二
この日、左大臣長屋王の邸宅では大規模な法会が営まれていた。
元々は父母の供養として計画されていたが、皇太子の重病で平癒祈願の法会
に切り替えられた。
大安寺、元興寺、薬師寺などから大勢の僧侶が集まり、早朝から荘厳な読経
が続いている。
噂を聞いた僧侶や沙弥が法会の会場、中央内郭に次々と集まり、まるで京師
中の僧侶がこの邸宅に集まってしまったかの如き景観を呈した。
読経の効果が早くも現れたのか、冷気と濃霧に覆われていた午前中に比べ
て、正午を過ぎると、鮮やかな秋晴れの空が戻ってきた。
読経する僧侶達の熱気はいやがうえにも高まった。
長屋王の邸宅は四町にも及ぶ広大な敷地を誇っていた。平城京では亡き藤原
不比等の館と双璧を成している。
大きな池に御座舟を浮かべ、長屋王、大伴旅人、葛麻呂が密談をしていた。
御座舟にもう一艘の船を併走させ、管弦に合わせて、美しい巫女たちが優雅
に舞っていた。
五十間程離れた中央内郭からは千僧の読経が聞こえてきた。
「葛麻呂、貴方が赴任する能登は小さいが、武蔵などに比べて大変重要な土地
です」
木簡に走らせる筆を止めて旅人が言った。
「比羅夫将軍の東征、白村江の派兵、常に我が国の水軍の主力を成していまし
た。速やかに水軍を掌握し、能登の製塩、羽咋の造船を盛んにする事が貴方の
使命です」
「折を見て越前もそなたに与える」
旅人に続いて長屋王。
「有り難き幸せに御座います」
恭しく跪礼する葛麻呂、だが心はここに非ず、対岸の珍しい光景に奪われて
いた。
辺で水を飲んでいた鹿の群れが怯えて散った。
虎が水を飲みに来たのだ。
「窮鼠猫を噛むの例えの如く、追い込まれた藤原が何を仕出かすか分からぬ。
事有れば直ちに能登軍団を率いて愛発を抑えろ」
「能登の政は難しい、あい争う高句麗系の能登臣、新羅系の羽咋君、二つの豪
族の力を一つに纏めなさい。特に羽咋君は中々の曲者、油断は成りませぬぞ」
「いやいや道君のほうが余程難しい。能登の真の王は未だに道君であるのかも
知れぬ」
対岸に虹色に煌めく羽を持つ珍しい鳥の群れが現れた、あああれが孔雀なの
だろう、と想像する葛麻呂。
「この葛麻呂、我が身を惜しまず励みまする」
「ハハハ、そう硬くならずとも良い、気楽にせよ」
のんびりと木簡を旅人と交換する長屋王、旅人の詩に目を走らせる。
「流石に旅人、風雅である」
長屋王の漢詩を読み上げる旅人。
「かうびんえんせうひらき、えうれいふえんたなびく、きんらんのしょうをめ
でてこそあれ、ふうげつのえんにつかることなし」
「先年の新羅宴で歌った詩である。いかがかな?」
「なかなかの出来映えかと」
「葛麻呂、ほんとうは世俗の諍いなどどうでも良いのだ。清風名月の宴に飽き
ること無し」
と、のんびりと欠伸をする長屋王。
のどかな、余りにものどかで優雅な光景だった。謀を密談しているというの
に、お人柄なのだろうか、なんだか馬鹿馬鹿しくなる葛麻呂。
読経の声が一際大きくなって聞こえてきた。
午後から朝務を終えた公卿達が続々と法会に駆けつけた。
僧侶達の末席に加わって読経に参加する者、法会には見向きもせずに左大臣
長屋王に謁見を願う者、名符を置いただけで立ち去る者、様々である。
政敵藤原四家からも誰かしらが参加して来た。
政敵と言っても、表立って対決の姿勢を見せていたのは不比等の長子武智麻
呂だけで、次男房前、三男宇合、四男麻呂の三家は長屋王に懐柔されていたと
見られていた。
葛城王と先月新設されたばかりの中衛府の少将高梓が連れ立ってやって来
て、僧侶の末席で読経に加わった。
法会の会場に怪しげな沙弥、葛麻呂邸で乞食者に窶していた南火血麻呂が入
ってきた。
