十三 サナアの遊撃手
三月八日。日曜日。 朝から私の病室は見舞客で賑わった。
夜が明けると直ぐ、窓外の木でコズエがニコニコと手を振っている。病室は二階だから、コズエはかなり高い木によじ登っていたのだ。
コズエの口が開いた。二重サッシの窓で聞こえぬ筈が、
「お早う。・・・」
時計を見るとまだ五時半、まさにお早く御座った。
「生きていて良かったわね。敵は私が取ってアゲル」
なぜかハッキリ聞こえた。「ミズエも来ているわ」
窓辺に寄って、木の下を見た。
木陰に佇むミズエは目を潤ませていたが、私の姿を見とめると、とびきり麗しく微笑んで呉れた。
正式な見舞客としての一番乗りが吉之輔だったのには驚いた。
「とんだ災難だったわね。あんな照明クビにすれば良いのよ」
座長の胡蝶と連れだって見舞いに来たのだ。この夫婦はいつ見ても可笑しい。女が夫で男が女房、虚構も現実も、全てがあべこべだった。
吉之輔が見舞いのリンゴをむいてくれたり、花を活けたりと、甲斐甲斐しく世話を焼く。聞くところに寄ると、今は豚のように太っているが、一昔前までは、女にしたいようないいオカマだったそうだ。その趣味のあった市村胡蝶の事だ、案外本気で吉之輔に惚れてしまったのかも知れない。
「お染の七役、評判は上々ですよ」
「ほんと、惚れ惚れしちゃうわ、玉三郎もマッツアオってところヨ」
まあまあ旨くいったようだ。
この日の吉之輔はとびきり上機嫌だった。私を殺さずに、タップリと脅しを掛ける事が出来たのだし、舞台も邪魔なしにノビノビとやれる。奴とて役者魂のかけら位は持っていたに違いない。
昼前にヒゲとスキンヘッドが現れた。
あれ以来、すっかり馴染みになってしまったのだ。熱海のような町では、案外これは便利だった。どんな情報だって手に入るだろう。
その内、吉之輔の事を聞き出してやろうと考えた。
「金田の兄貴が宜しくって。いまちょっとテンパッてるんで、暇になったら来るといっていました」
二人は、退屈だろうから麻雀卓を持って来ようかと聞いてくれた。
「メンバーなんて何時でも揃えます」
「役に立つサマ教えて下さいヨ」
こう見ると、ヒゲもスキンヘッドも気の良い若者なのだ。私より、二つか三つ年下にも見えた。
「アンタと打つなら、今がチャンス」
と、私の左腕を嘗め回してヒゲが言った。
何を愚かな、奴らの腕で私に勝てるはずがない。基本が出来ぬ前にイカサマに走る奴は一生負け続ける。平で打ったらその差は歴然だ。
麻雀は運七分。よく言われる事だが、確かに運が作用するギャンブルだ。一局一局の勝負は七分どころか九割がた運だ。それが半ちゃん単位、時間単位と、単位を増やせば増やすほど、運の要素が減じ、腕がモノを行って来る。少なくとも当時はそうだった。 最近は大分様子が変わった。全自動卓の登場と、インフレルールの為だ。しかし、全自動だからと安心してはいけません、機械には必ずクセが有る、それを利用すれば、有る程度の詰め込みは可能だ。それにガン牌を無くすのは不可能である。
イカサマで恐いのは、二の二の天和とか十四面返しなどの派手な技ではなく、トオシと呼ばれるコンビ技のイカサマなのだ。これは永久に無くならない。第一同じ卓に入っているとは限らないのだから始末が悪い、カベといって、観戦者がこの役をやる時も有る。私が壁際に座るのはこの為でも有る。
卓を持ち込もうと言う二人の提案にかなり私の気持ちが動いたが、結局実現しなかった。二日後に大部屋に移されたのだ。
午後から綾香が来てくれた。
「本当に事故だったの?」
「みたいですね、警察がちゃんと調べたというから確かです」
「ヤクザと警察なんて、裏で繋がっているのよ」
綾香は、金田たちの組織が私に脅しを掛けたのかと疑っているのだ。自分が金田の情報を私に漏らしたのを後悔しているのだ。「恨まれるような関係じゃ有りません。その果物篭も金田さんからのお見舞い」
金田の果物篭の乗っている、角のテーブルは見舞いの果物、菓子、花束などで一杯になっている。こんな事は私の人生で初めてだ、もっとも医者にかかったのも、入院したのも初めての経験だったが。
「だったら良いのだけど。だけど、あんまり深入りしちゃ駄目よ、やくざになんか関わり合いにならない方が良いに決まっているわ」
「熱海の梅を見にいけなくなったのが残念です」
私は意図的に話題を変えた。
「熱海の梅園見てないの?」
「ええ」
「でも梅はそろそろ時期はずれよ。もうすぐ桜の季節になってしまうわネ」
