昨日は天気が良く自転車日和であった。そして十三の
第七藝術劇場で上映していた想田監督の「港町」の最
終日であった。この2つが重なり、自転車で映画「港
町」を観に行かねばならないという思いが大きくなり、
自転車で十三まで乗り込んだ。
30分ぐらいで到着し、少し早めに着いたので他の人と
同じようにワクワクを押えながら狭い廊下でじっと待
っているのであった。入場できるようになり、中央の
一番前の席へ座り万全の態勢で2時間に備えるのであっ
た。
観察映画というモノクロのドキュメンタリーのような
映画ということと瀬戸内の映画という情報だけインプ
ットし、映画を観た。
初めてみる観察映画というもので、想田監督の映画も
初めて観た。2時間はあっという間に過ぎさった。
何がどうということはないのだが、不思議と話にのめ
り込んだ。そして観察映画ということで画面をじっく
り観察した。最後の方で舟がモノクロからカラーに変
わった時に錆色が出た瞬間にイキナリ舟が古びた壊れ
かけの舟にみえ、色の威力を感じさせられた。やはり、
大きなスクリーンの方が迫力があっていい。
漁師のお爺さんの話、港町に彷徨うおばあさんの話、
何気ない日常にも様々なことがある。話していること
も、どこまで本当のことかわからない。台本がなく、
その人の声を拾っている、引き出している映画なので
信じるかどうかは見る人の受け方で変わる。
こんな映画もあるのだな、面白い、という感想だ。
映画館をでた時に観る前と気分がかわっていた。これ
は映画による影響で映画の余韻が残っているのだと思
った。観察映画って人に感想を述べるのではなく、自
分のなかでシミジミと何かを感じる映画だと思った。
そういう意味ではボクは好きな映画である。
次の映画の「ザ・ビッグハウス」の予告も観た。
なかなか面白そうなアメリカの話だ。6月末からの
上映のようだが、これも自転車を飛ばして観に行こう
と思う。仕事をさぼって。。。(笑)
掃除をしていて終わったら眼鏡が行方不明という
アホなことが起こり、眼鏡無し生活が3日目に突入。
車の運転はぎりぎりセーフで免許に眼鏡は必要ない。
必要ないけど眼鏡をかけて運転しているため、車の
中には眼鏡が置いてある。
歩いているときは眼鏡をかけていると、どうも体の
バランスが悪いのでかけない。仕事の時、読書の時
など視作業のときだけ使用している。乱視なので焦
点がなかなか合わないのを補助しているのがボクの
眼鏡の役目である。細かいものを見る時、焦点があ
うまで眼鏡がないと時間がかかる。
車の眼鏡を持って来たら何も問題ないのであるが、
車に乗るときに眼鏡を忘れそうなので置いておく。
仕事する時は虫眼鏡があるので支障ないような気が
する。新聞読むのも何とかなるか、と思うと無くて
も良いような気がする。
ただし、やはり眼鏡がないと細かい文字をみるのに
根気が必要だ。はっきり見えるまで時間がかかる。
何というのか、目の筋肉?が柔軟になったら見えそ
うな気がするのだが、どうなのだろうか。鍛え方が
あってトレーニングしたら柔軟性がでるのか。いや、
鍛えても老化現象で無理なのだろうか。(笑)
そのうち、眼鏡は見つかると思うが、眼鏡無し生活
をしばらく続けようと思う。どうにかなる精神で眼
鏡を克服できないものか。慣れの問題かもしれない
と都合のいいように考える。試しに後1週間やって
みることにする。
今さらなのだが、社寺仏閣は訪れることが多い。
鳥居や門をくぐった中の特別な空間が好きであ
る。気が向けば散歩を兼ねて近くの神社やお寺
にいく。
社寺仏閣はよく行くのである。行った場所も
様々で多くの場所を訪れた。が、今となっては
どこに行ったのかもわからないことも多い。
行った場所の記憶として朱印帳に残しておきた
いと思う。そう、朱印帳が欲しい。あの独特な
字体と印が好きなのだ。
調べたところ、お寺と神社を分けておくと後で
みた時にわかりやすいという。そう言われれば
そんな気がする。柄の入ったものではなく、シ
ンプルな無地の紺色が黒色等の単色がいい。
今からでも朱印を集めてみようかなと思う。
もう30年近く使っている「ハケ」。正式名は知らない。
ただ、建築を初めて学ぶ時に買わされた道具である。
この「ハケ」は2代目であるが、これ以降は購入して
いない。1代目はこれの1.5倍くらいの大きさで何の不
自由も無かったが、コンパクトなのに憧れて買った。
そして1代目はどこかへいってしまった。
先輩ですごくきれいな図面を書く方がいて、その人に
あやかりたいと思って同じ種類の「ハケ」を購入する
ことにした。「ハケ」など、どうでもいいようなもの
であるが、その当時はコンパクトな「ハケ」を使いた
かったのである。
使う用途は消しゴムのカスを払いのける。それだけであ
る。手書きの図面を書いていた頃の産物である。消しゴ
ムでゴシゴシ消した後の処理に使っていた。今はもう、
そういうことも無くなったので(PCで作図するので)
滅多に使わない。
ただ、机の上にゴミが溜まったときなどに「ハケ」が
登場してゴミ集めに活躍する。そんな「ハケ」であるが、
事務所の鉛筆立てにいつも立ててあって、ここぞという
時に使われる。年に数回しか使わないのだあるが。。。
しかし、ずっと置いてある。壊れることもない。何とな
く、製図道具の中の1つとして象徴として存在している。
あまり使わないけれど、妙に安心感があるのだ。そうい
うモノも必要なのである。「ハケ」は全盛期を過ぎたが、
なぜか必要なのである。そういう存在もあった方がいい。
実用や理屈だけでない、あるだけでいい、みているだけ
でいい、そういうモノがあってもいいと思う。
日本の政治が、民主主義が壊れていく。
このままずるずると話が誤魔化されて現状維持など
ということになると国の何を信じていけばいいのだ
ろうか。国民にも責任はある。日本の国民は成熟し
た国民になれるのであろうか。
今日は、写真を1枚だけアップする。
昨年、ナスにとまっていたピンクのバッタ。
なんという種類のバッタなのだろうか。
成長過程なのか、少し色が透明に近いような気が
する。何とも言えない不思議なバッタであった。
目立ちすぎるバッタはどうやって生きていくので
あろうか。他と違うということは生きにくいもの
なのだ。バッタに覚悟はできているのであろうか。
自覚して覚悟を決めないといけないのだろうなぁ。