武州松山城は武蔵国中原の要衝として関東の諸勢力による激しい争奪戦が展開された城です。城の周囲は市ノ川が北側から西側を回りこみ丘陵の裾を削り取って北側と西側は断崖絶壁を形成している天然の要害をなしています。そのため難航不落の城と言われていました。
扇谷上杉氏の事実上の最後の当主である上杉朝定が川越城を失った後に居城したが扇谷上杉家が滅亡すると北条氏康の手に移ります。永禄4年(1561)には上杉謙信が攻め落としますが僅か2年で北条氏康と武田信玄の連合軍に奪還されてしまいます。その後北条氏の配下となった上田氏の居城となりますが豊臣秀吉が小田原征伐の際に前田利家、上杉景勝らに包囲され落城しました。徳川家康が関東入国とともに松平広家が入城し松山藩を立藩しましたが、跡を継いだ松平忠頼が慶長6年(1601)浜松に移封されたため廃城になりました。
比企丘陵の先端に位置する北武蔵地方屈指の平山城で大正14年に県指定史跡となりましたが、平成20年(2008)菅谷館跡(嵐山町)・杉山城跡(嵐山町)・小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに「比企城館跡群」の名勝で国の史跡に指定されています。
城の東側大手口入口です。
城の全貌が判る絵図があります。
曲輪4跡と三の曲輪との間の掘割です。
三の曲輪跡と周りの掘割
空堀ですが結構な深さが有ります
二の曲輪跡
本曲輪
本曲輪跡にある案内板
わかり易い案内表示が良いです。
兵糧倉跡と眼下に見える市ノ川
樹木の葉が多く遠くを見る場所は多くはありません。左上の橋は市ノ川橋です。
搦手口の竪堀
写真では余り高低差があるように見えませんが岩室観音堂を見下ろしています。かなり急な坂です。
現在通行禁止となっています。
本曲輪跡に上る階段
この階段を上ると本曲輪跡になります。
松山城入口と案内看板
バス停や駐車場に近いので通常はこちら側から入ります。階段の先の急な坂道を道なりに行くと上記の階段に続きます。
市ノ川の対岸から見た松山城
切り立った斜面が判ると思います。手前の木の奥が岩室観音堂になります。
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