「桜もいいなあ。アパートの横の公園に桜の樹が何本か有った」
「四月になったら、お花見に行く?」
「連れてって呉れますか?」
微笑みながら頷く綾香。
「熱海にはあんまり桜の名所は無いけれど、蒲原にすてきな所が有るのよ」
「広重の蒲原夜の雪で有名な所でしょ? あんなに大雪の降る所なのですか?」
「雪が積もるのを見たこと無いわ。せいぜい三十年に一度位だそうよ。その代わり桜と桜海老は飛び切りの名物。御殿山の桜と桜海老の漁火、四郎さんに見せたい。本当に行きましょうね、四月の始め頃が両方とも一番良い季節なのよ」
なんだか、実の姉と弟の会話のようになって来た。御殿山の桜も桜海老の事も良く知っていたが、敢えて初めて聞いた振りをした。
ミズエとコズエと健一が入ってきたのを機に、綾香が帰った。
私はコズエに命を守ってくれたのかもしれない翡翠を返し、アパートの鍵を渡して入院中自由に使う様に言った。これで、吉之輔の悪さからミズエを避難させてくれるに違いない。
入院中、ミズエもコズエも毎日の様に来てくれたし、綾香も三日に一度位の割で来てくれたから、私の病院生活はなかなか快適だった。というより、人生最大の至福の時とさえ言えたかも知れない。私はこの時ほど、他人から心配して貰った事など無かった。吉之輔でさえ気持ち悪いほど優しく、あれは本当に事故だったのだと思ってしまう程だった。
入院中、退屈なので良くテレビを見た。私はあまりテレビが好きでなく、見てもスポーツか映画か音楽だけだったが、こうしてドラマを見てみると、結構面白いので少しテレビを見直した。大阪で万博が始まってからは、随分その情報が氾濫したのには少しうんざりとした。
経過は奇跡的なほど順調で、その日から十一日目に退院出来た。
三月十八日。水曜日、退院の日だ。
朝、病院に河野から電話が有った。遂に網に掛かったのだ。何かに怯え、酷く急っている。福岡から車で上京の途中で名古屋だという。熱海を通る積もりだから、どこかで会おうと言う。
どうせ人の目を忍ぶ生活をしているだろうから、私のアパートで三時に約束をした。
午後に退院。
三時を大分回ってから河野が尋ねてきた。
表の道路脇にワゴンが止まり、仲間を三人残して河野がアパートの階段を登ってくる。
二年ぶりの再会だ。その間に身体も締まり、精悍な闘志の風貌を完成させつつあった。思想と精神と環境が、これ程までに人の容貌に影響するものかと驚いた。
「ホントに久しぶりだな」
ジャンバーのポケットから取り出した缶ビールを私に投げる河野。
「晴実が心配していた。電話したのか?」
「まだだ」
「じゃあ、今電話しろよ」
電話器を河野の前に置いて言った。
「どうせ東京に行く。会うことだって出来る」
だから電話をしないと言うのか? 会う気など無いのが見えた。河野はそんな男だった。
いかにも旨そうに河野がビールを飲んだ。
「旨い!」
畳に思いっきり足を延ばし、壁に持たれて河野が言った。
「福岡をいつ出たのかい?」
「五日前だ。いろいろ寄るところがあったのでね」
「何しに行くのだ、東京に」
なんだか、デカが過激派に尋問するような具合になって来た。
「東京で何をしようが、お前に関係無い」
吐き捨てるように言った後黙った。
河野のような主義を持った男にとって、もはや私など親友では無いとでも言うのだろうか。
長く重苦しい沈黙が流れた。
「晴実をなぜ結婚させてしまった?」
沈黙に絶えかねて、河野が呟いた。
「晴実が泣いていた。お前は冷たい」
「俺が何を言おうと彼女は結婚したさ」
「晴実を詰ったことも聞いた。役者になる努力が出来ないなら、演劇学校なんかヤメロって言ったのだろう」
確かに言った。私は自分の事を棚に上げて、心で役者を夢見ていたくせに、演劇学科の評論コースで傷を癒す晴実を確かに詰った事があった。演劇を目指す若者が最初から評論家を目指すなど、私には理解出来なかったのだ。
「自分の才能に疑問をもっていたからこそ、晴実はお前にかけていた。自分の夢も何もかも」
そんなのは真の愛なんかじや無い! そう思ったが、口に出せなかった。ホントはそれほどハッキリとした確信があった分けでも無い。それも愛、これも愛、愛に形が決まっていない事も私には分かっていた。
「まあ、済んでしまったこともう良いさ。かえって晴実には良かったのかも知れない、お前のようなグウタラと手が切れたのだから。・・・だけど四郎。お前いつまでこんな生活続けるつもりだ」
