きさらぎの 寒風すさぶ 海原は うなる浪路の しろき墓場か
平成24年2月17日(金)AM 10:00
誠輝は月あかりを頼りに疾風のように野原を走り、雑木林を駆け抜けブナ林へと分け入った。
ブナ林は広葉樹で空がおおわれ、月のあかりも殆んど差し込まない闇の世界、足元には木の根がクモの巣のようにはびこり、誠輝は木の根に何度も何度も足を取られ、また、行く手を背丈ほどもある熊笹に阻まれ傷だらけになりながら、それでも木々の隙間からときおり射し込む月の明かりを頼りに南光河原に向かって無我夢中で走り続けた。
そして、ようやくブナ林を抜けた時には誠輝の身体は血と汗にまみれ、疲労はピークに達していた。
「日の出までには、まだ十分に時間がある」
誠輝が草むらに腰を下ろして空を見上げると、月は頭上で輝き、疲れた体に爽やかな風が心地よく流れ、つい、うとうととまどろんでしまった。
「お兄ちゃん、早く起きて」
礼香が叫んだような気がし誠輝が目を覚ますと、東の空がかすかに白みはじめていた。
「しまった。寝過したか」
誠輝は“パッシ、パッシ”と頬を叩き、眠気を覚まして気合を入れて再び走りだすと、谷間の中に薄明かりに照らされて砂や石が見えてきた。
「ここまで来れば、もう大丈夫だ!」
誠輝は駱駝の背のように凸凹になった石の上を、跳ねるように川上に向かって走っていくと、干からびた河原に僅かに流れる清水が足裏を心地よく濡らして疲れを和らげ、大山の影が黒い衣でもまとったように覆い被さってくる。
ようやく南光河原にたどり着いた誠輝の眼前には、大山の北壁から流れ出た水で侵食されたてV字型に大きく破壊された岩山が、何人の侵入も拒むかのように荒々しい姿で聳えていた。
誠輝は岩山が大きく裂けた金門の下まで行くと深々と頭を下げ手を合わせた。
「カラス天狗さん、どうか村人の苦難をお救いください」
藁にもすがる思いで願いを込め、懐から取り出した鹿笛を北壁に向かって“ヒュルル、ヒュルル”と、息の続く限りに吹き続けた。
小屋に帰った礼香と誠輝が、汚れた草履を土間に脱ぎ、板の間に敷いた筵の上で沈痛な面持ちで向かい合って座ると、板壁の裂け目からは射し込んできた月の明かりが微かに二人に降り注いできた。
「礼香、どうして人柱になるなんて言ったのだ」
月の明かりで“キラリ”と光る礼香の瞳に、誠輝は次の言葉を失い、二人は沈黙したまま藁布団を敷いて床についた。
誠輝は傍らで眠る、少女から娘に脱皮しようとしている礼香の横顔を見ながら
「我が妹ながら美しい、笹ユリのように清楚な気品をただよわせ心根の優しい娘の育った。年頃にはきっと近在一の美人になることだろう。こんなに可愛く愛らしい妹を人柱などに絶対させてはならない」
誠輝はあれこれ思案を巡らせていると目が冴えて眠れなくなったが、昼の疲れも重なりようやくうとうとまどろみはじめた時“トントン、トントン”雨戸を叩く音に誠輝は起こされた。
「こんな夜更けに、いったい誰だろう」
誠輝が土間に下りて雨戸を開けると、そこには月明かりを背にして苦悩にゆがんだ義助の顔があった。
「村主さん、こんなに夜遅くどうしたのですか」と誠輝が尋ねると
「実はお前に頼みがあって来たのだが、家に上がらせてもらってもいいか」と義助は言った。
誠輝は義助を土間で待たせ、礼香に敷いていた藁布団を片付けさせると行燈に灯をともして義助を板の間に上げた。
筵に座ったまま二人の顔を食い入るように見つめていた義助は、しばらしてようやく重い口を開いた。
「お前たちもこの村に来て、ずいぶん長くなったがいくつになった」と、唐突に尋ねた。
「僕が二十歳で、礼香が十六歳になります」と誠輝は答えた。
すると、義助は遥か昔でも懐かしむように天井を見上げ、意を決したように誠輝に向かって言った。
「今日、礼香が、竜神さまの怒りを治めるためなら、婆さんの身代わりになって人柱になると言ってくれた。これは涙が出るほどうれしかった」
誠輝はその言葉に心臓が張り裂けそうになり、うつむいたままの礼香をそっと見やった。
「だが、わしが礼香を人柱にしてまで水路工事を続けることはできない。そんなことをしたら後世にきっと悔いを残すことになるだろう。しかし、今ここで工事を止めてしまったのでは村が崩壊しかねない」
そこまで話を聞いて、誠輝はようやく落ち着きを取り戻したが、それなら何故こんなに夜遅く尋ねてきたのだろうかと一抹の不安がよぎった。
「誠輝、この役目はお前にしか頼めないのだ」と言って、義助は懐から赤子の拳ほどの、白い石のようなものを出して誠輝の掌にのせた。
「これは五年ほど前、お前が大野池で助けたカラス天狗が山に帰る時にわしに託した鹿笛だ。その際、天狗は、もしこの先、村で困ったことが起こったらこの鹿笛を南光河原で吹くようにと言って帰って行った。わしはあの時の天狗の言葉にすがってみようと思う」
誠輝は義助の話を聞いている内に、カラス天狗を助けたあの日のことが昨日のことのようにくっきりと蘇ってきた。
「そこで、お前に頼みというのは、この鹿笛を持って南光河原に行き、明日の日のでまでにカラス天狗を呼んできてもらいたいのだ」
「村主さん、そんなことで村が救えるのなら今すぐにでも飛んでいきます」と言うが早いか、誠輝は小屋を飛び出して南光河原に向かって駆けだして行った。
その誠輝の眼からはとめどもなく涙が溢れ、霞む山野を白銅色に輝く月が優しく照らして見守っていた。