南火血麻呂は読経には加わらず、西内郭への門を潜り、、食事を給す列の方
に歩いて行った。
沙弥を見咎める梓、伯父行基の生駒布施屋で度々見かけ、札付きの悪党と聞
かされていた男だったからだ。
そっと読経の列から離れる梓、南火血麻呂の後を追い、門を潜った。
長蛇の列を作る僧侶と沙弥、不適な笑みを浮かべた南火血麻呂が列の後尾に
加わらずに前のほうに歩いて行く。
警護の兵士を指揮していた、武智麻呂家の豊成と仲麻呂兄弟の傍で屈んで草
鞋の紐を結びなおす南火血麻呂、上目遣いに二人を見やってにたりと笑った。
知らぬ振りを決め込む二人、豊成が仲麻呂に目配せを送り、仲麻呂がすっと
その場を離れた。
そんな光景を訝しげに見やる梓。
ようやく会場に姿を現す長屋王と葛麻呂。
「長屋の大君」
若者の呼び掛けに立ち止まる長屋王、声のほうに振り返った。
「武智麻呂が次男仲麻呂と申す物で御座います」
尊大な眼で若者を見回す長屋王と葛麻呂。
「何か?」
「怪しげな沙弥がおりますのでお指図を伺うべく参上致しました」
「それならこの葛麻呂に支持を仰ぎなさい」
葛麻呂を残して読経の列に参加する長屋王。
「仲麻呂? ともうしたか?」
「はい」
「怪しげな沙弥とは?」
「読経には見向きもせずに給食の列に割り込もうとしておりますので」
「そんな事ですか、食事だけをねだる不埒の輩は何時でもいるものです、捨て
置かれよ」
「私のような若輩者には扱いかねます。ここは葛麻呂様の慧眼で宰領下さいま
せ」
ふむとばかりに反り返る葛麻呂、尊大な態度で象牙の杓を胸の前で合わせ
た。
列の最前列まで歩いてくる南火血麻呂、仲麻呂と葛麻呂の姿を確かめると、
最前列の僧侶を突き飛ばすようにして椀を差し出した。
「列に並びなさい!」
咎めて言い放つ給仕。
眼光鋭く睨み返す南火血麻呂。
舌打ちをする給仕、椀に少量の飯を盛った。
「たっぷり入れろ!」
渋々飯を盛り、汁をかける給仕。
ふてぶてしい笑みを浮かべて椀を啜る南火血麻呂。
「なんじゃこれは! 長屋の大君ともあろう者が、こんな不味い物を仏の化身
に食わすのか!」
飯を吐き出し、椀をぶちまける南火血麻呂。
血相を変えて跳んで来る葛麻呂。
「無礼者!」
と叫んで象牙の杓で南火血麻呂の額を打ち据えた。
グワッとばかりに大袈裟な身振りで倒れこむ南火血麻呂、ふところから血糊
を取り出して額で塗りつぶした。
苦しがって転げまわる南火血麻呂。
眉を顰めて南火血麻呂の額の血を見る梓。
「おかしな事をする男よ」
いつの間にか葛城王が横に佇んでいた。
大量の血を見て更に興奮する葛麻呂、青ざめた顔で南火血麻呂を睨んだ。
「おのれ、仏罰が下るぞ長屋王!」
南火血麻呂は葛麻呂と承知で長屋王と呼んだ、無体な仕打ちを何が何でも長
屋王に押し付ける為だ。
「賤形と侮ったが身の破滅!」
警護の兵士が南火血麻呂を取り囲んだ。
「ほざいたな下郎、成敗して呉れる」
罠にまんまとはまった葛麻呂が興奮して兵士の太刀を取り上げて南火血麻呂
に迫った。
飛び起きて逃げる南火血麻呂。
豊成と仲麻呂が巧みに逃げ道を作った。
後を追う葛麻呂、少し走って息を切らして立ち止まった。
「清らかな血の代償がどんなものか思い知らせてやる、仏敵長屋王! 仏を蔑
ろにするは三宝の奴と詔する天皇をも蔑む不肖の行為」
振り返って大声で喚きたてる南火血麻呂。
傍で目撃していた少数を除いて長屋王本人が取り乱して沙弥を追い回してい
ると思ったに違いない。
「誰か下郎を殺せ! 早く殺せ!」
狂ったように叫ぶ葛麻呂。
葛麻呂が迫ると、脱兎の如く走る南火血麻呂、西外郭に逃げ込んだ。
西外郭の井戸端で警護の兵士たちと葛麻呂がようやく南火血麻呂に追いつい
