アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

僕とジョン

2016-12-06 17:08:15 | 物語
僕とジョンは大の親友だった。その関係は完璧なまでの信頼と愛情で満ちていた。
 僕たちは運命的な出会いをした。
 1940年代の後半だったと思う。僕が三歳の時だった。
 僕は金沢の大丸デパートの屋上に座り込んでストライキをしていた。そんな僕を、彼は小首をかしげて見詰めていた。
「絶対に彼がいい!」
 僕は母と八つ違いの兄を睨んだ。
「いつも、僕だけが損をしている。たまには、僕の言う事を聞いてよ!」
 僕は堅い決意を込めて母と兄を睨み続けた。思いがけずに涙が溢れ、遂にこぼれてしまった。

 少し僕から離れた母と兄がひそひそと話し始めた。
「こまったわね、いつもは聞き分けのいい子なんだけど」
「あいつは狡猾なんだ、どうやれば同情が引けるか、ちゃんと計算してるんだよ」
 こうかつって何なんだ! どうせ悪口に決まってる。
 兄と僕は折り合いが悪かった、僕は兄が嫌いだったし、兄だって嫌っていたに違いない。
「雑種だけど、結構大きいし、躾けも完全だそうよ」
「あの雑種は三歳の成犬で、こっちのシェパードはまだ三ヶ月の子供だから小さいのは当たり前じゃないか」
 彼は、母と兄が何の話をしているか、どうやら分かっていたようだ。僕だけを見ていた視線を母に向けた。
 そして、必殺の微笑みを浮かべ、
「ワン!」と、愛嬌に満ちたバリトンで一声鳴いた。
 彼の微笑みと一声が効き目を現し、母をたらしこんだ。
「やはり、あっちの雑種にしましょう? 値段が十分の一よ」
「親父が犬を買う金送ってくれたじゃないか!」
「あなたが欲しがっていた望遠鏡だって買えるじゃないの」
 兄は膨れっ面をしてそっぽを向いた。
「そのうち、もう一匹飼えばいいじゃない」

 こうして、彼は僕の家に来た。
 名前を何にするかで、また兄と揉めた。
「シロにしようよ」
 僕の提案を兄は頑固として拒んだ。
「ちっとも白く無いだろう」
 たしかに白く無かった、黒っぽい茶色だった。
「ジョンだ、絶対にジョンだ、俺はシェパードの名前をジョンに決めていた。だから、あの雑種にはシェパードのような、番犬としての役目をきっちりやって貰うからな」
 ジョン? 兄はジョン・ウエイン のファンだった、きっとだからだ。

 これが僕とジョンの友情のなれそめだ。

 彼は完璧に近かった。人には優しかった、もちろん、知っている人だけだが、犬には厳しかった、彼に挑みかかった者は、徹底的に痛めつけて、子分にしてしまう。彼がここら一帯のボスになるのに三ヶ月と掛からなかった。
 見知らぬ人を見たときは、まず、僕か母の顔を伺った。そして安全だと確認が取れると、得意の必殺の微笑みを浮かべて尾を振る。だれもが、それでたらし込まれた。
 僕たちの顔色から怪しいと判断すると、大きな口を開けてキバを剥き、威嚇した。だから、僕の家には押し売りなんかは出入りしなかった。
 金沢の犀川の近くにあった僕の家では、母と兄、そして老年のお手伝いさんが暮らしていたが、兄とそのお手伝いさんはジョンから無視された。僕の命令には絶対服従だったし、母にも一目を置いていた。
 犬の出来る芸、お手でも、お座りでも、待てでも、何でも出来た。いや、どう考えても、人の言葉を理解していたようだ。

 嘘だろうって! きっと思ってるよね。だけど、これからする話で少しは納得して貰えると思うよ。
 何人かが集まって(もちろん、その内の一人は僕さ)、・・・
「ジョンって、雑種だけどキリリとしていてかっこいいわね」
「頭良いし、番犬としても最高」
 なんて話をしていると、近くに寝そべって、嬉しそうな顔をして、時々尾を振ったりするんだ。だけど、・・・
「奥様、ジョンったら、どうやら小さい坊っちゃんの布団に時々潜り込んでいるようですのよ。布団が毛だらけで、そりぁもう大変なんですよ」 こんな具合に雲行きが怪しくなると、項垂れて、こそこそと逃げ出すんだ。
 僕も彼も、完全犯罪だと思い込んでいたけれど、ばれていたなんてちっとも思わなかった。

 彼は庭の小屋で飼われていて、座敷に上がることを厳しく禁じられていたのさ。だけど、三日に一度くらい、皆が寝静まった頃を見計らって、僕の部屋の雨戸をコツコツと叩くのさ、まるで人間がノックするようにね。
 その音に気がついた僕が雨戸をそっと開けるんだ。それでも直ぐには部屋に足を踏み入れない。僕が雑巾を彼の前に置くと、前足を何度も丁寧に拭いて、前足だけを部屋に入れ、今度は後ろ足を拭くんだ。
 拭き終わった彼は一目散に僕の布団に潜り込み、僕がそっと雨戸を閉め、二人で仲良く眠るのさ。
朝、誰も起きないうちに二人は起きて、僕は彼を庭に逃して、もう一寝して、わざと寝坊した振りをして食卓に着くんだ。完全犯罪の成立。僕も彼もそう思っていたのに。ばれていたなんて!?
 母は、それでも彼を叱らなかった。現場を押さえない限り、知らぬ振りをしていた。もちろん、賢い彼が母の見ているところでヘマなんかする訳が無い。
 
 彼は旅と冒険が趣味だった。
 退屈をすると、二三ヶ月に一度の割に脱走するんだ。方法は様々で、あらゆる方法を使った。有るときは、庭の隅に脱出用の穴を何日もかけて掘った。だけど、大抵はもっと簡単な方法を使った。
 勝手口の近くで身を潜めていて、御用聞きが入って来る瞬間、のろまなお手伝いさんの不意を突いて、疾風のように表に飛び出すんだ。
 最初の脱走の時は、皆で随分心配したものさ。その頃は、犬殺し、僕らはそう呼んでいたが、今から考えると立派な公務員だったのだね。
 犬殺しは、特大の網や、長い竿の先に鎖の輪を付けて、野良犬を捕まえるのさ。捕まった犬は大抵は殺されるって噂だった。だから、本当に心配したのさ。だけど、僕のジョンは、彼はのろまな犬殺しなんかに負けなかった。ここまでおいでと、逃げ回り、時には反撃に出て慌てさせるのさ。
 彼は旅と冒険を楽しんで、二三日したら、けろっとした顔で帰って来て普段通りの生活に戻るんだ。だから、その内、彼が脱出しても誰も心配なんかしなくなった。僕と兄が寂しがっただけさ。言い忘れたけど、元々犬好きの兄と人好きのジョンとはとっくに仲直りをしていたのさ。

 僕は幼稚園に入園した。あの頃、金沢にはそんなに沢山の幼稚園が無かった。だから、僕は路面電車、僕たちはチンチン電車って呼んでいたんだけど、その電車に乗って香林坊まで三十分かけて通ったんだ。
 幼稚園に入って二ヶ月位起ったある日、いつもは楽しい幼稚園がちっとも面白く無かった。彼が又脱走して、心配で心配で 、たまらない程、気持ちが沈んでいたのさ。
 授業が終わった僕は、本当にビックリした。彼が幼稚園の門で待っていたんだ。どうしてここが分かったんだろう?! 多分、偶然近くを彷徨っていて、僕の臭いをかぎつけたに違いない。僕はそう思った。
そういうわけで、この日は電車に乗らずに、彼と歩いて帰ったのさ。 母が少し心配していた。いつもより一時間以上も帰りが遅くなったからさ。母は彼の頭を撫でて、こう言い聞かせた。
「ジョン、貴方が一緒に帰ってくれると、安心出来るわ。だけど、こんな小さな子が毎日一時間半も歩くのはとても大変なのよ」
 彼は、母を真摯な眼差しで、小首を傾げて聞いていたが、頭を上下に振って、まるで人間のように頷いたんだ。僕にはそうとしか見れなかった。
 次の日も彼は門で待っていた。彼は昨日のような裏道、近道だったのだけれど、その裏道ではなく大通りを誘導して、停留所に座り込んだんだ。電車が来ると、僕のおしりを押して、乗るように促すんだ。仕方が無いから乗るんだけど、心配でたまらないんだ。彼がこのまま旅に出てしまうに違いないってね。
 電車に乗った僕は、大きな大人達を掻き分けて一番後ろに行って、停留所を見た。やっぱり彼の姿はそこには無かった。
 次の瞬間、僕は気がついたんだ。電車と平行して走る彼の姿に。彼は速かった、チンチンとちんたら走る電車なんかに負けなかった。余裕すら感じ、もっともっと速く走れるに違いない。
 いつも通りの時間に帰った僕と彼を見た母は、彼の頭を撫でながらこう言った。
「本当にあなたはお利口さんね、こうやってこの子を守って呉れると、とっても安心。気が向いた時だけでいいから、この子を守ってあげて」 母の言葉に感激した彼は、毎日、なんと毎日僕の送り迎えをしてくれたんだ。ここで言う毎日は本当の毎日と違うんだ。考えても見たまえ、幼稚園は土曜日、日曜日、祝日と、結構休みが有る。ゴールデンウイークなんて、一週間とか十日とか続くよね、休みが。そんな時に彼は冒険の旅にでるのさ。でも、どうして彼が連休なんかの事を分かっていたのか、謎だよね、驚くべきミステリーさ。僕のホラだと思っているよね、無理も無いし、妥当な考えだね。でも本当なんだ、これは実話なのさ。
 
 ある日、珍しくも笑顔をたたえた兄が僕を手招いた。
 兄が笑顔を見せるときはろくな事がないんだ。だから、いやいや側に行ってやった。
「どうだい? ジョンにどんな犬でも出来ない芸を教えようよ」
「どんな?」
「買い物さ」
 反対する理由もなかったので協力することにした。
 まず少し大きめの籐篭の二つの取っ手に手ぬぐい巻くんだ。彼が咥えやすいようにね。

彼は中々言うことを聞いてくれなかった。僕たちは、何日もかけて根気よく教えましたが、駄目でした。仕舞いには篭を見ただけで一目散に逃げてしまうのです。
 兄がまずさじを投げて地べたに座り込みました。
「やっぱり無理なのかなあ?」
 兄はガッカリとして空を仰ぎました。
 僕も兄の横に座り込んで悲しそうに溜息を付きました。
「彼なら出来ると思ったんだけどなあ」
「所詮は犬さ」
 兄の暴言に、遠くから様子を伺っていた彼が気を悪くして耳を立てました。そして、そろりそろりと僕たちに近づいてきて、まず僕の顔をペロリとなめ、その後兄に向かってあの必殺の微笑みを浮かべました。
 その後、彼はなんと自分から篭を咥え、胸を張ってお座りをしたのです。
「ヤッターッ!」
 兄はガッツポーズをとって吠えていました。
 僕は台所に走り込んで、母に賢明に訴えました。
「今日の買い物をメモしてよ!」
 母は首を傾げて僕を、ちょっと驚いた風に見詰めました。
「今日の買い物は僕たち三人に行かせて! お願い!」
「三人?」

