九 あやの屋
どのくらい雨の熱海をほっつき歩いていたのだろうか。何度ニューフジヤに戻って笑美子に跪こうと思ったか知れない。到底出来ぬ相談だ。かといってねぐらに帰って忘れてしまう気にもなれず、ずぶ濡れになるほど彷徨っていたのだ。
ようやく雨が小降りになったので土産屋の軒先で雨宿りをした。
通りかかった綾香が私に蛇の目傘を差し掛けて呉れた。
「ずぶ濡れ! 一体どうしたの」
黙って蛇の目を綾香から奪い、相合い傘と洒落込んで歩いた。
小さな雑居ビルから黒メガネの男が出てきたので、近づいて挨拶をした。綾香に男を見せる為だ。
「先ほどはどうも・」
ジロリと私を見下ろして去って行く。海岸で見た印象よりかなり背が高かった。百七十五センチの私より最低十センチは高かった。すらりとした体に長い脚と手を持っていた。
その男の顔を、タクシーのライトが照らして呉れた。
綾香も見た筈だ、彼女だったら何者か知っているに違いない。
男に近寄っていたのはそれが目的だった。
「今の男知っています?」
「ええ」
少し後ろから綾香の声が聞こえてきた。
振り返ると綾香が雨の中で立っていた。
慌てて戻り、傘を差し掛け、
「すいません、気がつかなくて」
「あそこが私の家」
と、綾香が路地の先を指さした。
「傘持っていっても良いのよ」
「だいぶ小降りになったから平気です」
「だけど・・・」
私のずぶ濡れの全身を嘗め回す綾香。
「顔が真っ青。唇だって紫色になっているわ。部屋には誰かいるの?」
「いいえ」
「だったら、いっそ家にいらっしゃい」
実は、少し前から悪寒で身体の震えが止まらないのだ。それに黒メガネの男の事を聞き出したいので彼女の家に寄った。
綾香の家は「あやの屋」という名の置屋で、私たちが入って行くと若い芸子が四人、寝ぼけ眼を擦りながら出てきた。
「姐さん、お帰りなさい」
口々に挨拶をして、私をじろじろと遠慮のない目で眺め回す。
「お風呂沸いているわね」
「ハイ」
一番若そうな芸子が答えた。
風呂に入り、洗いざらしの下着に上下のトレーナーを着て、ようやく人心地を取り戻す事が出来た。皆強いナフタリンの匂いがした。
「そんなに熱は無いようね。本当は医者に行った方が良いのだけれど、夜中だから仕方が無いわね、とにかく暖かくして寝ていなくちゃ駄目よ」
「はい」
綾香の前では不思議と素直になれる。彼女には妙に惹かれてしまう魅力が有り、男が憧れてしまう、いかにも芸者という感じの女性だった。年上といっても、せいぜい五つか六つ、そんなに違わないかも知れない。これが女としての年季というものだ。
泊まって行けと頻りに薦めるが、女所帯に泊まる勇気が無いので帰らして貰った。
綾香は無言で真っ赤なジャンパーを差し出した。左袖と背中にスーパーマンのマークの入ったウインドブレーカーだ。「誰のだろう?」、チラリと頭を過ぎったが口に出さなかった。
歩いて十分と掛からないのにタクシーを呼んで呉れた。
部屋に帰るとどっと疲れが出て寝込んだ。
綾香の話によると、あの男は金田という名のやくざで、ノミ屋に海岸通のストリップ小屋と射的場の用心棒をしていると言う。五年ほど前に熱海に流れて来たというから、胡蝶一座のグランドホテル来歴よりも旧い。台湾から来た中国人だという。
その朝、私は昼過ぎまで起きあがる事が出来なかった。風邪をひいたようだ。
あやの屋の芸子が、洗濯された私の服と、粥の差し入れを持って来たのを機に、ようやく起きあがった。
私が粥を啜っていると、コズエとミズエがやって来た。
粥などを食べている私を見て、ミズエが心配をしてくれた。
「病気?」
「うん、風邪ひいたらしい。大したことはない」
「今朝、鬼太郎どうしていたの?」
と、口を尖らせるコズエ。
「私がいくら呼んでも出て来て呉れなかったじゃない」
多分、熱で魘されて気づかなかったのだ。
コズエにはいつも健一がついてくるから、この姉妹だけと話せる機会は滅多に無い。
そこで色々聞いて見た。
「胡蝶一座は何処を本拠にしているの?」
「島根だって先生が言っていたわ」
コズエが答えた。二人とも母親を先生と呼んでいたのだ。本拠とは名ばかりで、東北、北海道への巡業が殆どだという。