た。
なぜか南火血麻呂は悠然と桶の水を飲んでいたからだ。
兵士たちが南火血麻呂を取り囲もうとすると、豊成と仲麻呂が巧みに立ち回
って逃げ道を作り、南火血麻呂は桶と水を兵士たちにぶちまけてまた逃げた。
ようやく塀の隅に南火血麻呂を追い詰める葛麻呂と兵士たち。
激しく息を切らせた葛麻呂が南火血麻呂に迫って行く。
開き直った南火血麻呂が懐から刀子を抜いて身構えた。
死闘に縁の無い公卿の葛麻呂と殺しの専門家南火血麻呂ではまるで勝負に成
らない、誰もが葛麻呂が殺されてしまうと固唾を呑んだ。
駆けつけた葛城王と梓が葛麻呂を両脇から抱き止めた。
「葛麻呂! うろたえるでない!」
叱責する葛城王。
われにかえった葛麻呂が項垂れて座り込んだ。
「葛麻呂様、皇太子平癒祈願の席で不浄の血を流しては、どのようなお咎めが
御身と長屋大君に及ぶや知れません、落ち着いて下さい」
諭すように囁く梓、一尺程の枝を拾って南火血麻呂の前に立ち塞がった。
ギョッとして立ち竦む南火血麻呂、構える枝の向こうの梓の姿が小さく成っ
て行く。
スーッと枝を下げる梓。
今度は大きく、すきだらけに成った、誘っているのだ。
額から脂汗を垂らして怯える南火血麻呂、誘いに乗って飛び込めば、打ち据
えられてしまうに違いない。いや、刀子を隠していて、殺されてしまう。
観念した南火血麻呂がへなへなと座り込んだ。
ここぞとばかりに、兵士たちが雪崩れのように殺到した。
その兵士たちよりも早く、豊成と仲麻呂が飛び込んで、南火血麻呂に縄をか
けた。
南火血麻呂を葛城王の前に引き据える二人。
「いかがいたしましょうか」
「私などが口を挟む問題でもなかろう。御身たちが如何様にもすれば良い。最
初からその積もりであろうが」
皮肉たっぷりに言い放つ葛城王。
眉を顰めて葛城王を見据える仲麻呂。
顔を赤らめて俯いてしまう豊成。
ひそひそと言葉を交わした二人は南火血麻呂を木戸の方に連れ去った。
見送る葛城王の顔が曇っている、怪しげな沙弥に見覚えがあったのだ、が、
いつどこで遭っていたのか、どうしても思い出すことが出来なかった。
木戸を潜って二条大路に出る豊成と仲麻呂、南火血麻呂の縄を解いて放っ
た。
ふてぶてしい笑いを浮かべて悠々と去って行く南火血麻呂。
青ざめた顔で豊成が呟いた。
「なにもかも見破られていたのだろうか?」
「なに、かまをかけただけだ、案ずるな兄者、葛城王に何が出来るというの
だ」
再び木戸に消える二人。
二条大路を行き来する沙弥の一人が笠も上げずに南火血麻呂の方を見やっ
た、来寝麻呂だ。
走り出す南火血麻呂。
笠を目深に被った来寝麻呂が後を追った。
ピョンピョンと飛び跳ねるようにして走るその姿はとても人とは思えなかっ
た。
平癒祈願の読経は今や最高潮に達していた。
何人かの僧侶が神憑った。
解けた経巻を翳し、ひざまずいて青天を仰いだ。
「願いは成れり、仏が皇太子平癒をお約束下された」
叫ぶように一人の僧侶が言った。
「吉兆じゃ、吉兆じゃ」
どよめきが沸き起こり、次々と立ち上がって西の空を仰いだ。
その西の空には、日中にも関わらず太白がポッカリと浮かんでいた。
人は皆、自然の不思議に出会うと、吉であれ凶であれ、何かの兆と思いたが
るものだ。
同じ兆しも時により、人により、立場の違いでも、吉兆となり凶兆となる。
この日中の太白を、長屋王、葛麻呂、葛城王、高梓、そして豊成と仲麻呂、
あるいは皇居の首天皇も皇太子の母藤原夫人光明子も、夫々の複雑な思いを乗
せて眺めていたに違いない。
日中の太白と長屋王狂乱の噂は、尾ひれをつけ、鳳凰のように羽ばたいて京
師中をその夜のうちに駆け巡った。
2016年12月9日 Gorou
