あの震災から早くも五年が経った今朝の川っぺりでは…
(﹡ˆ ˆ﹡)アオサギのヒナヒナがかなり早めの誕生を迎えてらっしゃっいました
まだまだお魚も少ないでしょうに…それでも親鳥はどこかで一所懸命にエサを捕っては巣に運んでいます。
(﹡ˆ ˆ﹡)アオサギ達の様子に和みつつ…それに連られて、エナガっちょ達のヒナヒナ爆誕に向ける期待も私の中でムッシュムラムラと高まっているところで…
今朝の川っぺりではちょっとした異変が立て続けに起こりました。
人間達大暴れの巻です(汗)。
まずは、中学生くらいの男の子が犬の散歩をしながら訪れます。
しかし、この男の子、飼い犬から完全にナメられています。
伸縮性の高いリードは10mほどまでに伸び切っていて、犬が男の子をドタバタと引きずり回す形でのお散歩です(笑)。
しかも、この犬はずいぶんとご機嫌斜めな様子で「…グルルルル」と、常に唸り声を上げています。
ふと犬が立ち止まり、少しの間私の視線と犬の視線がぶつかります。
そしてこの犬は不機嫌そうに男の子を引きずって河川敷を歩き出しました。
さっきまでそこらへんに居た小鳥たちはとっくにどこかへ避難しています。
私が小さく溜め息をつくと間もなく、今度はどこぞのオッサンが雑木林の中に入り込んで、立ち◯◯ンベ◯を始め…更にその向こう側では謎の体操?踊り?を始める人や、またそれとは別に食事を始める人も現れました。
更に更に今度はノーリードで走り回る先程とは別の犬までもがいつの間にやらお出ましと相成ります。
朝っぱらからなんだかとってもカオスな光景です。
私から見ても普段なら有り得ない、カオスなこの光景は、営巣中の鳥たちから見ると、果たしてどのように映るものやら…推して知るべしであります(大汗)。
とりあえず私はエナガの巣がある木の近くに陣取って、不埒者が迂闊に近づかないよう牽制する構えをとります。
牽制といっても、一脚を伸ばしたカメラをごく自然に構えながら、人や犬に向けて油断なく視線をちょっぴりと配るだけのことです。
それは犬から見ると、長い棒を持ち油断なく立っている人間には迂闊に近寄れないでしょうし、見知らぬ他人からいきなりレンズを向けられて、それを喜ぶ人間もまずいません。
こうした私なりの無言の抑止行動をとり始めてから小一時間ほど経った頃、ようやくこの川っぺりはいつもの静けさを取り戻しました。
(﹡ˆ ˆ﹡)みんなおはよ。
ここは誰のものでも無い川っぺりです。
誰が来ても構いません。
しかし、何をしても良い訳ではありません。
「そんなことはお前なんかに言われなくても十分、分かっている!」
とかなんとか言いながら、単なる「自分勝手」を「自由」などと偽称して好き放題に振る舞っているのが私たち人間という生き物の実情です。
五回目の3.11の朝、川っぺりに打ち捨てられたゴミを拾いながら改めて私が思うことは…
この世界に「取り返しのつくこと」など一切無いのだ。ということです。
災害や戦争、そして3.11の原発事故などの大きな出来事は勿論ですが、些細に思える小さな出来事の一つ一つもまた取り返しがつかないという意味では同義です。
例えば、棘のある嫌味な一言や、気軽に行った不始末の数々…
こうした私たちがどんなに小さく思えることであっても、一度仕出かしてしまった事を、まるで何も無かったかのように取り返す事など、絶対に誰にも出来ないのです。
震災以降、そのことを心に深く刻み、些細なことに心を砕き続ける本当に真面目な人々も増えた一方で、相も変わらず欲と怒りに焦がされた大多数の人々の自分勝手な行いは、どこまでも加速し続けています。
ところで…
私がこの手の話を始めると「そんなのは人それぞれでしょう!」という旨の反論をよく頂きます。
これは「同じ人間は二人といない。皆がオンリーワンなんだから、230の言うことは私には当たらない!」…という旨の反論だと解釈しています。
しかし私はオンリーワンの話をしているつもりは全くありません。
強いて言えばコモンワン(common one/誰にでも共通する1という意味で私が今考えた造語です)の話をしているつもりなのです。
確かに全く同じ顔した人間は二人といませんけれども、遺伝子的には全ての人間に目が二つ、耳が二つ、鼻の穴が二つ、必ず付いています。
私はそういうコモンセンス(常識)の話をしているつもりです。
しかしその常識もまた人それぞれというところまで細分化していることも、私たちの社会の実情であります。
サラリーマンにはサラリーマンの、学生には学生の、テロリストにはテロリストの、泥棒には泥棒の、それぞれの細分化した常識が常に対立しながらせめぎ合っています。
私見ですが、今の私たち日本人という括りに潜在する最も大きな常識とは…
「儲かるなら、ちょっとぐらい何をやってもいいんじゃね……イヒヒ」
…という浅ましくも薄汚い「欲」を臆面もなく肯定し続け、常識化にまで至らしめた結果が、今尚頻発する災害や戦争や原発という大きな問題を、更に大きく悪化させていると私は考えています。
こうした大きな問題はヒステリックなカウンターデモなどでは決して解決出来ません。
ましてやテロリズムなど問題外です。
決して取り戻しのつかないことを、なんとか力の限り頑張って取り返そうと足掻いたところで、更なる悪化の進行スピードが多少前後する程度の効果しかありません。
ならどうするのか?。
欲ばらないこと
怒らないこと
その上で冷静に考え抜いた考えを、自分自身が確実に出来る範囲で実行すること。
これが今の私に見えている、あらゆる問題の本質に直接アクセス出来る唯一の解決策です。
私たちが自分の考え通りに確実に実行出来ることは、自分自身の身体を動かすことのみです。
それなのに私たちは金や権力や愛などを餌にして他人を意のままに動かそうと、どこまでも不毛で愚かな欲望に振り回され続けています。
五年前の私もまた同じ間違いを犯し、失敗の山を積み重ねていました。
そして当日はマジでもうホントにうんざりで死にそうでした(泣笑)。
そんな時に「怒らないこと」と「欲ばらないこと」という二冊の本に出会います。
アルボムッレ・スマナサーラさんというテーラワーダ仏教のお坊様の書いた二冊の本です。
(此方はいわゆる仏教には違いありませんが、日本の伝統仏教とは一線を画する、お釈迦様、ゴータマ・シッダールタの教えを今尚厳格に守り続けている、本格の仏教であることを敢えてここに申し添えて置きます)
そしてお釈迦様の教えに沿って、自分の薄汚れた心を自分の手で洗い治す具体的なやり方を始めて学びました。
そのやり方、いわゆる「瞑想」というもののやり方については、いずれこのブログで綴ることが出来るように精進いたしたく思います。
ともあれ何事も取り戻しのつかない事が当たり前だと、ようやく腑に落ちた私の心は、多少の波風に遭っても「まあ、しゃーない」でオッケーなところまでには育った模様であります(笑)。
それでは3.11というこの日に、わざわざこのような長文へのお付き合いを頂き、誠にありがとうございます。
よい夜を。
230 拝