「それこそお前に関係無いだろう。大きなお世話だ」
「貴様にはいくらでも出来る事があるだろう。やるべき事がある筈だ。四郎にしか出来ない事が有るだろうが」
そんなもの有るモノか。私は何をやっても無難にこなす、ただそれだけの男だ。命をこめるほどに、突き詰めて何事かを成す、そんな事の出来ない男だ、それは己が一番知っている。
「人を感動させるようなモノを書けよ。映画はもう駄目だ、映画作家になる夢なんか捨てろ。可能性がまったくゼロのものなんか夢じゃ無い」
だったら河野、君のやっている事に可能性が残っているとでも言うのか。彼ならきっとこう言う。「夢なんてヤワなものなんかじゃ無い。俺達の意志は誰かが継いで、日本が変わる日がきっと来る。明治維新のように」。それこそ甘い夢というものだ。私にはそう思えた。
「芝居をやれよ、お前を喜んで迎えてくれるアングラ、幾らでもあるだろう」
芝居は嫌だ。見るのは良いが、参加して行くのが煩わしいのだ。特に新劇とかアングラはいやだった。
「そんな事より、由美ちゃんをどうする気だ」
「彼女は二十二歳の立派な女性さ。俺やお前なんかよりよっぽど確りしている」
言われてみてハッと気がついた。私の中の由美子の映像は今でも高校生のままだ。考えてみれば私たちと二つしか年が違わないのだ。
「実は、俺」
そう言いかけて、河野はまた暫く黙った。
「言うまいと思っていたが。・・・日本を出ようと思っている。レバノンのゲリラが迎えて呉れる」
「アラブゲリラになるのか?」
「負けて逃げる分けじゃ無い。世界のいたるところで俺のような男を必要としている。ゲリラの訓練を受けて、・・・その後、ホントはイエメンに行きたい」
この一言は私を絶望させ、嫉妬を覚えさせた。河野はアデンに行って、サナアの遊撃手に成ろうと言うのだ。どうやら忘れているようだが、これは私のアイデアでこの夢を河野に話した事が有った。
ニザンのアデンアラビアに感動した私は、ニザンのようにアラビアの砂漠に行き、南イエメンの首都アデンと北イエメンの首都サナアの架け橋となり、サナアの遊撃手になりたい。夢のように焦がれたのだ。私はその時、ニザンがアデンに旅立ったのと同じ二十歳だった。
ニザンは激白する、
「僕は二十歳だった。それが人の一生で一番美しい年齢だなどと、誰にも言わせない。一歩足を踏み外せば、いっさいが若者を駄目にしてしまうのだ。恋愛も思想も、家族を失う事も、大人たちの仲間に入ることも、世の中で己が果たしている役割を知るのは辛いことだ」
私の二十歳は、誰もが青春だなどと思っても呉くれない程、怠惰で退屈な日々だった。半年も経たぬうちに、そんな夢は忘れ果ててしまった。
この時、世界の幾つかの国が二つに分かれる悲劇の中で足掻いていた。南北ベトナム、朝鮮半島、中国と台湾、そして南北イエメンも又そんな国だった。
河野を乗せたワゴンが、熱海の海岸通を東京に向かって走り去る。私は、夕闇に紛れて見えなくなるまでその姿を見続けた。
それが河野との永遠の別離になった。
河野、君はサナアの遊撃手となって、至福のアラビア、エデンの園を砂漠の中で実現出来るのだろうか? 見果てぬ夢に掛ける河野の後ろ姿が哀しくも眩しく見えた。
夜の十時半、私はクラブに顔を出した。
クラブの終わった後、綾香が退院祝いをしてくれると言い。ここで待ち合わせたのだ。
すでに綾香と健一が来ていた。
この夜の綾香は和服ではなくやわらかいラインのフレアの青いスカートをはいていた。
ステージではミズエが歌っていた。
♪赤く咲くのは けしの花
白く咲くのは 百合の花
どう咲きゃいいのさ この私
夢は夜開く
十五、十六、十七と
私の人生暗かった
過去はどんなに暗くとも
夢は夜開く
作詞:石坂まさを/作曲:曽根幸明
綾香がジルバのステップを教えてくれたが、チークの経験しかない私には難しくて、なかなかうまくいかない。
ミズエが歌い終わった後フロアに出て来た時、私は目を疑った。コズエとミズエは顔から下が全く同じ装いをしていたからだ。ハワイ風、いやメキシコ風といった方が良いかもしれない、向日葵色の裾が拡がったロングドレスを着ていた。二人が同じ服を着たのは初めて見た。
「変? かな」
ミズエが小首を傾げて聞いてきた。
「いや、素敵じゃないか、二人とも似合っている」
「私たち、顔から下は全く同じなのよ」
コズエが顔を真横にスエイさせてお道化て見せた。
