僕とジョンは大の親友だった。その関係は完璧なまでの信頼と愛情で満ちていた。
僕たちは運命的な出会いをした。
1940年代の後半だったと思う。僕が三歳の時だった。
僕は金沢の大丸デパートの屋上に座り込んでストライキをしていた。そんな僕を、彼は小首をかしげて見詰めていた。
「絶対に彼がいい!」
僕は母と八つ違いの兄を睨んだ。
「いつも、僕だけが損をしている。たまには、僕の言う事を聞いてよ!」
僕は堅い決意を込めて母と兄を睨み続けた。思いがけずに涙が溢れ、遂にこぼれてしまった。
少し僕から離れた母と兄がひそひそと話し始めた。
「こまったわね、いつもは聞き分けのいい子なんだけど」
「あいつは狡猾なんだ、どうやれば同情が引けるか、ちゃんと計算してるんだよ」
こうかつって何なんだ! どうせ悪口に決まってる。
兄と僕は折り合いが悪かった、僕は兄が嫌いだったし、兄だって嫌っていたに違いない。
「雑種だけど、結構大きいし、躾けも完全だそうよ」
「あの雑種は三歳の成犬で、こっちのシェパードはまだ三ヶ月の子供だから小さいのは当たり前じゃないか」
彼は、母と兄が何の話をしているか、どうやら分かっていたようだ。僕だけを見ていた視線を母に向けた。
そして、必殺の微笑みを浮かべ、
「ワン!」と、愛嬌に満ちたバリトンで一声鳴いた。
彼の微笑みと一声が効き目を現し、母をたらしこんだ。
「やはり、あっちの雑種にしましょう? 値段が十分の一よ」
「親父が犬を買う金送ってくれたじゃないか!」
「あなたが欲しがっていた望遠鏡だって買えるじゃないの」
兄は膨れっ面をしてそっぽを向いた。
「そのうち、もう一匹飼えばいいじゃない」
こうして、彼は僕の家に来た。
名前を何にするかで、また兄と揉めた。
「シロにしようよ」
僕の提案を兄は頑固として拒んだ。
「ちっとも白く無いだろう」
たしかに白く無かった、黒っぽい茶色だった。
「ジョンだ、絶対にジョンだ、俺はシェパードの名前をジョンに決めていた。だから、あの雑種にはシェパードのような、番犬としての役目をきっちりやって貰うからな」
ジョン? 兄はジョン・ウエイン のファンだった、きっとだからだ。
これが僕とジョンの友情のなれそめだ。
彼は完璧に近かった。人には優しかった、もちろん、知っている人だけだが、犬には厳しかった、彼に挑みかかった者は、徹底的に痛めつけて、子分にしてしまう。彼がここら一帯のボスになるのに三ヶ月と掛からなかった。
見知らぬ人を見たときは、まず、僕か母の顔を伺った。そして安全だと確認が取れると、得意の必殺の微笑みを浮かべて尾を振る。だれもが、それでたらし込まれた。
僕たちの顔色から怪しいと判断すると、大きな口を開けてキバを剥き、威嚇した。だから、僕の家には押し売りなんかは出入りしなかった。
金沢の犀川の近くにあった僕の家では、母と兄、そして老年のお手伝いさんが暮らしていたが、兄とそのお手伝いさんはジョンから無視された。僕の命令には絶対服従だったし、母にも一目を置いていた。
犬の出来る芸、お手でも、お座りでも、待てでも、何でも出来た。いや、どう考えても、人の言葉を理解していたようだ。
嘘だろうって! きっと思ってるよね。だけど、これからする話で少しは納得して貰えると思うよ。
何人かが集まって(もちろん、その内の一人は僕さ)、・・・
「ジョンって、雑種だけどキリリとしていてかっこいいわね」
「頭良いし、番犬としても最高」
なんて話をしていると、近くに寝そべって、嬉しそうな顔をして、時々尾を振ったりするんだ。だけど、・・・
「奥様、ジョンったら、どうやら小さい坊っちゃんの布団に時々潜り込んでいるようですのよ。布団が毛だらけで、そりぁもう大変なんですよ」 こんな具合に雲行きが怪しくなると、項垂れて、こそこそと逃げ出すんだ。
僕も彼も、完全犯罪だと思い込んでいたけれど、ばれていたなんてちっとも思わなかった。
彼は庭の小屋で飼われていて、座敷に上がることを厳しく禁じられていたのさ。だけど、三日に一度くらい、皆が寝静まった頃を見計らって、僕の部屋の雨戸をコツコツと叩くのさ、まるで人間がノックするようにね。
その音に気がついた僕が雨戸をそっと開けるんだ。それでも直ぐには部屋に足を踏み入れない。僕が雑巾を彼の前に置くと、前足を何度も丁寧に拭いて、前足だけを部屋に入れ、今度は後ろ足を拭くんだ。
拭き終わった彼は一目散に僕の布団に潜り込み、僕がそっと雨戸を閉め、二人で仲良く眠るのさ。
朝、誰も起きないうちに二人は起きて、僕は彼を庭に逃して、もう一寝して、わざと寝坊した振りをして食卓に着くんだ。完全犯罪の成立。僕も彼もそう思っていたのに。ばれていたなんて!?
母は、それでも彼を叱らなかった。現場を押さえない限り、知らぬ振りをしていた。もちろん、賢い彼が母の見ているところでヘマなんかする訳が無い。
彼は旅と冒険が趣味だった。
退屈をすると、二三ヶ月に一度の割に脱走するんだ。方法は様々で、あらゆる方法を使った。有るときは、庭の隅に脱出用の穴を何日もかけて掘った。だけど、大抵はもっと簡単な方法を使った。
勝手口の近くで身を潜めていて、御用聞きが入って来る瞬間、のろまなお手伝いさんの不意を突いて、疾風のように表に飛び出すんだ。
最初の脱走の時は、皆で随分心配したものさ。その頃は、犬殺し、僕らはそう呼んでいたが、今から考えると立派な公務員だったのだね。
犬殺しは、特大の網や、長い竿の先に鎖の輪を付けて、野良犬を捕まえるのさ。捕まった犬は大抵は殺されるって噂だった。だから、本当に心配したのさ。だけど、僕のジョンは、彼はのろまな犬殺しなんかに負けなかった。ここまでおいでと、逃げ回り、時には反撃に出て慌てさせるのさ。
彼は旅と冒険を楽しんで、二三日したら、けろっとした顔で帰って来て普段通りの生活に戻るんだ。だから、その内、彼が脱出しても誰も心配なんかしなくなった。僕と兄が寂しがっただけさ。言い忘れたけど、元々犬好きの兄と人好きのジョンとはとっくに仲直りをしていたのさ。
僕は幼稚園に入園した。あの頃、金沢にはそんなに沢山の幼稚園が無かった。だから、僕は路面電車、僕たちはチンチン電車って呼んでいたんだけど、その電車に乗って香林坊まで三十分かけて通ったんだ。
幼稚園に入って二ヶ月位起ったある日、いつもは楽しい幼稚園がちっとも面白く無かった。彼が又脱走して、心配で心配で 、たまらない程、気持ちが沈んでいたのさ。
授業が終わった僕は、本当にビックリした。彼が幼稚園の門で待っていたんだ。どうしてここが分かったんだろう?! 多分、偶然近くを彷徨っていて、僕の臭いをかぎつけたに違いない。僕はそう思った。
そういうわけで、この日は電車に乗らずに、彼と歩いて帰ったのさ。 母が少し心配していた。いつもより一時間以上も帰りが遅くなったからさ。母は彼の頭を撫でて、こう言い聞かせた。
「ジョン、貴方が一緒に帰ってくれると、安心出来るわ。だけど、こんな小さな子が毎日一時間半も歩くのはとても大変なのよ」
彼は、母を真摯な眼差しで、小首を傾げて聞いていたが、頭を上下に振って、まるで人間のように頷いたんだ。僕にはそうとしか見れなかった。
次の日も彼は門で待っていた。彼は昨日のような裏道、近道だったのだけれど、その裏道ではなく大通りを誘導して、停留所に座り込んだんだ。電車が来ると、僕のおしりを押して、乗るように促すんだ。仕方が無いから乗るんだけど、心配でたまらないんだ。彼がこのまま旅に出てしまうに違いないってね。
電車に乗った僕は、大きな大人達を掻き分けて一番後ろに行って、停留所を見た。やっぱり彼の姿はそこには無かった。
次の瞬間、僕は気がついたんだ。電車と平行して走る彼の姿に。彼は速かった、チンチンとちんたら走る電車なんかに負けなかった。余裕すら感じ、もっともっと速く走れるに違いない。
いつも通りの時間に帰った僕と彼を見た母は、彼の頭を撫でながらこう言った。
「本当にあなたはお利口さんね、こうやってこの子を守って呉れると、とっても安心。気が向いた時だけでいいから、この子を守ってあげて」 母の言葉に感激した彼は、毎日、なんと毎日僕の送り迎えをしてくれたんだ。ここで言う毎日は本当の毎日と違うんだ。考えても見たまえ、幼稚園は土曜日、日曜日、祝日と、結構休みが有る。ゴールデンウイークなんて、一週間とか十日とか続くよね、休みが。そんな時に彼は冒険の旅にでるのさ。でも、どうして彼が連休なんかの事を分かっていたのか、謎だよね、驚くべきミステリーさ。僕のホラだと思っているよね、無理も無いし、妥当な考えだね。でも本当なんだ、これは実話なのさ。
ある日、珍しくも笑顔をたたえた兄が僕を手招いた。
兄が笑顔を見せるときはろくな事がないんだ。だから、いやいや側に行ってやった。
「どうだい? ジョンにどんな犬でも出来ない芸を教えようよ」
「どんな?」
「買い物さ」
反対する理由もなかったので協力することにした。
まず少し大きめの籐篭の二つの取っ手に手ぬぐい巻くんだ。彼が咥えやすいようにね。
彼は中々言うことを聞いてくれなかった。僕たちは、何日もかけて根気よく教えましたが、駄目でした。仕舞いには篭を見ただけで一目散に逃げてしまうのです。
兄がまずさじを投げて地べたに座り込みました。
「やっぱり無理なのかなあ?」
兄はガッカリとして空を仰ぎました。
僕も兄の横に座り込んで悲しそうに溜息を付きました。
「彼なら出来ると思ったんだけどなあ」
「所詮は犬さ」
兄の暴言に、遠くから様子を伺っていた彼が気を悪くして耳を立てました。そして、そろりそろりと僕たちに近づいてきて、まず僕の顔をペロリとなめ、その後兄に向かってあの必殺の微笑みを浮かべました。
その後、彼はなんと自分から篭を咥え、胸を張ってお座りをしたのです。
「ヤッターッ!」
兄はガッツポーズをとって吠えていました。
僕は台所に走り込んで、母に賢明に訴えました。
「今日の買い物をメモしてよ!」
母は首を傾げて僕を、ちょっと驚いた風に見詰めました。
「今日の買い物は僕たち三人に行かせて! お願い!」
「三人?」
早速僕たち三人は買い物に出かけた。一番遠くの肉屋から始めた。
「これからは、このジョンが買い物に来るから、よろしく」
兄の言葉に肉屋のおじさんは少し驚いていた。
「いつものお手伝いさんは来ないのかい?」
「たいていはね。二三日は僕か弟が一緒だけど、後はジョンだけで来るからさ。・・・さあ、篭の中のメモに買う物が書いてあるから」
彼はちょっと緊張していたが、とても大人しく座っていた。
篭からメモを取り出した肉屋のおじさんは、手早く買い物をまとめて、篭の中に入れた。注文品はコロッケと豚肉だった。
「コロッケはいくつ?」
「五つだよ」
彼の分も入っている、僕は安心した。
大好物の匂いに彼は少し涎を垂らしたが、しっかりと篭の柄を噛んでいた。
「おじさん、ジョンだけで来ても、決して褒美のおやつなんか上げないでね」
「分かってますよ、お宅の犬は他人から絶対に食べ物を貰わない、って事は、ここらあたりの人は皆知ってます。・・・そうだ」
肉屋の親爺さんは骨を紙に包んで、マジックでジョン様って書いて篭に押し込んだ。
「そう言う時は、こんな具合にして入れとくからさ、家に帰ったら上げとくれ」
骨も又、彼の大好物だったから、ほっぺたが落ちるほど、満面笑顔で溢れさせた。
次が、八百屋、魚や、豆腐や、それから買い物に行く可能性の有る店を全部回ったんだ。
買い物から帰った時、母もお手伝いさんも眼を丸くして驚いていた。
「でも、大丈夫ですかね奥様、今日は坊っちゃん達が付いていたから心配いらないけど、一匹で買い物にやったら、コロッケも肉も魚も、みんな食べちまいますよ」
「ジョンに限ってあり得ない!」
「彼に限ってあり得ない!」
兄と僕は珍しくも一緒に叫んでいた。こんなに気を合わせるのは初めてだった。
「そうね、ジョンだったらきっと大丈夫。責任感半端じゃないから」
母も彼を信頼していた。
「だけど奥様、毎日こんなに買い物をしていたら破産してしまいます」
「確かだわ、せいぜい二三ですむわ。どうするつもり?」
母は兄と僕の顔を覗き込むようにして質問して来た。
「大丈夫」
僕は胸を張って答えた。
「買い物をする店の匂いの付いた物を何か嗅がせるのさ」
「ジョンだったら、それくらいの事、やれるかもね。だけど、しばらくはどちらかが一緒に行ってね」
「ハイ」
「ハイ」
又兄と僕の返事が重なった。これじゃ兄弟みたいじゃ無いか!
