Look at the Dawn Sky (^^)

生きとし生けるものが幸せでありますように。

3/19 理性と感情

2016-03-19 12:35:22 | 日記

昨日の昼過ぎから降り始めた雨は、今日の早朝までシトシトと降り続いていました。




ようやく雨の上がった正午前にいつもの川っぺりに到着すると、そこには沢山の人達が歩き、騒ぎ、遊んでいます。




やはり春休みの始まりと連休初日ということなのでしょうね。








ほとんどの鳥たちはとっくに逃げ出しているようですが、一応軽く川っぺりを一回りしてきました。

(﹡ˆ ˆ﹡)みんなおはよ。

























(﹡ˆ ˆ﹡)地味に初見だったホオジロくんの入浴シーンにぶつかりました(笑)。















それではせっかくの連休初日ですので…

この春から新しい生活を始める人々に向けて、各方面から絶賛不興を買いまくっている「人生の重くて真面目なお話しシリーズ」の始まり始まりであります(笑)。















では問題です。

理性と感情ではどちらが大切でしょうか?。

(※注意。感情が大切だと思う方々はこれ以上先を読まないように強くお勧め致します)





















この話は大抵の人が今までに最低一度や二度は考えたり議論した事があるんじゃないかなと思います。

そもそもこの問いは理性と感情が対立している全く別の因子である。と、そういう前提で問いかけています。

もう少し砕いた言い方をするなら、豊かな感情に身を任せて奔放に楽しむ生き方がいいのか、理性的で真面目だけどつまんない平坦な生き方がいいのかと、そういうことを問うています。

しかし実際のところ私たちの理性や感情とは別々に独立している対立的な因子などではありません。

理性や感情という名称は、心そのものが常に変化しているその時々の状態を呼称するただの名前に過ぎないのです。

故にそもそもこの問い自体がナンセンスで、意味の無い間違った問いかけなのです。

理性とは、一般的に善意とか、きれい事とか…言葉を使う人によっていい意味と悪い意味の二極を指しています。

感情とは、一般的に喜怒哀楽のことを指しています。

ここでは少し話を整理して…感情とは、好き、嫌い、どちらでもない、という三態にまで絞りたいと考えます。

では理性と感情の関係性についてですが、物事にはたいていの場合順番というものがあります。

心の場合はまず何かを知覚した瞬間に、知覚→理性→感情という順番で、心そのものが瞬時に変化します。

まず何かを知覚した瞬間に、私たち個人の常識や価値観などという理性的な判断が働き、その価値が自分にとって高いか低いかなどが計測され、好きか、嫌いか、どちらでもない、という感情へと心は瞬時に変化します。

このプロセスはとても素早いプロセスなので、私たちが余程注意深く集中して自分の心を観察していなければ、普通はいつの間にか抱いてしまっている「結果」としての感情しか自覚することは出来ません。

だから私たちは往々にして「人間は感情の生き物である」などという迷信に引っかかります。

本当は自分の価値観と異なる価値観が理解出来ない、或いは理解したくないというかなり残念なお話なのです。

例えば、一つのリンゴを見た全ての人がが「好き」だと反応を同じくすることは絶対にありません。

更に対象を絞って、リンゴが大好きな一個人がそのリンゴを見たとして、ついさっき大好きなリンゴをたらふく食べた直後に見た場合と、半年間ほどリンゴを見る機会さえなかった時に見た場合では、その人の心に生まれる感情は真逆にまで変わってしまうことでしょう。

更に重ねて、リンゴが大好きでリンゴに対してとても詳しい人間がそのリンゴを見たとする場合。

その人が一つのリンゴを一目見ただけで…それに使用されたワックスや農薬、そして出荷に至るまでの手間などが良質なものであるか、または粗悪なものであるか等の判断がつくほどに詳しかったします。

