マリア
一
紗智子の精神が病んでいったきっかけは由美でした。
1990年、ミッション系の女子大を卒業した由美は芦屋の本家に呼ばれた。花
嫁修業と結婚の準備の為である。友恵は加藤家の跡取りを紗智子には少しも期
待せず、由美子の子に託した。
最期の夜、由美は紗智子に哀願した。
「お姉様をこんなに宏大な屋敷に置いて行くなんて、わたくしの本意では有り
ません。お願いですから、家政婦をお雇いになって。それからT電力など辞め
て学者の道を目指して下さい」
「わたくしはT電力の社員ですが、原子物理学者でも有ります」
「T電力ではお姉様の真価は発揮出来ません。なぜ飼い殺しになっているの
か? お母様から圧力が掛かっているに決まっております」
「だとしても、わたくしは決して負けません」
芦屋と松涛の距離はそれほど遠くは無い、週に一度くらいは会えると、二人
はその点では楽観していたが、全く外れた。由美は友恵の秘書団の末席に加え
られて日中は仕事で縛られ、夜は様々な花嫁修業で縛られた。
紗智子にとって由美は何だったのか? 六歳離れた妹では無く,この世で愛
する唯一の家族で、姉のような存在だったのだ。
紗智子は松涛加藤邸でたった一人、寂しい生活を始めた。食事はコンビニか
外食、健康管理をしてくれる者も、愚痴を聞いてくれる者も居なかった。
紗智子の変態ぶりは遺憾なく会社で発揮された。
ひそひそと歩くので,気付いたらおかっぱの紗智子が直ぐ横に立っているの
で気味悪がられた。親しい友も皆無だった。
そもそも彼女は他人とコミュニケーションを取るのを苦手にしていた。
大学在学中は幾らでも男が寄ってきた。いや、高校(慶応)でもだ。紗智子
は性に対して極めて開放的だった。いつでも彼氏(というよりセックスフレン
ド)を従えていた。普通は最低でも二三か月はそんな関係は続くものだが、彼
女の場合一週間と持たなかった。
紗智子の目から見ると、若い男は皆物足りなかったのだ、セックス的な不満
では無く人間として尊敬出来ないのだ。次々と男を変えるから、次々とストー
カーが現れた。その度に新しい彼氏が撃退をした。
社会人になっても、矢張り男は寄ってきたが、紗智子は誰とも付き合わなか
った。元々好色な女では無かったのでセックスのない生活に不満など持たなか
ったのだ。
好みの男性のタイプはたった一つしか無かった。父幸太のような人、優しく
包容力を備え頭の良い、最低一回りは年上が条件だ。紗智子はこの年になって
も父親離れが出来なかったのだ。
そんな男性が現れた。大林健一郎と言う名の男で、政界から天下って来た。
友恵と浮き名を流していて現職大臣大林健太の長男だ。
紗智子三十一歳、総務部副部長という立派な管理職に成っていた。
大林は総務部長に赴任してきた。
紗智子の様子がいつもと違っていた。なんとなくそわそわとして居るのだ。
髪に櫛をかけたり、リップクリームを塗ったりするが、相変わらずおかっぱで
ダークスーツ姿だった。
紗智子を何日か観察していた大林がかまを掛けてきた。
「紗智子君、今夜は開いているかね?」
「はい、部長、今夜は大丈夫です。身体を空けますわ」と、低く小さな声で紗
智子が答えた。
大林は、指定したホテルのロビーに一時間近く遅れて到着した。「さすがに
もう居ないかな?」と、ロビーを見回した。やはり紗智子は居なかった。
さして気を落とす事無く去ろうとした。しょせんほんの気紛れで誘ったの
だ。オールドミスの女になど未練の欠片も無かった。
一人の美女が立ち上がって大林を見詰めていた。
年の頃二十三四、亜麻色の長い髪を持っていたのでハーフと見た。「いい女
だ・・・誘って見ようか」
その美女が真っ赤なドレスで近づいてくる。裾の割れたドレスは歩く度に太
股が見え隠れして悩ましい。
スラリとした長身で、女は大林の前で立ち止まって、彼を見詰めた。ライト
に当たった彼女の輝く眼、その瞳がエメラルドグリーンに煌めいた。
「部長、お待ちしていましたわ」
ソプラノの高い声で美女が言った。
「き・君は、紗智子君なのか?」
優雅な微笑みを称えた美女が魅力溢れる頷きを大林に与えた。
ディナーの後は当然ベッドイン、という事になった。
大林は紗智子とのセックスを堪能した。李のようにピチピチとして潤い多
く、高級白桃が如く美味を極めていた。
ベッドサイドで帰り支度をする大林の口が緩みっぱなしに成っている。
「紗智子君、きみは朝までゆっくりしなさい」
妻子持ちの彼は泊まる分けにはいかなかったのだ。
そんな大林をベッドの紗智子が見詰めている。
大林は趣味の悪い財布を取り出して、三枚の万札を摘まんで紗智子を見た。
紗智子は小首を傾げていた。
不満と見た大林は万札を一枚加えてサイドテーブルに置いた。
紗智子が不思議な顔をして、少し笑った。
大林が消えると、紗智子は万札を指でつっいて呟いた。
「わたしは四万の女、・・・か?」
大林は赴任する時、大して調査をしなかった。どうせ腰掛けと高を括ってい