次の日、僕たち三人は買い物に出た。
家から少し離れたところで、兄と僕は立ち止まって、彼を促して一人で行かせた。
彼は意気揚々と早足で歩き出した。
兄と僕は少しだけ心配をして、そっと後を付けた。僕たちの心配は無用だった。彼は完璧に買い物を成し遂げた。一軒も間違わずにリクエストされた店だけで買い物をしたんだ。
彼は仕事に対して誇りを持ち、喜びに溢れていた。働く倖せに気づいたのさ。
彼は、買い物の褒美を貰ったが、いつものようにはしなかった。尻尾を振り、愛嬌を振りまくような事は少しもせずに、当然のように報酬をクールに受け取った。
それからの彼は人が変わったかのように働き出した。働かざる者食べるべからず。彼は実践した。それも誰かに命じられたからでなく、自分で仕事を見付けた、僕やお手伝いさんが重い荷物に手こずっていると必ず跳んできて手伝った。
僕の家には時々庭の手入れに植木屋が来るんだけど、高い木の上で作業をしていると、梯子をしっかりと支えるんだ。
それから、庭に放り込まれた新聞を持って来るのさ、僕とお手伝いさんには決して届けなかった。必ず兄の所に届けた。誰が新聞を読むかちゃんと知っていたのさ。母もあんまり新聞を読まなかったが、彼は時々母に届けた。母はあまり読む気のない新聞を受け取ると、彼はじっと見詰めるんだ。彼は心の中で「これからの女性は新聞くらい読まなくてはいけない」って言っているような気がした。
母が新聞を広げると、安心して、嬉しそうにその場を離れた。
彼には微笑みの他にもう一つの必殺技があった。その話をしよう。
ちょうどこの頃、彼が働く意欲を持ち始めた頃、家にもう一匹犬が増えた。母は兄との約束を守ったんだ。シェパードだと思うだろうけど、大外れ! 考えてもみなよ、彼が居る限り、シェパードのような番犬は必要じゃ無い。ポメラニアンという小型の座敷犬で、生後六ヶ月で家に来た。祖父にチャンピオン犬を持ち、立派な血統書が有った。ポメラニア・フォン・○▲□▽■●□△ってたいそうな名前を持っていたけど、僕には難しくて覚えられなかったから、ポチと呼ぶことにした。
親戚や近所の人達が、
「庭で飼う大型犬は、座敷で可愛がられる小型犬に焼き餅をやいて、いじめるそうですよ」って、母に余計な助言をしたんだ。もちろん、彼にそんな心配は無用さ。彼はポチを可愛がった、飼い主よりも彼に懐いてしまって困ったものさ。僕たちが油断すると、ポチは彼の小屋に潜り込むんだ。だけど、彼はポチを咥えて僕たちに届けるんだ。
彼から解き放たれたポチは、めげずにまた庭に出ようとすると、キバを剥いて威嚇をする。驚いたポチは僕や母の陰に隠れて、そっと様子を伺い、彼の機嫌が直った事を確かめる、また側によって甘えるんだ。
そんなポチの耳元で彼は囁きかける。犬言って有るのかなあ? それで、ポチは彼の言うことを聞いて、自分の寝床に潜り込んだ。
ポチが家に来て三ヶ月、とんでもない悲劇が僕の家を襲った。
ポチが彼の家出に付いていってしまったのだ。
彼が路を歩く時、決して真ん中を通りません。道路の交錯点では左右を用心深く確認してから渡りますし、信号が有れば赤信号では決して渡りません、青に変わっても更なる確認・用心を怠りません。安全を確信してから渡ります。
ポチにそんな芸当が出来るわけが有りません。何か興味を引かれる事が有ったのでしょう? ポチは赤信号で道路に飛び出してしまいました。車の急ブレーキが響き渡り、彼がポチを救うべく猛然とダッシュしたそうです。これは目撃者談なので確かな事です。
結果は悲劇でした。ポチは車にひかれて即死、助けようとした彼も重傷を負ってしまいました。全治一ヶ月の重傷でした。
僕は何が起こったのか良く理解出来ませんでした。ポチの死を悲しむよりも、彼の重傷の方により心が動かされました。母と僕が彼を見舞ったとき、決して眼を僕たちと合わせませんでした。彼の心はズタズタに傷ついていました、後悔と自責の稔で誇りを失いかけていました。それでも、彼の肉体は強靱で、驚異的な快復力を発揮しました。
なんと、十日ほどで我が家に帰って来ました。
彼のもう一つの必殺技を見せてくれたのはその時です。後足を突っ張り、頭を低く、地面に顎をついて体を支え、前足でなんと頭を抱えたのです。土下座をして見せたのです。皆驚いて、唖然としていました、次の瞬間、爆笑が起こってしまいました。
彼はとても気を落として、明らかに気を悪くしていました。プィと横を向いてその場から消えてしまいました。
こうして、僕と彼との友情の時はあっという間に過ぎました。
僕は小学校に入学しました。この頃にはもう兄は東京に一足先に出ていました。少しでも良い高校に、そして大学に入る為の受験勉強の為です。
東京郊外に建てられていた家が完成して、僕は一学期だけで、金沢の小学校を離れました。別れを告げたのはたった一人、もちろん女の子です。
「誰にも言ってないけれど、実は東京に移るんだ」
「そう、元気でね」
あっさりとした、さりげない別れでした。初恋というほどの気持ちは僕には有りませんでした。彼女にしてみれば、さして仲の良かったとは言えない同級性の転居です。簡単にジ・エンドです。
夏休みにはもう僕は東京で暮らしていました。二日後、悲しい知らせが届きました。彼が貨物用の檻から脱走したのです。
彼には帰るべき所は有りません。帰るとしたら、きっと金沢の犀川の側にあった、僕が幼年時代を彼と共に過ごしたあの家しか無いはずです。皆がそう思い、母の弟が暫く、彼が帰って来るまで、あの家で暮らすことにしました。
一週間、十日、一ヶ月経っても、彼は現れませんでした。
僕と母は彼の噂を良くしました。
「ジョンの事だから、あの微笑みで誰かをたらし込んでちゃんと生きているにちがいなくてよ」
母は良くそう言ってました。
そんな訳で、僕は寂しい夏休みを東京で過ごしました。僕には一人も友達が居ませんでした。何故かというと、僕は九月になって初めて、新しい小学校に転校するから、それまでは本当に独りぼっちでした。彼さえいてくれたらといつも思っていました。
九月になって新しい小学校に通うと、直ぐに何人か友達が出来ました。でも、友達の倍以上のいじめっこに出会いました。二学期から転校した生徒は、彼らにとって異邦人だったからです。チビだった僕は格好の獲物でしたが、僕は決して逃げませんでした。僕の彼(ジョン)が教えてくれたように勇敢に立ち向かいました。子供の喧嘩に勝ち負けなんて有りません、遊びの一環でしか無いのです。おかしな物で、その内僕を守ろうとする子も出て来ました。
僕はいつも泥んこになって遊び回っていました。
ところで、僕の新しい家の庭は四季折々の風情が楽しめるように造られていました。冬は赤と白の椿、椿の横に苔むした石灯篭があり。春が近くなると、梅が、巨大な苔で一杯の岩の割れ目から芽をだした、背の丈十五センチ程の梅が白い花を咲かせ。春が来ると、桜はありませんでしたが、ユキヤナギが五弁の白い花を咲き乱れさせます。ユキヤナギの花は桜よりもずっと白に近いんです。それからアケビの花なんかも咲きました。
僕が一番好きだった季節は秋でした、まずキンモクセイが満開になって強い芳香をまき散らします。
母の姉、つまり僕の伯母さんが家に来た時。
「なんていやな匂いなんだろう」と言って、少し顔を歪めました。
有る意味では、キンモクセイの香りは強烈でした。あの頃の日本の家は汲み取り式でしたよね、だから便所の近くにキンモクセイを植えたんです。それから、便所の芳香剤の香りもキンモクセイがモデルです。だからトイレの匂いとも言えるんです。
キンモクセイの少し後から、アケビやザクロが実り、ナナカマドが紅葉し、真っ赤な実を沢山付けます。小鳥が良くついばみに来ていたものです。僕は小鳥の真似をして、一度おそるおそる食べてみました。酸っぱいというより苦いと言った方が正しい味でした。それで、僕は滅多にナナカマドの赤い禁断の実を食べませんでした。
そう言えば、彼が(ずっと後の事ですが)時々食べていました、食べ過ぎでむかついていたのかも知れません。ナナカマドの実はいかにも胸焼けに効きそうな味でした。
僕の、東京で初めての夏はあっという間に過ぎて、キンモクセイの花が満開になって強い芳香を放つようになったある日。僕は家の前で信じられない事に出会いました。なんと僕のあの彼が座っていたのです。
僕たちは駆け寄って、抱き合い、じゃれ合いました。僕はもう有頂天でした。この信じられない話を吹聴しまくりました。みんな白けた顔をしました。その顔は言っていました。偶然彼と似た野良犬を見付けただけだってね。母以外は誰も信じませんでした。
最低あと二人は居るはずだって思っているよね。だけど、金沢のお手伝いさんは、かなり年だった事も有って、本当の家族の所に帰ったのさ。彼女の代わりに家政婦さんが通って来ました。金沢のお手伝いさんよりも一回りくらい年下だそうですが、僕には十分すぎるほどお婆さんに見えました。
兄はどうしたって? この話は余りしたくないんだけど、兄は二号さんの家で暮らしていたんだ。父と一緒に? いいえ、父はもう三号さんを囲って別の家に住んでいた。
妾を囲うのも男の甲斐性なんて言われた時代でした。母の親戚ですら、表だっては父を批判しませんでした。いろいろと父の世話になっていたからです。
僕はいやと言うほど喧嘩をした。
そんな時、必ず何処からか姿を現した。少し離れたところで見学を決め込んだ。だけど、僕の喧嘩相手は、最初は気味悪がったが、その内、彼がバットとかナイフ等を持ち出さない限り手出しをしないって分かり、喧嘩に集中するんだ。
武器を手にしたら、それはもう彼は恐ろしく怒って追い回して、結局武器を捨てさせるんだ。ジョンは正義の味方、西部劇の保安官だったのさ。
そんな分けで、彼が決して加勢をしてくれなかったわけで、僕は余り勝てなかった。だけど、ほとんど負けなかった。子供の喧嘩なんかは大抵はケリが付かなかったのさ。
母の話を少しさせて下さい。
網元の三女として生まれた母は、看護婦になると言って、半ば家出同然に東京に出てきました。
でも、母は看護婦になる勉強をしてはいましたが、看護婦に成りませんでした。ほんの気まぐれで受けたSKDに合格したからです。SKDって知らないよね。水の江瀧子とか淡島千景とか、知ってるわけ無いか?じゃあ賠償智恵子は? 少しは知ってる人いるよね。戦前は西の宝塚・東の松竹歌劇団(SKD)とか、踊る松竹・歌う宝塚なんて謳われた少女歌劇団だったんだ。だけど、母はそのSKDにも行かなかった。