ミズエの後を襲った岬小夜子とバンドが素敵なプレゼントをくれた。
ヘレンメリルの、クリフォードブラウンがフューチャリングされた、あの『ユードビーソーナイス フォーカムホームツー』を歌ってくれたのだ。
ジャズのスタンダードの中では、とても踊りやすい曲だ。
小夜子もバンドのメンバーも、生き生きと、張り切って演奏している。日頃の鬱憤を爆発させるかの如くの、彼らの実力からしたら信じられないような快演だった。
ミズエ、コズエ、健一を加えて、五人で、ジルバを踊った。皆直ぐステップを覚え、感心な程上手に踊る。私だけがどうしてもツィストになってしまった。
からかわれたりバカにされたりしたが、楽しい一時だし、忘れ得ぬダンスパーテイの夜になった。
岬小夜子がスローバラードを歌いだした。
♪お金なんかいらないわ
名誉なんて真平
このスローバラードで、わたしは綾香とチークを踊り。健一を相手に、コズエとミズエは、三人で器用に、やはりチークを踊っている。
♪酒浸りでもいい
浮気だったら許してあげる
むさぼるように抱き合って
二人は生きて行くの
「いつも着ていてくれるのね。有り難う」
私はこの日もあのスーパーマンのウインドブレーカーを着ていた。
「とても気に入っています。みんなが欲しがるので困ります」
「一着しか無くてご免なさい」
コズエが欲しがるので困っていたのは事実だ。私はこのジャンパーだけは誰にも譲る気など毛頭なかった。それが綾香に対する礼儀というものだ。
♪どうする事もできない
好きになってしまったの
言葉になんて出来ない あなたに夢中よ
素敵なあなた
言葉に残せれば どんなに楽かしら
キスしてちょうだい 抱きしめてくれるだけでいい
フランス語でもいい 中国語でいい
日本の言葉だってかまわない あなたが好き
バンドのリズム隊がいきなり弾けた。
ドラムが四肢を見事に操ってバンドを鼓舞する、ピアノが中腰で両手を鍵盤に叩き付け、ベースが魂を揺さぶるまでにリズムを刻み、小夜子の歌う素敵なあなた(作詞:J.Jacobs・英語詩:S.Cahn・S.Chaplin作曲:S.Secunda)がいきなりテンポアップした。
♪バイミー ベイスト ドュ シェン
プリーズ レット ミー エクスプレイン
コズエもミズエも健一も、まるで転換持ちのようにして四肢と体全体を震わせてバンドと小夜子とともにスウィングしている。いや、このホールにいる全てがスウィングしていた。
私と綾香さんだけがスウィングするジャズに戸惑い、抱き合ったままその場で立ち竦んだ。
「久しぶりに野球がやりたいなあ。草野球ぐらいなら、結構自信がある。綾香さん、見に来てくれますか?」
「必ず応援に行くわ」
綾香が私の胸に頬を埋め、首に廻した腕に力を込めた。
ほんの束の間でもいい、せめて私が熱海にいる間だけでも、綾香に淡い夢をプレゼントしよう。役者の経験が無くても、姉想いの弟を演じきる事ぐらい、私にも出来るはずだ。
綾香さんが私から三歩ほど下がって微笑んだ。
彼女はまるでフラメンコダンサーのように左手を顔の横に添え、右手を打ち付け、上体を軽く揺さぶった。
私も綾香さんに応えて、両手を激しく上下に叩いて体全体でスウィングして見せた。
綾香さんがクルクル回って私の方に近づいてくる、フレアが翻って腿の付け根までが眩しく煌めいた。
クラブの後。
座敷のはねた芸子が二人加わって、『あやの屋』で六人が私の退院祝いをしてくれた。
ケーキに二本の大きめのローソクが立っている。退院祝いにケーキというのは余り聞いた事が無い。それに私の歳は二十四だったから、大きめのローソク二本に、小さなローソクを四本たてるのが正式だ。などと考えを巡らしているうちに、綾香がローソクに灯をともし、部屋の電気を消した。
綾香は淡々としていたが、ローソクの灯りが揺らめく中で、二人の芸子は今にも泣き出しそうな顔をしている。瞳に涙を一杯溢れさせていた。
きっと、弟の誕生日か命日なのだ。多分、綾香の弟は二十歳の時死んだに違いない。
全員にシャンペンが行き渡るのを確認して、綾香が私に目で合図をした。
私が頬に膨らませた風をローソクに送ると、儚くも消えてゆく生命のように、その灯りが掻き消え、闇が訪れた。
「退院おめでとう!」
祝福の声を聞きながら、シャンペンを一気に飲み干した。高級な筈のシャンペンだったが、いやに塩辛く水っぽい味がした。
2016年12月4日 Gorou
