大きな石窟がある。石窟の中には役行者の石像があった。ここから湧き出る清水を独鈷水と言い、日照りの時でも枯れることがない。
昔、文武帝のころ、役行者小角は伊豆大島に流罪とされた。洲崎神社の地は伊豆大島からわずかに十八里(約72キロ)であり、小角は何度も波涛を越えて、洲崎にやってきたと言う。
霊験を顕したことにより、後になってから人々が像を造り、石窟に置いた。今も霊験はあるらしく、一度祈願をすれば願いが成就しない者はいないと言われていることを伝え聞き、伏姫の母、五十子は、
「伏姫のために願いごとをして、毎月洲崎神社の石窟に代理の者に参拝してもらってすでに三年。まだご利益はないけれど、伏姫の命は問題なく、とにもかくにもここまで育ったこと自体が霊験なのかもしれません。今度は代理の者ではなく、姫自ら参拝すればご奇特が起きるかもしれません」
と里見義実へ訴えた。
この件については考えることがある様で、直ちに断った訳ではないが、
「洲崎は里見の領地ではない。今の安西景連が野心があるかどうか分からないが、幼き伏姫をはるばる洲崎神社に遣わせば、世間の評判が良くない、思いとどまってくれないか」
容易く許さなかったが、何回も五十子が訴えるので、その熱意に負けて、黙認せざるをえなくなった。供には老齢の男女を選んで、お忍びで伏姫を洲崎へ遣わすことにした。
伏姫は乳母の膝に乗せられて輿に乗った。外から従者が珍しい景色に騒ぐが、姫には楽しそうな様子がなく、とうとう泣き出してしまった。
がっかりした従者たちは、参拝の旅路の道を急ぐしかなくなった。
とにかく洲崎に赴き、明神の別当(神仏習合による神社内に建立された寺を司る職名)である養老寺に宿を取り、役行者の石窟へ七日間詣でた。
こうして結願の日が来ると、従者たちが帰還を急いだので、早速輿は宿を出た。一里ばかり進んだところで、伏姫は酷く泣き出した。付き人の女房や乳母が一生懸命あやし、機嫌を取るために輿から出してなだめすかしても、全然泣き止まない。
伏姫を抱きながら進む足取りは、遅くなった。
少し進むと、齢八十余りの老人が一人、白眉が八字で、腰には梓の弓を持ち、握りに鳩の飾りの杖を持った翁が道の真ん中に座っていた。元々忍びの参拝だったので、従者たちは老人を追い払うこともできない。
翁はじっと伏姫を見つめて、
「これはこれは、里見の姫君ではございませんか。石窟からのお帰りであれば、この翁が加持祈祷して進ぜましょう」
呼び掛けられた従者たちは驚き、翁を見返すと、様子が尋常の者でなさそうだった。そのせいか、供の老人たちが早速伏姫の事情を全部翁に話してしまった。
座っていた翁は何度も頷き、
「真に悪霊の祟りが憑りついておるわい。この子の不幸であるなあ。祓うのは決して難しいことではないが、禍福はあざなえる縄のごとし、災厄と幸福はより合わせた縄のように表裏一体であり、一時のそれに一喜一憂しても仕方がない。例えば何か一つを失くしても後でたくさんの助けを得れば、その禍は決して単なる禍にならない。喜んでも悲しんでもいけない。戻ったらこの旨を里見義実夫婦に告げるが良い」
翁は懐から水晶の数珠を取り出した。
「これを差し上げよう。護身用にせよ。そのうちきっと思い当たることがあるじゃろう」
翁は誇らしげに説明した。
水晶の数珠には、仁義礼智忠信孝悌の八字が彫られていた。
翁が数珠を伏姫の襟に掛けると、供の老人たちは慌てて、額を地面に付け、
「悪霊とは何の祟りでしょうか。詳細をお話いただき、どうか後々まで祓い鎮め下さい」
と頼み込むと、翁は微笑み、
「妖しきものは徳に勝てない。悪霊が憑りついていても、里見の家はますます栄えるだろうよ。太陽や月が満ちた時、その次は必ず欠けていくものだ。何を祓うのかということを説明することは、天の秘密を漏らす恐れがある。伏姫という名前によって、自ら気づけば分かるかもしれん。しかしこの子はもう泣かなくなるぞ。さあ、もう行きなさい。私も行くことにする」
と言って洲崎の方へ向かっていくと思う間もなく、姿はかき消したのだった。
従者たちはしばらく翁の姿が消えていったところを呆然と見ていたが、翁は実は役行者が姿を見せた奇跡に違いない、と言い出し、伏して拝むのだった。
