八剣神社は千葉市中央区南生実町あります。
鳥居を通り階段を上り正面に拝殿があり、左手に神楽殿、右手に庚申塔があります。
庚申講とは、庚申の日に眠りについたときに人の中にいる三尸(さんし)虫が体から抜け出し、天帝に庚申の日までに行った悪行を知らせに行きそれを知った天帝が怒ってその人の寿命を縮めるそうです。その三尸虫を天帝に知らせに行かせないために青面金剛(しょうめんこんごう)の力で封じ込めてもらうことを祈る講です。
庚申とは十干十二支の中にある日なので60日ごとに訪れます。60日ごとに寄り合って寝ずの祈願をしたわけです。
18回、3年で満願成就となり、成就のお礼に石仏を作ったのが庚申塔です。満願成就の記念碑でもあるわけです。(満願成就しないと庚申塔は造れません。)
八剣神社。千葉市中央区南生実町。祭神は日本武尊、大日孁尊命(天照大神)、大己貴命
木の右隣にあります。
青面金剛像の庚申塔。
この青面金剛像は大和金輪院の木造青面金剛をモデルに寛文元年(1661年)に関西から江戸(板橋)に導入されましたものと同じようです。(青面金剛像はタイプがいろいろありそれぞれモデルがあるようです。)
もともとの青面金剛のモデルは金剛夜叉如来と言われています。最古の青面金剛像は関西で寛永七年(1630年)、関東で寛永十七年(1640年)だそうです。
本来、青面金剛の頭上に「日」と「月」なのですが、この青面金剛は両方とも「日」です。
右上手には「金剛杵」、左上手には「玉」、右中手には「矢」、左中手には「弓」、右下手には「宝剣」。
邪鬼を踏みつけています。
左下手には女性の髪の毛を持って吊り下げています。
この女性はショケラと呼ばれていて、異教神シヴァ=大自在天の化身です。
三尸虫の害を庚申信仰により封じることで、健康になり運勢が開ける効用がある。
その三尸虫を退治する図案が、虫退治⇒蛇退治⇒ショケラ=シヴァ退治になったということです。金剛が虫を退治してるのは迫力がないし、蛇だと退治しているのか遊んでいるのかわからない。そこで異教神のシヴァを退治する。と言う図案が考え出されたようです。
見ざる(猿)、聞かざる(猿)、言わざる(猿)の三猿がいます。60日間の見たこと言ったこと聞いたことの悪行を、天帝には告げ口しないでください、か告げ口しないから安心してくださいをあらわしている、と言う事らしいです。
この庚申塔の向かって右側面からこの庚申講に参加した人の名前が書いてあり、左側面右から3列目(左から2列目)に下総国千葉郡南生実村とあり、一番左列に正徳三年癸巳(みずのとみ)十一月十六日と読めます。
正徳三年と干支癸巳が一致しているので建立年月日は間違いないと思われます。
正徳三年は西暦1713年で、この八剣神社の社殿再建が享保元年西暦1716年なので社殿再建より3年古いことになります。また、満願成就まで3年なので1710年からみんなが集まって60日ごとに祈願したことになります。
千葉市内最古の青面金剛像庚申塔は中央区弁天町にある宝永二年(1705年)のものなので千葉市内で2番目に古いことになります。
(Canon IXY DIGITAL 510IS)
興味深いのは氏名住所に藩名がないということは講の参加者は武士以外で、武士以外にも苗字があったということです。
さらに、庚申塔建立と社殿再建を立て続けに行ったことから、生実藩1万石2代目藩主(1692-1732)森川俊胤(若年寄役)の安定政権により領民の財政の安定と文化レベルの向上がうかがい知れます。
その考えとは真反対に、元禄十六年(1703年12月31日)の元禄大地震(佐倉で推定震度5)、宝永元年(1704年6月)の下総洪水、宝永四年(1707年12月16日から12月31日)の富士山宝永大噴火などの天変地異が生活を圧迫して庚申信仰に救いを求めたのかもしれません。
明治に入って庚申信仰が否定され庚申塔を壊すか捨てるかを政府から要求され、村の四辻にあったものを青面金剛の顔を削り八剣神社に移したとも考えられます。
町内のかたに「『暴れん坊将軍』が将軍になる前に建てられ、300年以上も前に町内のどなたかのご先祖様の祈願成就記念碑でもありますから大切に壊さないようにしてあげてください」、とお知らせしました。
他の地区の庚申塔の写真を見ると、供物や花を供えてきれいにしています。庚申塔を建てられたご先祖様の供養と青面金剛による健康と幸せを祈ってのことかもしれません。