カフェでアルバイトをしていたとき、不幸なことに父と出会ってしまったんだ。二人は同棲を始めました。母は父に騙され、利用されたんです。父は関西のいわゆる近江商人の長男として生まれ、大学生活の為に東京に出てきた。
父は勉強は出来た。かなり優秀だったそうだが、最悪の道楽息子でした。かなりの額の仕送りを受けていたけど、博打と酒と女が好きで、三日も持たずに使い切ってしまうんだ。後は母におんぶに抱っこ。母は洋裁・編み物とか、生け花の免許なんかも持っていて、カフェの女給の他にあれこれと内職をこなして、父を卒業させたんだ。言わば、母は父の恩人だよね。その恩人にあんな仕打ちをするなんて許せる訳が無いよね。
同棲を始めて一年後、長女が生まれたが、生まれて直ぐ死んだ。次が長男、生まれて直ぐ、今度は父の実家に取り上げられた。つまり、僕の叔父さんになる訳だ。二年後に兄が生まれた、次男なのに長男だった。今度は母は頑固に抵抗して、決して兄(次男)を手放さなかった。
大学を卒業した父は東京の三菱系の繊維会社に入社して、出世コースに乗った、って訳らしい。もう戦争は始まっていたけれど、父は徴兵を免れた。本人曰く、それだけ会社に大事にされ、徴兵猶予になった。ってね、だけど真相を僕は知ってる。父は貧弱な肉体とど近眼の為、いわゆる乙種合格だったのさ。
そんな父も敗戦間近赤紙が来て出征する事に成った。出征を間近に控えた日、ようやく婚姻届けを出し、母と兄は金沢に疎開し、終戦の一ヶ月ほど前に僕が、三男なのに次男が生まれたんだ。
父は戦地に着く前に終戦に成ったから、正確には戦争を体験していない。こんな事を言ってはいけないのかも知れないけど、戦死してしまえば良かったのにね。
父は戦後直ぐに帰国して、元の会社に収まって出世街道を驀進し、その会社始まって最も若い重役に成ったそうだ。ホンとかウソかは知らないけどね。
父は僕たちを六年もほったらかしにしていた、生活費は送ってくれたけどね。今度は母から受験期を迎えていた兄を取り上げた。僕が無事だったのは、落ちこぼれの出来損ないだったからさ。
僕の通信簿は殆どオール2だったんだ。言い分けをすると、僕の信念に関係していたんだ。僕は宿題をした事が一度も無い、他人から、たとえ先生と言えども、強いられた事なんか出来ないよね。だから、僕はいつも立たされていた。一度だけ、理科で3を貰った。授業で僕がみんなだったら小便と言うところを尿という言葉を使ったからさ。
毎年元旦の朝、父は兄を連れて家に来た。年中行事って分けさ。だから僕は元旦が嫌いだった。
父はお年玉を皆に渡した後、元旦の朝食が開かれる。お屠蘇で乾杯した後、腰を据えて飲み始めた父は、僕の説教を始めるんだ。
「お前なんか中学で終わりだ、高校には行くな、行ける高校なんて無い。丁稚に行け!」
僕が無視していると、色んな物がとんでくるんだ。箸や猪口や皿なんかね。父は酒乱だった。有る元旦、我慢の限界を超えた僕が父に飛びかかっていって大喧嘩さ。
元旦以外にも、年に一度位だったけど、家に来た。大抵はハイヤーで来たが、一度だけ歩いてきたんだ。そんな時に限って、僕は駅の方に歩いていた。前方に見たことの有る男が歩いていた。父だ、僕は路地を曲がって父との遭遇を避けようかとも思ったけど、しゃくだからそのまま真っ直ぐ歩き続けた。二人はすれ違ったが、お互いにそっぽをむいて、無視を決め込んだ。そんな父と息子が生涯関係を修復出来なかったのは言うまでも無い。
僕は中学生になった。義務教育だから仕方が無いよね。
キンモクセイの強い芳香が家の周りに満ちあふれ、ナナカマドが真っ赤な実を結んだ。そう、秋がやって来たのさ。
そんなある日、僕が大谷石の壁にボールをぶつけて、一人で野球を楽しんでいた。なぜ彼が側にいないのかって? 彼は重い病で寝込んでいたんだ。
遠くから、大学生と若い女性が近づいてきた。
僕はチラチラと観察しながら野球を続けた。
大学生は上着のボタンを上から二つ、無造作に外していた。学帽は油でテカテカに光っていた。
「こいつ、不良だな」
僕は見当を付けていた。若い女性は白のコートで、胸からスカーレットのスカーフが覗いていた。ちょっと変な組み合わせだけど、とても似合っていたし、不良の大学生には不釣り合いな、清楚な感じの美人だった。
二人は僕の近くで立ち止まって、中学生の一人キャッチボールを見ていた。
暫くすると、不良は僕の家を一渡り見回して、二歩程近づいてこう言った。
「お母さん、いるかい?」
まさかまさかの、二十二年振りの涙の再会だった。
母は、自分より大きい不良大学生を抱きかかえ、
「ごめんなさい、ごめんなさい」と言って、何度も何度も謝っていた。
側で正座していた彼女はポロポロと涙を流し続けていた。
叔父さん(兄)は、物心ついた頃には実母の存在に気がついていたそうだ。それで当然ぐれた。だけど、結局は世の中に負けて大学に入った、父がコネか金を使ったに違いない。
叔父さん(兄)は、社会人になったら母に会おうと堅く決意していたが、そんなに長く待てなかった。その時付き合っていた彼女を連れて駆け落ち行としゃれ込んだわけだ。
叔父(兄)さんは、結局暫く家に逗留した。
三日目の朝、叔父(兄)さんは朝から一人で出かけた。後から気づいたんだけど、父に呼び出されたに違いない。
昼過ぎから、母と彼女はベランダで長いこと話し込んでいた。
僕は広い庭で何となく遊んでいたんだけれども、ベランダから遠かったので話し声は聞き取れなかった。殆ど母が話して、彼女を説得し、励ましていたように見えた。母が封筒(お金が入っているに違いない)を取り出した時、突然風向きが変わり、声が聞き取れるようになった。
母はこんな事を言っていた。
「決して貴女を辱めようと思っていないわ。気を悪くしないでね」
母はその封筒を彼女に握らせようとしますが、彼女は受け取ろうとしません。
「手切れ金、なんてお願いだから思わないでね」
「それは分かっていますが、お母様、私受け取る訳には参りません」
「貴女の気持ち、私にはよく分かるわ。だけど貴女、帰りの汽車賃持っているの?」
彼女は唇を噛みしめて俯き、か細い声で言いました。
「それは、なんとかします。友達とか親戚に借ります」
「東京にいるの?」
彼女は頭を振りました。
母は再び彼女に封筒を握らせました。
「お金って、とっても汚らしい物よね。だけど使う人によって、使い方によって大切な物にもなるのよ」
彼女はようやく封筒を受け取れましたが、悲しさと悔しさで顔が歪んでいました。
暫くして、支度を調えた彼女が庭にでてはました。
彼女が門に向かって歩き出したので、僕は慌てて門柱を大きく開いて、旅立つ彼女の手助けをしました。
門前に佇む僕の前で彼女は立ち止まり、暫く僕を見詰めていました。彼女の顔にはもう涙が見えませんでした。
僕は何か言わなくてはいけないと思って、少し焦りました。その余り、変な事を言ってしまいました。
「また、遊びに来なよ」
彼女はプッと吹き出して、アハハと声を出して笑い飛ばした後、微笑んで呉れました。
「元気でね」
「うん、お姉さんもね」
「有り難う」
そう言った彼女は、駅の方に向かって歩き出しました。一歩、一歩をしっかりとした足どりで。
でも、直ぐ引き返して言いました。
「今日はとても寒いよね」
「ちっとも寒くないじゃないか」
「いいえ、絶対に今日は寒いわ」
彼女はスカーレットのスカーフを僕の首に巻いて、美しい手を差し出しました。
当然僕たちは握手をしました。彼女は冷たくて優しい手を持っていました。
踵を返した彼女は、凜々しくも毅然とした足取りで歩いて行きます。僕は初めて知りました。何事かを決意して旅立つ女性の姿、特に後ろ姿がとても素敵で美しい事をね。
旅立ちから三日ほど起ったある日、叔父さん(兄)と僕たちは居間でテレビを見ていました。巨人対西鉄の日本シリーズです。今日も稲生が投げていました。高校野球じゃ有るまいし、よくも毎試合出てくるものだ。僕は巨人ファンだったので忌々しい気持ちで稲生選手を見ていました。あろう事か、その稲生投手がサヨナラホームランを打ったのです。
西鉄ファンだった叔父さん(兄)は小躍りして喜んでいましたが、僕は意気消沈して、稲生ってまるで悪魔のような凄い選手だと思い知らされながら、彼が寝込んでいる部屋を目指しました。
彼の寝ている筈の部屋にその姿は有りませんでした。
皆大騒ぎをして探し回りました。僕はきっと歩けるようになったんだと楽観をしながら、彼が倒れた日の事を思い出しました。
彼は僕と遊んでいるとき、突然スローモーションのようにして倒れたんです。獣医の先生が来て、一室に寝かされた彼を診察しました。
「先生、治りますよね。何て病気なのですか?」
先生は渋滞を造って中々口を開きませんでした。
「奥さん、・・・病名を敢えて言えば、・・・老衰です」
「老衰?! このジョンは家に三歳で来て、まだ十年しか経っていませんのよ」
「犬にとって十三という年は十分に老衰してもおかしく有りません。それに、このジョン君は最低でも三歳は年をとっています。はっきり言って治る見込みは有りません。最後の時間を穏やかに過ごさせて、看取ってあげて下さい」
人生って皮肉だよね、あんなに憧れた座敷で死の間際に成って過ごせるなんて。彼はもう自力で立つことも出来ませんでしたし、ハアハアと息を弾ませていましたが、とても穏やかな顔をしていました。誰かしらが側に居てくれるのを喜んでいました。
彼がようやく見つかりました。縁の下の奥の暗がりで息を引き取っていました。誰もが、涙を堪えきれませんでした。どうやって?! あの体でこあんな所まで這って行ったのだろう。僕も誰もが思いました。
皆で相談して、生前走り回っていた庭に葬ろうという事に成り、親戚の一人が葬儀屋に走り、少し小さな棺を手に入れました。その間に残っていた大人たちが庭に大きな墓穴を掘りました。