滝田を目指して帰る途中、果たして伏姫は、泣くこともなく、機嫌良く遊んでいた。ようやくこの日が普通の三歳の幼児に初めて見えて、従者たちの或る者は喜び、或る者は怪しむのだった。
滝田城に到着し、従者たちは翁の件を里見義実と五十子に報告して、例の八字の刻まれた数珠を見せた。ただならない天の助けと思った二人は、すかさず堀内蔵人貞行を洲崎神社に遣わして、供物を奉納させた。
伏姫のために、後々までの平穏無事を祈りつつ、数珠を常に姫の首に掛けさせることにしたのだ。
四年あまりの年が経って、伏姫は七つになった。
花の様に美しく、天の成せる若々しい美貌は、世に類ない。それだけでなく賢くもあった。昼間は手習いの草紙に向かって、終日飽きることもなかった。夜は管弦の調べに耽って、夜更けまで夢中になって没頭した。
年齢が十一二になると、和漢の書籍を良く読んで、物事の道理をしっかりと学び、悪いことにはまったく心も移さず、孝貞忠恕、即ち親への孝、操を守る貞、真心の忠、相手を思いやる恕を身につけて普段から振舞うので、母君からの愛情は深かった。
里見義実はそれを見て、我が娘を誇りに思うのだった。
さて最近になって長狭郡、富山辺りの村落に奇妙なことがあった。
技平(わざへい)と呼ばれる百姓の家で仔犬が一匹生まれたのだ。
雄の仔犬は、世間では一匹で生まれた犬は身体が大きく、力が強く、成長すれば敵はいないと言われているので、飼い主の技平はその気になった。
裏門に藁の屋根を持った大きくて立派な犬小屋を作って、朝夕の餌を充分に与えたのである。
しかしこうして七日が経ったころ、夜に竹垣を壊して、どうやら狼が入ってきて、母犬を食い殺してしまった。夜が明けて、技平は血が流れているのを見てこのことを知ったが、腹が立つばかりでどうしようもなかった。
せめてもの救いは仔犬だけが助かっていたことだが、母犬を喪って不憫な子犬はいまだ眼が充分に開いていなかった。
母犬の乳もないので養う手立ても他になく、粥の様なものを与えて、どうにか育てていくが、技平には妻子もなく、元から一人暮らしである。昼は田畑を耕し、家に帰る時間も少ないため、食べ物を与えることも満足にできないでいた。
手をこまねいてとうとう仔犬の死を覚悟する他なかったが、野良仕事に精を出しているうちに、一日二日経っても仔犬は飢えた様子もなく、生まれて十日目には眼をとうとう開いた。しかも身体も肥えていくのである。
これはただごとではないと思って、技平は誰にも言わずに、朝と晩に機会を伺っていたが、ある朝早くに起きてみると、年老いた一匹の狸が犬小屋から出て、富山の方に向かって行くのを見た。
さては仔犬は狸に育てられているに違いない、しかし不思議なことだ、と驚いた技平は、再び見てやろうと決意した。その日の黄昏時、裏門に隠れて狸がやってくるのを待つ間、仔犬は母を慕って何度も鳴いた。
その時、鬼火か人魂か、妖しい光が滝田の方角からゆらゆらと突然現れた。不思議な光は突然地上に落ち、犬小屋の辺りで急に消えてしまった。
技平が慌てて見に行くと、今朝見たばかりの狸が富山の方から急いで走ってきて、犬小屋の中に入っていく。子犬は泣き止んで、乳を吸う音だけが聞こえてきた。
こうして四五十日が経ち、犬は早くも大きくなり、良く歩き、独りでいろいろ食べる様になると、とうとう狸は来なくなった。
今もこの場所を犬懸と呼ぶ。
【関連地図】
【房総志料から考えると、安房郡府中の地から、長狭郡大山寺へ行く道がある。富山へ登ろうとする者は、犬懸から左へ曲がる。また西の方角は平群に向かう。滝田、山下、犬懸の辺りと見えるのはここであろう。】
このころ杉倉木曽介氏元と堀内蔵人貞行は、里見義実の命を受け、一年ずつ交代で東條の城を守っていた。
堀内貞行は休暇となり、杉倉氏元と交代して滝田へ帰る途中、例の犬懸の里を通った際に、狸の仔犬育ての話を耳にした。
【翁、伏姫を観て後難を知る\瀧田の近くで狸が子犬を育む】
上で翁が伏姫の相を見ております。
下では仔犬を見て驚く堀内さん。玉梓はどこかな、分かりません(-_-;)