三月八日。日曜日。 朝から私の病室は見舞客で賑わった。
夜が明けると直ぐ、窓外の木でコズエがニコニコと手を振っている。病室は二階だから、コズエはかなり高い木によじ登っていたのだ。
コズエの口が開いた。二重サッシの窓で聞こえぬ筈が、
「お早う。・・・」
時計を見るとまだ五時半、まさにお早く御座った。
「生きていて良かったわね。敵は私が取ってアゲル」
なぜかハッキリ聞こえた。「ミズエも来ているわ」
窓辺に寄って、木の下を見た。
木陰に佇むミズエは目を潤ませていたが、私の姿を見とめると、とびきり麗しく微笑んで呉れた。
正式な見舞客としての一番乗りが吉之輔だったのには驚いた。
「とんだ災難だったわね。あんな照明クビにすれば良いのよ」
座長の胡蝶と連れだって見舞いに来たのだ。この夫婦はいつ見ても可笑しい。女が夫で男が女房、虚構も現実も、全てがあべこべだった。
吉之輔が見舞いのリンゴをむいてくれたり、花を活けたりと、甲斐甲斐しく世話を焼く。聞くところに寄ると、今は豚のように太っているが、一昔前までは、女にしたいようないいオカマだったそうだ。その趣味のあった市村胡蝶の事だ、案外本気で吉之輔に惚れてしまったのかも知れない。
「お染の七役、評判は上々ですよ」
「ほんと、惚れ惚れしちゃうわ、玉三郎もマッツアオってところヨ」
まあまあ旨くいったようだ。
この日の吉之輔はとびきり上機嫌だった。私を殺さずに、タップリと脅しを掛ける事が出来たのだし、舞台も邪魔なしにノビノビとやれる。奴とて役者魂のかけら位は持っていたに違いない。
昼前にヒゲとスキンヘッドが現れた。
あれ以来、すっかり馴染みになってしまったのだ。熱海のような町では、案外これは便利だった。どんな情報だって手に入るだろう。
その内、吉之輔の事を聞き出してやろうと考えた。
「金田の兄貴が宜しくって。いまちょっとテンパッてるんで、暇になったら来るといっていました」
二人は、退屈だろうから麻雀卓を持って来ようかと聞いてくれた。
「メンバーなんて何時でも揃えます」
「役に立つサマ教えて下さいヨ」
こう見ると、ヒゲもスキンヘッドも気の良い若者なのだ。私より、二つか三つ年下にも見えた。
「アンタと打つなら、今がチャンス」
と、私の左腕を嘗め回してヒゲが言った。
何を愚かな、奴らの腕で私に勝てるはずがない。基本が出来ぬ前にイカサマに走る奴は一生負け続ける。平で打ったらその差は歴然だ。
麻雀は運七分。よく言われる事だが、確かに運が作用するギャンブルだ。一局一局の勝負は七分どころか九割がた運だ。それが半ちゃん単位、時間単位と、単位を増やせば増やすほど、運の要素が減じ、腕がモノを行って来る。少なくとも当時はそうだった。 最近は大分様子が変わった。全自動卓の登場と、インフレルールの為だ。しかし、全自動だからと安心してはいけません、機械には必ずクセが有る、それを利用すれば、有る程度の詰め込みは可能だ。それにガン牌を無くすのは不可能である。
イカサマで恐いのは、二の二の天和とか十四面返しなどの派手な技ではなく、トオシと呼ばれるコンビ技のイカサマなのだ。これは永久に無くならない。第一同じ卓に入っているとは限らないのだから始末が悪い、カベといって、観戦者がこの役をやる時も有る。私が壁際に座るのはこの為でも有る。
卓を持ち込もうと言う二人の提案にかなり私の気持ちが動いたが、結局実現しなかった。二日後に大部屋に移されたのだ。
午後から綾香が来てくれた。
「本当に事故だったの?」
「みたいですね、警察がちゃんと調べたというから確かです」
「ヤクザと警察なんて、裏で繋がっているのよ」
綾香は、金田たちの組織が私に脅しを掛けたのかと疑っているのだ。自分が金田の情報を私に漏らしたのを後悔しているのだ。「恨まれるような関係じゃ有りません。その果物篭も金田さんからのお見舞い」
金田の果物篭の乗っている、角のテーブルは見舞いの果物、菓子、花束などで一杯になっている。こんな事は私の人生で初めてだ、もっとも医者にかかったのも、入院したのも初めての経験だったが。
「だったら良いのだけど。だけど、あんまり深入りしちゃ駄目よ、やくざになんか関わり合いにならない方が良いに決まっているわ」
「熱海の梅を見にいけなくなったのが残念です」
私は意図的に話題を変えた。
「熱海の梅園見てないの?」
「ええ」
「でも梅はそろそろ時期はずれよ。もうすぐ桜の季節になってしまうわネ」