棺に遺体を納めて墓穴に葬って、手頃な石を乗せて墓石としました。蝋燭を立て、線香を焚きました。家政婦さんが気を利かせて、皿に彼の好物を乗せて持ってきました。僕はアケビの熟れた実を捧げました。キンモクセイはいつもより強い芳香を放って哀悼の意を表し、ナナカマドは真っ赤になって悲しんでいました。この庭の住人は、皆彼と大の仲良しでした。誰かがお経を唱え始め、誰もが手を合わせて唱和しましたが、僕はお経を唱える事が出来ずに呆然とただ立っていました。
日が暮れて弱い氷雨が空から落ちてきました。それを潮に、大勢が家に入り、ベランダで彼の通夜を始めました。
ジョン有り難う、皆がそう言っているようです。
僕と母はまだ彼の墓碑の前に佇んでいました。
母はちょっと屈んで、いつものように彼の頭を撫でるがごとく、墓碑をやさしく撫でています。
「ジョン有り難う。今まで、この子と私を守って呉れて。気が向いたらで良いのよ、また私たちを守ってね」
ジョンは、優しく、強く勇敢だった、賢くて凜々しかった。いつも僕たち家族をなごませ、守って呉れた。
ジョン! 有り難う。
僕は当たりを憚らずに涙を流し続けました。一生で流す涙の半分はむこの時流しました。雨が強くなって、涙と雨粒との区別が付かなくなりました。
人は生まれた時、心は真っ白なんだ。育てられ方や、経験で少しずつ色がつくのさ。大切な人との別れで命の大切さを学ぶんだ。だから、僕は昆虫を虐めたり、野に咲く花を摘んだりしなくなった。
三ヶ月後、不思議な夢を見た。
夜明け前だったと思う。
僕は薄暗い大草原に立っていた。腰の高い草では無く、踝くらいの牧草だった。柵が延々と続き、その向こうに牛の群れが見えていた。
カウボーイハットの大男が立っていた。
僕が彼に近づくと、彼は振り返った。胸に銀に輝くバッチが光っていた。ワイアット・ワープかな? 彼はジョン・ウエインには似てなかった、むしろヘンリー・フォンダに少し似ていた。つまり、荒野の決闘のワイアップのように見えたって事さ。
「やあ、元気?」
「うん、元気だよ」
僕は聞き出したい事が山ほど有った。
「すこし、聞いても良い?」
「ああ、だけど夜明けが近いから、長い話は無理だよ」
僕は一番聞きたかった事だけを聞いた。
「どうしてすぐ東京に来てくれなかったの?」
「それは悪かったと反省している。君が東京に行ったって事はお見通しだった」
やはり彼には人間の言葉が分かっていたんだ。
「俺は、この機会に、少しのんびりと旅を楽しもうと思った。暑い夏が苦手だったから、北海道を目指した。富山、新潟と、本当に快適な旅が出来た。山形の山に差し掛かったとき、桃泥棒団を見付けて、やっつけてやったんだ。随分感謝されて、その農家に十日ほど厄介になつた。その時、突然心配事を思い出したんだ」
「何?」
「君のことさ。だから、山脈を越えて太平洋に出て、後は東京まで真っしぐらさ」
僕は賢明に頭の中に日本地図を描いて、彼の旅の走行距離を測っていたが、こんがらがって分からなくなったので、日数から距離を計算しなおした。約九十日、彼が一日に歩ける距離を三十キロに想定した。二万七千キロ、なんと三万キロも彼はこの旅で走破した事になる。
「君は九月の終わりに房総に行ったろ?」
確かに行った、遠足でね。
「あれは良い道しるべになった」
「凄い、凄すぎるよ! 三万キロにも成るんだ」
「俺の鼻は、三億倍も君たちより効くんだ。警察犬なんかで間抜けなのがいるよね、直接捜す相手の匂いを嗅いで、地べたを嗅ぎ回ってるよね。あれはど素人がやることだ。俺は空を漂う空気から情報を探るのさ」
彼は葉巻を咥えて火を付けた。あれっ! たばこは嫌いな筈だった。 案の定噎せた、彼はエヘンと咳払いをして胸を張った。
「君は俺のことをどう思っていたのかな?」
「それは、とても・・・」
彼は僕を手で制してこう言った。
「当ててみせる。自分の子供のように大切に思い、とても愛してくれた。本当は全く逆さ、俺は君を本当の我が子のように愛し、守ってきた、これからもそうする積もりさ。ああ、もう時間が余り残ってない。最後に君のお母さんに助言がある。あんな男とは速く別れた方が良い。考えてもみたまえ、東京に大きな家が三軒、それぞれ家族もいれば使用人もいる。いくら大会社の重役としても、おかしいよね、彼はきっと悪事に身を染めている。とばっちりを受けない先に分かれるのが賢明な選択だ」 僕は彼の言うとおりだと思った。
そこで目が覚めた。もう朝になって、日が差していた。
彼は、ジョンは僕の守護神だったんだ。
それから、僕の人生でいろいろ不思議な事が起きた。絶体絶命のピンチをなんとか切り抜けられるんだ。別に不思議じゃないよね、生きている限りどんなピンチも切り抜けたという事になる。そこで、僕は不思議な二つの話を披露する。
僕には変な癖があった。歩きながら考え事をする、考え事をしながら歩く。どっちでもいいか。信号持ちの交差点では必ず一番前の右端に構えて信号を待つんだ。青に変わるのを待ちきれずに真っ先に飛び出すんだ。時にはフライングをした。赤の内に路を渡ったりしたんだ。繁華街や人通りの多い場所では大事に至らないよね、ププーッとクランクをならされたり、罵声を浴びせられて、それだけで済んでしまう。だけど、人通りの少ない夜道なんかはやばいよね。
中学二年の時、夜道でやってしまったんだ、赤信号でフライングをね。 猛スピードで車が右折して来たんだ。激しい急ブレーキの音が僕の頭で木霊した。駄目だ、轢かれてしまう、僕は観念した。人はこんな時には全てがスローモーションで見えるんだ、経験している僕が言うんだから、確かな事さ。次の瞬間、何か黒い塊が僕に向かって突進して来たんだ。
僕は道ばたで立ち上がって学生服の汚れを払い、身繕いをただしていた。急停車した車から運転していた若い男が出てきた。これって結構勇気のいる行為だ、って少し感心していた僕に罵声を浴びせた。
「馬鹿野郎、コンチキ野郎、どこ見てやがるんだ!」
僕は男の剣幕にたじろいだ。
連れの女性が助けて呉れた。
「大丈夫? 怪我してない?」
「大丈夫です。こうみえても受け身がうまいんです」
僕は安全だったことを知らせる為に、体を激しく動かし、その場でジョギングをして見せた。
「念のため、病院行こうか?」
「一つも怪我なんかしていません」
「本当に大丈夫? あいつ運転が上手いから轢かれなかったけど、兎に角、信号を馬鹿にしてはいけないわ。気をつけてね」
僕は青白い顔で頷いた。
今度は、高校一年の秋だった。
僕は父の予言にもかかわらず、丁稚奉公じゃなく、高校、それも有名な私立高校に通っていた。
僕にとって、高校に行くというのは重要な問題じゃあ無かったんだけど、行かないのも癪にさわるよね。だから高校受験をした。都立高校と今通っている私立高校の二つを受けた。僕は都立は滑り止めだ。そう公言したが、内心私立の方が
少し自信が有った。理由は受験科目が三つしか無かった。問題の山なんか当たればどうにか成ると楽観していた。
大人達は皆鼻で笑っていました。特に父の親戚なんかは特にね。あいつ(父)なんか無駄無駄、丁稚先を見付けておくさ。と暴言していたそうです。無理も有りません、僕の通信簿は相変わらずオール2でしたから。だけど、友達は皆、受かると思っていたそうです。後からだったらどうにも言えるからね。
僕は都立に行こうと決断していた。母はジョンの助言を聞き入れて、離婚協議はとんとん拍子にすすんでいたから、授業料の安い方に行こうと決意したんです。
どこからその話が漏れたのか、父の使者、従弟だそうです。僕の家にやって来て、こう提案したのです。
「私立の方に通わせて下さい、授業料の心配はさせません」
母は黙って聞いていました。
「それから、あの高校に通えば、普通にやっていても東大に入れるでしょう。大学の経費は私が用立てさせて戴きます」
この話には、条件が有りました。彼は娘だけ三人も居ました。いずれがアヤメかカキツバタ。そのアヤメかカキツバタと許婚になって、形だけでいいから養子になれと言うのです。
もちろん、母は毅然として断りました。
「この子だけは私の手だけで育てて見せます」
みんな忘れていました。父を卒業させたのは、他ならぬ母だった事を。母は見かけの優しさでは想像出来ないくらい、強い女でした。
脱線した話を元に戻しましょう。
僕はいつものように考え事をしながら、繁華街の雑踏を歩いていました。突然、誰かと肩が触れあいました。
「馬鹿野郎! なめるんじゃねえ!」
アッという間に路地裏の奥に連れ込まれていました。四人のチンピラに取り囲まれていました。一人がナイフを構えました。
僕は鞄で胸を隠し、血路を捜しましたが、彼らの囲みに好きは有りませんでした。
僕は覚悟をきめ、鞄を下ろし、恐怖をようやく抑えて言いました。
「やるならやれよ! 刺すんだったら刺せば良い」
ちゃんと言葉になっていたか自信が有りません。僕の胸は爆発寸前でした。
その時、一人の大男が近づいて来て、チンピラのリーダー格に怒声を浴びせたのです。
「高校生を喝上げするなんて、みっともない事するんじゃねえ!」
ペコペコと頭を下げたチンピラが言い分けをします。
「だけど兄貴、この制服を着た高校生は結構金とか金目の物持ってるんです」
兄貴と呼ばれた男は、万札を二枚チンピラに渡しました。
「みんなで何か食え」
「いつもすいません、兄貴」
チンピラ達はこそこそと消えてしまいました。
その男は暫く立っていましたが、やがて去って行きました。
僕は、そろそろと用心深く通りに向かいました。
通りに出た僕は、当たりを見渡してまたビックリ。なんと男がまだそこに居るでは有りませんか。
男はヤクザとは思えない笑顔を顔中に浮かべ、少し屈んでこう言いました。
「坊や、今度チンピラとか不良に絡まれたら、一目散に逃げるんだ。足、速いんだろ?」
確かに、僕は足が速かった。だけど、どうしてこのヤクザが知っているんだ?
その男は雑踏の中に消えてしまいました。
僕は、あの笑顔どこかで見たことが有ると思いましたが、どうしても思い当たりませんでした。
利口な君たちの事だから、とっくに気づいていたよね。僕とジョンの話には、人の名前が一切出てきませんでしたよね。実話だから隠したのでは無く、忘れたのです、覚えていないのです。
人は、辛いことや悲しいこと、出会いと別れ、裏切ったり裏切られたりする毎に、何かを忘れてしまうのです。人は記憶をだんだん失って、死ぬ間際にフラッシュバックのように記憶が蘇る。良く言われていますが、本当なのかなあ?! 死んでも居ないのに分からないよね!
