最初に、芦原妃名子先生のご冥福をお祈りします。
と、言った端から芦原先生には申し訳ありませんが、ついに来るべき事態が来たか、と思いました。
これまでのTV制作側の傍若無人ぶりを見るにつけ、いつか死人が出るぞ、と。事態が起きてから言ってもしょうがない話ではありますが。
日テレのコメントも、映像側&マスメディアの悪しき面が出た型通りのコメントですね。
高千穂遙先生(『クラッシャージョウ』などの方)もおっしゃっていましたが、本来小説(テキスト)とマンガ、アニメ、TVドラマ、映画はそれぞれ別物です。
メディアごとの性質の違いに応じて、適宜調整を行うことはむしろ当然とも言えます。
例えば、小説では視覚的な表現など不可能ですし、登場人物の心理についてモノローグで一々描写するのは実写のテンポ感に致命的な遅延をもたらすかもしれません。
3巻組の小説や10巻組のマンガを劇場映画2時間の尺に収めるには相当な取捨選択が必要ですし、登場人物のカット、あるいは複数の人物を集約化したオリキャラの起用が必要と判断するかもしれません。多分、そこは大きな問題ではありません。
これも高千穂先生のお話ですが、原作者が譲れない一線を示した場合、それを無視するプロデューサーはプロデューサー失格とのこと。すでに完成している作品をわざわざ映像化する意味を考えることがPには必要と。
それができなければ『おたんこナース』→『ナースのお仕事』のように、別作品として作るべきだろうということです。
もちろん、小説家や漫画家が映像作品の作法に通じているとは限らないので、原作者が口出しした結果が思わしくないこともあります。
『霊媒探偵 城塚翡翠』シリーズの相沢沙呼先生はTVドラマ化時に自ら直接台本を手掛けたそうですが、撮影側とかなりの悶着があったとか。複雑なプロット&倒叙法故に下手にオリジナル要素を入れるとストーリーが崩壊しかねない作品だっただけに、相沢先生の措置も原作者としては当然ではありました。その一方、視聴者からの受けは今ひとつ。そもそも原作が映像向きな作品ではなかった、とも言えます。
今回の件の経緯の詳細は他に譲りますが、一般論として映像側による原作破壊の要因はいくつか。
(1)映像化作品は自分の作品だから原作者ごときが口を出すな
原作をどう料理するかは料理人たるプロデューサー・脚本家の自由だから原作者が口出しをするのはお互いの領分を侵犯することになるからやるべきではない。
ある意味正論ですし、過去の大小説家や大漫画家の姿勢に多く見られました。
インスタグラムに挙げていたコメントを読む限り、今回の脚本家A氏は特にこの感覚が強そうで、原作者ごときが分かっていない現場に口を出すな感が透けて見える気がしました。
(2)キャスト先行、芸能事務所のパワーの方が強い
日本の地上波ドラマの大半はこれに該当するとも言われますね。
**に合わせて話を作ってよ、といった類でしょう。「何某にはこんなことさせるな」の類の口出しが事務所サイドから出ると最低。男性アイドルならJ事務所、女性アイドルなら坂道系とかいった場合はこれに分類されてしまう不幸な作品があるかもしれません。この場合、制作サイドも相当不満がたまるのでしょうかねぇ。
(3)過度のストーリー整理やキャラ集約、オリキャラ重用
原作が長編である場合は尺に収めるためサイドストーリー的な展開をバサバサと剪定していく必要がありますが、原作ファンにとってここは欠かせないだろ!というポイントになるストーリーを切り飛ばされると「わかってないなぁ」になります。原作者にとって大切なポイントを飛ばされたり無視されればなおのこと。
同様の理由で、オリジナル展開の比率が高かったりオリキャラが大活躍したりすると原作破壊度が上昇します。この辺は大河ドラマ等の歴史ものでも同様で、例えば一般庶民のはずなのに大名や公家にもサシで会えたりするキャラが出てくると批判の対象になります。
(4)異なる要素のぶっこみ
作者の政治的主張を盛り込んだり、別に恋愛モノでもないのに恋愛要素を追加したり。