「桜もいいなあ。アパートの横の公園に桜の樹が何本か有った」
「四月になったら、お花見に行く?」
「連れてって呉れますか?」
微笑みながら頷く綾香。
「熱海にはあんまり桜の名所は無いけれど、蒲原にすてきな所が有るのよ」
「広重の蒲原夜の雪で有名な所でしょ? あんなに大雪の降る所なのですか?」
「雪が積もるのを見たこと無いわ。せいぜい三十年に一度位だそうよ。その代わり桜と桜海老は飛び切りの名物。御殿山の桜と桜海老の漁火、四郎さんに見せたい。本当に行きましょうね、四月の始め頃が両方とも一番良い季節なのよ」
なんだか、実の姉と弟の会話のようになって来た。御殿山の桜も桜海老の事も良く知っていたが、敢えて初めて聞いた振りをした。
ミズエとコズエと健一が入ってきたのを機に、綾香が帰った。
私はコズエに命を守ってくれたのかもしれない翡翠を返し、アパートの鍵を渡して入院中自由に使う様に言った。これで、吉之輔の悪さからミズエを避難させてくれるに違いない。
入院中、ミズエもコズエも毎日の様に来てくれたし、綾香も三日に一度位の割で来てくれたから、私の病院生活はなかなか快適だった。というより、人生最大の至福の時とさえ言えたかも知れない。私はこの時ほど、他人から心配して貰った事など無かった。吉之輔でさえ気持ち悪いほど優しく、あれは本当に事故だったのだと思ってしまう程だった。
入院中、退屈なので良くテレビを見た。私はあまりテレビが好きでなく、見てもスポーツか映画か音楽だけだったが、こうしてドラマを見てみると、結構面白いので少しテレビを見直した。大阪で万博が始まってからは、随分その情報が氾濫したのには少しうんざりとした。
経過は奇跡的なほど順調で、その日から十一日目に退院出来た。
三月十八日。水曜日、退院の日だ。
朝、病院に河野から電話が有った。遂に網に掛かったのだ。何かに怯え、酷く急っている。福岡から車で上京の途中で名古屋だという。熱海を通る積もりだから、どこかで会おうと言う。
どうせ人の目を忍ぶ生活をしているだろうから、私のアパートで三時に約束をした。
午後に退院。
三時を大分回ってから河野が尋ねてきた。
表の道路脇にワゴンが止まり、仲間を三人残して河野がアパートの階段を登ってくる。
二年ぶりの再会だ。その間に身体も締まり、精悍な闘志の風貌を完成させつつあった。思想と精神と環境が、これ程までに人の容貌に影響するものかと驚いた。
「ホントに久しぶりだな」
ジャンバーのポケットから取り出した缶ビールを私に投げる河野。
「晴実が心配していた。電話したのか?」
「まだだ」
「じゃあ、今電話しろよ」
電話器を河野の前に置いて言った。
「どうせ東京に行く。会うことだって出来る」
だから電話をしないと言うのか? 会う気など無いのが見えた。河野はそんな男だった。
いかにも旨そうに河野がビールを飲んだ。
「旨い!」
畳に思いっきり足を延ばし、壁に持たれて河野が言った。
「福岡をいつ出たのかい?」
「五日前だ。いろいろ寄るところがあったのでね」
「何しに行くのだ、東京に」
なんだか、デカが過激派に尋問するような具合になって来た。
「東京で何をしようが、お前に関係無い」
吐き捨てるように言った後黙った。
河野のような主義を持った男にとって、もはや私など親友では無いとでも言うのだろうか。
長く重苦しい沈黙が流れた。
「晴実をなぜ結婚させてしまった?」
沈黙に絶えかねて、河野が呟いた。
「晴実が泣いていた。お前は冷たい」
「俺が何を言おうと彼女は結婚したさ」
「晴実を詰ったことも聞いた。役者になる努力が出来ないなら、演劇学校なんかヤメロって言ったのだろう」
確かに言った。私は自分の事を棚に上げて、心で役者を夢見ていたくせに、演劇学科の評論コースで傷を癒す晴実を確かに詰った事があった。演劇を目指す若者が最初から評論家を目指すなど、私には理解出来なかったのだ。
「自分の才能に疑問をもっていたからこそ、晴実はお前にかけていた。自分の夢も何もかも」
そんなのは真の愛なんかじや無い! そう思ったが、口に出せなかった。ホントはそれほどハッキリとした確信があった分けでも無い。それも愛、これも愛、愛に形が決まっていない事も私には分かっていた。
「まあ、済んでしまったこともう良いさ。かえって晴実には良かったのかも知れない、お前のようなグウタラと手が切れたのだから。・・・だけど四郎。お前いつまでこんな生活続けるつもりだ」