「いつから劇団やっていたのか知っている?」
「ずっと昔から、江戸時代からだって。ご先祖様は聖徳太子のパトロンだったそうよ」
秦の始皇帝の末と称した秦河勝の事だ。秦氏は新羅系とも、百済系とも、秦国の末裔とも云われている謎に包まれた氏族で、何れにしても渡来人であった事は確かだ。機織の技術を伝えたから日本では秦と称した。
秦氏の由来は諸説有るが、私が最も興味を惹いたのは、日本書紀に記された夕月君(ゆづきのきみ)と呼ばれた渡来人が秦氏の祖先だという伝承である。夕月君は伝説上の人物で実在は証明されていないが、秦氏の始祖であると伝わり、秦の始皇帝の末裔とも伝えられている。三世紀に渡来した夕月君とその民はキリスト教の一派、ローマ教会から破門されたネストリウスが建てた教派で、東洋では景教と呼ばれている民族だという学者もいる。
何故キリスト教と認識されなかったのだろう? イスラエルから迫害(破門故)を逃れてペルシャに渡り、マニ教やゾロアスター教と同化して中国に渡り、さらに仏教や道教(老子の教えとは全く別物)の影響を受けた為に、仏教の一宗派と見なされたからだと思われる。後年、弘法大師となった空海が唐に留学した時、当時長安にあった景教の本山太秦寺の僧侶と頻繁に交誼を温め、仏典を二人で訳した事まであった程だ。空海がキリスト教的な教えを真言密教に潜めたとまで云われている。
秦氏の始祖と伝わる秦の始皇帝そのものが、真の漢族だとは思われていない、少なからず西域人の血が混じっていたのは間違いない。秦国も秦の民も漢族から異人として認識されていた。
景教伝来の由来やルートには、最低後二つある。
一つは、西暦752年4月9日、東大寺の中庭で大仏開眼供養が行われました。一万人の僧侶と皇族・貴族が参加して行われた国際色豊かな大イベントでした。開眼師のインド僧菩提遷那を初め、ベトナム僧仏哲、ペルシャ僧ラームヤール等が参列していました。まさに華厳による光輝く太陽の帝国がこの世に出現したのです。このラームヤールこそ玄宗皇帝から李密翳(りみつい、因みに始皇帝は李性)という名を賜った景教の伝道師(宣教師では無い)で医者でした。彼は僧玄昉と共に聖武天皇の母藤原宮子の病(重度の躁鬱病と思われる)を治癒した事で知られる、恐らく玄昉は祈祷で、ラームヤールは薬を使用したと思われる。
その景教の伝道師で医者のラームヤールは二十年程日本に滞在したと伝わっている。
景教は中国からの伝来の他に、渤海国から日本海を経て北陸から東北地方に伝来したルートが考えられます。渤海人、特に靺鞨(まっかつ)族(満州人の祖先)は度々日本海を渡って大和朝廷に帰化しています。
天平18年(西暦746年)、千百人を越える渤海人(高句麗系朝鮮人)と鉄利人(鉄利府靺鞨族)が出羽に漂着して、大和朝廷から帰化を許されました。もしかしたら、この中に景教伝道師や景教信者がいたのかも知れません。ラームヤールと合流して新しい郷をみちのくの奥に開いたかも知れません。
青森の奥入瀬にキリストの墓が有るという村が有ります。昔戸来(ヘブライの意味か?)と言った新郷村です。
ゴルゴダで処刑されたのは弟のイキリスで、イエスキリストは日本に逃れ(伝説によれば帰って、ということになります。キリストは十二才から二十三才までを日本の越の国で過ごしたそうなのです)、天寿を全うして戸来郷に葬られたそうです。本当でしょうか? こんなものは墓を科学的に調査すれば、真贋は明らかになるのですが、ロマンとして残しておいても良いのかも知れません。
新郷村にこんな盆踊りが残っています。
ナニャドヤ~ラ~
ナニャドナサレ~ノ
ナニャドヤ~ラ~
神学博士・川守田英二氏はこの歌詞を古代ヘブライ語であるとし、次のように翻訳しています。
御前の聖名を褒め讃えん
汝の毛人を掃蕩して
御前の聖名を褒め讃えん
何を隠そう私の祖先はこの新郷村の出身なのだ。
幕末の風雲時、私の祖先は京に出て倒幕運動に身を投じ、維新後官に仕え、故郷のある青森県に官吏として登用された。その時に初めて大久保性を称した。
なんという因縁なのでしょうか? 私とミズエとコズエの祖先を遡ればユダヤ人の血が入っていたかも知れないのです。
「お父さんの事何か覚えているかい?」