鳥居を通り階段を上り正面に拝殿があり、左手に神楽殿、右手に庚申塔があります。
庚申講とは、庚申の日に眠りについたときに人の中にいる三尸(さんし)虫が体から抜け出し、天帝に庚申の日までに行った悪行を知らせに行きそれを知った天帝が怒ってその人の寿命を縮めるそうです。その三尸虫を天帝に知らせに行かせないために青面金剛(しょうめんこんごう)の力で封じ込めてもらうことを祈る講です。
庚申とは十干十二支の中にある日なので60日ごとに訪れます。60日ごとに寄り合って寝ずの祈願をしたわけです。
18回、3年で満願成就となり、成就のお礼に石仏を作ったのが庚申塔です。満願成就の記念碑でもあるわけです。(満願成就しないと庚申塔は造れません。)
八剣神社。千葉市中央区南生実町。祭神は日本武尊、大日孁尊命(天照大神)、大己貴命
木の右隣にあります。
青面金剛像の庚申塔。
この青面金剛像は大和金輪院の木造青面金剛をモデルに寛文元年(1661年)に関西から江戸(板橋)に導入されましたものと同じようです。(青面金剛像はタイプがいろいろありそれぞれモデルがあるようです。)
もともとの青面金剛のモデルは金剛夜叉如来と言われています。最古の青面金剛像は関西で寛永七年(1630年)、関東で寛永十七年(1640年)だそうです。
本来、青面金剛の頭上に「日」と「月」なのですが、この青面金剛は両方とも「日」です。
右上手には「金剛杵」、左上手には「玉」、右中手には「矢」、左中手には「弓」、右下手には「宝剣」。
邪鬼を踏みつけています。
左下手には女性の髪の毛を持って吊り下げています。
この女性はショケラと呼ばれていて、異教神シヴァ=大自在天の化身です。
三尸虫の害を庚申信仰により封じることで、健康になり運勢が開ける効用がある。
その三尸虫を退治する図案が、虫退治⇒蛇退治⇒ショケラ=シヴァ退治になったということです。金剛が虫を退治してるのは迫力がないし、蛇だと退治しているのか遊んでいるのかわからない。そこで異教神のシヴァを退治する。と言う図案が考え出されたようです。
見ざる(猿)、聞かざる(猿)、言わざる(猿)の三猿がいます。60日間の見たこと言ったこと聞いたことの悪行を、天帝には告げ口しないでください、か告げ口しないから安心してくださいをあらわしている、と言う事らしいです。
この庚申塔の向かって右側面からこの庚申講に参加した人の名前が書いてあり、左側面右から3列目(左から2列目)に下総国千葉郡南生実村とあり、一番左列に正徳三年癸巳(みずのとみ)十一月十六日と読めます。
正徳三年と干支癸巳が一致しているので建立年月日は間違いないと思われます。
正徳三年は西暦1713年で、この八剣神社の社殿再建が享保元年西暦1716年なので社殿再建より3年古いことになります。また、満願成就まで3年なので1710年からみんなが集まって60日ごとに祈願したことになります。
千葉市内最古の青面金剛像庚申塔は中央区弁天町にある宝永二年(1705年)のものなので千葉市内で2番目に古いことになります。
(Canon IXY DIGITAL 510IS)
興味深いのは氏名住所に藩名がないということは講の参加者は武士以外で、武士以外にも苗字があったということです。
さらに、庚申塔建立と社殿再建を立て続けに行ったことから、生実藩1万石2代目藩主(1692-1732)森川俊胤(若年寄役)の安定政権により領民の財政の安定と文化レベルの向上がうかがい知れます。
その考えとは真反対に、元禄十六年(1703年12月31日)の元禄大地震(佐倉で推定震度5)、宝永元年(1704年6月)の下総洪水、宝永四年(1707年12月16日から12月31日)の富士山宝永大噴火などの天変地異が生活を圧迫して庚申信仰に救いを求めたのかもしれません。
明治に入って庚申信仰が否定され庚申塔を壊すか捨てるかを政府から要求され、村の四辻にあったものを青面金剛の顔を削り八剣神社に移したとも考えられます。
町内のかたに「『暴れん坊将軍』が将軍になる前に建てられ、300年以上も前に町内のどなたかのご先祖様の祈願成就記念碑でもありますから大切に壊さないようにしてあげてください」、とお知らせしました。
他の地区の庚申塔の写真を見ると、供物や花を供えてきれいにしています。庚申塔を建てられたご先祖様の供養と青面金剛による健康と幸せを祈ってのことかもしれません。
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