 早速僕たち三人は買い物に出かけた。一番遠くの肉屋から始めた。
「これからは、このジョンが買い物に来るから、よろしく」
 兄の言葉に肉屋のおじさんは少し驚いていた。
「いつものお手伝いさんは来ないのかい?」
「たいていはね。二三日は僕か弟が一緒だけど、後はジョンだけで来るからさ。・・・さあ、篭の中のメモに買う物が書いてあるから」
 彼はちょっと緊張していたが、とても大人しく座っていた。
 篭からメモを取り出した肉屋のおじさんは、手早く買い物をまとめて、篭の中に入れた。注文品はコロッケと豚肉だった。
「コロッケはいくつ?」
「五つだよ」
 彼の分も入っている、僕は安心した。
 大好物の匂いに彼は少し涎を垂らしたが、しっかりと篭の柄を噛んでいた。
「おじさん、ジョンだけで来ても、決して褒美のおやつなんか上げないでね」
「分かってますよ、お宅の犬は他人から絶対に食べ物を貰わない、って事は、ここらあたりの人は皆知ってます。・・・そうだ」
 肉屋の親爺さんは骨を紙に包んで、マジックでジョン様って書いて篭に押し込んだ。
「そう言う時は、こんな具合にして入れとくからさ、家に帰ったら上げとくれ」
 骨も又、彼の大好物だったから、ほっぺたが落ちるほど、満面笑顔で溢れさせた。

次が、八百屋、魚や、豆腐や、それから買い物に行く可能性の有る店を全部回ったんだ。
 買い物から帰った時、母もお手伝いさんも眼を丸くして驚いていた。
「でも、大丈夫ですかね奥様、今日は坊っちゃん達が付いていたから心配いらないけど、一匹で買い物にやったら、コロッケも肉も魚も、みんな食べちまいますよ」
「ジョンに限ってあり得ない!」
「彼に限ってあり得ない!」
 兄と僕は珍しくも一緒に叫んでいた。こんなに気を合わせるのは初めてだった。
「そうね、ジョンだったらきっと大丈夫。責任感半端じゃないから」
 母も彼を信頼していた。
「だけど奥様、毎日こんなに買い物をしていたら破産してしまいます」
「確かだわ、せいぜい二三ですむわ。どうするつもり?」
 母は兄と僕の顔を覗き込むようにして質問して来た。
「大丈夫」
 僕は胸を張って答えた。
「買い物をする店の匂いの付いた物を何か嗅がせるのさ」
「ジョンだったら、それくらいの事、やれるかもね。だけど、しばらくはどちらかが一緒に行ってね」
「ハイ」
「ハイ」
 又兄と僕の返事が重なった。これじゃ兄弟みたいじゃ無いか!

 次の日、僕たち三人は買い物に出た。
 家から少し離れたところで、兄と僕は立ち止まって、彼を促して一人で行かせた。
 彼は意気揚々と早足で歩き出した。
 兄と僕は少しだけ心配をして、そっと後を付けた。僕たちの心配は無用だった。彼は完璧に買い物を成し遂げた。一軒も間違わずにリクエストされた店だけで買い物をしたんだ。
 彼は仕事に対して誇りを持ち、喜びに溢れていた。働く倖せに気づいたのさ。
 彼は、買い物の褒美を貰ったが、いつものようにはしなかった。尻尾を振り、愛嬌を振りまくような事は少しもせずに、当然のように報酬をクールに受け取った。
 それからの彼は人が変わったかのように働き出した。働かざる者食べるべからず。彼は実践した。それも誰かに命じられたからでなく、自分で仕事を見付けた、僕やお手伝いさんが重い荷物に手こずっていると必ず跳んできて手伝った。
 僕の家には時々庭の手入れに植木屋が来るんだけど、高い木の上で作業をしていると、梯子をしっかりと支えるんだ。
 それから、庭に放り込まれた新聞を持って来るのさ、僕とお手伝いさんには決して届けなかった。必ず兄の所に届けた。誰が新聞を読むかちゃんと知っていたのさ。母もあんまり新聞を読まなかったが、彼は時々母に届けた。母はあまり読む気のない新聞を受け取ると、彼はじっと見詰めるんだ。彼は心の中で「これからの女性は新聞くらい読まなくてはいけない」って言っているような気がした。
 母が新聞を広げると、安心して、嬉しそうにその場を離れた。

 彼には微笑みの他にもう一つの必殺技があった。その話をしよう。
 ちょうどこの頃、彼が働く意欲を持ち始めた頃、家にもう一匹犬が増えた。母は兄との約束を守ったんだ。シェパードだと思うだろうけど、大外れ! 考えてもみなよ、彼が居る限り、シェパードのような番犬は必要じゃ無い。ポメラニアンという小型の座敷犬で、生後六ヶ月で家に来た。祖父にチャンピオン犬を持ち、立派な血統書が有った。ポメラニア・フォン・○▲□▽■●□△ってたいそうな名前を持っていたけど、僕には難しくて覚えられなかったから、ポチと呼ぶことにした。
 親戚や近所の人達が、
「庭で飼う大型犬は、座敷で可愛がられる小型犬に焼き餅をやいて、いじめるそうですよ」って、母に余計な助言をしたんだ。もちろん、彼にそんな心配は無用さ。彼はポチを可愛がった、飼い主よりも彼に懐いてしまって困ったものさ。僕たちが油断すると、ポチは彼の小屋に潜り込むんだ。だけど、彼はポチを咥えて僕たちに届けるんだ。
彼から解き放たれたポチは、めげずにまた庭に出ようとすると、キバを剥いて威嚇をする。驚いたポチは僕や母の陰に隠れて、そっと様子を伺い、彼の機嫌が直った事を確かめる、また側によって甘えるんだ。
 そんなポチの耳元で彼は囁きかける。犬言って有るのかなあ? それで、ポチは彼の言うことを聞いて、自分の寝床に潜り込んだ。

 ポチが家に来て三ヶ月、とんでもない悲劇が僕の家を襲った。
 ポチが彼の家出に付いていってしまったのだ。
 彼が路を歩く時、決して真ん中を通りません。道路の交錯点では左右を用心深く確認してから渡りますし、信号が有れば赤信号では決して渡りません、青に変わっても更なる確認・用心を怠りません。安全を確信してから渡ります。

 ポチにそんな芸当が出来るわけが有りません。何か興味を引かれる事が有ったのでしょう? ポチは赤信号で道路に飛び出してしまいました。車の急ブレーキが響き渡り、彼がポチを救うべく猛然とダッシュしたそうです。これは目撃者談なので確かな事です。
 結果は悲劇でした。ポチは車にひかれて即死、助けようとした彼も重傷を負ってしまいました。全治一ヶ月の重傷でした。
 僕は何が起こったのか良く理解出来ませんでした。ポチの死を悲しむよりも、彼の重傷の方により心が動かされました。母と僕が彼を見舞ったとき、決して眼を僕たちと合わせませんでした。彼の心はズタズタに傷ついていました、後悔と自責の稔で誇りを失いかけていました。それでも、彼の肉体は強靱で、驚異的な快復力を発揮しました。
 なんと、十日ほどで我が家に帰って来ました。
 彼のもう一つの必殺技を見せてくれたのはその時です。後足を突っ張り、頭を低く、地面に顎をついて体を支え、前足でなんと頭を抱えたのです。土下座をして見せたのです。皆驚いて、唖然としていました、次の瞬間、爆笑が起こってしまいました。
 彼はとても気を落として、明らかに気を悪くしていました。プィと横を向いてその場から消えてしまいました。

 こうして、僕と彼との友情の時はあっという間に過ぎました。
 僕は小学校に入学しました。この頃にはもう兄は東京に一足先に出ていました。少しでも良い高校に、そして大学に入る為の受験勉強の為です。
 東京郊外に建てられていた家が完成して、僕は一学期だけで、金沢の小学校を離れました。別れを告げたのはたった一人、もちろん女の子です。
「誰にも言ってないけれど、実は東京に移るんだ」
「そう、元気でね」
 あっさりとした、さりげない別れでした。初恋というほどの気持ちは僕には有りませんでした。彼女にしてみれば、さして仲の良かったとは言えない同級性の転居です。簡単にジ・エンドです。

 夏休みにはもう僕は東京で暮らしていました。二日後、悲しい知らせが届きました。彼が貨物用の檻から脱走したのです。
 彼には帰るべき所は有りません。帰るとしたら、きっと金沢の犀川の側にあった、僕が幼年時代を彼と共に過ごしたあの家しか無いはずです。皆がそう思い、母の弟が暫く、彼が帰って来るまで、あの家で暮らすことにしました。
 一週間、十日、一ヶ月経っても、彼は現れませんでした。

 僕と母は彼の噂を良くしました。
「ジョンの事だから、あの微笑みで誰かをたらし込んでちゃんと生きているにちがいなくてよ」
 母は良くそう言ってました。

 そんな訳で、僕は寂しい夏休みを東京で過ごしました。僕には一人も友達が居ませんでした。何故かというと、僕は九月になって初めて、新しい小学校に転校するから、それまでは本当に独りぼっちでした。彼さえいてくれたらといつも思っていました。
 九月になって新しい小学校に通うと、直ぐに何人か友達が出来ました。でも、友達の倍以上のいじめっこに出会いました。二学期から転校した生徒は、彼らにとって異邦人だったからです。チビだった僕は格好の獲物でしたが、僕は決して逃げませんでした。僕の彼(ジョン)が教えてくれたように勇敢に立ち向かいました。子供の喧嘩に勝ち負けなんて有りません、遊びの一環でしか無いのです。おかしな物で、その内僕を守ろうとする子も出て来ました。
 僕はいつも泥んこになって遊び回っていました。