この問は、かなり迷ってなかなか切り出せなかった。
慎重に言葉を選び、さり気なく尋ねた。
悲しそうに頭を振るミズエ。無理もない、二歳の時別れ別れになったのだから。
「お父さんは、あいしんなんとかの子孫だって言っていたわ」
コズエが少し覚えていた。
「あいしんなにだって?」
「ううん、覚えているのはあいしんだけ。黄金の事だって」
ああそうか、愛親覚羅、満州族が建てた清朝の王族の名だ。迫害と差別から逃れるために、いまでは満州族を名乗る者は殆どいないと言う。満州族の故地では、広隆寺の弥勒菩薩のような面影を持った女性がたくさんいるという。つまりミズエに似た女性が多いと言うことだ。ミズエが世界一と言って良いほどチャイナドレスが似合う道理が分かった。
清朝の子孫が台湾に逃れていても別に不思議は無い。だが、ラストエンペラー溥儀の弟溥磔の長女慧生が心中をした天城山の目の先で満州族の姉妹が流離っているのはとても不思議な気がした。興味深い事はもう一つ有った、慧生の心中相手大久保武道青年は私の縁者だ。
どうやら父親は死んだと聞かされていたらしいが、二人とも信じてはいないみたいだ。
父親への追慕の情はミズエの方に強く、コズエはその民族に興味が有るようだ。
その後、二人はそれぞれのお守り袋から、透き通るようなエメラルドグリーンの玉を取り出して見せてくれた。父親の形見の翡翠だという。指輪だと聞かされているそうだが、かなり大きく、環というより筒に近い。中指や人差し指ではすかすかで、すぐ落ちてしまう。親指でも良い位だ。
満州族が玉を貴んだ事は良く知られており、臨終に望んだ西太后が巨大な黒真珠を口に含んだと云う。指輪というより、何か宗教的な儀式に使ったのではないだろうか。後で調べてみようと思ったが、なかなかその機会が無く、ごく最近になって、ひょんな事からそれを知った。弓を射る時、親指に当てるといい、やはり宗教的な意味合いもあったらしい。
他人の事に興味を覚える事の無かった私が、これほどにも姉妹の父親に拘った理由が、今考えてみてもよく分からない。何か不思議な縁に挽かれていたのだろうか。あるいは、コズエの怨念が私にそれを強いたのかも知れない。
黒メガネの男が彼女たちの父親であったなら、父娘の名乗りを上げさせようとも思っていたが、正体がやくざだと分かった以上、むしろそれを阻止する側に廻らなければいけない。少なくとも、もう少し調べようと決意した。
その日、私はようやく三時頃ホテルに顔を出した。
舞台を暗くして、コズエを中心にした若者達が丸く座を造り、真ん中に蝋燭を立て、硬貨(東京オリンピック記念千円銀貨、日頃からコズエが大切にしていた)を皆が指で支えていた。つまりコックリ(狐狗狸) さんだ。以後も時々やっていたが、私は参加した事が無い。
コズエが仕切るコックリさんは、さぞかしスリルがあって、肝試しにはもってこいの筈だ。今になっては一度加わって見れば良かったと後悔しているが、当時としては、見栄と自尊心がそれを許さなかった。若者達といっても、一番上が健一の二十一で、後はせいぜい十二三から十七八までの子供達だったのだ。
準備が順調に進んでいたので、初日を明日に控えているというのに、やるべき事が殆ど無く、大部分をクラブの方ですごした。
夜の八時頃、まだ少し頭が痛むし、咳も出るので帰る事にした。
ロビーの前で東京の晴実からの電話に捕まった。
「河野君から連絡有る?」
「いや、全然」
河野と私と晴実の三人は大学時代の同級で、キャンパスではいつも一緒だった。ありきたりの青春の典型的なパターンだ。
「私の所もさっぱりだわ。年賀状の返事も来ないし、なんだか胸騒ぎがするの」
「その内、ひょっこり現れるさ」
『冒険者たち』という映画を見たことが有りますか? ロベルトエンリコ、そう『ふくろうの河』という短編名作を残したあの監督の作品で、主演がアランドロンとリノバンチェラ、ヒロインがジョアンナシムカスでした。映画の世界では古典的な青春映画の規範となった作品で、日本でも盗作まがいの作品がずいぶん制作されたものです。
私も河野も、私たち三人の関係をこの冒険者たちのようだと想っていた。『冒険者たち』と違ったのは、三人の後を晴実の妹由美子が纏わり付いて来た事だ。