「それこそお前に関係無いだろう。大きなお世話だ」
「貴様にはいくらでも出来る事があるだろう。やるべき事がある筈だ。四郎にしか出来ない事が有るだろうが」
そんなもの有るモノか。私は何をやっても無難にこなす、ただそれだけの男だ。命をこめるほどに、突き詰めて何事かを成す、そんな事の出来ない男だ、それは己が一番知っている。
「人を感動させるようなモノを書けよ。映画はもう駄目だ、映画作家になる夢なんか捨てろ。可能性がまったくゼロのものなんか夢じゃ無い」
だったら河野、君のやっている事に可能性が残っているとでも言うのか。彼ならきっとこう言う。「夢なんてヤワなものなんかじゃ無い。俺達の意志は誰かが継いで、日本が変わる日がきっと来る。明治維新のように」。それこそ甘い夢というものだ。私にはそう思えた。
「芝居をやれよ、お前を喜んで迎えてくれるアングラ、幾らでもあるだろう」
芝居は嫌だ。見るのは良いが、参加して行くのが煩わしいのだ。特に新劇とかアングラはいやだった。
「そんな事より、由美ちゃんをどうする気だ」
「彼女は二十二歳の立派な女性さ。俺やお前なんかよりよっぽど確りしている」
言われてみてハッと気がついた。私の中の由美子の映像は今でも高校生のままだ。考えてみれば私たちと二つしか年が違わないのだ。
「実は、俺」
そう言いかけて、河野はまた暫く黙った。
「言うまいと思っていたが。・・・日本を出ようと思っている。レバノンのゲリラが迎えて呉れる」
「アラブゲリラになるのか?」
「負けて逃げる分けじゃ無い。世界のいたるところで俺のような男を必要としている。ゲリラの訓練を受けて、・・・その後、ホントはイエメンに行きたい」
この一言は私を絶望させ、嫉妬を覚えさせた。河野はアデンに行って、サナアの遊撃手に成ろうと言うのだ。どうやら忘れているようだが、これは私のアイデアでこの夢を河野に話した事が有った。
ニザンのアデンアラビアに感動した私は、ニザンのようにアラビアの砂漠に行き、南イエメンの首都アデンと北イエメンの首都サナアの架け橋となり、サナアの遊撃手になりたい。夢のように焦がれたのだ。私はその時、ニザンがアデンに旅立ったのと同じ二十歳だった。
ニザンは激白する、
「僕は二十歳だった。それが人の一生で一番美しい年齢だなどと、誰にも言わせない。一歩足を踏み外せば、いっさいが若者を駄目にしてしまうのだ。恋愛も思想も、家族を失う事も、大人たちの仲間に入ることも、世の中で己が果たしている役割を知るのは辛いことだ」
私の二十歳は、誰もが青春だなどと思っても呉くれない程、怠惰で退屈な日々だった。半年も経たぬうちに、そんな夢は忘れ果ててしまった。
この時、世界の幾つかの国が二つに分かれる悲劇の中で足掻いていた。南北ベトナム、朝鮮半島、中国と台湾、そして南北イエメンも又そんな国だった。
河野を乗せたワゴンが、熱海の海岸通を東京に向かって走り去る。私は、夕闇に紛れて見えなくなるまでその姿を見続けた。
それが河野との永遠の別離になった。
河野、君はサナアの遊撃手となって、至福のアラビア、エデンの園を砂漠の中で実現出来るのだろうか? 見果てぬ夢に掛ける河野の後ろ姿が哀しくも眩しく見えた。
夜の十時半、私はクラブに顔を出した。
クラブの終わった後、綾香が退院祝いをしてくれると言い。ここで待ち合わせたのだ。
すでに綾香と健一が来ていた。
この夜の綾香は和服ではなくやわらかいラインのフレアの青いスカートをはいていた。
ステージではミズエが歌っていた。
♪赤く咲くのは けしの花
白く咲くのは 百合の花
どう咲きゃいいのさ この私
夢は夜開く
十五、十六、十七と
私の人生暗かった
過去はどんなに暗くとも
夢は夜開く
作詞:石坂まさを/作曲:曽根幸明
綾香がジルバのステップを教えてくれたが、チークの経験しかない私には難しくて、なかなかうまくいかない。
ミズエが歌い終わった後フロアに出て来た時、私は目を疑った。コズエとミズエは顔から下が全く同じ装いをしていたからだ。ハワイ風、いやメキシコ風といった方が良いかもしれない、向日葵色の裾が拡がったロングドレスを着ていた。二人が同じ服を着たのは初めて見た。
「変? かな」
ミズエが小首を傾げて聞いてきた。
「いや、素敵じゃないか、二人とも似合っている」
「私たち、顔から下は全く同じなのよ」
コズエが顔を真横にスエイさせてお道化て見せた。