そんな訳で、僕は色んな記憶を失って行くのさ。その内、自分自身の名前も忘れてしまうに違いありません。
2016年12月6日 Gorou
僕たちは運命的な出会いをした。
1940年代の後半だったと思う。僕が三歳の時だった。
僕は金沢の大丸デパートの屋上に座り込んでストライキをしていた。そんな僕を、彼は小首をかしげて見詰めていた。
「絶対に彼がいい!」
僕は母と八つ違いの兄を睨んだ。
「いつも、僕だけが損をしている。たまには、僕の言う事を聞いてよ!」
僕は堅い決意を込めて母と兄を睨み続けた。思いがけずに涙が溢れ、遂にこぼれてしまった。
少し僕から離れた母と兄がひそひそと話し始めた。
「こまったわね、いつもは聞き分けのいい子なんだけど」
「あいつは狡猾なんだ、どうやれば同情が引けるか、ちゃんと計算してるんだよ」
こうかつって何なんだ! どうせ悪口に決まってる。
兄と僕は折り合いが悪かった、僕は兄が嫌いだったし、兄だって嫌っていたに違いない。
「雑種だけど、結構大きいし、躾けも完全だそうよ」
「あの雑種は三歳の成犬で、こっちのシェパードはまだ三ヶ月の子供だから小さいのは当たり前じゃないか」
彼は、母と兄が何の話をしているか、どうやら分かっていたようだ。僕だけを見ていた視線を母に向けた。
そして、必殺の微笑みを浮かべ、
「ワン!」と、愛嬌に満ちたバリトンで一声鳴いた。
彼の微笑みと一声が効き目を現し、母をたらしこんだ。
「やはり、あっちの雑種にしましょう? 値段が十分の一よ」
「親父が犬を買う金送ってくれたじゃないか!」
「あなたが欲しがっていた望遠鏡だって買えるじゃないの」
兄は膨れっ面をしてそっぽを向いた。
「そのうち、もう一匹飼えばいいじゃない」
こうして、彼は僕の家に来た。
名前を何にするかで、また兄と揉めた。
「シロにしようよ」
僕の提案を兄は頑固として拒んだ。
「ちっとも白く無いだろう」
たしかに白く無かった、黒っぽい茶色だった。
「ジョンだ、絶対にジョンだ、俺はシェパードの名前をジョンに決めていた。だから、あの雑種にはシェパードのような、番犬としての役目をきっちりやって貰うからな」
ジョン? 兄はジョン・ウエイン のファンだった、きっとだからだ。
これが僕とジョンの友情のなれそめだ。
彼は完璧に近かった。人には優しかった、もちろん、知っている人だけだが、犬には厳しかった、彼に挑みかかった者は、徹底的に痛めつけて、子分にしてしまう。彼がここら一帯のボスになるのに三ヶ月と掛からなかった。
見知らぬ人を見たときは、まず、僕か母の顔を伺った。そして安全だと確認が取れると、得意の必殺の微笑みを浮かべて尾を振る。だれもが、それでたらし込まれた。
僕たちの顔色から怪しいと判断すると、大きな口を開けてキバを剥き、威嚇した。だから、僕の家には押し売りなんかは出入りしなかった。
金沢の犀川の近くにあった僕の家では、母と兄、そして老年のお手伝いさんが暮らしていたが、兄とそのお手伝いさんはジョンから無視された。僕の命令には絶対服従だったし、母にも一目を置いていた。
犬の出来る芸、お手でも、お座りでも、待てでも、何でも出来た。いや、どう考えても、人の言葉を理解していたようだ。
嘘だろうって! きっと思ってるよね。だけど、これからする話で少しは納得して貰えると思うよ。
何人かが集まって(もちろん、その内の一人は僕さ)、・・・
「ジョンって、雑種だけどキリリとしていてかっこいいわね」
「頭良いし、番犬としても最高」
なんて話をしていると、近くに寝そべって、嬉しそうな顔をして、時々尾を振ったりするんだ。だけど、・・・
「奥様、ジョンったら、どうやら小さい坊っちゃんの布団に時々潜り込んでいるようですのよ。布団が毛だらけで、そりぁもう大変なんですよ」 こんな具合に雲行きが怪しくなると、項垂れて、こそこそと逃げ出すんだ。
僕も彼も、完全犯罪だと思い込んでいたけれど、ばれていたなんてちっとも思わなかった。
彼は庭の小屋で飼われていて、座敷に上がることを厳しく禁じられていたのさ。だけど、三日に一度くらい、皆が寝静まった頃を見計らって、僕の部屋の雨戸をコツコツと叩くのさ、まるで人間がノックするようにね。
その音に気がついた僕が雨戸をそっと開けるんだ。それでも直ぐには部屋に足を踏み入れない。僕が雑巾を彼の前に置くと、前足を何度も丁寧に拭いて、前足だけを部屋に入れ、今度は後ろ足を拭くんだ。
拭き終わった彼は一目散に僕の布団に潜り込み、僕がそっと雨戸を閉め、二人で仲良く眠るのさ。
朝、誰も起きないうちに二人は起きて、僕は彼を庭に逃して、もう一寝して、わざと寝坊した振りをして食卓に着くんだ。完全犯罪の成立。僕も彼もそう思っていたのに。ばれていたなんて!?
母は、それでも彼を叱らなかった。現場を押さえない限り、知らぬ振りをしていた。もちろん、賢い彼が母の見ているところでヘマなんかする訳が無い。
彼は旅と冒険が趣味だった。
退屈をすると、二三ヶ月に一度の割に脱走するんだ。方法は様々で、あらゆる方法を使った。有るときは、庭の隅に脱出用の穴を何日もかけて掘った。だけど、大抵はもっと簡単な方法を使った。
勝手口の近くで身を潜めていて、御用聞きが入って来る瞬間、のろまなお手伝いさんの不意を突いて、疾風のように表に飛び出すんだ。
最初の脱走の時は、皆で随分心配したものさ。その頃は、犬殺し、僕らはそう呼んでいたが、今から考えると立派な公務員だったのだね。
犬殺しは、特大の網や、長い竿の先に鎖の輪を付けて、野良犬を捕まえるのさ。捕まった犬は大抵は殺されるって噂だった。だから、本当に心配したのさ。だけど、僕のジョンは、彼はのろまな犬殺しなんかに負けなかった。ここまでおいでと、逃げ回り、時には反撃に出て慌てさせるのさ。
彼は旅と冒険を楽しんで、二三日したら、けろっとした顔で帰って来て普段通りの生活に戻るんだ。だから、その内、彼が脱出しても誰も心配なんかしなくなった。僕と兄が寂しがっただけさ。言い忘れたけど、元々犬好きの兄と人好きのジョンとはとっくに仲直りをしていたのさ。
僕は幼稚園に入園した。あの頃、金沢にはそんなに沢山の幼稚園が無かった。だから、僕は路面電車、僕たちはチンチン電車って呼んでいたんだけど、その電車に乗って香林坊まで三十分かけて通ったんだ。
幼稚園に入って二ヶ月位起ったある日、いつもは楽しい幼稚園がちっとも面白く無かった。彼が又脱走して、心配で心配で 、たまらない程、気持ちが沈んでいたのさ。
授業が終わった僕は、本当にビックリした。彼が幼稚園の門で待っていたんだ。どうしてここが分かったんだろう?! 多分、偶然近くを彷徨っていて、僕の臭いをかぎつけたに違いない。僕はそう思った。
そういうわけで、この日は電車に乗らずに、彼と歩いて帰ったのさ。 母が少し心配していた。いつもより一時間以上も帰りが遅くなったからさ。母は彼の頭を撫でて、こう言い聞かせた。
「ジョン、貴方が一緒に帰ってくれると、安心出来るわ。だけど、こんな小さな子が毎日一時間半も歩くのはとても大変なのよ」
彼は、母を真摯な眼差しで、小首を傾げて聞いていたが、頭を上下に振って、まるで人間のように頷いたんだ。僕にはそうとしか見れなかった。
次の日も彼は門で待っていた。彼は昨日のような裏道、近道だったのだけれど、その裏道ではなく大通りを誘導して、停留所に座り込んだんだ。電車が来ると、僕のおしりを押して、乗るように促すんだ。仕方が無いから乗るんだけど、心配でたまらないんだ。彼がこのまま旅に出てしまうに違いないってね。
電車に乗った僕は、大きな大人達を掻き分けて一番後ろに行って、停留所を見た。やっぱり彼の姿はそこには無かった。
次の瞬間、僕は気がついたんだ。電車と平行して走る彼の姿に。彼は速かった、チンチンとちんたら走る電車なんかに負けなかった。余裕すら感じ、もっともっと速く走れるに違いない。
いつも通りの時間に帰った僕と彼を見た母は、彼の頭を撫でながらこう言った。
「本当にあなたはお利口さんね、こうやってこの子を守って呉れると、とっても安心。気が向いた時だけでいいから、この子を守ってあげて」 母の言葉に感激した彼は、毎日、なんと毎日僕の送り迎えをしてくれたんだ。ここで言う毎日は本当の毎日と違うんだ。考えても見たまえ、幼稚園は土曜日、日曜日、祝日と、結構休みが有る。ゴールデンウイークなんて、一週間とか十日とか続くよね、休みが。そんな時に彼は冒険の旅にでるのさ。でも、どうして彼が連休なんかの事を分かっていたのか、謎だよね、驚くべきミステリーさ。僕のホラだと思っているよね、無理も無いし、妥当な考えだね。でも本当なんだ、これは実話なのさ。
ある日、珍しくも笑顔をたたえた兄が僕を手招いた。
兄が笑顔を見せるときはろくな事がないんだ。だから、いやいや側に行ってやった。
「どうだい? ジョンにどんな犬でも出来ない芸を教えようよ」
「どんな?」
「買い物さ」
反対する理由もなかったので協力することにした。
まず少し大きめの籐篭の二つの取っ手に手ぬぐい巻くんだ。彼が咥えやすいようにね。
彼は中々言うことを聞いてくれなかった。僕たちは、何日もかけて根気よく教えましたが、駄目でした。仕舞いには篭を見ただけで一目散に逃げてしまうのです。
兄がまずさじを投げて地べたに座り込みました。
「やっぱり無理なのかなあ?」
兄はガッカリとして空を仰ぎました。
僕も兄の横に座り込んで悲しそうに溜息を付きました。
「彼なら出来ると思ったんだけどなあ」
「所詮は犬さ」
兄の暴言に、遠くから様子を伺っていた彼が気を悪くして耳を立てました。そして、そろりそろりと僕たちに近づいてきて、まず僕の顔をペロリとなめ、その後兄に向かってあの必殺の微笑みを浮かべました。
その後、彼はなんと自分から篭を咥え、胸を張ってお座りをしたのです。
「ヤッターッ!」
兄はガッツポーズをとって吠えていました。
僕は台所に走り込んで、母に賢明に訴えました。
「今日の買い物をメモしてよ!」
母は首を傾げて僕を、ちょっと驚いた風に見詰めました。
「今日の買い物は僕たち三人に行かせて! お願い!」
「三人?」
早速僕たち三人は買い物に出かけた。一番遠くの肉屋から始めた。
「これからは、このジョンが買い物に来るから、よろしく」
兄の言葉に肉屋のおじさんは少し驚いていた。
「いつものお手伝いさんは来ないのかい?」
「たいていはね。二三日は僕か弟が一緒だけど、後はジョンだけで来るからさ。・・・さあ、篭の中のメモに買う物が書いてあるから」
彼はちょっと緊張していたが、とても大人しく座っていた。
篭からメモを取り出した肉屋のおじさんは、手早く買い物をまとめて、篭の中に入れた。注文品はコロッケと豚肉だった。
「コロッケはいくつ?」
「五つだよ」
彼の分も入っている、僕は安心した。
大好物の匂いに彼は少し涎を垂らしたが、しっかりと篭の柄を噛んでいた。
「おじさん、ジョンだけで来ても、決して褒美のおやつなんか上げないでね」
「分かってますよ、お宅の犬は他人から絶対に食べ物を貰わない、って事は、ここらあたりの人は皆知ってます。・・・そうだ」
肉屋の親爺さんは骨を紙に包んで、マジックでジョン様って書いて篭に押し込んだ。
「そう言う時は、こんな具合にして入れとくからさ、家に帰ったら上げとくれ」
骨も又、彼の大好物だったから、ほっぺたが落ちるほど、満面笑顔で溢れさせた。
次が、八百屋、魚や、豆腐や、それから買い物に行く可能性の有る店を全部回ったんだ。
買い物から帰った時、母もお手伝いさんも眼を丸くして驚いていた。
「でも、大丈夫ですかね奥様、今日は坊っちゃん達が付いていたから心配いらないけど、一匹で買い物にやったら、コロッケも肉も魚も、みんな食べちまいますよ」
「ジョンに限ってあり得ない!」
「彼に限ってあり得ない!」
兄と僕は珍しくも一緒に叫んでいた。こんなに気を合わせるのは初めてだった。
「そうね、ジョンだったらきっと大丈夫。責任感半端じゃないから」
母も彼を信頼していた。
「だけど奥様、毎日こんなに買い物をしていたら破産してしまいます」
「確かだわ、せいぜい二三ですむわ。どうするつもり?」
母は兄と僕の顔を覗き込むようにして質問して来た。
「大丈夫」
僕は胸を張って答えた。
「買い物をする店の匂いの付いた物を何か嗅がせるのさ」
「ジョンだったら、それくらいの事、やれるかもね。だけど、しばらくはどちらかが一緒に行ってね」
「ハイ」
「ハイ」
又兄と僕の返事が重なった。これじゃ兄弟みたいじゃ無いか!