高校生だった由美子は、美しい手と、キラキラと輝く目を持っていた。その輝く目で、姉の恋人もボーイフレンドも盗もうと狙っていたのかも知れない。現に望みは半ば適った。
最初の頃、晴実はほんの少しだけ私の方を好いてくれている様だったが、学園紛争の為、やがて逆転されてしまった。
大学二年の時、日本中が学園紛争の嵐の中に迷い込んだのだ。今考えると、まあ麻疹のようなものでしたが、当時は皆それなりに真剣だったのです。
晴実も又夢中になり、デモや集会に随分参加していた。私はいわゆるノンポリ学生で、左右いずれの陣営にも関係が無く、あらゆる紛争・闘争に関わらない様にしていた。その事で随分、晴実に詰られ、軽蔑された。
私には、芸術学部で演劇を学ぶ学生が、なぜ闘争や紛争の形で参加しなくてはならないのか、よく理解出来なかった。人それぞれの立場や信念で社会の不正や矛盾と戦い、警鐘し、啓蒙するべきだと信じていた。まがりなりにも劇作家を目指していた以上、作品を通して訴えたかったのだ。
誰にも悟られぬようにしていたが、その頃の私は、体育会系の学生よりもナショナリストで、また反面、密かにサルトルを読み、ポールニザンの『アデンアラビア』を愛読書としていたので、体制側から見れば、充分に左翼学生の資格をもっていたと言える。
九州の福岡から上京して来た河野は、あっという間に紛争に染まっていった。最初は晴実に誘われてデモに参加したようだが、一年もすると学部の幹部になっており、やがて活動を全国規模にまで広げていった。
晴実の気持ちが河野の方に傾いていったのは、このせいだと私は思っている。
いや、もう一つ有る。私は大学二年の冬、唯一の身寄りの母を癌で失っていた。一人で食べてゆかなければならない、大学を中退したのは言うまでも無い。金のためだけでは決して無い、大学の価値そのものに嫌疑を持っていた。母が生きていても、やはり私は退学したに違いない。
「いやな噂が流れているの、何かとんでもない事を計画しているようなの」
まさか革命を本気でやろう等と計画している分けでも有るまい。
「大丈夫、あいつは臆病だから、それほど馬鹿な真似はしないさ」
と、一笑にふしたが、私の脳裏に不安が浮かんでいたのも事実だ。去年の安田講堂の攻防戦に河野が参加していた。その最後の時計台放送を私は思いだした。
われわれの闘いは勝利だった。
全国の学生・市民・労働者の皆さん、
われわれの闘いは決して終わったのではなく、
われわれにかわって闘う同志の諸君が、
再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、
一時、この放送を中止します。
この後、河野は赤軍派のどこかの組織に入ったと聞いている。そう考えを進めて行くと、いいようの無い不安が頭を過ぎった。
「僕の連絡先をそこら中にばらまいて呉れないか、そうすればきっと連絡して来る」
こう言って電話を置いた。春実は真っ先に由美子に教える筈だ。そうすれば確実に河野に連絡が行く。
由美子は看護学校を卒業してすぐ、河野を追って京都に行った。二年程同棲して、今は東京で看護婦をしている。意思の強い娘で、河野の事を諦めたとはとても思えない。
それにしても女の嗅覚は凄い。笑美子といい、晴実といい、よくも私を捜し当てたものだ。誰にも熱海の事を漏らした覚えなどまったく無かった。私は極度に社交性の欠けた男だったのだ。
晴実も又、私に「結婚するかも知れない」と言った女の一人だ、いや最初の女性だった。
そのくせ一生友人でいて欲しいと脅迫するのだ。勿論私は拒否したが、所詮無駄な抵抗だった。一ヶ月も連絡が途絶えると、必ず探し出して、あれこれと世話を焼く。
レティシァ(冒険者たちのヒロイン)は死んで、深海で永遠の眠りにつくのだが、晴実は寿司屋の女将に収まっていた。あれほど紛争に関わっていたのに、ケロリとして安全な所に退避する。これは非難しているのでは無く、ただただ羨ましだけなのだ。
河野は革命運動に人生を賭けてしまうし、私の方は、この時以来、社会のアウトサイダーに形果てて、未だに泥沼から這い出せずに藻掻いているのだから。
2016年12月2日 Gorou