この日、左大臣長屋王の邸宅では大規模な法会が営まれていた。
元々は父母の供養として計画されていたが、皇太子の重病で平癒祈願の法会
に切り替えられた。
大安寺、元興寺、薬師寺などから大勢の僧侶が集まり、早朝から荘厳な読経
が続いている。
噂を聞いた僧侶や沙弥が法会の会場、中央内郭に次々と集まり、まるで京師
中の僧侶がこの邸宅に集まってしまったかの如き景観を呈した。
読経の効果が早くも現れたのか、冷気と濃霧に覆われていた午前中に比べ
て、正午を過ぎると、鮮やかな秋晴れの空が戻ってきた。
読経する僧侶達の熱気はいやがうえにも高まった。
長屋王の邸宅は四町にも及ぶ広大な敷地を誇っていた。平城京では亡き藤原
不比等の館と双璧を成している。
大きな池に御座舟を浮かべ、長屋王、大伴旅人、葛麻呂が密談をしていた。
御座舟にもう一艘の船を併走させ、管弦に合わせて、美しい巫女たちが優雅
に舞っていた。
五十間程離れた中央内郭からは千僧の読経が聞こえてきた。
「葛麻呂、貴方が赴任する能登は小さいが、武蔵などに比べて大変重要な土地
です」
木簡に走らせる筆を止めて旅人が言った。
「比羅夫将軍の東征、白村江の派兵、常に我が国の水軍の主力を成していまし
た。速やかに水軍を掌握し、能登の製塩、羽咋の造船を盛んにする事が貴方の
使命です」
「折を見て越前もそなたに与える」
旅人に続いて長屋王。
「有り難き幸せに御座います」
恭しく跪礼する葛麻呂、だが心はここに非ず、対岸の珍しい光景に奪われて
いた。
辺で水を飲んでいた鹿の群れが怯えて散った。
虎が水を飲みに来たのだ。
「窮鼠猫を噛むの例えの如く、追い込まれた藤原が何を仕出かすか分からぬ。
事有れば直ちに能登軍団を率いて愛発を抑えろ」
「能登の政は難しい、あい争う高句麗系の能登臣、新羅系の羽咋君、二つの豪
族の力を一つに纏めなさい。特に羽咋君は中々の曲者、油断は成りませぬぞ」
「いやいや道君のほうが余程難しい。能登の真の王は未だに道君であるのかも
知れぬ」
対岸に虹色に煌めく羽を持つ珍しい鳥の群れが現れた、あああれが孔雀なの
だろう、と想像する葛麻呂。
「この葛麻呂、我が身を惜しまず励みまする」
「ハハハ、そう硬くならずとも良い、気楽にせよ」
のんびりと木簡を旅人と交換する長屋王、旅人の詩に目を走らせる。
「流石に旅人、風雅である」
長屋王の漢詩を読み上げる旅人。
「かうびんえんせうひらき、えうれいふえんたなびく、きんらんのしょうをめ
でてこそあれ、ふうげつのえんにつかることなし」
「先年の新羅宴で歌った詩である。いかがかな?」
「なかなかの出来映えかと」
「葛麻呂、ほんとうは世俗の諍いなどどうでも良いのだ。清風名月の宴に飽き
ること無し」
と、のんびりと欠伸をする長屋王。
のどかな、余りにものどかで優雅な光景だった。謀を密談しているというの
に、お人柄なのだろうか、なんだか馬鹿馬鹿しくなる葛麻呂。
読経の声が一際大きくなって聞こえてきた。
午後から朝務を終えた公卿達が続々と法会に駆けつけた。
僧侶達の末席に加わって読経に参加する者、法会には見向きもせずに左大臣
長屋王に謁見を願う者、名符を置いただけで立ち去る者、様々である。
政敵藤原四家からも誰かしらが参加して来た。
政敵と言っても、表立って対決の姿勢を見せていたのは不比等の長子武智麻
呂だけで、次男房前、三男宇合、四男麻呂の三家は長屋王に懐柔されていたと
見られていた。
葛城王と先月新設されたばかりの中衛府の少将高梓が連れ立ってやって来
て、僧侶の末席で読経に加わった。
法会の会場に怪しげな沙弥、葛麻呂邸で乞食者に窶していた南火血麻呂が入
ってきた。
