私たちが橋姫さんの話しを母から訊いたのは六十年以上も昔のことである。
昔話や伝説というものは伝言ゲームのようなもので、人から人に語り継がれるうちに話し手の裁量や聞き違いなどによって、内容が少なからず変えられていることは容易に想像できる。
「おばあさん、毎年、盆の墓参りの帰えりに橋姫さんに参って線香を立て、お祈りするって不思議だと思ったことはない?」
洵子はチラッと私を見て、居住まいをただすと一升瓶を両手で抱えた。
「まあぁぁお兄さんどうぞ、そう言えば不思議な習慣ですねぇ」
と言って話に加わってきた。
「神様を参拝する時は、出雲大社の二礼四拍手一礼は例外として、二礼二拍手一礼が通例だと訊いているよね」
洵子が言うと、すかさず兄嫁が
「私もそんなことくらい知っていたけど、村のお年寄りたちが線香を立てて焼香されていたけん、そんなものだと思って何の疑問も感じたことはなかったよ」
古希を迎えようとしている私たち夫婦、喜寿を迎えた兄夫婦の老い先短い爺婆の四人が、雁首をそろえて子供の頃の話に夢中になっている異様さ、他人の目にはどう映るのだろうか、ふと、そんなことが頭をよぎりおかしくなった。
一本目が空になり、二本目が三分の一くらい空いたころには、兄も私も舌がもつれてはいたが、兄はますますヒートアップし絶好調、女性のような甲高い声はさらに高くなっていく。
「江戸の中頃と言うから、天明から文政にかけての頃かなあぁぁ、米子町に坂江屋という大きな廻船問屋があった。坂江屋では多くの舟子や奉公人が働き、蝦夷から日本海・九州・瀬戸内海諸国にかけて北前船を走らせ手広く商いを営んでいたそうな」
「兄貴、ちょっと待った。僕が訊いた話とちょっと違うわ!」
「何処が違う」
「僕は坂江屋のあった場所は、出雲の国の美保関だったと訊いていたよ。第一、江戸時代に北前船のような大型船が、美保湾から境水道・中海を通って米子に入港できたとは到底考えられん、入港できたとしてもせいぜい百石船くらいまでだと思うよ」
昔の記憶をたどって話を組み立てようとすると、矛盾する箇所や道理に合わない場面などが次々と浮き彫りになり、その都度、酔っぱらった二人で、ああでもないこうでもないと話をしていると、なかなか物語が前に進まない。
「兄貴、実は去年の12月に、美保関隕石落下二十周年記念セレモニーが七類のメテオプラザで宇宙飛行士の山崎直子さんを迎えて開催され講演を聴きに行った時、早く着きすぎて時間つぶしに美保関港や美保神社・地蔵埼などを回って、たまたま立ち寄った青石畳通りの観光案内所で訊いた話では、美保関港は江戸時代には出雲・伯耆の玄関口として、北前船や運搬船などの多くの船が行き交う港として大いに繁栄していて、今もその名残として青柴垣神事や諸手船神事という勇壮な祭りが残っていると言うことだった。そんな事を考えると坂江屋は美保関港に有ったと言うのが真実じゃないかなぁ」
「んんん・・・・そうか。米子に入港するとすれば、加茂川河口の立町か灘町・内町あたりにしか船は着けられないが、川幅は狭いし、今の米子港のように護岸も整備されていなかったろうから、坂江屋は美保関港に有ったというのが本当かもしれないなぁぁ」
もともと頑固者の兄弟同士、その後も些細なところで物語の内容が対立して、話は行ったり来たりしたがどうにか折り合いがついてまとまったような気になっていた。
そして数日後、いざ物語を書こうとペンを握ると、ようやく出来上がっていたはずの物語が、酒のせいか老いのせいか頭に浮かんでこない。
はて、いったい、この物語をどう展開させるべきか、苦慮しながらも何としてもこの物語だけは書き残しておきたいものだと思いつつも、時間だけが無情に過ぎていきます。