そうなると当然、良質なリンゴならば「好き」という感情が生まれるでしょうし、粗悪なリンゴならば「嫌い」という感情が生まれることになります。

そしてあまりにも理性が未熟であれば…

腐ったリンゴを安いペンキで真っ赤っかに塗りたくったものを見て喜び、高いお金を払って購入し、実食し、お腹を壊してみて…今度は激怒します(笑)。

このように理性的な価値観や判断から基準が生まれ、その基準で測られた感情が瞬間瞬間で心の中で生まれては消える変化が続いて行きます。

だからこそ、この理性というものが未熟であればその人の心には常にジェットコースターのように荒っぽい感情が波打ち吹き荒れて、その人は自分の感情に翻弄され続けることになります。

また逆に心をしっかりと育て、理性が成熟すればするほど、その人の感情は深く、揺るぎなく、穏やかなものになります。

そして、幾つになってもまるで小学生や中学生みたいな荒っぽい感情しか知らない未熟な人々は意識的に穏やかであろうと日々務める人々に対して…

「アイツは無感動で味気ない人間だ」…などと、無智を根拠にした根も葉もない妄想による嘲りと濡れ衣を被せてしまいます。

(﹡ˆ ˆ﹡)ほんと、バカバカしい話です。

誰だって子供の頃の理性は未熟です。

未熟だからこそ子供はウンコやオシッコという単語だけでも大喜びします。

そして本来子供の理性が未熟なのは当然の事です。

それは、まだまだ絶対的な経験の量が足りていないというだけのことです。それが別に悪い事ではありませんし、まあ元気があるだけまあまあ結構なことでもあります(笑)。

しかしある程度いい歳をした大人が、まるで学生程度の未熟な理性しか育てていないとなると…これは確実に「悪い」という事になります。

ここで言う「悪い」事とは、未熟なその御本人とその人と関わり持つ全ての人々が、確実に不幸を味わうという意味合いで断言的に「悪い」と言えるのです。

未熟な理性→未熟な感情。

そんなものを「ピュア」だとか「キラキラ」だとか「自由」だとか「スピリチュアル」だ、などと思い込んでいるとても可哀想な人々が……ここだけの話、実は意外に沢山いらっしゃるのであります(笑)。

そんな人々は…

好きな物事にはとことん依存した挙げ句の果てに、最後には飽きて放り出し、また別の依存先を探し出してのめり込み…同じことを何度でも何度でも繰り返します。

そんな人々は…

嫌な物事をどこまでも差別した挙げ句の果てに、最後まで見向きもせず、結局何も学ばないまま、暴風雨のような自分自身の感情にいつしか心が押し潰されてしまいます。

こんなことは「悪い」に決まっていますよ。

では一体どうすれば「良く」出来るのか?。

理性ならば育てることが出来ます。

原因と結果という尺度で考えれば、理性が原因で感情が結果であることは自明。

だから結果である感情を御することは大変に無理が大きく、大抵の場合はその努力に見合うだけの成果はなかなか得られません。

しかし原因である理性という状態ならば、私たちが様々な経験を積むことで、そこから視野を広げ、自分自身の意識的な努力次第で何時でも何処でも十分にアップデートし、鍛えることが可能です。

そうしてある程度のアップデートに成功すると、私たちの感情はいつの間にか大きく変化しています。

要するに成長するのです。

感情的であるということは、ちょっとした事ですぐに怒るということです。

それはちょっと気に入らなければすぐに泣き喚く赤ちゃんの頃から身体だけは大きくなっても、精神的には何も成長していないという…とてもとても恥ずかしいことです(笑)。

こうした赤ちゃんみたいな大人が今の世の中には…歴史的にみてもかつて無かった程に掃いて捨てるほどいらっしゃる異常事態な世の中が今の私たちの世の中なのです。

どうかそうした恥ずかしい人間にならないように気をつけて、四月から始まる新しい生活を送って頂ければ…世の中はずいぶんといいものになりますよ。




よい一日を。







230 拝