 ところで、僕の新しい家の庭は四季折々の風情が楽しめるように造られていました。冬は赤と白の椿、椿の横に苔むした石灯篭があり。春が近くなると、梅が、巨大な苔で一杯の岩の割れ目から芽をだした、背の丈十五センチ程の梅が白い花を咲かせ。春が来ると、桜はありませんでしたが、ユキヤナギが五弁の白い花を咲き乱れさせます。ユキヤナギの花は桜よりもずっと白に近いんです。それからアケビの花なんかも咲きました。
 僕が一番好きだった季節は秋でした、まずキンモクセイが満開になって強い芳香をまき散らします。
 母の姉、つまり僕の伯母さんが家に来た時。
「なんていやな匂いなんだろう」と言って、少し顔を歪めました。
 有る意味では、キンモクセイの香りは強烈でした。あの頃の日本の家は汲み取り式でしたよね、だから便所の近くにキンモクセイを植えたんです。それから、便所の芳香剤の香りもキンモクセイがモデルです。だからトイレの匂いとも言えるんです。
 キンモクセイの少し後から、アケビやザクロが実り、ナナカマドが紅葉し、真っ赤な実を沢山付けます。小鳥が良くついばみに来ていたものです。僕は小鳥の真似をして、一度おそるおそる食べてみました。酸っぱいというより苦いと言った方が正しい味でした。それで、僕は滅多にナナカマドの赤い禁断の実を食べませんでした。

そう言えば、彼が(ずっと後の事ですが)時々食べていました、食べ過ぎでむかついていたのかも知れません。ナナカマドの実はいかにも胸焼けに効きそうな味でした。

 僕の、東京で初めての夏はあっという間に過ぎて、キンモクセイの花が満開になって強い芳香を放つようになったある日。僕は家の前で信じられない事に出会いました。なんと僕のあの彼が座っていたのです。
 僕たちは駆け寄って、抱き合い、じゃれ合いました。僕はもう有頂天でした。この信じられない話を吹聴しまくりました。みんな白けた顔をしました。その顔は言っていました。偶然彼と似た野良犬を見付けただけだってね。母以外は誰も信じませんでした。
 最低あと二人は居るはずだって思っているよね。だけど、金沢のお手伝いさんは、かなり年だった事も有って、本当の家族の所に帰ったのさ。彼女の代わりに家政婦さんが通って来ました。金沢のお手伝いさんよりも一回りくらい年下だそうですが、僕には十分すぎるほどお婆さんに見えました。
 兄はどうしたって? この話は余りしたくないんだけど、兄は二号さんの家で暮らしていたんだ。父と一緒に? いいえ、父はもう三号さんを囲って別の家に住んでいた。
 妾を囲うのも男の甲斐性なんて言われた時代でした。母の親戚ですら、表だっては父を批判しませんでした。いろいろと父の世話になっていたからです。

 僕はいやと言うほど喧嘩をした。
 そんな時、必ず何処からか姿を現した。少し離れたところで見学を決め込んだ。だけど、僕の喧嘩相手は、最初は気味悪がったが、その内、彼がバットとかナイフ等を持ち出さない限り手出しをしないって分かり、喧嘩に集中するんだ。
 武器を手にしたら、それはもう彼は恐ろしく怒って追い回して、結局武器を捨てさせるんだ。ジョンは正義の味方、西部劇の保安官だったのさ。
 そんな分けで、彼が決して加勢をしてくれなかったわけで、僕は余り勝てなかった。だけど、ほとんど負けなかった。子供の喧嘩なんかは大抵はケリが付かなかったのさ。

 母の話を少しさせて下さい。
 網元の三女として生まれた母は、看護婦になると言って、半ば家出同然に東京に出てきました。
 でも、母は看護婦になる勉強をしてはいましたが、看護婦に成りませんでした。ほんの気まぐれで受けたSKDに合格したからです。SKDって知らないよね。水の江瀧子とか淡島千景とか、知ってるわけ無いか?じゃあ賠償智恵子は? 少しは知ってる人いるよね。戦前は西の宝塚・東の松竹歌劇団(SKD)とか、踊る松竹・歌う宝塚なんて謳われた少女歌劇団だったんだ。だけど、母はそのSKDにも行かなかった。
 カフェでアルバイトをしていたとき、不幸なことに父と出会ってしまったんだ。二人は同棲を始めました。母は父に騙され、利用されたんです。父は関西のいわゆる近江商人の長男として生まれ、大学生活の為に東京に出てきた。 
父は勉強は出来た。かなり優秀だったそうだが、最悪の道楽息子でした。かなりの額の仕送りを受けていたけど、博打と酒と女が好きで、三日も持たずに使い切ってしまうんだ。後は母におんぶに抱っこ。母は洋裁・編み物とか、生け花の免許なんかも持っていて、カフェの女給の他にあれこれと内職をこなして、父を卒業させたんだ。言わば、母は父の恩人だよね。その恩人にあんな仕打ちをするなんて許せる訳が無いよね。
 同棲を始めて一年後、長女が生まれたが、生まれて直ぐ死んだ。次が長男、生まれて直ぐ、今度は父の実家に取り上げられた。つまり、僕の叔父さんになる訳だ。二年後に兄が生まれた、次男なのに長男だった。今度は母は頑固に抵抗して、決して兄(次男)を手放さなかった。
 大学を卒業した父は東京の三菱系の繊維会社に入社して、出世コースに乗った、って訳らしい。もう戦争は始まっていたけれど、父は徴兵を免れた。本人曰く、それだけ会社に大事にされ、徴兵猶予になった。ってね、だけど真相を僕は知ってる。父は貧弱な肉体とど近眼の為、いわゆる乙種合格だったのさ。
 そんな父も敗戦間近赤紙が来て出征する事に成った。出征を間近に控えた日、ようやく婚姻届けを出し、母と兄は金沢に疎開し、終戦の一ヶ月ほど前に僕が、三男なのに次男が生まれたんだ。
 父は戦地に着く前に終戦に成ったから、正確には戦争を体験していない。こんな事を言ってはいけないのかも知れないけど、戦死してしまえば良かったのにね。

 父は戦後直ぐに帰国して、元の会社に収まって出世街道を驀進し、その会社始まって最も若い重役に成ったそうだ。ホンとかウソかは知らないけどね。
 
父は僕たちを六年もほったらかしにしていた、生活費は送ってくれたけどね。今度は母から受験期を迎えていた兄を取り上げた。僕が無事だったのは、落ちこぼれの出来損ないだったからさ。
 僕の通信簿は殆どオール2だったんだ。言い分けをすると、僕の信念に関係していたんだ。僕は宿題をした事が一度も無い、他人から、たとえ先生と言えども、強いられた事なんか出来ないよね。だから、僕はいつも立たされていた。一度だけ、理科で3を貰った。授業で僕がみんなだったら小便と言うところを尿という言葉を使ったからさ。

 毎年元旦の朝、父は兄を連れて家に来た。年中行事って分けさ。だから僕は元旦が嫌いだった。 

父はお年玉を皆に渡した後、元旦の朝食が開かれる。お屠蘇で乾杯した後、腰を据えて飲み始めた父は、僕の説教を始めるんだ。
「お前なんか中学で終わりだ、高校には行くな、行ける高校なんて無い。丁稚に行け!」
 僕が無視していると、色んな物がとんでくるんだ。箸や猪口や皿なんかね。父は酒乱だった。有る元旦、我慢の限界を超えた僕が父に飛びかかっていって大喧嘩さ。
 元旦以外にも、年に一度位だったけど、家に来た。大抵はハイヤーで来たが、一度だけ歩いてきたんだ。そんな時に限って、僕は駅の方に歩いていた。前方に見たことの有る男が歩いていた。父だ、僕は路地を曲がって父との遭遇を避けようかとも思ったけど、しゃくだからそのまま真っ直ぐ歩き続けた。二人はすれ違ったが、お互いにそっぽをむいて、無視を決め込んだ。そんな父と息子が生涯関係を修復出来なかったのは言うまでも無い。

 僕は中学生になった。義務教育だから仕方が無いよね。
 キンモクセイの強い芳香が家の周りに満ちあふれ、ナナカマドが真っ赤な実を結んだ。そう、秋がやって来たのさ。
 そんなある日、僕が大谷石の壁にボールをぶつけて、一人で野球を楽しんでいた。なぜ彼が側にいないのかって? 彼は重い病で寝込んでいたんだ。
 遠くから、大学生と若い女性が近づいてきた。
 僕はチラチラと観察しながら野球を続けた。
 大学生は上着のボタンを上から二つ、無造作に外していた。学帽は油でテカテカに光っていた。
「こいつ、不良だな」
 僕は見当を付けていた。若い女性は白のコートで、胸からスカーレットのスカーフが覗いていた。ちょっと変な組み合わせだけど、とても似合っていたし、不良の大学生には不釣り合いな、清楚な感じの美人だった。
 二人は僕の近くで立ち止まって、中学生の一人キャッチボールを見ていた。 
 暫くすると、不良は僕の家を一渡り見回して、二歩程近づいてこう言った。
「お母さん、いるかい?」
 まさかまさかの、二十二年振りの涙の再会だった。

 母は、自分より大きい不良大学生を抱きかかえ、
「ごめんなさい、ごめんなさい」と言って、何度も何度も謝っていた。
 側で正座していた彼女はポロポロと涙を流し続けていた。
 叔父さん(兄)は、物心ついた頃には実母の存在に気がついていたそうだ。それで当然ぐれた。だけど、結局は世の中に負けて大学に入った、父がコネか金を使ったに違いない。 
叔父さん(兄)は、社会人になったら母に会おうと堅く決意していたが、そんなに長く待てなかった。その時付き合っていた彼女を連れて駆け落ち行としゃれ込んだわけだ。
 叔父(兄)さんは、結局暫く家に逗留した。
 三日目の朝、叔父(兄)さんは朝から一人で出かけた。後から気づいたんだけど、父に呼び出されたに違いない。
 昼過ぎから、母と彼女はベランダで長いこと話し込んでいた。

 僕は広い庭で何となく遊んでいたんだけれども、ベランダから遠かったので話し声は聞き取れなかった。殆ど母が話して、彼女を説得し、励ましていたように見えた。母が封筒(お金が入っているに違いない)を取り出した時、突然風向きが変わり、声が聞き取れるようになった。
 母はこんな事を言っていた。
「決して貴女を辱めようと思っていないわ。気を悪くしないでね」
 母はその封筒を彼女に握らせようとしますが、彼女は受け取ろうとしません。
「手切れ金、なんてお願いだから思わないでね」
「それは分かっていますが、お母様、私受け取る訳には参りません」
「貴女の気持ち、私にはよく分かるわ。だけど貴女、帰りの汽車賃持っているの?」
 彼女は唇を噛みしめて俯き、か細い声で言いました。
「それは、なんとかします。友達とか親戚に借ります」
「東京にいるの?」
 彼女は頭を振りました。
 母は再び彼女に封筒を握らせました。
「お金って、とっても汚らしい物よね。だけど使う人によって、使い方によって大切な物にもなるのよ」
 彼女はようやく封筒を受け取れましたが、悲しさと悔しさで顔が歪んでいました。