南火血麻呂は読経には加わらず、西内郭への門を潜り、、食事を給す列の方
に歩いて行った。
沙弥を見咎める梓、伯父行基の生駒布施屋で度々見かけ、札付きの悪党と聞
かされていた男だったからだ。
そっと読経の列から離れる梓、南火血麻呂の後を追い、門を潜った。
長蛇の列を作る僧侶と沙弥、不適な笑みを浮かべた南火血麻呂が列の後尾に
加わらずに前のほうに歩いて行く。
警護の兵士を指揮していた、武智麻呂家の豊成と仲麻呂兄弟の傍で屈んで草
鞋の紐を結びなおす南火血麻呂、上目遣いに二人を見やってにたりと笑った。
知らぬ振りを決め込む二人、豊成が仲麻呂に目配せを送り、仲麻呂がすっと
その場を離れた。
そんな光景を訝しげに見やる梓。
ようやく会場に姿を現す長屋王と葛麻呂。
「長屋の大君」
若者の呼び掛けに立ち止まる長屋王、声のほうに振り返った。
「武智麻呂が次男仲麻呂と申す物で御座います」
尊大な眼で若者を見回す長屋王と葛麻呂。
「何か?」
「怪しげな沙弥がおりますのでお指図を伺うべく参上致しました」
「それならこの葛麻呂に支持を仰ぎなさい」
葛麻呂を残して読経の列に参加する長屋王。
「仲麻呂? ともうしたか?」
「はい」
「怪しげな沙弥とは?」
「読経には見向きもせずに給食の列に割り込もうとしておりますので」
「そんな事ですか、食事だけをねだる不埒の輩は何時でもいるものです、捨て
置かれよ」
「私のような若輩者には扱いかねます。ここは葛麻呂様の慧眼で宰領下さいま
せ」
ふむとばかりに反り返る葛麻呂、尊大な態度で象牙の杓を胸の前で合わせ
た。
列の最前列まで歩いてくる南火血麻呂、仲麻呂と葛麻呂の姿を確かめると、
最前列の僧侶を突き飛ばすようにして椀を差し出した。
「列に並びなさい!」
咎めて言い放つ給仕。
眼光鋭く睨み返す南火血麻呂。
舌打ちをする給仕、椀に少量の飯を盛った。
「たっぷり入れろ!」
渋々飯を盛り、汁をかける給仕。
ふてぶてしい笑みを浮かべて椀を啜る南火血麻呂。
「なんじゃこれは! 長屋の大君ともあろう者が、こんな不味い物を仏の化身
に食わすのか!」
飯を吐き出し、椀をぶちまける南火血麻呂。
血相を変えて跳んで来る葛麻呂。
「無礼者!」
と叫んで象牙の杓で南火血麻呂の額を打ち据えた。
グワッとばかりに大袈裟な身振りで倒れこむ南火血麻呂、ふところから血糊
を取り出して額で塗りつぶした。
苦しがって転げまわる南火血麻呂。
眉を顰めて南火血麻呂の額の血を見る梓。
「おかしな事をする男よ」
いつの間にか葛城王が横に佇んでいた。
大量の血を見て更に興奮する葛麻呂、青ざめた顔で南火血麻呂を睨んだ。
「おのれ、仏罰が下るぞ長屋王!」
南火血麻呂は葛麻呂と承知で長屋王と呼んだ、無体な仕打ちを何が何でも長
屋王に押し付ける為だ。
「賤形と侮ったが身の破滅!」
警護の兵士が南火血麻呂を取り囲んだ。
「ほざいたな下郎、成敗して呉れる」
罠にまんまとはまった葛麻呂が興奮して兵士の太刀を取り上げて南火血麻呂
に迫った。
飛び起きて逃げる南火血麻呂。
豊成と仲麻呂が巧みに逃げ道を作った。
後を追う葛麻呂、少し走って息を切らして立ち止まった。
「清らかな血の代償がどんなものか思い知らせてやる、仏敵長屋王! 仏を蔑
ろにするは三宝の奴と詔する天皇をも蔑む不肖の行為」
振り返って大声で喚きたてる南火血麻呂。
傍で目撃していた少数を除いて長屋王本人が取り乱して沙弥を追い回してい
ると思ったに違いない。
「誰か下郎を殺せ! 早く殺せ!」
狂ったように叫ぶ葛麻呂。
葛麻呂が迫ると、脱兎の如く走る南火血麻呂、西外郭に逃げ込んだ。
西外郭の井戸端で警護の兵士たちと葛麻呂がようやく南火血麻呂に追いつい