どのくらい雨の熱海をほっつき歩いていたのだろうか。何度ニューフジヤに戻って笑美子に跪こうと思ったか知れない。到底出来ぬ相談だ。かといってねぐらに帰って忘れてしまう気にもなれず、ずぶ濡れになるほど彷徨っていたのだ。
ようやく雨が小降りになったので土産屋の軒先で雨宿りをした。
通りかかった綾香が私に蛇の目傘を差し掛けて呉れた。
「ずぶ濡れ! 一体どうしたの」
黙って蛇の目を綾香から奪い、相合い傘と洒落込んで歩いた。
小さな雑居ビルから黒メガネの男が出てきたので、近づいて挨拶をした。綾香に男を見せる為だ。
「先ほどはどうも・」
ジロリと私を見下ろして去って行く。海岸で見た印象よりかなり背が高かった。百七十五センチの私より最低十センチは高かった。すらりとした体に長い脚と手を持っていた。
その男の顔を、タクシーのライトが照らして呉れた。
綾香も見た筈だ、彼女だったら何者か知っているに違いない。
男に近寄っていたのはそれが目的だった。
「今の男知っています?」
「ええ」
少し後ろから綾香の声が聞こえてきた。
振り返ると綾香が雨の中で立っていた。
慌てて戻り、傘を差し掛け、
「すいません、気がつかなくて」
「あそこが私の家」
と、綾香が路地の先を指さした。
「傘持っていっても良いのよ」
「だいぶ小降りになったから平気です」
「だけど・・・」
私のずぶ濡れの全身を嘗め回す綾香。
「顔が真っ青。唇だって紫色になっているわ。部屋には誰かいるの?」
「いいえ」
「だったら、いっそ家にいらっしゃい」
実は、少し前から悪寒で身体の震えが止まらないのだ。それに黒メガネの男の事を聞き出したいので彼女の家に寄った。
綾香の家は「あやの屋」という名の置屋で、私たちが入って行くと若い芸子が四人、寝ぼけ眼を擦りながら出てきた。
「姐さん、お帰りなさい」
口々に挨拶をして、私をじろじろと遠慮のない目で眺め回す。
「お風呂沸いているわね」
「ハイ」
一番若そうな芸子が答えた。
風呂に入り、洗いざらしの下着に上下のトレーナーを着て、ようやく人心地を取り戻す事が出来た。皆強いナフタリンの匂いがした。
「そんなに熱は無いようね。本当は医者に行った方が良いのだけれど、夜中だから仕方が無いわね、とにかく暖かくして寝ていなくちゃ駄目よ」
「はい」
綾香の前では不思議と素直になれる。彼女には妙に惹かれてしまう魅力が有り、男が憧れてしまう、いかにも芸者という感じの女性だった。年上といっても、せいぜい五つか六つ、そんなに違わないかも知れない。これが女としての年季というものだ。
泊まって行けと頻りに薦めるが、女所帯に泊まる勇気が無いので帰らして貰った。
綾香は無言で真っ赤なジャンパーを差し出した。左袖と背中にスーパーマンのマークの入ったウインドブレーカーだ。「誰のだろう?」、チラリと頭を過ぎったが口に出さなかった。
歩いて十分と掛からないのにタクシーを呼んで呉れた。
部屋に帰るとどっと疲れが出て寝込んだ。
綾香の話によると、あの男は金田という名のやくざで、ノミ屋に海岸通のストリップ小屋と射的場の用心棒をしていると言う。五年ほど前に熱海に流れて来たというから、胡蝶一座のグランドホテル来歴よりも旧い。台湾から来た中国人だという。
その朝、私は昼過ぎまで起きあがる事が出来なかった。風邪をひいたようだ。
あやの屋の芸子が、洗濯された私の服と、粥の差し入れを持って来たのを機に、ようやく起きあがった。
私が粥を啜っていると、コズエとミズエがやって来た。
粥などを食べている私を見て、ミズエが心配をしてくれた。
「病気?」
「うん、風邪ひいたらしい。大したことはない」
「今朝、鬼太郎どうしていたの?」
と、口を尖らせるコズエ。
「私がいくら呼んでも出て来て呉れなかったじゃない」
多分、熱で魘されて気づかなかったのだ。
コズエにはいつも健一がついてくるから、この姉妹だけと話せる機会は滅多に無い。
そこで色々聞いて見た。
「胡蝶一座は何処を本拠にしているの?」
「島根だって先生が言っていたわ」
コズエが答えた。二人とも母親を先生と呼んでいたのだ。本拠とは名ばかりで、東北、北海道への巡業が殆どだという。
「いつから劇団やっていたのか知っている?」