 暫くして、支度を調えた彼女が庭にでてはました。
 彼女が門に向かって歩き出したので、僕は慌てて門柱を大きく開いて、旅立つ彼女の手助けをしました。
 門前に佇む僕の前で彼女は立ち止まり、暫く僕を見詰めていました。彼女の顔にはもう涙が見えませんでした。
 僕は何か言わなくてはいけないと思って、少し焦りました。その余り、変な事を言ってしまいました。
「また、遊びに来なよ」
 彼女はプッと吹き出して、アハハと声を出して笑い飛ばした後、微笑んで呉れました。
「元気でね」
「うん、お姉さんもね」
「有り難う」
 そう言った彼女は、駅の方に向かって歩き出しました。一歩、一歩をしっかりとした足どりで。
 でも、直ぐ引き返して言いました。
「今日はとても寒いよね」
「ちっとも寒くないじゃないか」
「いいえ、絶対に今日は寒いわ」
 彼女はスカーレットのスカーフを僕の首に巻いて、美しい手を差し出しました。
 当然僕たちは握手をしました。彼女は冷たくて優しい手を持っていました。
 踵を返した彼女は、凜々しくも毅然とした足取りで歩いて行きます。僕は初めて知りました。何事かを決意して旅立つ女性の姿、特に後ろ姿がとても素敵で美しい事をね。
 
 旅立ちから三日ほど起ったある日、叔父さん(兄)と僕たちは居間でテレビを見ていました。巨人対西鉄の日本シリーズです。今日も稲生が投げていました。高校野球じゃ有るまいし、よくも毎試合出てくるものだ。僕は巨人ファンだったので忌々しい気持ちで稲生選手を見ていました。あろう事か、その稲生投手がサヨナラホームランを打ったのです。
西鉄ファンだった叔父さん(兄)は小躍りして喜んでいましたが、僕は意気消沈して、稲生ってまるで悪魔のような凄い選手だと思い知らされながら、彼が寝込んでいる部屋を目指しました。
 彼の寝ている筈の部屋にその姿は有りませんでした。
 皆大騒ぎをして探し回りました。僕はきっと歩けるようになったんだと楽観をしながら、彼が倒れた日の事を思い出しました。
 彼は僕と遊んでいるとき、突然スローモーションのようにして倒れたんです。獣医の先生が来て、一室に寝かされた彼を診察しました。
「先生、治りますよね。何て病気なのですか?」
 先生は渋滞を造って中々口を開きませんでした。
「奥さん、・・・病名を敢えて言えば、・・・老衰です」
「老衰?! このジョンは家に三歳で来て、まだ十年しか経っていませんのよ」

「犬にとって十三という年は十分に老衰してもおかしく有りません。それに、このジョン君は最低でも三歳は年をとっています。はっきり言って治る見込みは有りません。最後の時間を穏やかに過ごさせて、看取ってあげて下さい」
 人生って皮肉だよね、あんなに憧れた座敷で死の間際に成って過ごせるなんて。彼はもう自力で立つことも出来ませんでしたし、ハアハアと息を弾ませていましたが、とても穏やかな顔をしていました。誰かしらが側に居てくれるのを喜んでいました。

 彼がようやく見つかりました。縁の下の奥の暗がりで息を引き取っていました。誰もが、涙を堪えきれませんでした。どうやって?! あの体でこあんな所まで這って行ったのだろう。僕も誰もが思いました。
 皆で相談して、生前走り回っていた庭に葬ろうという事に成り、親戚の一人が葬儀屋に走り、少し小さな棺を手に入れました。その間に残っていた大人たちが庭に大きな墓穴を掘りました。

 棺に遺体を納めて墓穴に葬って、手頃な石を乗せて墓石としました。蝋燭を立て、線香を焚きました。家政婦さんが気を利かせて、皿に彼の好物を乗せて持ってきました。僕はアケビの熟れた実を捧げました。キンモクセイはいつもより強い芳香を放って哀悼の意を表し、ナナカマドは真っ赤になって悲しんでいました。この庭の住人は、皆彼と大の仲良しでした。誰かがお経を唱え始め、誰もが手を合わせて唱和しましたが、僕はお経を唱える事が出来ずに呆然とただ立っていました。
 日が暮れて弱い氷雨が空から落ちてきました。それを潮に、大勢が家に入り、ベランダで彼の通夜を始めました。
 ジョン有り難う、皆がそう言っているようです。
 僕と母はまだ彼の墓碑の前に佇んでいました。
 母はちょっと屈んで、いつものように彼の頭を撫でるがごとく、墓碑をやさしく撫でています。
「ジョン有り難う。今まで、この子と私を守って呉れて。気が向いたらで良いのよ、また私たちを守ってね」
 ジョンは、優しく、強く勇敢だった、賢くて凜々しかった。いつも僕たち家族をなごませ、守って呉れた。
 ジョン! 有り難う。
 僕は当たりを憚らずに涙を流し続けました。一生で流す涙の半分はむこの時流しました。雨が強くなって、涙と雨粒との区別が付かなくなりました。

人は生まれた時、心は真っ白なんだ。育てられ方や、経験で少しずつ色がつくのさ。大切な人との別れで命の大切さを学ぶんだ。だから、僕は昆虫を虐めたり、野に咲く花を摘んだりしなくなった。

 三ヶ月後、不思議な夢を見た。
 夜明け前だったと思う。

僕は薄暗い大草原に立っていた。腰の高い草では無く、踝くらいの牧草だった。柵が延々と続き、その向こうに牛の群れが見えていた。
 カウボーイハットの大男が立っていた。
 僕が彼に近づくと、彼は振り返った。胸に銀に輝くバッチが光っていた。ワイアット・ワープかな? 彼はジョン・ウエインには似てなかった、むしろヘンリー・フォンダに少し似ていた。つまり、荒野の決闘のワイアップのように見えたって事さ。
「やあ、元気?」
「うん、元気だよ」
 僕は聞き出したい事が山ほど有った。
「すこし、聞いても良い?」
「ああ、だけど夜明けが近いから、長い話は無理だよ」

 僕は一番聞きたかった事だけを聞いた。
「どうしてすぐ東京に来てくれなかったの?」
「それは悪かったと反省している。君が東京に行ったって事はお見通しだった」
 やはり彼には人間の言葉が分かっていたんだ。
「俺は、この機会に、少しのんびりと旅を楽しもうと思った。暑い夏が苦手だったから、北海道を目指した。富山、新潟と、本当に快適な旅が出来た。山形の山に差し掛かったとき、桃泥棒団を見付けて、やっつけてやったんだ。随分感謝されて、その農家に十日ほど厄介になつた。その時、突然心配事を思い出したんだ」
「何?」
「君のことさ。だから、山脈を越えて太平洋に出て、後は東京まで真っしぐらさ」
 僕は賢明に頭の中に日本地図を描いて、彼の旅の走行距離を測っていたが、こんがらがって分からなくなったので、日数から距離を計算しなおした。約九十日、彼が一日に歩ける距離を三十キロに想定した。二万七千キロ、なんと三万キロも彼はこの旅で走破した事になる。
「君は九月の終わりに房総に行ったろ?」
 確かに行った、遠足でね。
「あれは良い道しるべになった」
「凄い、凄すぎるよ! 三万キロにも成るんだ」
「俺の鼻は、三億倍も君たちより効くんだ。警察犬なんかで間抜けなのがいるよね、直接捜す相手の匂いを嗅いで、地べたを嗅ぎ回ってるよね。あれはど素人がやることだ。俺は空を漂う空気から情報を探るのさ」
 彼は葉巻を咥えて火を付けた。あれっ! たばこは嫌いな筈だった。 案の定噎せた、彼はエヘンと咳払いをして胸を張った。
「君は俺のことをどう思っていたのかな?」
「それは、とても・・・」
 彼は僕を手で制してこう言った。

「当ててみせる。自分の子供のように大切に思い、とても愛してくれた。本当は全く逆さ、俺は君を本当の我が子のように愛し、守ってきた、これからもそうする積もりさ。ああ、もう時間が余り残ってない。最後に君のお母さんに助言がある。あんな男とは速く別れた方が良い。考えてもみたまえ、東京に大きな家が三軒、それぞれ家族もいれば使用人もいる。いくら大会社の重役としても、おかしいよね、彼はきっと悪事に身を染めている。とばっちりを受けない先に分かれるのが賢明な選択だ」 僕は彼の言うとおりだと思った。
 そこで目が覚めた。もう朝になって、日が差していた。
 彼は、ジョンは僕の守護神だったんだ。

 それから、僕の人生でいろいろ不思議な事が起きた。絶体絶命のピンチをなんとか切り抜けられるんだ。別に不思議じゃないよね、生きている限りどんなピンチも切り抜けたという事になる。そこで、僕は不思議な二つの話を披露する。

 僕には変な癖があった。歩きながら考え事をする、考え事をしながら歩く。どっちでもいいか。信号持ちの交差点では必ず一番前の右端に構えて信号を待つんだ。青に変わるのを待ちきれずに真っ先に飛び出すんだ。時にはフライングをした。赤の内に路を渡ったりしたんだ。繁華街や人通りの多い場所では大事に至らないよね、ププーッとクランクをならされたり、罵声を浴びせられて、それだけで済んでしまう。だけど、人通りの少ない夜道なんかはやばいよね。
 中学二年の時、夜道でやってしまったんだ、赤信号でフライングをね。 猛スピードで車が右折して来たんだ。激しい急ブレーキの音が僕の頭で木霊した。駄目だ、轢かれてしまう、僕は観念した。人はこんな時には全てがスローモーションで見えるんだ、経験している僕が言うんだから、確かな事さ。次の瞬間、何か黒い塊が僕に向かって突進して来たんだ。
 僕は道ばたで立ち上がって学生服の汚れを払い、身繕いをただしていた。急停車した車から運転していた若い男が出てきた。これって結構勇気のいる行為だ、って少し感心していた僕に罵声を浴びせた。
「馬鹿野郎、コンチキ野郎、どこ見てやがるんだ!」
 僕は男の剣幕にたじろいだ。
 連れの女性が助けて呉れた。
「大丈夫? 怪我してない?」
「大丈夫です。こうみえても受け身がうまいんです」
 僕は安全だったことを知らせる為に、体を激しく動かし、その場でジョギングをして見せた。

「念のため、病院行こうか?」
「一つも怪我なんかしていません」
「本当に大丈夫? あいつ運転が上手いから轢かれなかったけど、兎に角、信号を馬鹿にしてはいけないわ。気をつけてね」
 僕は青白い顔で頷いた。

 今度は、高校一年の秋だった。
 僕は父の予言にもかかわらず、丁稚奉公じゃなく、高校、それも有名な私立高校に通っていた。
 僕にとって、高校に行くというのは重要な問題じゃあ無かったんだけど、行かないのも癪にさわるよね。だから高校受験をした。都立高校と今通っている私立高校の二つを受けた。僕は都立は滑り止めだ。そう公言したが、内心私立の方が