始め堀内貞行はこの話を信じなかったが、その噂の真偽を調べようと思い立ち、技平の家へ寄って犬を良く見た。飼い主である技平からいきさつを聞けば、噂通りである。
姿かたちはまた、唐土の獹韓(ろかん)、我が朝の足往(あゆき)という犬に似ている。
獹韓は、春秋戦国時代韓の国にいた俊足の賢い犬の名であり、足往は垂仁帝の時代、丹波にいた犬の名で貉(むじな)という獣を食い殺した逸話がある。
狸に育まれた犬の話は今まで聞いたことのない珍事のため、堀内貞行は滝田に帰ると早速主人にこの話をした。里見義実はこの話に興味を示し、
「伏姫はおしめの取れないうちから犬を怖がって泣いていた。犬を飼っても奥の庭に繋いであるだけで、大した犬はいなかったな。貞行、お主の言うことが本当であれば、その犬は立派なものなのだろう」
里見義実は日本書紀の話を引いた。
「昔、丹波の桑田村に住んでいた甕襲(みかそ)という人の飼っていた犬は、足往という名前だった。ある日足往は貉を殺したが、その腹から八尺瓊勾玉が出てきた話が日本書紀や垂仁紀に記されている。狸が仔犬を育むという話は、足往の話とは真逆で、あまりにも不思議な話だ。現に狐や狸は犬を嫌うものだが、仔犬が母を亡くしたを知って、犬を嫌うのを忘れて乳を与えて養う、というのは博愛である。また狸という文字は、里に従い、犬に従っている。これは即ち里見の犬、ということだ。私はその犬を見たい。連れて来てくれぬか」
と言うので、堀内貞行は命に応じて、すぐに犬を連れて来た。
里見義実が見ると、犬は骨格が大きく太く、高さも他の犬の倍はある。眼は鋭いが、垂れた耳、巻いた尻尾は可愛らしく、手懐けたくなった。体毛は白いが、黒い毛も時折混じっていて、首から尾まで八か所の斑があった。このことから犬に八房と名づけて、奥の庭で繋いで飼うことにした。
元の飼い主である技平には褒美をやり、それ以来八房は里見家の家中の者に愛されることになった。充分に餌と眠るための敷物まで与えられた。
枕草子に描かれた一条帝の宮中で飼われた翁丸も八房の厚遇にはかなわないだろうと、皆只不思議に思ったが、主君の愛犬であると丁寧に接した。
後になっては伏姫もまた可愛がる様になり、近づいた時に八房、八房と呼ぶと、尻尾を振って走って来る様になり、少しもそばを離れないのだった。
伏姫自身も、春の花、秋の紅葉と数年、梢の色を染め変えて、十六歳になると、ますます美しく気品を備える様になった。その美貌は、美しく咲いた花に、たゆたう月を掛けたようだった。
その年の秋、八月のころ、安西景連の領地である安房と朝夷の二郡において、作物が実らないと使者の蕪戸訥平が滝田城に遣わされた。
里見義実に訴えるには、
「天がは我らの所領に災いを起こして、たちまち困窮いたしました。しかし貴領はこの秋も豊作と伝え聞きます。どうか米穀五千俵をお貸しいただけませんでしょうか。来年の収穫を待って、倍にしてお返しいたします」
援助の乞いに続けて、蕪戸訥平は尚も言った。
「我が主君、安西景連は年齢を重ねて、早や七十を越しましたが、後継ぎの男児も女子もおりません。里見殿のご息女を養子とさせていただき、一族の中から婿を選び、所領をお譲りしようとしきりに考えております。このこと、どうかお許しをいただきたく。最期の願いで幸いでございます」
と平身低頭して言った。
しかし里見義実は、
「当家にたくさんの男児がいれば安西家に養子とさせてもらっても良いが、いかんせん一女一男しかおらん。また伏姫を遣わすにも安西景連殿には妻も子もいないので、誰にも利益がない。このことは受けることはできないが、豊作凶作は時運に関わることで、安西殿だけのことではない。隣国の窮状を聞きながら助けないのは、天のお咎めを受けるだろう。養子の件は辞退させていただくが、米穀はご依頼の通り今からお送りしよう」
と丁寧に返答し、蕪戸訥平を帰らせた。
このころ堀内貞行は東條の城にいて、杉倉氏元は病気に掛かって自宅に引き籠っていたので、相談する者はいなかった。