「ずっと昔から、江戸時代からだって。ご先祖様は聖徳太子のパトロンだったそうよ」
秦の始皇帝の末と称した秦河勝の事だ。秦氏は新羅系とも、百済系とも、秦国の末裔とも云われている謎に包まれた氏族で、何れにしても渡来人であった事は確かだ。機織の技術を伝えたから日本では秦と称した。
秦氏の由来は諸説有るが、私が最も興味を惹いたのは、日本書紀に記された夕月君(ゆづきのきみ)と呼ばれた渡来人が秦氏の祖先だという伝承である。夕月君は伝説上の人物で実在は証明されていないが、秦氏の始祖であると伝わり、秦の始皇帝の末裔とも伝えられている。三世紀に渡来した夕月君とその民はキリスト教の一派、ローマ教会から破門されたネストリウスが建てた教派で、東洋では景教と呼ばれている民族だという学者もいる。
何故キリスト教と認識されなかったのだろう? イスラエルから迫害(破門故)を逃れてペルシャに渡り、マニ教やゾロアスター教と同化して中国に渡り、さらに仏教や道教(老子の教えとは全く別物)の影響を受けた為に、仏教の一宗派と見なされたからだと思われる。後年、弘法大師となった空海が唐に留学した時、当時長安にあった景教の本山太秦寺の僧侶と頻繁に交誼を温め、仏典を二人で訳した事まであった程だ。空海がキリスト教的な教えを真言密教に潜めたとまで云われている。
秦氏の始祖と伝わる秦の始皇帝そのものが、真の漢族だとは思われていない、少なからず西域人の血が混じっていたのは間違いない。秦国も秦の民も漢族から異人として認識されていた。
景教伝来の由来やルートには、最低後二つある。
一つは、西暦752年4月9日、東大寺の中庭で大仏開眼供養が行われました。一万人の僧侶と皇族・貴族が参加して行われた国際色豊かな大イベントでした。開眼師のインド僧菩提遷那を初め、ベトナム僧仏哲、ペルシャ僧ラームヤール等が参列していました。まさに華厳による光輝く太陽の帝国がこの世に出現したのです。このラームヤールこそ玄宗皇帝から李密翳(りみつい、因みに始皇帝は李性)という名を賜った景教の伝道師(宣教師では無い)で医者でした。彼は僧玄昉と共に聖武天皇の母藤原宮子の病(重度の躁鬱病と思われる)を治癒した事で知られる、恐らく玄昉は祈祷で、ラームヤールは薬を使用したと思われる。
その景教の伝道師で医者のラームヤールは二十年程日本に滞在したと伝わっている。
景教は中国からの伝来の他に、渤海国から日本海を経て北陸から東北地方に伝来したルートが考えられます。渤海人、特に靺鞨(まっかつ)族(満州人の祖先)は度々日本海を渡って大和朝廷に帰化しています。
天平18年(西暦746年)、千百人を越える渤海人(高句麗系朝鮮人)と鉄利人(鉄利府靺鞨族)が出羽に漂着して、大和朝廷から帰化を許されました。もしかしたら、この中に景教伝道師や景教信者がいたのかも知れません。ラームヤールと合流して新しい郷をみちのくの奥に開いたかも知れません。
青森の奥入瀬にキリストの墓が有るという村が有ります。昔戸来(ヘブライの意味か?)と言った新郷村です。
ゴルゴダで処刑されたのは弟のイキリスで、イエスキリストは日本に逃れ(伝説によれば帰って、ということになります。キリストは十二才から二十三才までを日本の越の国で過ごしたそうなのです)、天寿を全うして戸来郷に葬られたそうです。本当でしょうか? こんなものは墓を科学的に調査すれば、真贋は明らかになるのですが、ロマンとして残しておいても良いのかも知れません。
新郷村にこんな盆踊りが残っています。
ナニャドヤ~ラ~
ナニャドナサレ~ノ
ナニャドヤ~ラ~
神学博士・川守田英二氏はこの歌詞を古代ヘブライ語であるとし、次のように翻訳しています。
御前の聖名を褒め讃えん
汝の毛人を掃蕩して
御前の聖名を褒め讃えん
何を隠そう私の祖先はこの新郷村の出身なのだ。
幕末の風雲時、私の祖先は京に出て倒幕運動に身を投じ、維新後官に仕え、故郷のある青森県に官吏として登用された。その時に初めて大久保性を称した。
なんという因縁なのでしょうか? 私とミズエとコズエの祖先を遡ればユダヤ人の血が入っていたかも知れないのです。
「お父さんの事何か覚えているかい?」