少し自信が有った。理由は受験科目が三つしか無かった。問題の山なんか当たればどうにか成ると楽観していた。
 大人達は皆鼻で笑っていました。特に父の親戚なんかは特にね。あいつ(父)なんか無駄無駄、丁稚先を見付けておくさ。と暴言していたそうです。無理も有りません、僕の通信簿は相変わらずオール2でしたから。だけど、友達は皆、受かると思っていたそうです。後からだったらどうにも言えるからね。
 僕は都立に行こうと決断していた。母はジョンの助言を聞き入れて、離婚協議はとんとん拍子にすすんでいたから、授業料の安い方に行こうと決意したんです。
 どこからその話が漏れたのか、父の使者、従弟だそうです。僕の家にやって来て、こう提案したのです。
「私立の方に通わせて下さい、授業料の心配はさせません」
 母は黙って聞いていました。
「それから、あの高校に通えば、普通にやっていても東大に入れるでしょう。大学の経費は私が用立てさせて戴きます」
 この話には、条件が有りました。彼は娘だけ三人も居ました。いずれがアヤメかカキツバタ。そのアヤメかカキツバタと許婚になって、形だけでいいから養子になれと言うのです。
 もちろん、母は毅然として断りました。
「この子だけは私の手だけで育てて見せます」
 みんな忘れていました。父を卒業させたのは、他ならぬ母だった事を。母は見かけの優しさでは想像出来ないくらい、強い女でした。

 脱線した話を元に戻しましょう。
 僕はいつものように考え事をしながら、繁華街の雑踏を歩いていました。突然、誰かと肩が触れあいました。
「馬鹿野郎! なめるんじゃねえ!」 

アッという間に路地裏の奥に連れ込まれていました。四人のチンピラに取り囲まれていました。一人がナイフを構えました。
 僕は鞄で胸を隠し、血路を捜しましたが、彼らの囲みに好きは有りませんでした。
 僕は覚悟をきめ、鞄を下ろし、恐怖をようやく抑えて言いました。
「やるならやれよ! 刺すんだったら刺せば良い」
 ちゃんと言葉になっていたか自信が有りません。僕の胸は爆発寸前でした。
 その時、一人の大男が近づいて来て、チンピラのリーダー格に怒声を浴びせたのです。
「高校生を喝上げするなんて、みっともない事するんじゃねえ!」
 ペコペコと頭を下げたチンピラが言い分けをします。
「だけど兄貴、この制服を着た高校生は結構金とか金目の物持ってるんです」
兄貴と呼ばれた男は、万札を二枚チンピラに渡しました。
「みんなで何か食え」
「いつもすいません、兄貴」
 チンピラ達はこそこそと消えてしまいました。
 その男は暫く立っていましたが、やがて去って行きました。
 僕は、そろそろと用心深く通りに向かいました。
 通りに出た僕は、当たりを見渡してまたビックリ。なんと男がまだそこに居るでは有りませんか。
 男はヤクザとは思えない笑顔を顔中に浮かべ、少し屈んでこう言いました。
「坊や、今度チンピラとか不良に絡まれたら、一目散に逃げるんだ。足、速いんだろ?」
 確かに、僕は足が速かった。だけど、どうしてこのヤクザが知っているんだ?
 その男は雑踏の中に消えてしまいました。
 僕は、あの笑顔どこかで見たことが有ると思いましたが、どうしても思い当たりませんでした。

 利口な君たちの事だから、とっくに気づいていたよね。僕とジョンの話には、人の名前が一切出てきませんでしたよね。実話だから隠したのでは無く、忘れたのです、覚えていないのです。
 人は、辛いことや悲しいこと、出会いと別れ、裏切ったり裏切られたりする毎に、何かを忘れてしまうのです。人は記憶をだんだん失って、死ぬ間際にフラッシュバックのように記憶が蘇る。良く言われていますが、本当なのかなあ?! 死んでも居ないのに分からないよね!
 そんな訳で、僕は色んな記憶を失って行くのさ。その内、自分自身の名前も忘れてしまうに違いありません。
2016年12月6日  Gorou
 

炎の男火麻呂 、ぶぢの御衣 Ⅲ

2016-12-06 14:49:48 | 物語

 猪足は今、
 青丹よし 寧楽の京師は 咲く花の 匂ふがごとく 今さかりなり
 と歌われた平城京の朱雀大路で騎乗の人となっていた。京師を見るのは初め
てだった。
 朱雀大路は大路というよりまるで広場だ、八十メートルもの幅で羅城門から
朱雀門まで四キ
ロも続いていた。
 余りの壮麗さに有頂天になる猪足。近々この京師の住人となる事を、公卿に
列せられる事を
信じて疑わなかった。
 平城京を遙に望んだ時、猪足は入京を我慢することなど出来なかった。一行
を迂回させて生
駒で待たせ、己一人が羅城門から入城したのだ。
 前方に聳える朱雀門が近付いて来る。門を守護する大伴氏の衛士たちの姿も
はっきりと見え
て来た。猪足はその大伴氏を通じて多摩の民衆から掠めて貯めた財宝を朝廷に
献上して今の位
階を手に入れたのだ。彼は銭三千貫を用意していた。それだけ献上すれば必ず
従五位という公
卿の位を賜る筈だ。真面目に勤務して最大の評価を受けても、八十年から百年
はかかる程の昇
進を、来春早々にも受ける予定になっていた。
 朱雀大路を左折して三条大路を進む猪足、ふと振り返って朱雀門を仰いだ。
 鴟尾が陽に煌いている。
 突然不安に襲われる猪足。もしも、あの厄介者の火麻呂を始末しそこなった
ら? 筑紫まで
行かせてしまったら? 大伴氏である国守葛麻呂の覚えが悪くなるのは必定
だ。悪くすれば昇
進など水泡に帰すかも知れないのだ。
 膨れ上がる妄想に苛立つ猪足は馬の鐙を力いっぱい蹴って早駆けた。三条大
路から京師を抜
けて、暗越街道をひた走り、生駒山腹で一行に追いついた。
 せかせるようにして出発を命じ、更に先を急ぐ猪足、事を成すための手頃な
場所を探す為だ。
 平城と摂津を結ぶ最古の官道の一つ暗越街道は暗峠が国境になっている。
 その暗峠を摂津へと降り始めて直ぐ、下馬した猪足が待っていた。
「暫く休憩せよ」と命じて、十人の兵卒を束ねる火長の一人を呼んで何やら耳
元で囁いた。
 数人の隊士が真刀自の乗った荷車を引いて峠を降り始めた。
 血相を変えた火麻呂が荷車に向かって走った。
 行く手を塞ぎ、火麻呂を取り囲む兵士達。
 懐に手を入れた火麻呂が兵士達を睥睨して身構えた。
 そんな火麻呂を後ろから羽交い絞めにする泥麻呂、衣の中で刀子を握る右手
を抑えながら耳
元で囁いた。
「堪えろ火麻呂。ここで暴れたら思う壺だ。俺に任せろ」
 数人の兵士が火麻呂に殺到して両腕を抱えて自由を奪い、槍と太刀を胸と首
に突きつけた。
 火麻呂から離れた泥麻呂が荷車に歩み寄った。
 泥麻呂と荷車の間に立ち塞がる猪足。
 睨み合う二人。
「大人しくしていろ、泥麻呂」
 猪足の言葉を無視して顔を逸らせる泥麻呂。
 その視線の先、崖の斜面で馬酔木が花を咲かせていた。
 愛妻と同じ名前を持つその花をじっと見詰める泥麻呂。
 泥麻呂の脳裏に氷雨に煙る三つの墓石が蘇った。

 墓石の前に座り込んだ泥麻呂、中央の墓石を優しく抱きかかえ、頬刷りをし
た。雨か?
涙か? 顔がぐしゃぐしゃに濡れていた。
「武蔵の勇者日下部泥麻呂の愛妻馬酔木、美しく優しい、かなしき人が眠れし
墓なり」
 いつのまにか火麻呂が傍らに佇み、読み取れぬ墓標の銘を読み上げた。
 恨めしそうに火麻呂を見上げる泥麻呂。
「すまぬ!」
 泥麻呂の前に跪く火麻呂、両手を泥麻呂の肩にかけ、「すまぬ、この俺の油
断からこんな事に
なって」、泥麻呂の膝に顔を埋めて激しく慟哭した。
「すまぬ! すまぬ!」
 なにやら早口で言葉を続ける火麻呂、だが、興奮していてほとんど聞き取る
ことが出来なか
った。
「お前など信頼していたこの俺が愚かだった。火麻呂が傍にいてくれる限り三
人が無事に過ごせ
ると信じていた俺が馬鹿だった」
 泥麻呂の耳に「地震」と「火事」という火麻呂の言葉だけが木霊した。

 戦場で孤立した手負いの泥麻呂に、皮鎧の騎馬武者が襲い掛かってくる。
 態勢を整えられず、もはやこれまでか、と観念する泥麻呂。
 その時、
 ゴーオーッ! 凄まじい轟音と共に天地が壊滅した。騎馬武者でなく、凄ま
じい大地震が襲
って来たのだ。
 もんどりうって馬もろとも横倒しになる蝦夷の騎兵。
 生まれて初めて出会ったほどの大きな地震だった。
 ようやく立ち上がって身構える泥麻呂の脳裏にいいようのない不安が過っ
た。

 激しく揺れる地震の中でひた走る火麻呂、遠くに見えてきた泥麻呂の小屋が
炎上していた。
 病床の母親を助けようとして、幼い兄弟が小屋に向かって駆けていく。
「乳麻呂ーッ! 楓ーッ!」
 焦って叫ぶ火麻呂を激しく揺れて地震が襲って来た。
 堪えきれずに倒れてしまう火麻呂、素早く起き上がって小屋を目掛けて駆け
た。
 駆けても駆けても小屋に辿り着けない。
 炎が天にも届く勢いで燃え盛っている。
 火麻呂がようやく小屋の前に辿り着いて、その中に飛び込もうとした瞬間、
小屋そのものが
炎と共に崩壊して、この世から消えうせた。