ミズエの後を襲った岬小夜子とバンドが素敵なプレゼントをくれた。
ヘレンメリルの、クリフォードブラウンがフューチャリングされた、あの『ユードビーソーナイス フォーカムホームツー』を歌ってくれたのだ。
ジャズのスタンダードの中では、とても踊りやすい曲だ。
小夜子もバンドのメンバーも、生き生きと、張り切って演奏している。日頃の鬱憤を爆発させるかの如くの、彼らの実力からしたら信じられないような快演だった。
ミズエ、コズエ、健一を加えて、五人で、ジルバを踊った。皆直ぐステップを覚え、感心な程上手に踊る。私だけがどうしてもツィストになってしまった。
からかわれたりバカにされたりしたが、楽しい一時だし、忘れ得ぬダンスパーテイの夜になった。
岬小夜子がスローバラードを歌いだした。
♪お金なんかいらないわ
名誉なんて真平
このスローバラードで、わたしは綾香とチークを踊り。健一を相手に、コズエとミズエは、三人で器用に、やはりチークを踊っている。
♪酒浸りでもいい
浮気だったら許してあげる
むさぼるように抱き合って
二人は生きて行くの
「いつも着ていてくれるのね。有り難う」
私はこの日もあのスーパーマンのウインドブレーカーを着ていた。
「とても気に入っています。みんなが欲しがるので困ります」
「一着しか無くてご免なさい」
コズエが欲しがるので困っていたのは事実だ。私はこのジャンパーだけは誰にも譲る気など毛頭なかった。それが綾香に対する礼儀というものだ。
♪どうする事もできない
好きになってしまったの
言葉になんて出来ない あなたに夢中よ
素敵なあなた
言葉に残せれば どんなに楽かしら
キスしてちょうだい 抱きしめてくれるだけでいい
フランス語でもいい 中国語でいい
日本の言葉だってかまわない あなたが好き
バンドのリズム隊がいきなり弾けた。
ドラムが四肢を見事に操ってバンドを鼓舞する、ピアノが中腰で両手を鍵盤に叩き付け、ベースが魂を揺さぶるまでにリズムを刻み、小夜子の歌う素敵なあなた(作詞:J.Jacobs・英語詩:S.Cahn・S.Chaplin作曲:S.Secunda)がいきなりテンポアップした。
♪バイミー ベイスト ドュ シェン
プリーズ レット ミー エクスプレイン
コズエもミズエも健一も、まるで転換持ちのようにして四肢と体全体を震わせてバンドと小夜子とともにスウィングしている。いや、このホールにいる全てがスウィングしていた。
私と綾香さんだけがスウィングするジャズに戸惑い、抱き合ったままその場で立ち竦んだ。
「久しぶりに野球がやりたいなあ。草野球ぐらいなら、結構自信がある。綾香さん、見に来てくれますか?」
「必ず応援に行くわ」
綾香が私の胸に頬を埋め、首に廻した腕に力を込めた。
ほんの束の間でもいい、せめて私が熱海にいる間だけでも、綾香に淡い夢をプレゼントしよう。役者の経験が無くても、姉想いの弟を演じきる事ぐらい、私にも出来るはずだ。
綾香さんが私から三歩ほど下がって微笑んだ。
彼女はまるでフラメンコダンサーのように左手を顔の横に添え、右手を打ち付け、上体を軽く揺さぶった。
私も綾香さんに応えて、両手を激しく上下に叩いて体全体でスウィングして見せた。
綾香さんがクルクル回って私の方に近づいてくる、フレアが翻って腿の付け根までが眩しく煌めいた。
クラブの後。
座敷のはねた芸子が二人加わって、『あやの屋』で六人が私の退院祝いをしてくれた。
ケーキに二本の大きめのローソクが立っている。退院祝いにケーキというのは余り聞いた事が無い。それに私の歳は二十四だったから、大きめのローソク二本に、小さなローソクを四本たてるのが正式だ。などと考えを巡らしているうちに、綾香がローソクに灯をともし、部屋の電気を消した。
綾香は淡々としていたが、ローソクの灯りが揺らめく中で、二人の芸子は今にも泣き出しそうな顔をしている。瞳に涙を一杯溢れさせていた。
きっと、弟の誕生日か命日なのだ。多分、綾香の弟は二十歳の時死んだに違いない。
全員にシャンペンが行き渡るのを確認して、綾香が私に目で合図をした。
私が頬に膨らませた風をローソクに送ると、儚くも消えてゆく生命のように、その灯りが掻き消え、闇が訪れた。
「退院おめでとう!」
祝福の声を聞きながら、シャンペンを一気に飲み干した。高級な筈のシャンペンだったが、いやに塩辛く水っぽい味がした。
2016年12月4日 Gorou