それならオリジナル脚本で作れよ、と言いたくなる話です。
近年は日本アニメの海外ローカライズで現地の脚本家がWoke仕草をやらかしているとか(以下表記不能・検閲削除)
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個人的に、これはどうかな?と思った事例をいくつか。
『スターシップ・トゥルーパーズ』
素直にフルメタル・ジャケット+トップガンSF版を作っておけば良かったのに、監督の主張が入り込み出来の悪いホラーにしてしまった映画。
監督(『ロボコップ』の監督なのでSFものができない監督ではないのが更に激おこポイント)・プロデューサー・脚本家、叶うことならまとめてクレンダツウに装備無しで「ロジャー・ヤング」から射出してやろうと思っています(武士の情けでカプセルには入れてやってよいかも)※元ネタについては原作参照
そもそも原作のハインライン『宇宙の戦士』はSFガジェットとして著名なパワードスーツを生み出した作品であると同時に、「公開むち打ち刑上等」「兵役を勤めぬ奴に市民権を与えるな」というゴリゴリマッチョな右翼的思想丸出しでもあり、発表当初から賛否両論あった作品です。
しかし、だからといってリベラル()的な視点から笑いものにするのが良いとはとても思えません。映像の作り方も原作に対するリスペクトゼロ、というより「原作?んなもん退屈だから途中から読んでねーよ(意訳)」という監督のセリフが許される時点で、ハリウッド終わっているなぁと思いました(だったら監督を降板すべきでしょう)。興行的には大失敗の部類だそうですが、それでも別の監督で続編まで作られるあたり、正直もう・・・・・(以下、表記不可能検閲削除な台詞が1万字以上続くと思ってください)
日本限定のアニメ版『宇宙の戦士』も作られましたが、こちらも別にヒットしたわけではない上、原作の政治的要素をバッサリ切った平凡な作品です。しかし、原作リスペクトという点では10^64倍マシでしょう。
『八神くんの家庭の事情』
原作マンガでは、異常体質でいつまでも老けず中学・高校生くらいの外見のままの美少女な母親と、その母に異性として恋してしまった男子高校生の主人公、人妻と知りながら主人公の母に恋する不倫願望教師、主人公の父に横恋慕する父の部下のOL、男性にしか見えない字面の名前の主人公に恋する女子高生、主人公の母そっくりの後輩男子、といった面々を巡るマザコン・スラップスティックコメディだったのですが。
ヒロインに当時40代の夏木マリさん(どう贔屓目に見ても高校生には見えない)を起用し、『奥さまは魔女』よろしく魔法を使える母親を巡る話にしてしまったため原作とは完全な別物に。ついには原作者の楠桂先生が「自分はドラマ版のストーリーには何ら関知していない」とコメントする異常事態にも発展し、このマンガを原作にする必要ある?というドラマの典型例となりました。
『ビブリア古書堂の事件手帖』
映画版はそれほど悪くないですが、テレビドラマ版は個人的に(検閲削除)。
脚本に『セクシー田中さん』脚本のA氏が入っている点、今回の件でさもありなんと思った方もそこそこおられるようで。
そもそも主演に、事務所案件なのか原作ヒロインとは真逆のイメージのG嬢が入る時点でアウトですが、G嬢が更に「原作の主人公のイメージをぶっ壊す」とまで言ってしまったのはもはや・・・・・・(以下検閲削除)
『おせん』
今回の発端である『セクシー田中さん』の日テレ側メインプロデューサーM氏がプロデューサーとして加わっていた作品。原作者のきくち正太先生が「(嫁に行った娘が)幸せになれるものと思っていたら、それが実は身売りだった」とコメントを出し、連載を告知なしで中断するという激烈な反応で応じたことでも有名。このときにきちんと対策取っていれば・・・・・・というより、M氏はこのときの騒動を真摯に受け止めていたのだろうか。
日本テレビが再発防止策を取る可能性については悲観的。
せめて出版社側がもっと強く出なければと思いますが、TV側の方が強いんですかね。