 無言のまま、薄桃色の壷型の花弁を房のように咲かせている馬酔木の花を枝
ごと折る泥麻呂。
「騒ぎを起こせば汝の為にはならぬ。望みのままに褒美を取らせる」と下卑な
笑を浮かべる猪足。
「褒美も悪くはないが、大領、試して見るか?」
 と、固唾を呑んで事の次第を見守る兵士達を見渡しながら、馬酔木の花を太
刀の柄に蔓で巻
きつけ、その葉を大事そうに懐にしまった。
「あの兵士達がどうするか? 隊正の俺に付くか、郡司の汝につくか」と柄の
馬酔木の花を見詰
めながら言葉を続けた。
 怯える猪足、泥麻呂の隊を起用した事を後悔した。泥麻呂の率いるこの隊は
勇猛でなる多摩
団の中でも抜群の屈強を誇っていた。いざという時に一番頼りになったのだ。
しかも隊正の泥
麻呂は命令には従順で隊士達の統率にも優れていた。だが、迂闊にも泥麻呂や
兵士達に怨まれ
ているとは夢にも思っていなかった。
「誓う、約束する。火麻呂にもあの婆さんにも決して手は出さぬ」
 泥麻呂から早く離れたいが為に、必死に言い訳をする猪足。
 荷車に横たわる真刀自が経を呟きながら泥麻呂を拝んで手を合わせた。
 横佩の太刀の柄を逆手に掴んでパチリと鳴らし、猪足を威嚇する泥麻呂。
 驚いて跳び下がる猪足。
「な、何をする、早まるな泥麻呂、わしは多摩郡司であるぞ」
 ニタリと笑う泥麻呂、猪足の方にゆっくりと歩を進めた。
 怯えて後退りする猪足。
「寄るな、寄るな」
 腹心の蟷螂を手招きして太刀を渡す泥麻呂。
「誰かその太刀を取り上げてしまえ」
 渋々、蟷螂から泥麻呂の太刀を取り上げる兵士達。
「安心しろ、俺はそれほど馬鹿ではない」と、猪足の傍に寄る泥麻呂、小声な
がら凄みを利かせ
てこう囁いた。
「三途の渡し賃、高く付く」
 猪足は泥麻呂が火麻呂の処置を黙認する気だと勝手に思い込んで、一先ず胸
を撫で下ろした。
 馬に乗ろうとするが、なかなかうまくいかない猪足に二人の兵士が駆け寄っ
た。
 助ける振りをして轡を取る泥麻呂、懐から馬酔木の葉を取り出してその馬の
口に放り込んだ。
 兵士に助けられてようやく騎乗する猪足、荷車を先導して峠を降りて行っ
た。
 火麻呂もまた一団の兵士に囲まれて後に続いた。
 威厳を保とうと馬上で踏ん反り返る猪足、だが顔面は蒼白で握る手綱が怒り
で震えていた。
「褒美などやるものか。覚えておれ泥麻呂、 後悔させずにおかぬぞ」
 生駒の断崖に沿って馬を進める猪足が竹林と崖が造る切通の中に隠れ、真刀
自も火麻呂もま
るで場に引き立てられて行く家畜のごとく、切通しに吸い込まれ、やが
て、闇の中に掻き
消えた。

 春霞が雲のように棚引いていた。
 風に揺らぐ草花の上を雲の影が走り、真刀自の荷車がその影に覆われた。
 横たわる母が痩せ衰えていた。
 火麻呂が母真刀自を間近に見るのは出発の朝以来だった。
「母刀自、こんなに悪かったのか」
 まじまじと母を見回し、思わず涙ぐむ火麻呂。
「たいした事は無い、ほんとはもう歩けるのだよ」
 荷車と火麻呂の周りを十人程の兵士が取り囲んで槍衾を造っている。
 その草原の外れの街道が二股になっていた。
「火麻呂。特別の計らいで逃がしてやる。早く逃げろ」
 背後で猪足が大声で喚いている。
「左の街道は難波に通じている。防人になったら死ぬまで故郷に帰れぬぞ。筑
紫に着く前に
婆さんはくたばってしまうぞ。右の街道は近江から越前まで伸びておる」
 ゆっくりと声の方に振り返る火麻呂。
 遠くから猪足が豚のように吼えていた。
「吉志は高志から分かれたなどとほざいておるが、高志とは越後の越の事じ
ゃ、お前は越に辿
り着いた蝦夷の末裔じゃ。越後まで流れて行け。海を渡って新羅か渡島にでも
行くが良い」
「断る。汝の悪巧みになど乗るものか」
 大声で叫ぶ火麻呂。
「逃げねばここで殺す」
 太刀を抜いて頭上でぐるぐる回しながら、猪足が甲高く叫んだ。
 猪足の奇声に怯えたのか、牛が興奮して歩き出した。
 牛を宥めて口輪を抑える火麻呂、観念して街道に向かった。
 ぞろぞろと付いて行く兵士達、草原の隅から街道まで荷車を持ち上げて牛と
火麻呂を助けた。
 二股で止まって迷う火麻呂。
 騎馬の猪足が走ってくる。馬酔木の毒が利いてきたのか、馬の足取りが心な
しか乱れている。
「難波に行かすで無い、それっ! 道を塞げ」
 猪足の命令に従った兵士達が難波への道を塞いだ。
 仕方なしに右の街道に行く火麻呂。
「それっ! 防人が逃げたぞ、捕まえろ! 殺せ、殺せ、殺せ!」
 ためらいながらも火麻呂の後を追う兵士達、火麻呂と荷車を取り囲んだ。そ
の時、頭上から
ザザザザーッとばかりに人が二人降って来た。
 泥麻呂と蟷螂が崖から滑り落ちてきたのだ。
 太刀を抜いた泥麻呂と大鎌切を両手にした蟷螂が兵士達の前に立ちはだかっ
た。
「な、何をしておる、早く殺せ、皆殺しにしろ」
 うろたえ、狂ったように叫ぶ猪足。
 ようやく一人の兵士が槍を構え、力なく火麻呂に突きかかった。
 なんなくかわして槍を奪う火麻呂。その槍を猪足目掛けて放り投げた。
 飛翔する槍に怯える猪足、鐙を蹴って一目散に逃げ出した。
 人も馬も激しく息を切らせ、脚をバタつかせて足掻いた。
 ヒューッと不気味な音を立てて猪足の頭を掠めて草原に突き刺さる槍。
「ヒエーッ」
 馬よりも猪足が嘶いた挙句に無様に落馬した。
 なおも草原を這って逃げる猪足の目に、突進してくる火麻呂と泥麻呂が見え
た。
「許せ、許せ、助けてくれッ!」
 仰向けになってめちゃくちゃに太刀を振り回す猪足。
 刀子を構えて猪足に迫る火麻呂に泥麻呂が体当たりを食らわせた。
 もんどりうって転がる火麻呂。
「邪魔をするな!」
「あの獣は汝には渡さぬ。ウオーッ!」
 雄叫びを上げて猪足に突進する泥麻呂。
 素早く立ち上がった火麻呂が後を追った。
「ヒエーッ、許せ、許せ」
 泣き叫ぶ猪足に向かって飛び跳ねて太刀を振り下ろす泥麻呂。
「ギャーッ!」
 断末魔の叫びを上げながらも地を這い蹲って逃れようとする猪足。
 猪足に馬乗りになる泥麻呂。
 雲間から姿を現した太陽が地上の全てを明らかにして照らした。
「ウオーッ!」
 逆手で太刀を振りかざす泥麻呂の顔から汗と涙が迸って散った。
「ウオーッ! アセビーッ! カエデーッ! チチマローッ!」
 泥麻呂は言葉に成らぬ雄叫びで妻と子の名を呼び、
 草原と大地もろとも猪足を突き刺した。
 空中に馬酔木の花弁が散らばり、陽光に照り返して虹色にきらめいた。
 走る火麻呂は虹の中に不思議な微笑を浮かべる雅を確かに見た。
 厚雲が陽光を遮り、微笑む雅が掻き消えた。
 虚空に舞う無数のはなびらが薄紫色に沁みてひらひらと屍体の上に降り注い
だ。
       (ふぢの御衣 完、火麻呂は続きます)
      2016年12月6日  Gorou

Kozue(胡都江)~Twins of Formosa 十Ⅴ

2016-12-06 14:37:51 | 物語
十五 駆け落ち

 三月三十日、月曜日。駆落ち前日だ。
 ようやくこの日まで無事に漕ぎ着けた。
 だが一つの事件が私たちを襲った。吉之輔が失踪したのだ。前夜から宿に戻らないという。誰にも皆目見当がつかなかったが、私だけは金田の仕業ではないかと心配をした。
 舞台のはねた後の夜十時、ヒゲが座長を訪ねてきた。一時間ほど密談をしていただろうか?
 ようやく座長の部屋から出てきたヒゲを捕まえて問いつめると、こんな話だった。
 前の夜、手本引きという花札賭博で吉之輔のイカサマがばれて、拉致されたのだ。金田の所属する組織の賭場だという。
 金田の前で折檻された吉之輔が、有ること無いことを吐いたと言う。中身までヒゲは教えてくれなかった。大金無しに吉之輔を離す事は出来ないと言う。それで、ヒゲが使者として座長を訪ねたのだ。
 嫌な予感がしたが、駆落ちにはかえって好都合かも知れない。胡蝶と吉之輔夫婦には気の毒だが、そう思った。
 この日のうちに駆け落ちの準備を全て終えた。
 東京までの新幹線の切符を買い、オーディオやレコードなどの大事なモノは局留めで送った。
 
 ガランとした寒々しい部屋で寝たせいか、色々な夢に魘された。
 どんな夢だったのか殆ど覚えていない。思い出せるのは河野と由美子の夢だ。いや私が河野となって、由美子と共にアラビアの砂漠でゲリラになっている夢だ。
 サナアの遊撃手と称えられるゲリラとなった私、その傍らにはいつもアラブ女性に変装した由美子がいた。
 ヴェールで顔を隠しているが、目だけで由美子とハッキリ判った。
 由美子は神秘のヴェールに包まれた謎の女狙撃兵だ。
 オアシスに潜んで由美子がライフルを構える。
 蜃気楼の中からラクダの隊商が揺らめきながら出てきた。
 由美子の美しい指が引き金を引いた。
 バキューン!!
 私の意識は弾丸となって跳ねた。
 もの凄い速さで狙われた男の顔が迫ってくる。
 男の額の直前でハット息を呑む私。
 狙われていたのは私だったのだ。
 額のど真ん中に命中する弾丸。
 私の意識は暗い闇の中に沈み、深い眠りについた。

 リーンリーンリーン。
 遠くで電話が鳴っている。
 リーンリーンリーン。
 電話の音が近付いて来る。
 寝床から手を伸ばして受話器を取る私。
「こんな時間に起こして御免なさい。私です、由美子です」
「どうしたの? 由美ちゃん」
 昔、こんなことが確かにあった。
「河野さんの居る所教えて下さい」
「河野の? さあ?」
「隠しても駄目です。京都に居る事は知っています」
 京都? 河野は東京に居る筈だ。頭が朦朧としている。
「河野は確か東京に居る筈だけど」 
「とぼけないで下さい。・・・いいわ、もう、いいわ、私、自分で捜します。でも、御免なさい、こんな時間に電話して」
 一方的に電話を切る由美子。
 デジャヴ、確かに覚えている。だが、深くは考えずにまた寝た。 
 