この問は、かなり迷ってなかなか切り出せなかった。
慎重に言葉を選び、さり気なく尋ねた。
悲しそうに頭を振るミズエ。無理もない、二歳の時別れ別れになったのだから。
「お父さんは、あいしんなんとかの子孫だって言っていたわ」
コズエが少し覚えていた。
「あいしんなにだって?」
「ううん、覚えているのはあいしんだけ。黄金の事だって」
ああそうか、愛親覚羅、満州族が建てた清朝の王族の名だ。迫害と差別から逃れるために、いまでは満州族を名乗る者は殆どいないと言う。満州族の故地では、広隆寺の弥勒菩薩のような面影を持った女性がたくさんいるという。つまりミズエに似た女性が多いと言うことだ。ミズエが世界一と言って良いほどチャイナドレスが似合う道理が分かった。
清朝の子孫が台湾に逃れていても別に不思議は無い。だが、ラストエンペラー溥儀の弟溥磔の長女慧生が心中をした天城山の目の先で満州族の姉妹が流離っているのはとても不思議な気がした。興味深い事はもう一つ有った、慧生の心中相手大久保武道青年は私の縁者だ。
どうやら父親は死んだと聞かされていたらしいが、二人とも信じてはいないみたいだ。
父親への追慕の情はミズエの方に強く、コズエはその民族に興味が有るようだ。
その後、二人はそれぞれのお守り袋から、透き通るようなエメラルドグリーンの玉を取り出して見せてくれた。父親の形見の翡翠だという。指輪だと聞かされているそうだが、かなり大きく、環というより筒に近い。中指や人差し指ではすかすかで、すぐ落ちてしまう。親指でも良い位だ。
満州族が玉を貴んだ事は良く知られており、臨終に望んだ西太后が巨大な黒真珠を口に含んだと云う。指輪というより、何か宗教的な儀式に使ったのではないだろうか。後で調べてみようと思ったが、なかなかその機会が無く、ごく最近になって、ひょんな事からそれを知った。弓を射る時、親指に当てるといい、やはり宗教的な意味合いもあったらしい。
他人の事に興味を覚える事の無かった私が、これほどにも姉妹の父親に拘った理由が、今考えてみてもよく分からない。何か不思議な縁に挽かれていたのだろうか。あるいは、コズエの怨念が私にそれを強いたのかも知れない。
黒メガネの男が彼女たちの父親であったなら、父娘の名乗りを上げさせようとも思っていたが、正体がやくざだと分かった以上、むしろそれを阻止する側に廻らなければいけない。少なくとも、もう少し調べようと決意した。
その日、私はようやく三時頃ホテルに顔を出した。
舞台を暗くして、コズエを中心にした若者達が丸く座を造り、真ん中に蝋燭を立て、硬貨(東京オリンピック記念千円銀貨、日頃からコズエが大切にしていた)を皆が指で支えていた。つまりコックリ(狐狗狸) さんだ。以後も時々やっていたが、私は参加した事が無い。
コズエが仕切るコックリさんは、さぞかしスリルがあって、肝試しにはもってこいの筈だ。今になっては一度加わって見れば良かったと後悔しているが、当時としては、見栄と自尊心がそれを許さなかった。若者達といっても、一番上が健一の二十一で、後はせいぜい十二三から十七八までの子供達だったのだ。
準備が順調に進んでいたので、初日を明日に控えているというのに、やるべき事が殆ど無く、大部分をクラブの方ですごした。
夜の八時頃、まだ少し頭が痛むし、咳も出るので帰る事にした。
ロビーの前で東京の晴実からの電話に捕まった。
「河野君から連絡有る?」
「いや、全然」
河野と私と晴実の三人は大学時代の同級で、キャンパスではいつも一緒だった。ありきたりの青春の典型的なパターンだ。
「私の所もさっぱりだわ。年賀状の返事も来ないし、なんだか胸騒ぎがするの」
「その内、ひょっこり現れるさ」
『冒険者たち』という映画を見たことが有りますか? ロベルトエンリコ、そう『ふくろうの河』という短編名作を残したあの監督の作品で、主演がアランドロンとリノバンチェラ、ヒロインがジョアンナシムカスでした。映画の世界では古典的な青春映画の規範となった作品で、日本でも盗作まがいの作品がずいぶん制作されたものです。
私も河野も、私たち三人の関係をこの冒険者たちのようだと想っていた。『冒険者たち』と違ったのは、三人の後を晴実の妹由美子が纏わり付いて来た事だ。