次の日、僕たち三人は買い物に出た。
家から少し離れたところで、兄と僕は立ち止まって、彼を促して一人で行かせた。
彼は意気揚々と早足で歩き出した。
兄と僕は少しだけ心配をして、そっと後を付けた。僕たちの心配は無用だった。彼は完璧に買い物を成し遂げた。一軒も間違わずにリクエストされた店だけで買い物をしたんだ。
彼は仕事に対して誇りを持ち、喜びに溢れていた。働く倖せに気づいたのさ。
彼は、買い物の褒美を貰ったが、いつものようにはしなかった。尻尾を振り、愛嬌を振りまくような事は少しもせずに、当然のように報酬をクールに受け取った。
それからの彼は人が変わったかのように働き出した。働かざる者食べるべからず。彼は実践した。それも誰かに命じられたからでなく、自分で仕事を見付けた、僕やお手伝いさんが重い荷物に手こずっていると必ず跳んできて手伝った。
僕の家には時々庭の手入れに植木屋が来るんだけど、高い木の上で作業をしていると、梯子をしっかりと支えるんだ。
それから、庭に放り込まれた新聞を持って来るのさ、僕とお手伝いさんには決して届けなかった。必ず兄の所に届けた。誰が新聞を読むかちゃんと知っていたのさ。母もあんまり新聞を読まなかったが、彼は時々母に届けた。母はあまり読む気のない新聞を受け取ると、彼はじっと見詰めるんだ。彼は心の中で「これからの女性は新聞くらい読まなくてはいけない」って言っているような気がした。
母が新聞を広げると、安心して、嬉しそうにその場を離れた。
彼には微笑みの他にもう一つの必殺技があった。その話をしよう。
ちょうどこの頃、彼が働く意欲を持ち始めた頃、家にもう一匹犬が増えた。母は兄との約束を守ったんだ。シェパードだと思うだろうけど、大外れ! 考えてもみなよ、彼が居る限り、シェパードのような番犬は必要じゃ無い。ポメラニアンという小型の座敷犬で、生後六ヶ月で家に来た。祖父にチャンピオン犬を持ち、立派な血統書が有った。ポメラニア・フォン・○▲□▽■●□△ってたいそうな名前を持っていたけど、僕には難しくて覚えられなかったから、ポチと呼ぶことにした。
親戚や近所の人達が、
「庭で飼う大型犬は、座敷で可愛がられる小型犬に焼き餅をやいて、いじめるそうですよ」って、母に余計な助言をしたんだ。もちろん、彼にそんな心配は無用さ。彼はポチを可愛がった、飼い主よりも彼に懐いてしまって困ったものさ。僕たちが油断すると、ポチは彼の小屋に潜り込むんだ。だけど、彼はポチを咥えて僕たちに届けるんだ。
彼から解き放たれたポチは、めげずにまた庭に出ようとすると、キバを剥いて威嚇をする。驚いたポチは僕や母の陰に隠れて、そっと様子を伺い、彼の機嫌が直った事を確かめる、また側によって甘えるんだ。
そんなポチの耳元で彼は囁きかける。犬言って有るのかなあ? それで、ポチは彼の言うことを聞いて、自分の寝床に潜り込んだ。
ポチが家に来て三ヶ月、とんでもない悲劇が僕の家を襲った。
ポチが彼の家出に付いていってしまったのだ。
彼が路を歩く時、決して真ん中を通りません。道路の交錯点では左右を用心深く確認してから渡りますし、信号が有れば赤信号では決して渡りません、青に変わっても更なる確認・用心を怠りません。安全を確信してから渡ります。
ポチにそんな芸当が出来るわけが有りません。何か興味を引かれる事が有ったのでしょう? ポチは赤信号で道路に飛び出してしまいました。車の急ブレーキが響き渡り、彼がポチを救うべく猛然とダッシュしたそうです。これは目撃者談なので確かな事です。
結果は悲劇でした。ポチは車にひかれて即死、助けようとした彼も重傷を負ってしまいました。全治一ヶ月の重傷でした。
僕は何が起こったのか良く理解出来ませんでした。ポチの死を悲しむよりも、彼の重傷の方により心が動かされました。母と僕が彼を見舞ったとき、決して眼を僕たちと合わせませんでした。彼の心はズタズタに傷ついていました、後悔と自責の稔で誇りを失いかけていました。それでも、彼の肉体は強靱で、驚異的な快復力を発揮しました。
なんと、十日ほどで我が家に帰って来ました。
彼のもう一つの必殺技を見せてくれたのはその時です。後足を突っ張り、頭を低く、地面に顎をついて体を支え、前足でなんと頭を抱えたのです。土下座をして見せたのです。皆驚いて、唖然としていました、次の瞬間、爆笑が起こってしまいました。
彼はとても気を落として、明らかに気を悪くしていました。プィと横を向いてその場から消えてしまいました。
こうして、僕と彼との友情の時はあっという間に過ぎました。
僕は小学校に入学しました。この頃にはもう兄は東京に一足先に出ていました。少しでも良い高校に、そして大学に入る為の受験勉強の為です。
東京郊外に建てられていた家が完成して、僕は一学期だけで、金沢の小学校を離れました。別れを告げたのはたった一人、もちろん女の子です。
「誰にも言ってないけれど、実は東京に移るんだ」
「そう、元気でね」
あっさりとした、さりげない別れでした。初恋というほどの気持ちは僕には有りませんでした。彼女にしてみれば、さして仲の良かったとは言えない同級性の転居です。簡単にジ・エンドです。
夏休みにはもう僕は東京で暮らしていました。二日後、悲しい知らせが届きました。彼が貨物用の檻から脱走したのです。
彼には帰るべき所は有りません。帰るとしたら、きっと金沢の犀川の側にあった、僕が幼年時代を彼と共に過ごしたあの家しか無いはずです。皆がそう思い、母の弟が暫く、彼が帰って来るまで、あの家で暮らすことにしました。
一週間、十日、一ヶ月経っても、彼は現れませんでした。
僕と母は彼の噂を良くしました。
「ジョンの事だから、あの微笑みで誰かをたらし込んでちゃんと生きているにちがいなくてよ」
母は良くそう言ってました。
そんな訳で、僕は寂しい夏休みを東京で過ごしました。僕には一人も友達が居ませんでした。何故かというと、僕は九月になって初めて、新しい小学校に転校するから、それまでは本当に独りぼっちでした。彼さえいてくれたらといつも思っていました。
九月になって新しい小学校に通うと、直ぐに何人か友達が出来ました。でも、友達の倍以上のいじめっこに出会いました。二学期から転校した生徒は、彼らにとって異邦人だったからです。チビだった僕は格好の獲物でしたが、僕は決して逃げませんでした。僕の彼(ジョン)が教えてくれたように勇敢に立ち向かいました。子供の喧嘩に勝ち負けなんて有りません、遊びの一環でしか無いのです。おかしな物で、その内僕を守ろうとする子も出て来ました。
僕はいつも泥んこになって遊び回っていました。
ところで、僕の新しい家の庭は四季折々の風情が楽しめるように造られていました。冬は赤と白の椿、椿の横に苔むした石灯篭があり。春が近くなると、梅が、巨大な苔で一杯の岩の割れ目から芽をだした、背の丈十五センチ程の梅が白い花を咲かせ。春が来ると、桜はありませんでしたが、ユキヤナギが五弁の白い花を咲き乱れさせます。ユキヤナギの花は桜よりもずっと白に近いんです。それからアケビの花なんかも咲きました。
僕が一番好きだった季節は秋でした、まずキンモクセイが満開になって強い芳香をまき散らします。
母の姉、つまり僕の伯母さんが家に来た時。
「なんていやな匂いなんだろう」と言って、少し顔を歪めました。
有る意味では、キンモクセイの香りは強烈でした。あの頃の日本の家は汲み取り式でしたよね、だから便所の近くにキンモクセイを植えたんです。それから、便所の芳香剤の香りもキンモクセイがモデルです。だからトイレの匂いとも言えるんです。
キンモクセイの少し後から、アケビやザクロが実り、ナナカマドが紅葉し、真っ赤な実を沢山付けます。小鳥が良くついばみに来ていたものです。僕は小鳥の真似をして、一度おそるおそる食べてみました。酸っぱいというより苦いと言った方が正しい味でした。それで、僕は滅多にナナカマドの赤い禁断の実を食べませんでした。
そう言えば、彼が(ずっと後の事ですが)時々食べていました、食べ過ぎでむかついていたのかも知れません。ナナカマドの実はいかにも胸焼けに効きそうな味でした。
僕の、東京で初めての夏はあっという間に過ぎて、キンモクセイの花が満開になって強い芳香を放つようになったある日。僕は家の前で信じられない事に出会いました。なんと僕のあの彼が座っていたのです。
僕たちは駆け寄って、抱き合い、じゃれ合いました。僕はもう有頂天でした。この信じられない話を吹聴しまくりました。みんな白けた顔をしました。その顔は言っていました。偶然彼と似た野良犬を見付けただけだってね。母以外は誰も信じませんでした。
最低あと二人は居るはずだって思っているよね。だけど、金沢のお手伝いさんは、かなり年だった事も有って、本当の家族の所に帰ったのさ。彼女の代わりに家政婦さんが通って来ました。金沢のお手伝いさんよりも一回りくらい年下だそうですが、僕には十分すぎるほどお婆さんに見えました。
兄はどうしたって? この話は余りしたくないんだけど、兄は二号さんの家で暮らしていたんだ。父と一緒に? いいえ、父はもう三号さんを囲って別の家に住んでいた。
妾を囲うのも男の甲斐性なんて言われた時代でした。母の親戚ですら、表だっては父を批判しませんでした。いろいろと父の世話になっていたからです。
僕はいやと言うほど喧嘩をした。
そんな時、必ず何処からか姿を現した。少し離れたところで見学を決め込んだ。だけど、僕の喧嘩相手は、最初は気味悪がったが、その内、彼がバットとかナイフ等を持ち出さない限り手出しをしないって分かり、喧嘩に集中するんだ。
武器を手にしたら、それはもう彼は恐ろしく怒って追い回して、結局武器を捨てさせるんだ。ジョンは正義の味方、西部劇の保安官だったのさ。
そんな分けで、彼が決して加勢をしてくれなかったわけで、僕は余り勝てなかった。だけど、ほとんど負けなかった。子供の喧嘩なんかは大抵はケリが付かなかったのさ。
母の話を少しさせて下さい。
網元の三女として生まれた母は、看護婦になると言って、半ば家出同然に東京に出てきました。
でも、母は看護婦になる勉強をしてはいましたが、看護婦に成りませんでした。ほんの気まぐれで受けたSKDに合格したからです。SKDって知らないよね。水の江瀧子とか淡島千景とか、知ってるわけ無いか?じゃあ賠償智恵子は? 少しは知ってる人いるよね。戦前は西の宝塚・東の松竹歌劇団(SKD)とか、踊る松竹・歌う宝塚なんて謳われた少女歌劇団だったんだ。だけど、母はそのSKDにも行かなかった。