 三月三十一日、火曜日。
 リーンリーンリーン。
 遠くで電話が鳴っている。
 リーンリーンリーン。
 電話の音が近付いて来る。
 寝床から手を伸ばして受話器を取る私。
「もしもし、私。一体何時まで寝ているの」
 春実だ。
「おはよう。・・・どうしたの?」
「なにがお早うなの!・・・何にも知らないの?」
 枕もとの時計を見ると、もう一時を過ぎていた。
 それにしても、春実は何をこんなに焦っているのだ。
「大変な事になっているのよ。・・・テレビをつけて」
 眠い目を擦りながらテレビをつけると、
 よど号ハイジャックの報道が飛び込んできた。
「まさか河野君じゃないでしょ!?」
「まさか!?」
 赤軍派だ! 河野達に違いない!
「まさかとは思うけど、由美ちゃんに連絡した?」
「それが捕まらないの、病院は休んでいるし、電話にも出ないわ」
 由美子の電話番号を聞いて電話を切った。
 活動家を愛人にしている賢い娘が簡単に電話になど出るものか。
 河野と由美子の性格を考えた。懸命に考えて読もうと試みた。
 ワンコール? ツーコール? それとも?
 ツーコールに賭けた。
 ワンコール、ツーコール、受話器を置いて直ぐにかけた。
 なかなか出ない。
 大きく深呼吸をし、はやる心を沈めて目を瞑った。
 テレビの音が遠ざかっていく。電話のコール音だけが残った。
 美しい手が受話器の上で迷いながら漂っている。
 消毒液の匂いが鼻を擽る。
 由美子、君は独りで河野の事を心配しているのだろうか? お願いだからこの電話に出ておくれ。
 私の願いも虚しく、由美子の手が受話器から離れて行く。何も感じなくなってしまった。
テレビの音が甦り、私は力なく受話器を置いた。
 午前七時二一分発の、日航機「よど号」が一三一人の乗客を乗せて羽田から福岡へ飛び立ったという。
 午前七時三二分 、富士山上空にさしかかったところで、日本刀を振りかざした数人が操縦席に乱入してハイジャックを宣言。
「われわれは関西の赤軍派だ」と名乗り、北朝鮮行きの計画を明らかにしたという。
 私はテレビから目を離す事が出来なかった。
 関西の赤軍派という事実に一縷の望みを託して考えた。河野は福岡出身で、東京の大学を出ている。だが、福岡出身と福岡空港に着陸している「よど号」という現実が更に不安を募らせた。大学とて卒業していないのだ。河野が活動の基盤を関西に置いていたとしても不思議は無い。
 赤軍派と日本政府との鬩ぎ合いが続く。
 エンジン故障などと偽る、政府側の姑息な手段が外れ、幼児や病人二三人が降ろされた。
 午後一時五八分、「よど号」は福岡空港を離陸した。
 北朝鮮の平壌空港に向かった筈が、偽装作戦でソウルの金浦空港に午後三時一八分に着陸した。
 時間が過ぎるたびに、河野と私の距離が離れて行く。ハイジャックなど成功する分けが無い。河野は、韓国の特殊部隊に、狙撃兵に撃ち殺されてしまうのだろうか!?
 気がつくと早くも六時を回っていた。
 私は慌ててホテルに走った。
 ロビーで夕刊を掴んで、読みながら舞台に向かった。テレビ以上の新しい情報は何も無かった。犯人の身元はどこにも乗っていなかった。

 朝から胡蝶が金策にかけずり回っているという。
 それでも開演までに胡蝶は帰ってきたが、その日の舞台はまったく冴えが見えない。珍しくも台詞をとちったりもした。
 私は私で、何も手につかなかった。頭の中はハイジャックの事で一杯だった。駆落ちの事を舞台が終わるまで忘れていた位だ。
 河野の事は、私がどう心配しようが、いくら足掻こうがどうする事も出来ないのだ。成り行きを見守るしか術が無い。せめて無駄死にしないことを祈った。
 
 舞台が終わると,胡蝶はあたふたとドーランを落として出かけた。金の都合が出来たのだろうか? 私が心配をしても始まらない。まあ命までは取るまい、吉之輔の命など奴らにとってなんの足しにもならないからだ。
 私は流行る気持ちを抑えるのに苦労をした。アパートに飛んで帰って、この熱海を出来るだけ早く離れたいのだ。後少しの辛抱だと、己を励まして、その時間を待った。
 意外にもミズエに動揺が見られない。忘れてしまっているのかと思い、何度確認しようとしたか知れない。
 ようやく十時を過ぎ、クラブでのミズエのラストステージがやって来た。
 ミズエは文字通りの最後の曲をコズエとのデュエットで締めくくった。

 ♪白いベンチに 別れを告げて
  二人はどこに あれから行ったの
  若い二人 からだとからだ
  求め合って 生きた
  忘れたものを 二人 
  探してみたいの あなたと
      作詞:山上路夫 作曲:筒美京平
 
 確かこんな歌詞だったと思う。待合室の白いベンチを思い出して、何故か安心したので、ステージが終わるのを待たずにホテルを出た。
 もう二度とこのホテルに来ることは有るまい。
熱海の夜景もこれが最後かも知れないと思うと少し悲しかった。
私にとって単なる駆落ちなどという色恋沙汰では無く、これは人生を賭けた再出発なのだから、誰にも祝されぬとも、己だけでも祝わなければならない。
 一人の女を魂の限りに愛せぬ男などに、人を感動させることなど出来ようか。ミズエを愛しぬく事は、私のこれからの人生そのものの賭けなのだ。

 ガランとしたアパートで荷造りをした。
 何度も何度も時間を確認した。早く行き過ぎてもしくじる。誰が見ているかも知れないのだ。
 熱海の駅まで十五分、慎重に計算をして、十時四十五分にアパートを出た。 
 いつものようにTシャツにGパン、スーパーマンのウインドブレーカーを着込んだ。
 気が向かなかったが、ホテルの前を通った。通らねば遠回りになってしまう。そこまで計算してアパートを出れば良かったのだ。後悔しても遅かった。
 案の定ホテルで嫌なモノを見た。車から出る胡蝶と吉之輔を見たのだ。金田が後に続いている。言いしれぬ不吉な予感が私の心を充たした。
 見つからぬよう気を付けた。ホテルに三人が消え、車が熱海の町並みに姿を消すのを慎重に待ち、駅に向かって走った。
 夢中で駆けた。あの時、既にミズエがホテルを退散している事を祈った。祈りながら駆けた。
 熱海駅の待合室の白いベンチが遠くからも見えた。誰かが座っている。男のようにも見えたが、近づくとそれはミズエだった。男物のあのトレンチを纏っていたのだ。まだ見ぬ父親の形見とも言えるトレンチを羽織って、この娘は私との駆落ちとしたのだ。
ミズエは何やら呟きながら、神に祈るかのように瞑想していた。両手を後ろに廻し、逆手で柏を打つようにし、上体を海老のように反らせて懸命に祈っていた。いや、何かを呪っているようにも見えた。
 激しく息急きながらも、私はミズエの傍らにそっと腰を下ろした。
 祈りを終えたミズエが嬉しそうにニッコリと微笑んだ。
 トレンチの下にサブリナパンツをはき、この日のミズエは長い髪を真知子巻きで隠していた。
 夜の熱海に消防車のサイレンが鳴り響いている。パトカーも走り回っている。
 そのサイレンの音が駅の近くから海岸通りの方へと遠ざかって行く。
 嫌な予感が脳裏を掠めた。
「何処へ行くの?」
「取り敢えず東京」
「わたし、東京初めて」
 声を弾ませてミズエが言った。
 その時、確かに私は東京に行く積もりだったが、思わぬ所から計画が狂った。運命の悪戯としか言いようが無い。
 直ぐそばのベンチに綾香がいた。
 濃紺の紬に桜柄で揃えたバッグと草履の綾香が私たちを見つめていた。連れの中年男が切符を買う為に席を離れると、直ぐ私たちの側までやって来て、私の横に腰を下ろした。
「駆落ち?」
 いきなり、いとも簡単に見破られた。少しは遠慮をして欲しいモノだ。
「違います」
 と言いながらも、私は大きく頷いてしまった。
「どうして分かるのですか」
 綾香は辺りを憚らずに笑って、それでも小声で言った。
「それじゃ誰が見たって、直ぐに分かるわ」
 私が大きな鞄を二つとバイオリンケース。ミズエだって若き娘にも似合わぬ無粋な鞄を持っている。それに二人の格好が頗る目立つのだ。無理も無い。
 綾香は桜柄のバッグから御祝儀袋を取り出し、その裏に自分の電話番号を書いた。
「私のような商売を長くしていると、色々な街に知り合いが出来るものなのよ。きっと役に立つから、何処に落ち着いても必ず電話しなさいね」
 更に、袋の中に万札を数枚忍ばせて、私にではなくミズエにそれを渡した。そして声を潜めながらも、
「この人から目を離しちゃ駄目よ。ちゃんと見張ってなくちゃ駄目。なんて言ったって男は女次第。いいこと、絶対に幸せにならなくちゃ駄目よ」と言った。
 コックリと頷くミズエ、その目が珍しくも大きく輝いている。
 目を離さぬ理由も、見張らねばならぬ道理も良く分かった。競馬に麻雀、博打の事を言っているのだ。
 私だって、愛する女との恋の逃避行を、まさか博打三昧で過ごそう等とは思ってもいなかったのが事実、その恐れが充分有ったのも真実だ。
 呆れるほどサバサバとした様子で、綾香が離れて行く。
 男が戻って来るのを待って改札に入って行った。
 私たちも後をついて行った。自然にそんな形になってしまった。
 綾香達は東京方面の新幹線ホームへと向かっている。
綾香が私たちを微かに振り返って直ぐに視線を戻した。
仕方が無いので私は東海道線ホームを登った。戸惑いながらもミズエがついてくる
 ホームから熱海の街を見ると、海岸の方が赤く、明るくなっていた。
 コダマが熱海に止まり、通過して行く、これが東京行最終列車だ。なんだか情けないような言いようのない寂しさが私の身体と心を襲う。
 消火を知らせる消防車の鐘が聞こえて来た。多分小火で済んだのだ。続いてサイレンの音が聞こえてきた。救急車だろうか? それともパトカーなのか? 私の不安はますます増した。
 冷たい東風が私の右頬を掠めた。
 花びらが一枚、舞いながらミズエの頬に戯れている。
「東京には行かないの?」
 ミズエがか細い声で言った。
「うん、気が変わった。西の方に行こう。その方が駆落ちらしい」
 ミズエがトレンチのポケットから翡翠のペンダントを取り出した。
 金の鎖の先に繋がれた翡翠は透明で神秘的な輝きに満ちていた
 ミズエが伸び上がるようにして私の首に翡翠を掛けてくれた。梅の香りが漂って来る。
「コズエの翡翠があなたを守ってくれたように、私の翡翠もあなたを守る」
「もう一度だけ僕の命を救ってくれるわけだ」
 私の胸に頬を埋めるミズエ。
「ほんとは翡翠なんかいらないのよ、私がずっと側にいてあなたを守るわ。二人はいつも一緒、離れては生きて行けないのよ。永遠に・・・、二人の愛は永遠に続くのよ」
 懐かしいD51に曳かれた夜行列車が入って来た。
 