高校生だった由美子は、美しい手と、キラキラと輝く目を持っていた。その輝く目で、姉の恋人もボーイフレンドも盗もうと狙っていたのかも知れない。現に望みは半ば適った。
最初の頃、晴実はほんの少しだけ私の方を好いてくれている様だったが、学園紛争の為、やがて逆転されてしまった。
大学二年の時、日本中が学園紛争の嵐の中に迷い込んだのだ。今考えると、まあ麻疹のようなものでしたが、当時は皆それなりに真剣だったのです。
晴実も又夢中になり、デモや集会に随分参加していた。私はいわゆるノンポリ学生で、左右いずれの陣営にも関係が無く、あらゆる紛争・闘争に関わらない様にしていた。その事で随分、晴実に詰られ、軽蔑された。
私には、芸術学部で演劇を学ぶ学生が、なぜ闘争や紛争の形で参加しなくてはならないのか、よく理解出来なかった。人それぞれの立場や信念で社会の不正や矛盾と戦い、警鐘し、啓蒙するべきだと信じていた。まがりなりにも劇作家を目指していた以上、作品を通して訴えたかったのだ。
誰にも悟られぬようにしていたが、その頃の私は、体育会系の学生よりもナショナリストで、また反面、密かにサルトルを読み、ポールニザンの『アデンアラビア』を愛読書としていたので、体制側から見れば、充分に左翼学生の資格をもっていたと言える。
九州の福岡から上京して来た河野は、あっという間に紛争に染まっていった。最初は晴実に誘われてデモに参加したようだが、一年もすると学部の幹部になっており、やがて活動を全国規模にまで広げていった。
晴実の気持ちが河野の方に傾いていったのは、このせいだと私は思っている。
いや、もう一つ有る。私は大学二年の冬、唯一の身寄りの母を癌で失っていた。一人で食べてゆかなければならない、大学を中退したのは言うまでも無い。金のためだけでは決して無い、大学の価値そのものに嫌疑を持っていた。母が生きていても、やはり私は退学したに違いない。
「いやな噂が流れているの、何かとんでもない事を計画しているようなの」
まさか革命を本気でやろう等と計画している分けでも有るまい。
「大丈夫、あいつは臆病だから、それほど馬鹿な真似はしないさ」
と、一笑にふしたが、私の脳裏に不安が浮かんでいたのも事実だ。去年の安田講堂の攻防戦に河野が参加していた。その最後の時計台放送を私は思いだした。
われわれの闘いは勝利だった。
全国の学生・市民・労働者の皆さん、
われわれの闘いは決して終わったのではなく、
われわれにかわって闘う同志の諸君が、
再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、
一時、この放送を中止します。
この後、河野は赤軍派のどこかの組織に入ったと聞いている。そう考えを進めて行くと、いいようの無い不安が頭を過ぎった。
「僕の連絡先をそこら中にばらまいて呉れないか、そうすればきっと連絡して来る」
こう言って電話を置いた。春実は真っ先に由美子に教える筈だ。そうすれば確実に河野に連絡が行く。
由美子は看護学校を卒業してすぐ、河野を追って京都に行った。二年程同棲して、今は東京で看護婦をしている。意思の強い娘で、河野の事を諦めたとはとても思えない。
それにしても女の嗅覚は凄い。笑美子といい、晴実といい、よくも私を捜し当てたものだ。誰にも熱海の事を漏らした覚えなどまったく無かった。私は極度に社交性の欠けた男だったのだ。
晴実も又、私に「結婚するかも知れない」と言った女の一人だ、いや最初の女性だった。
そのくせ一生友人でいて欲しいと脅迫するのだ。勿論私は拒否したが、所詮無駄な抵抗だった。一ヶ月も連絡が途絶えると、必ず探し出して、あれこれと世話を焼く。
レティシァ(冒険者たちのヒロイン)は死んで、深海で永遠の眠りにつくのだが、晴実は寿司屋の女将に収まっていた。あれほど紛争に関わっていたのに、ケロリとして安全な所に退避する。これは非難しているのでは無く、ただただ羨ましだけなのだ。
河野は革命運動に人生を賭けてしまうし、私の方は、この時以来、社会のアウトサイダーに形果てて、未だに泥沼から這い出せずに藻掻いているのだから。
2016年12月2日 Gorou