カフェでアルバイトをしていたとき、不幸なことに父と出会ってしまったんだ。二人は同棲を始めました。母は父に騙され、利用されたんです。父は関西のいわゆる近江商人の長男として生まれ、大学生活の為に東京に出てきた。
父は勉強は出来た。かなり優秀だったそうだが、最悪の道楽息子でした。かなりの額の仕送りを受けていたけど、博打と酒と女が好きで、三日も持たずに使い切ってしまうんだ。後は母におんぶに抱っこ。母は洋裁・編み物とか、生け花の免許なんかも持っていて、カフェの女給の他にあれこれと内職をこなして、父を卒業させたんだ。言わば、母は父の恩人だよね。その恩人にあんな仕打ちをするなんて許せる訳が無いよね。
同棲を始めて一年後、長女が生まれたが、生まれて直ぐ死んだ。次が長男、生まれて直ぐ、今度は父の実家に取り上げられた。つまり、僕の叔父さんになる訳だ。二年後に兄が生まれた、次男なのに長男だった。今度は母は頑固に抵抗して、決して兄(次男)を手放さなかった。
大学を卒業した父は東京の三菱系の繊維会社に入社して、出世コースに乗った、って訳らしい。もう戦争は始まっていたけれど、父は徴兵を免れた。本人曰く、それだけ会社に大事にされ、徴兵猶予になった。ってね、だけど真相を僕は知ってる。父は貧弱な肉体とど近眼の為、いわゆる乙種合格だったのさ。
そんな父も敗戦間近赤紙が来て出征する事に成った。出征を間近に控えた日、ようやく婚姻届けを出し、母と兄は金沢に疎開し、終戦の一ヶ月ほど前に僕が、三男なのに次男が生まれたんだ。
父は戦地に着く前に終戦に成ったから、正確には戦争を体験していない。こんな事を言ってはいけないのかも知れないけど、戦死してしまえば良かったのにね。
父は戦後直ぐに帰国して、元の会社に収まって出世街道を驀進し、その会社始まって最も若い重役に成ったそうだ。ホンとかウソかは知らないけどね。
父は僕たちを六年もほったらかしにしていた、生活費は送ってくれたけどね。今度は母から受験期を迎えていた兄を取り上げた。僕が無事だったのは、落ちこぼれの出来損ないだったからさ。
僕の通信簿は殆どオール2だったんだ。言い分けをすると、僕の信念に関係していたんだ。僕は宿題をした事が一度も無い、他人から、たとえ先生と言えども、強いられた事なんか出来ないよね。だから、僕はいつも立たされていた。一度だけ、理科で3を貰った。授業で僕がみんなだったら小便と言うところを尿という言葉を使ったからさ。
毎年元旦の朝、父は兄を連れて家に来た。年中行事って分けさ。だから僕は元旦が嫌いだった。
父はお年玉を皆に渡した後、元旦の朝食が開かれる。お屠蘇で乾杯した後、腰を据えて飲み始めた父は、僕の説教を始めるんだ。
「お前なんか中学で終わりだ、高校には行くな、行ける高校なんて無い。丁稚に行け!」
僕が無視していると、色んな物がとんでくるんだ。箸や猪口や皿なんかね。父は酒乱だった。有る元旦、我慢の限界を超えた僕が父に飛びかかっていって大喧嘩さ。
元旦以外にも、年に一度位だったけど、家に来た。大抵はハイヤーで来たが、一度だけ歩いてきたんだ。そんな時に限って、僕は駅の方に歩いていた。前方に見たことの有る男が歩いていた。父だ、僕は路地を曲がって父との遭遇を避けようかとも思ったけど、しゃくだからそのまま真っ直ぐ歩き続けた。二人はすれ違ったが、お互いにそっぽをむいて、無視を決め込んだ。そんな父と息子が生涯関係を修復出来なかったのは言うまでも無い。
僕は中学生になった。義務教育だから仕方が無いよね。
キンモクセイの強い芳香が家の周りに満ちあふれ、ナナカマドが真っ赤な実を結んだ。そう、秋がやって来たのさ。
そんなある日、僕が大谷石の壁にボールをぶつけて、一人で野球を楽しんでいた。なぜ彼が側にいないのかって? 彼は重い病で寝込んでいたんだ。
遠くから、大学生と若い女性が近づいてきた。
僕はチラチラと観察しながら野球を続けた。
大学生は上着のボタンを上から二つ、無造作に外していた。学帽は油でテカテカに光っていた。
「こいつ、不良だな」
僕は見当を付けていた。若い女性は白のコートで、胸からスカーレットのスカーフが覗いていた。ちょっと変な組み合わせだけど、とても似合っていたし、不良の大学生には不釣り合いな、清楚な感じの美人だった。
二人は僕の近くで立ち止まって、中学生の一人キャッチボールを見ていた。
暫くすると、不良は僕の家を一渡り見回して、二歩程近づいてこう言った。
「お母さん、いるかい?」
まさかまさかの、二十二年振りの涙の再会だった。
母は、自分より大きい不良大学生を抱きかかえ、
「ごめんなさい、ごめんなさい」と言って、何度も何度も謝っていた。
側で正座していた彼女はポロポロと涙を流し続けていた。
叔父さん(兄)は、物心ついた頃には実母の存在に気がついていたそうだ。それで当然ぐれた。だけど、結局は世の中に負けて大学に入った、父がコネか金を使ったに違いない。
叔父さん(兄)は、社会人になったら母に会おうと堅く決意していたが、そんなに長く待てなかった。その時付き合っていた彼女を連れて駆け落ち行としゃれ込んだわけだ。
叔父(兄)さんは、結局暫く家に逗留した。
三日目の朝、叔父(兄)さんは朝から一人で出かけた。後から気づいたんだけど、父に呼び出されたに違いない。
昼過ぎから、母と彼女はベランダで長いこと話し込んでいた。
僕は広い庭で何となく遊んでいたんだけれども、ベランダから遠かったので話し声は聞き取れなかった。殆ど母が話して、彼女を説得し、励ましていたように見えた。母が封筒(お金が入っているに違いない)を取り出した時、突然風向きが変わり、声が聞き取れるようになった。
母はこんな事を言っていた。
「決して貴女を辱めようと思っていないわ。気を悪くしないでね」
母はその封筒を彼女に握らせようとしますが、彼女は受け取ろうとしません。
「手切れ金、なんてお願いだから思わないでね」
「それは分かっていますが、お母様、私受け取る訳には参りません」
「貴女の気持ち、私にはよく分かるわ。だけど貴女、帰りの汽車賃持っているの?」
彼女は唇を噛みしめて俯き、か細い声で言いました。
「それは、なんとかします。友達とか親戚に借ります」
「東京にいるの?」
彼女は頭を振りました。
母は再び彼女に封筒を握らせました。
「お金って、とっても汚らしい物よね。だけど使う人によって、使い方によって大切な物にもなるのよ」
彼女はようやく封筒を受け取れましたが、悲しさと悔しさで顔が歪んでいました。
暫くして、支度を調えた彼女が庭にでてはました。
彼女が門に向かって歩き出したので、僕は慌てて門柱を大きく開いて、旅立つ彼女の手助けをしました。
門前に佇む僕の前で彼女は立ち止まり、暫く僕を見詰めていました。彼女の顔にはもう涙が見えませんでした。
僕は何か言わなくてはいけないと思って、少し焦りました。その余り、変な事を言ってしまいました。
「また、遊びに来なよ」
彼女はプッと吹き出して、アハハと声を出して笑い飛ばした後、微笑んで呉れました。
「元気でね」
「うん、お姉さんもね」
「有り難う」
そう言った彼女は、駅の方に向かって歩き出しました。一歩、一歩をしっかりとした足どりで。
でも、直ぐ引き返して言いました。
「今日はとても寒いよね」
「ちっとも寒くないじゃないか」
「いいえ、絶対に今日は寒いわ」
彼女はスカーレットのスカーフを僕の首に巻いて、美しい手を差し出しました。
当然僕たちは握手をしました。彼女は冷たくて優しい手を持っていました。
踵を返した彼女は、凜々しくも毅然とした足取りで歩いて行きます。僕は初めて知りました。何事かを決意して旅立つ女性の姿、特に後ろ姿がとても素敵で美しい事をね。
旅立ちから三日ほど起ったある日、叔父さん(兄)と僕たちは居間でテレビを見ていました。巨人対西鉄の日本シリーズです。今日も稲生が投げていました。高校野球じゃ有るまいし、よくも毎試合出てくるものだ。僕は巨人ファンだったので忌々しい気持ちで稲生選手を見ていました。あろう事か、その稲生投手がサヨナラホームランを打ったのです。
西鉄ファンだった叔父さん(兄)は小躍りして喜んでいましたが、僕は意気消沈して、稲生ってまるで悪魔のような凄い選手だと思い知らされながら、彼が寝込んでいる部屋を目指しました。
彼の寝ている筈の部屋にその姿は有りませんでした。
皆大騒ぎをして探し回りました。僕はきっと歩けるようになったんだと楽観をしながら、彼が倒れた日の事を思い出しました。
彼は僕と遊んでいるとき、突然スローモーションのようにして倒れたんです。獣医の先生が来て、一室に寝かされた彼を診察しました。
「先生、治りますよね。何て病気なのですか?」
先生は渋滞を造って中々口を開きませんでした。
「奥さん、・・・病名を敢えて言えば、・・・老衰です」
「老衰?! このジョンは家に三歳で来て、まだ十年しか経っていませんのよ」
「犬にとって十三という年は十分に老衰してもおかしく有りません。それに、このジョン君は最低でも三歳は年をとっています。はっきり言って治る見込みは有りません。最後の時間を穏やかに過ごさせて、看取ってあげて下さい」
人生って皮肉だよね、あんなに憧れた座敷で死の間際に成って過ごせるなんて。彼はもう自力で立つことも出来ませんでしたし、ハアハアと息を弾ませていましたが、とても穏やかな顔をしていました。誰かしらが側に居てくれるのを喜んでいました。
彼がようやく見つかりました。縁の下の奥の暗がりで息を引き取っていました。誰もが、涙を堪えきれませんでした。どうやって?! あの体でこあんな所まで這って行ったのだろう。僕も誰もが思いました。
皆で相談して、生前走り回っていた庭に葬ろうという事に成り、親戚の一人が葬儀屋に走り、少し小さな棺を手に入れました。その間に残っていた大人たちが庭に大きな墓穴を掘りました。
棺に遺体を納めて墓穴に葬って、手頃な石を乗せて墓石としました。蝋燭を立て、線香を焚きました。家政婦さんが気を利かせて、皿に彼の好物を乗せて持ってきました。僕はアケビの熟れた実を捧げました。キンモクセイはいつもより強い芳香を放って哀悼の意を表し、ナナカマドは真っ赤になって悲しんでいました。この庭の住人は、皆彼と大の仲良しでした。誰かがお経を唱え始め、誰もが手を合わせて唱和しましたが、僕はお経を唱える事が出来ずに呆然とただ立っていました。