た。
なぜか南火血麻呂は悠然と桶の水を飲んでいたからだ。
兵士たちが南火血麻呂を取り囲もうとすると、豊成と仲麻呂が巧みに立ち回
って逃げ道を作り、南火血麻呂は桶と水を兵士たちにぶちまけてまた逃げた。
ようやく塀の隅に南火血麻呂を追い詰める葛麻呂と兵士たち。
激しく息を切らせた葛麻呂が南火血麻呂に迫って行く。
開き直った南火血麻呂が懐から刀子を抜いて身構えた。
死闘に縁の無い公卿の葛麻呂と殺しの専門家南火血麻呂ではまるで勝負に成
らない、誰もが葛麻呂が殺されてしまうと固唾を呑んだ。
駆けつけた葛城王と梓が葛麻呂を両脇から抱き止めた。
「葛麻呂! うろたえるでない!」
叱責する葛城王。
われにかえった葛麻呂が項垂れて座り込んだ。
「葛麻呂様、皇太子平癒祈願の席で不浄の血を流しては、どのようなお咎めが
御身と長屋大君に及ぶや知れません、落ち着いて下さい」
諭すように囁く梓、一尺程の枝を拾って南火血麻呂の前に立ち塞がった。
ギョッとして立ち竦む南火血麻呂、構える枝の向こうの梓の姿が小さく成っ
て行く。
スーッと枝を下げる梓。
今度は大きく、すきだらけに成った、誘っているのだ。
額から脂汗を垂らして怯える南火血麻呂、誘いに乗って飛び込めば、打ち据
えられてしまうに違いない。いや、刀子を隠していて、殺されてしまう。
観念した南火血麻呂がへなへなと座り込んだ。
ここぞとばかりに、兵士たちが雪崩れのように殺到した。
その兵士たちよりも早く、豊成と仲麻呂が飛び込んで、南火血麻呂に縄をか
けた。
南火血麻呂を葛城王の前に引き据える二人。
「いかがいたしましょうか」
「私などが口を挟む問題でもなかろう。御身たちが如何様にもすれば良い。最
初からその積もりであろうが」
皮肉たっぷりに言い放つ葛城王。
眉を顰めて葛城王を見据える仲麻呂。
顔を赤らめて俯いてしまう豊成。
ひそひそと言葉を交わした二人は南火血麻呂を木戸の方に連れ去った。
見送る葛城王の顔が曇っている、怪しげな沙弥に見覚えがあったのだ、が、
いつどこで遭っていたのか、どうしても思い出すことが出来なかった。
木戸を潜って二条大路に出る豊成と仲麻呂、南火血麻呂の縄を解いて放っ
た。
ふてぶてしい笑いを浮かべて悠々と去って行く南火血麻呂。
青ざめた顔で豊成が呟いた。
「なにもかも見破られていたのだろうか?」
「なに、かまをかけただけだ、案ずるな兄者、葛城王に何が出来るというの
だ」
再び木戸に消える二人。
二条大路を行き来する沙弥の一人が笠も上げずに南火血麻呂の方を見やっ
た、来寝麻呂だ。
走り出す南火血麻呂。
笠を目深に被った来寝麻呂が後を追った。
ピョンピョンと飛び跳ねるようにして走るその姿はとても人とは思えなかっ
た。
平癒祈願の読経は今や最高潮に達していた。
何人かの僧侶が神憑った。
解けた経巻を翳し、ひざまずいて青天を仰いだ。
「願いは成れり、仏が皇太子平癒をお約束下された」
叫ぶように一人の僧侶が言った。
「吉兆じゃ、吉兆じゃ」
どよめきが沸き起こり、次々と立ち上がって西の空を仰いだ。
その西の空には、日中にも関わらず太白がポッカリと浮かんでいた。
人は皆、自然の不思議に出会うと、吉であれ凶であれ、何かの兆と思いたが
るものだ。
同じ兆しも時により、人により、立場の違いでも、吉兆となり凶兆となる。
この日中の太白を、長屋王、葛麻呂、葛城王、高梓、そして豊成と仲麻呂、
あるいは皇居の首天皇も皇太子の母藤原夫人光明子も、夫々の複雑な思いを乗
せて眺めていたに違いない。
日中の太白と長屋王狂乱の噂は、尾ひれをつけ、鳳凰のように羽ばたいて京
師中をその夜のうちに駆け巡った。
2016年12月9日 Gorou