その中で、金碗大輔孝徳はこの年すでに二十歳になっていた。里見義実の近習になっていた。祖父の一作は五年前に亡くなっていたが、病床の介抱には大輔が自ら世話をして、良く面倒を見たのである。それだけではなく、育つうちに父の孝吉の志を受け継いで、忠義第一の若者になっていた。
今回の安西からの申し出については、主君を諫めて、
「安西景連は普段は疎遠にしているにも拘らず、いざ困難になると姫を養女として求め、米穀を借りようとしています。彼は良く恩義を知る者ではありません。この際ですから討取ってしまえば、一挙に安房一国を手中にでさること疑いございません。もしその願いに答えてしまえば、盗賊に食料を与えて、仇敵に刃を貸すようなものです。ただ出陣の準備が望ましくございます」
とはばかることなく言うと、里見義実はこれを聞くなり、
「お主の様な弱輩者の分際で何を知っていると言うのか。仇敵と言っても凶作に乗じて攻め込むなど、まともな者のすることではない。まして今、安西景連は敵ではなく、故なくして軍勢を動かすなど無名の戦と申すのだ。無名の戦では人々は従わない。下らないことをいう奴だ」
と激しく叱って、米穀五千俵を安西景連に送るのだった。
その次の年のことである。
里見義実の領地である平群と長狭は凶作となり、安西景連の領地は稲穂が高く実った。先に借りた米を返さないため、滝田の城は皆困窮し難儀した。
その時金碗大輔は密かに主君に言うのだった。
「隣国隣郡、急を救って互いに助け合い、足らないものを互いに補わなければ、友好してもまったく意味がないでしょう。安西殿は去年の秋、莫大な米穀を借りましたが、こちらの危急を知りながらも、今になっても返しません。安西に頼むまでもないのですが、返却を求めなさらないのですか」
と何度も言った。
里見義実は金碗大輔を我が子の様に可愛がったが、他の者の嫉みもあるかもしれないとして、皆の前ではきつく叱咤しながらもその志を励ましてきた。
金輪大輔は年齢は二十歳を越え、顔かたちは親の八郎孝吉に似て、その才能は父にも決して劣らなかった。
里見義実は、今年金碗大輔を東條の城主にしようと考えていたが、若さを心配していた。今のまま城主にすると年配の者から嫉妬されると思い、何か一つの功を立てさせて、その褒美として城主任命をしようとしたのだ。
「お主の意見は私の考えと同じだ。お前を使者として安西に遣わそう。しかし貸した五千俵の件はこちらから督促してはならん。この様に言うのだぞ」
と、丁寧に口上を教え込んでから、次の日に出発させた。
こうして金碗大輔孝徳は従者を十人あまり率いて、槍を携え、馬に跨って、未明に滝田を旅立った。
大急ぎで道を進み、安西景連の真野の館に赴いて、老臣の蕪戸訥平に面会するとすぐに、里見の領地の凶作のことと難渋していることを説明し、五千俵の米の救援を丁寧に求めた。
だが蕪戸訥平はすぐにその場では返答せず、主人に言ってみるとしてそのまま奥に行ったきり、半日あまりも出て来ない。
金碗大輔は首を伸ばして、今か今かと返答を待ったが、とうとう日が暮れていく。
ようやく蕪戸訥平が戻って来て、使者の金碗大輔に言うには、
「ご使者のご訪問の趣きにつきましては、詳細に至るまで主人に報告いたしました。しかし主人の安西景連は以前から風邪を引いておりまして、まだ起き上がることができないのです。昨年の秋から里見家に危急をお救いいただきましので、頼まれずとも自ずから倉のすべてを差し出して先恩にお応えすることは問題はございませんが、先年の凶作の後でございますから、現在もまだ米穀が不足しているのでございます。老臣どもを集めて評議をいたし、可否を論じて返答をいたします、というのが主人の口上でございます。今しばらく当地にご逗留いただき、お身体も馬も休め下さい」
と言って、率先して里見の使節を旅館に連れて行った。そしてもてなすのだった。
あっという間に五六日がすぐに経過してしまったので、さすがの金碗大輔もいら立って返答を蕪戸訥平に催促するが、何度も責められた訥平はもまた病にかこつけて、とうとう出て来なくなった。
ここに至って金碗大輔は疑心を起こして、こっそり城中の様子を伺ってみた。どうやら兵士たちは武具の準備や馬具の整備にいそしみ、がやがやと騒いでおり、まるで出陣するかの様である。