日が暮れて弱い氷雨が空から落ちてきました。それを潮に、大勢が家に入り、ベランダで彼の通夜を始めました。
ジョン有り難う、皆がそう言っているようです。
僕と母はまだ彼の墓碑の前に佇んでいました。
母はちょっと屈んで、いつものように彼の頭を撫でるがごとく、墓碑をやさしく撫でています。
「ジョン有り難う。今まで、この子と私を守って呉れて。気が向いたらで良いのよ、また私たちを守ってね」
ジョンは、優しく、強く勇敢だった、賢くて凜々しかった。いつも僕たち家族をなごませ、守って呉れた。
ジョン! 有り難う。
僕は当たりを憚らずに涙を流し続けました。一生で流す涙の半分はむこの時流しました。雨が強くなって、涙と雨粒との区別が付かなくなりました。
人は生まれた時、心は真っ白なんだ。育てられ方や、経験で少しずつ色がつくのさ。大切な人との別れで命の大切さを学ぶんだ。だから、僕は昆虫を虐めたり、野に咲く花を摘んだりしなくなった。
三ヶ月後、不思議な夢を見た。
夜明け前だったと思う。
僕は薄暗い大草原に立っていた。腰の高い草では無く、踝くらいの牧草だった。柵が延々と続き、その向こうに牛の群れが見えていた。
カウボーイハットの大男が立っていた。
僕が彼に近づくと、彼は振り返った。胸に銀に輝くバッチが光っていた。ワイアット・ワープかな? 彼はジョン・ウエインには似てなかった、むしろヘンリー・フォンダに少し似ていた。つまり、荒野の決闘のワイアップのように見えたって事さ。
「やあ、元気?」
「うん、元気だよ」
僕は聞き出したい事が山ほど有った。
「すこし、聞いても良い?」
「ああ、だけど夜明けが近いから、長い話は無理だよ」
僕は一番聞きたかった事だけを聞いた。
「どうしてすぐ東京に来てくれなかったの?」
「それは悪かったと反省している。君が東京に行ったって事はお見通しだった」
やはり彼には人間の言葉が分かっていたんだ。
「俺は、この機会に、少しのんびりと旅を楽しもうと思った。暑い夏が苦手だったから、北海道を目指した。富山、新潟と、本当に快適な旅が出来た。山形の山に差し掛かったとき、桃泥棒団を見付けて、やっつけてやったんだ。随分感謝されて、その農家に十日ほど厄介になつた。その時、突然心配事を思い出したんだ」
「何?」
「君のことさ。だから、山脈を越えて太平洋に出て、後は東京まで真っしぐらさ」
僕は賢明に頭の中に日本地図を描いて、彼の旅の走行距離を測っていたが、こんがらがって分からなくなったので、日数から距離を計算しなおした。約九十日、彼が一日に歩ける距離を三十キロに想定した。二万七千キロ、なんと三万キロも彼はこの旅で走破した事になる。
「君は九月の終わりに房総に行ったろ?」
確かに行った、遠足でね。
「あれは良い道しるべになった」
「凄い、凄すぎるよ! 三万キロにも成るんだ」
「俺の鼻は、三億倍も君たちより効くんだ。警察犬なんかで間抜けなのがいるよね、直接捜す相手の匂いを嗅いで、地べたを嗅ぎ回ってるよね。あれはど素人がやることだ。俺は空を漂う空気から情報を探るのさ」
彼は葉巻を咥えて火を付けた。あれっ! たばこは嫌いな筈だった。 案の定噎せた、彼はエヘンと咳払いをして胸を張った。
「君は俺のことをどう思っていたのかな?」
「それは、とても・・・」
彼は僕を手で制してこう言った。
「当ててみせる。自分の子供のように大切に思い、とても愛してくれた。本当は全く逆さ、俺は君を本当の我が子のように愛し、守ってきた、これからもそうする積もりさ。ああ、もう時間が余り残ってない。最後に君のお母さんに助言がある。あんな男とは速く別れた方が良い。考えてもみたまえ、東京に大きな家が三軒、それぞれ家族もいれば使用人もいる。いくら大会社の重役としても、おかしいよね、彼はきっと悪事に身を染めている。とばっちりを受けない先に分かれるのが賢明な選択だ」 僕は彼の言うとおりだと思った。
そこで目が覚めた。もう朝になって、日が差していた。
彼は、ジョンは僕の守護神だったんだ。
それから、僕の人生でいろいろ不思議な事が起きた。絶体絶命のピンチをなんとか切り抜けられるんだ。別に不思議じゃないよね、生きている限りどんなピンチも切り抜けたという事になる。そこで、僕は不思議な二つの話を披露する。
僕には変な癖があった。歩きながら考え事をする、考え事をしながら歩く。どっちでもいいか。信号持ちの交差点では必ず一番前の右端に構えて信号を待つんだ。青に変わるのを待ちきれずに真っ先に飛び出すんだ。時にはフライングをした。赤の内に路を渡ったりしたんだ。繁華街や人通りの多い場所では大事に至らないよね、ププーッとクランクをならされたり、罵声を浴びせられて、それだけで済んでしまう。だけど、人通りの少ない夜道なんかはやばいよね。
中学二年の時、夜道でやってしまったんだ、赤信号でフライングをね。 猛スピードで車が右折して来たんだ。激しい急ブレーキの音が僕の頭で木霊した。駄目だ、轢かれてしまう、僕は観念した。人はこんな時には全てがスローモーションで見えるんだ、経験している僕が言うんだから、確かな事さ。次の瞬間、何か黒い塊が僕に向かって突進して来たんだ。
僕は道ばたで立ち上がって学生服の汚れを払い、身繕いをただしていた。急停車した車から運転していた若い男が出てきた。これって結構勇気のいる行為だ、って少し感心していた僕に罵声を浴びせた。
「馬鹿野郎、コンチキ野郎、どこ見てやがるんだ!」
僕は男の剣幕にたじろいだ。
連れの女性が助けて呉れた。
「大丈夫? 怪我してない?」
「大丈夫です。こうみえても受け身がうまいんです」
僕は安全だったことを知らせる為に、体を激しく動かし、その場でジョギングをして見せた。
「念のため、病院行こうか?」
「一つも怪我なんかしていません」
「本当に大丈夫? あいつ運転が上手いから轢かれなかったけど、兎に角、信号を馬鹿にしてはいけないわ。気をつけてね」
僕は青白い顔で頷いた。
今度は、高校一年の秋だった。
僕は父の予言にもかかわらず、丁稚奉公じゃなく、高校、それも有名な私立高校に通っていた。
僕にとって、高校に行くというのは重要な問題じゃあ無かったんだけど、行かないのも癪にさわるよね。だから高校受験をした。都立高校と今通っている私立高校の二つを受けた。僕は都立は滑り止めだ。そう公言したが、内心私立の方が
少し自信が有った。理由は受験科目が三つしか無かった。問題の山なんか当たればどうにか成ると楽観していた。
大人達は皆鼻で笑っていました。特に父の親戚なんかは特にね。あいつ(父)なんか無駄無駄、丁稚先を見付けておくさ。と暴言していたそうです。無理も有りません、僕の通信簿は相変わらずオール2でしたから。だけど、友達は皆、受かると思っていたそうです。後からだったらどうにも言えるからね。
僕は都立に行こうと決断していた。母はジョンの助言を聞き入れて、離婚協議はとんとん拍子にすすんでいたから、授業料の安い方に行こうと決意したんです。
どこからその話が漏れたのか、父の使者、従弟だそうです。僕の家にやって来て、こう提案したのです。
「私立の方に通わせて下さい、授業料の心配はさせません」
母は黙って聞いていました。
「それから、あの高校に通えば、普通にやっていても東大に入れるでしょう。大学の経費は私が用立てさせて戴きます」
この話には、条件が有りました。彼は娘だけ三人も居ました。いずれがアヤメかカキツバタ。そのアヤメかカキツバタと許婚になって、形だけでいいから養子になれと言うのです。
もちろん、母は毅然として断りました。
「この子だけは私の手だけで育てて見せます」
みんな忘れていました。父を卒業させたのは、他ならぬ母だった事を。母は見かけの優しさでは想像出来ないくらい、強い女でした。
脱線した話を元に戻しましょう。
僕はいつものように考え事をしながら、繁華街の雑踏を歩いていました。突然、誰かと肩が触れあいました。
「馬鹿野郎! なめるんじゃねえ!」
アッという間に路地裏の奥に連れ込まれていました。四人のチンピラに取り囲まれていました。一人がナイフを構えました。
僕は鞄で胸を隠し、血路を捜しましたが、彼らの囲みに好きは有りませんでした。
僕は覚悟をきめ、鞄を下ろし、恐怖をようやく抑えて言いました。
「やるならやれよ! 刺すんだったら刺せば良い」
ちゃんと言葉になっていたか自信が有りません。僕の胸は爆発寸前でした。
その時、一人の大男が近づいて来て、チンピラのリーダー格に怒声を浴びせたのです。
「高校生を喝上げするなんて、みっともない事するんじゃねえ!」
ペコペコと頭を下げたチンピラが言い分けをします。
「だけど兄貴、この制服を着た高校生は結構金とか金目の物持ってるんです」
兄貴と呼ばれた男は、万札を二枚チンピラに渡しました。
「みんなで何か食え」
「いつもすいません、兄貴」
チンピラ達はこそこそと消えてしまいました。
その男は暫く立っていましたが、やがて去って行きました。
僕は、そろそろと用心深く通りに向かいました。
通りに出た僕は、当たりを見渡してまたビックリ。なんと男がまだそこに居るでは有りませんか。
男はヤクザとは思えない笑顔を顔中に浮かべ、少し屈んでこう言いました。
「坊や、今度チンピラとか不良に絡まれたら、一目散に逃げるんだ。足、速いんだろ?」
確かに、僕は足が速かった。だけど、どうしてこのヤクザが知っているんだ?
その男は雑踏の中に消えてしまいました。
僕は、あの笑顔どこかで見たことが有ると思いましたが、どうしても思い当たりませんでした。
利口な君たちの事だから、とっくに気づいていたよね。僕とジョンの話には、人の名前が一切出てきませんでしたよね。実話だから隠したのでは無く、忘れたのです、覚えていないのです。
人は、辛いことや悲しいこと、出会いと別れ、裏切ったり裏切られたりする毎に、何かを忘れてしまうのです。人は記憶をだんだん失って、死ぬ間際にフラッシュバックのように記憶が蘇る。良く言われていますが、本当なのかなあ?! 死んでも居ないのに分からないよね!
そんな訳で、僕は色んな記憶を失って行くのさ。その内、自分自身の名前も忘れてしまうに違いありません。
2016年12月6日 Gorou