 今、夜行列車は西へと向かっている。
 直ぐに車掌が来たので東京行きの二枚の切符を出して、
「間違って買いました」
「どこまでです?」
 呆れるほどぶっきらぼうで、不気味な車掌だ。
「京都まで」
 何処に行くとも決めていなかったのに、思いも寄らぬ事を言っていた。
 思えば、東京とは東の京都の事だ。東京へ行かぬなら、京都が相応しいかも知れない。
 星の綺麗な夜だった。

 窓際に座るミズエの車窓に緑の山々と星が流れ、伊豆の山並みを抜けた。富士の裾野に拡がる駿河の国に入ったのだ。
 ミズエがトレンチの襟を少し開いて私に胸の翡翠を見せた。
「コズエに貰ったの」
 耳元で囁くミズエ。
 ペンダントを私に見せて、無邪気に微笑むミズエ。
 翡翠が微かに煌いた。
 ああ! 翡翠に想いを載せてコズエも駆け落ちについてきたのだ。

 ベルトに巻いた腕時計を見ると、午前零時を回っていた。
 四月一日。こんな日に私たちは駆落ちをしようとしている。よりによってエイプリルフールの日に、西に向かって、京都へと落ちて行こうとしているのだ。
 車両にはほんの数人しか乗っていなかった。
 不気味な操り人形を抱きかかえて乳を与えている若い女。嬰児はきっと私だ、若い女は母だ。母の若い頃の写真に驚くほど似ていた。いいや、母よりもコズエに似ていた。
 将校姿の軍人が二人。向かい合って睨み合うようにして座っていた。軍刀を下げ、頭に大和魂の日の丸をしていた。自衛隊でも無ければ、帝国陸軍軍人でも無い。その一人に見覚えがあった。確かに何度か見た事が有る。小柄ながらがっしりとした、鍛え抜かれた肉体を持ち、鋭い目と精悍な瓜実の顔を持っていた。
 一体誰なのか、その時はどうしても思い出す事が出来なかった。
 二人の軍人は、今にも刺し違えて切腹しかねない程の形相で、互いを睨み付けている。
 いつしか二人の軍人が赤軍派の闘士に変わった。二人ともあまりにも激昂しているので、河野かどうかも定かでは無かった。確かに河野の様でもあった。少なくとも後ろ姿は、私のアパートから去って行く彼の背中そのものだった。
 とにかく不思議な車両だった。

 ミズエが棚のバイオリンケースを見上げながら呟いた。
「アマティって何? 人の名前?」
 やはりミズエにも透視能力があったのだ。
 アマーテイ、私はストラデイバリウスよりもアマーテイ型のバイオリンを好んだ。ニコラ・アマーティ、ストラデイヴァーリもグァリネリもニコラ・アマーティの弟子だ。
 私の愛器もアマーテイの精妙なコピーだ。
 華麗で絢爛たるストラデイバリウスに対して、アマーテイは姿も音色も優美で甘く哀しく、切ないほどに女性的だ。私だったら、モーツァルトのドゥッペル協奏曲はアマーテイで弾く。
 私の左手が、いつしかその愛器を抱えていた。
 前面ガラス張りの窓から東京タワーが見えた。その下に広がる夜景。確かに六本木からの夜景に違いない。
 私は冴えた意識の中で夢を見ているのだろうか?
 それとも? コズエに触発されて、私に予知能力が芽生えたのだろうか?
 フォルモサの娘がマイクを構えて私に目配せをした。
 私は、アマーテイの背中を右手で愛撫するようにして撫で下ろし、くびれた腰を優しく支えて顎に当てた。
 右の小指にぶら下げていた弓を持ち替え、甘く切ないメロディーを奏でた。

 ♪ニイウオシャンナハイオウ ウイゥイェウツオウ
  スウァンスウァンビイランアウユ
(わたしたちはあのかもめのように、心配事も悲しみも無く、翼を並べて気儘な旅をするのよ)
 と、フォルモサの娘が北京語で、駆け落ちの時にはこの世に存在している筈も無い歌を唄いだした。

 ♪プンシウンナツァイハオン フェタウナテンチンタオ
 (あの虹に向かって 空の果てまで飛んで行くのよ)

 いつしか私は鵬となって南冥を目指して逍遥遊していた。
 片時も離れずフォルモサの娘が共に飛んでいる。
 何という安らぎだろうか。
 私は永遠とも言える至福の時を愉しんだ。
 地上の暗闇からデゴイチの咆哮が聞こえ、私を見果てぬ夢から呼び戻した。
 濛々とした白煙、その霞の中から車窓が浮かび、ミズエが車窓越しに見えた。その横に私自身の姿も見えた。
 私の意識は列車を大きく飛翔して、伊豆の山々を越えた。
眼下に、姉妹の従妹愛親覚羅慧生が学習院の同級生大久保武道と心中した、あの天城山が見えた。
そして、私は慧生の最後の手紙を知っていた。
《なにも残さないつもりでしたが、先生(学習院新星学寮の寮長)には気がすまないので筆をとりました。大久保さんからいろいろ彼自身の悩みと生きている価値がないということをたびたび聞き、私はそれを思い止まるよう何回も話しました。二日の日も長い間大久保さんの話を聞いて私が今まで考えていたことが不純で大久保さんの考えの方が正しいという結論に達しました。
それでも私は何とかして大久保さんの気持を変えようと思い先生にお電話しましたが、おカゼで寝ていらっしゃるとのことでお話できませんでした。私が大久保さんと一緒に行動をとるのは彼に強要されたからではありません。また私と大久保さんのお付き合いの破綻やイザコザでこうなったのではありませんが、一般の人にはおそらく理解していただけないと思います。両親、諸先生、お友達の方々を思うと何とも耐えられない気持です。》

 熱海の鮮やかな夜景が近づいて来た。
 その熱海の夜景の中で紅蓮の炎を上げているホテルが有った。
 熱海グレートホテルが燃えているのだ。
 私には、その中の光景までハッキリと見えた。コズエが吉之輔の心臓を一突きにして笑っている。吉之輔の死体を前に笑いながら踊り狂っていた。
 狂いながらコズエが奈落へと落ちて行く、その先は暗い深海の中だった。レティシァのように、コズエが海の底へと沈んで行く。
 更に意識は未来へと跳ねた。
 六本木のナイトクラブでフォルモサの娘が歌っていた。

 ♪ピアニストが甘い歌を弾いているわ
  人の気もまるで知らぬふりをしているわ
  飲んだくれて悪いジョークとばしているわ
  何もかも同じ景色だわ
  ただの別れだったじゃないの
   沈んだ顔見せては駄目じゃない 
 そうよ 男には女の 女には男の
  まごころがいるけど あいつじゃないわ
  あいつではないわ
      作詞:阿久悠 作曲:井上忠夫
  
 フォルモサの娘が歌うあいつが桜の大樹の下で、胸から血を流して倒れていた。
 私は必死に胸の翡翠を探した。無い! どこかに忘れたのだろうか? それとも無くしてしまったのだろうか?
 傍らに佇む黒い影、その男が焦点の定まらない眼で私を見下ろしている。
 誰だろう? 確かに会った事がある。私はこの鬱陶しいほどに陰湿なこんな男に殺されるのだろうか?
 
 ♪レインコート壁に掛けたままで行った
  ブーツまで 隅の方に置いたままでいる
  置き忘れは そんなものが二つ三つ
  心だけ持って行ったのね
  ただの別れだったじゃないの
  何でもないよくあることじゃない
  そうよ 男には女が 女には男が
  寄り添っているのが 幸せだけど 
  あいつではないわ

 降りしきる春の雪と散る桜花の中で意識が遠のいて行く。
 私の意識がその肉体から遊離して行く。
 突風が梢の雪を舞い散らし、まるで春の桜吹雪のように辺り一面に舞い、桜花もまた胡蝶の如くに舞った。
 麗しきフォルモサの娘が私の肉体の傍らで佇んでいる。
「なんて美しいんだ! まるで神のようだ」
 フォルモサの娘は私の意識の方を見上げ、あいつに何か呟いた。
「ニイウオスウァンスウァンビイランアウユ(わたしたちは翼を並べて気ままな旅をするのよ)」
 北京語など分からぬ筈だが不思議に意味が解った。
 散り行く桜花を偲んでか二羽の胡蝶が舞い込んできた。
 二羽の胡蝶は対の羽の如くに一体化していたと思うと、睦み合う雌雄の胡蝶となり、雄を争う二羽の雌となって舞い、花となり華を競い、桜花と共にこの世からかき消え、私の意識は再び現実の世界に戻った。

 私は今、イラ・フォルモサ、美しい島の麗しき娘と駆落ちんとしている。神のように美しい娘と、西へと向かい、彷徨う流離いへと旅立とうとしている。
 ほんの十何時間前に、河野の「よど号」が上空を飛んだ富士山、その美しい影が、今山肌に隠れようとしている。
 私は富士に向かって敬礼をし、河野の為に黙祷を捧げた。
 いつの間にか、夜行列者が新蒲原に停車していた。
 御殿山の桜が今を盛りと咲き誇っている。
 御殿山の広場から、もう一人の私が綾香と共に夜行列車と駿河の海に散らばる桜海老漁の漁火を眺めている。その私は本人でさえ確認できぬほどにやつれて悲惨な風貌になっていた。病的なまでに虚ろな眼で未来の私がフォルモサの娘との道行きを見守っているのだ。
 春の風に誘われて、桜吹雪が天空に舞って散った。
 デゴイチが咆哮し、夜行列車が静かに走り出した。ゴトゴトゴトゴト、車輪の音が次第に大きくなる。
 フォルモサの娘が車窓から海を眺めていた。
 神のように美しく、胡蝶のように儚い、フォルモサの娘の美しい顔が車窓に映っていた。
 満天に眩いばかりの星が輝いていた。
 漁火が駿河の海に散らばって行く。
 全てが神々しいまでに厳かで、
 夢のように美しかった。

 天に星
 地に花
 海に業火
 車窓に永久に煌き続ける二つの光
 2016年12月6日   Gorou