これは怪しい、と驚き騒ぐ胸を鎮めて、安西景連の動向を考えてみた。使者である金碗大輔を出し抜いて、凶作に喘ぐ里見家の危機に乗じて、不意を撃って滝田城を攻めようとしているのに違いない。
もっと遅くに気づいたら、敵の捕虜となるだろう。今すぐ立たないと危ないと、金碗大輔は従者たちに考えを告げた。姿かたちを変えさせて、一人二人と紛れて城を出て、滝田を目指して帰ることにした。
【真野の松原に蕪戸訥平、金碗大輔を追う】
奮戦する金碗大輔さん、あちらこちらに首や腕が( ゚Д゚)
金碗大輔自身も脱出し、一里(約4キロ)あまり離れたところで、遅れて来る従者を待とうと一息吐いた。清水をすくって咽喉を潤し、松に座って流れる汗を拭いた。
そこへ蕪戸訥平が軍勢を率いて追い掛けて来た。真っ先に馬に乗って先頭に立ち、鐙に踏ん張って声を掛けた。
「金碗大輔孝徳、今更逃げるとは汚いぞ、。お主の主である里見義実は、乞食をしていた浮浪人。白浜へ漂泊し、愚民を惑わし、土地を奪い、平群と長狭の両郡を手中にできたのは、麻呂信時を滅ぼしなさった我が君の助けによるものだ。本来であれば、腰を屈めて、安西殿へ臣従を誓い出仕すべき身なのだ。それを尊大にして傲慢にも、わずかな米を寄越したからと言って、催促するのは、卑しくもけちな行いである」
蕪戸訥平は続けた。
「またその娘である伏姫が美人であるのをお聞きになって、仮に養女になぞらえて、実は側室にしようと我が君はお考えだったのに、里見義実は愚かにも従わなかった。無礼な奴だ。側室にするにはもう少し時間が足らないと、数年経つのをお許しになったのに、いつまでも我が世の春と思ってもいたのが、お前たち主従の愚かさよ」
笑う蕪戸訥平である。
「お前は知らないであろう、我が君は三千の軍馬を率いて早くも東條の城を乗っ取り、今頃は滝田を攻めているのだ。お主には帰る場所などない、命が惜しければ降参しろ」
とほざきにほざく大口を聞いた瞬間、金碗大輔は、
「馬鹿馬鹿しい、鼠め、私は幼いころから聞いていた」
激怒した。
「お前の主人安西景連は、義に背いて麻呂信時を討ってその領地を我がものとしても、足りることを知らない。しかし我が君は討伐をせず、乞われるままに隣郡として親交を結びなさった。それをこの上ない幸いとは思わず、また奸智を巡らせて、先には数多の米を乞うたにも拘らず、約束に背いていまだ返そうとはしない。こちらの油断を窺い、危機に乗じて、大軍で攻め込むなど、帝も皇国も不義には組しない。みずから滅びようとすること、鏡に映して見ている様だ。主命を受けながら成し遂げられずに空しく帰るこの孝徳の手土産に、お主の首を引き抜いて、主人へ見参させよう、そこを退くなよ」
槍を引っ提げて、従者たちを左右に従えた金碗大輔は、群がった多くの敵勢の中へ、面も振らずに突っ込んで行った。縦横無尽に戦うが、数はたった七八人しかいないので、必死に戦う間に射ても撃っても敵はものともしない様だった。
半時あまりの死に物狂いの血戦に敵は三十余騎が倒れて、死骸は路上に横たわった。
味方はと言えば、七人が命を落として金碗大輔一人になったが、尚も一歩も退かなかった。蕪戸訥平と組もうとして、あちこち走り回ったが、安西勢は眼に余る大軍だった。遂には敵勢に遮られて、訥平に届きそうもない。
そもそも君子は欺くことはできても、陥れることはできないのだ、と論語に書かれた賢者の考えは、真実なのである。
里見義実は功績や名声の高い良き将で、仁の心を持って民衆を助け、信義の心を持って、隣国と親交を結んでいる。
一方、安西景連の悪巧みは極まりない。彼を欺くためには、更に悪巧みを考えなくてはならないのだ。
里見義実にいくら古代中国の賢人の様な才能があったとしても、安西景連の様な悪知恵に騙されるということは、そもそも仕方がないことなのである。
(続く……かも)
まさに今の世も同じこと
ちっとも人間は良くなりませんね。
今回も実におもしろかった。
ありがとうございます。
次回が超楽しみ。
ねえ、ホントその通りです。
まあ、物語で安西さんは嫌々悪役を引き受けて……いると思って下さいな(笑)
彼も因果応報で最悪な厄災を受けます。