たのだ。大きなミスだ、同期の同僚に自慢話をすると。
「君は大した度胸だね。加藤紗智子はうちでは禁断の果実なんだぜ。彼女が何
者か知っていたのか? あの加藤友恵の長女さ」
大林は脅え、後悔して二度と紗智子を誘わなかった。
紗智子の方もすっかり忘れているいるように見えた。一度の逢瀬で底を見つ
けていたからだ。
紗智子は原子力発電事故の時、必ず派遣団に加えられた。彼女の豊富な知識
を役立てるためだ。事故の処理は完璧だったが、報告書には辟易した。大事故
を引き起こす前に廃炉にすべきだと言い、それが適わぬなら、最低十メート
ル、出来れば十五メートルの防御壁で覆わなければ成らない。と主張するの
だ。T電力は勿論無視した。こうなったら両者の根比べだ。
紗智子の精神病は加速度を増した。
数年後、赤坂で高校の同級生に出会った。
彼女は近くで【ルージュ】というクラブを開いている。
「一度おいでにならない?」
小首を傾げて微笑む紗智子を見て、その同級生は後悔した。
数日後、真っ赤なドレスのあの女がルージュに現れた。勿論紗智子だ。
紗智子はルージュでマリアという源氏名でアルバイトを初め、瞬く間にナン
バーワンになった。語学に堪能で肉体を武器にする事も厭わなかったから、当
然の結果と言える。
ルージュで馴染みを開拓した紗智子は独立した。
円山町のマリアの誕生だった。
今夜も、東京渋谷道玄坂の石畳をカッカッカッと靴音高く颯爽と闊歩するマ
リア。
十センチ程も有ろうかのハイヒールで大股に歩き、真紅のスプリン
グコートの裾を翻してその坂(道玄坂)を登っていく。まるで小さな旅女〔たび
びと〕が如くエルメスのトートバッグを肩にかけ、亜麻色の長い髪を風になび
かせていた。
彼女の華麗な容姿、真紅のコート、そして黒のエルメスとが盛り場の宵に輝
くばかりに映えた。
年のころ二十五、六と見える彼女はいつものごとく、甲高い声で歌を口ずさ
んでいた。
「ロクサーヌ」
ポリス〔スティング〕の歌であったが、誰にもそのようには聞こえなかっ
た。恐ろしい程の音痴だったからである。
「お兄さん、お茶しない」
彼女はすれ違う男という男に、明るく高い声で話しかける。
「お兄さん、遊ぼうよ」
男という男、彼女にとって老人であっても若者であっても、英・米人、フラ
ンス人、ドイツ、スペイン、ロシア、どの国の男でもかまわなかった。
通称、円山町のマリアと呼ばれていた彼女はなんと十数ヶ国語を理解してい
たのである。
外国人が何語で声をかけても即座に反応した、が、彼女の口から吐き出され
るのは嬌声と日本語だけだった。彼女は会話が苦手だった、それ以上に嫌悪し
ていた。
彼女が道玄坂で客を拾うなどという幸運はほとんどなかった。
道玄坂上の交番を必ず右折して、彼女は自分の猟場である丸山町に入って行
く。
「ずいぶん暖かくなったわね。もう春よ」という具合に交番の巡査に声をかけ
る。まるで彼女自身が佐保神になって春を呼んできたように声をかけるのだ。
声を掛けられた巡査(彼らは皆彼女がマリアと呼ばれている街娼である事を
知っていた)はやや顔を顰めるか苦笑を浮かべる。赴任したての若い巡査な
ど、彼女の華やかさにうろたえて顔を赤らめたりするのだ。
カッカッカッカッ! 円山町をマリアは漁る、獲物を、客を。相変わらずロ
クサーヌを口ずさんでいた。
「マリア!」
その筋と思われるサブと呼ばれる男がマリアに声をかけた。
「この間の話、考えてくれたかい」
ひとひらの桜が風に待ってマリアの頬に止まった。
「あらっ、サブちゃん、何だったかしら?」
立ち止り、振り返ってマリアが男に聞き返した。
「うちの組は渋谷の連中」
男はそう言って拳を額に当てて言った。
「奴等にだって顔が訊くんだ。お前みたいな商売は一人でやるには危ないぜ」
「大丈夫よ。あたしにはいつだって覚悟が出来ているわ。それよりどう?」
街灯に照らされたマリアの瞳が青く光っていた。
「よせやい、おれは女なんぞに不自由はしてねえ」
「あらまあ、そのお面相で良く言うわね。あたしのほうが御免さ」
笑いながらそう言うと、踵を返してまた歩き始めた。そのマリアの瞳が今度
はエメラルドグリーンに煌いた。頬の桜の花弁が頬から夜空に向かって旅立っ
た。
マリアを他人はおそらくハーフではないかという、数ヶ国語〔実際は十数ヶ
国語〕を解し、青い瞳と亜麻色の髪を持っていたからである。
あたしのほうが御免さ、と毒づかれた男はマリアに対して腹を立てなかっ
た。今夜だけでなくいつもである。マリアが明るくあまりにもあっけらかんと
していたからである。
井の頭線神仙駅を渋谷発の終電が発着した前後にその踏み切りを必ず渡っ
た。
渡りきって松涛方面に向かって、今度は密やかに、足音を忍ばせて歩き始め
ると彼女の歌が変わる。
「ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン!」
苦渋に満ちた顔で円山町を振り返るマリア。
「ああ、わたくしは何をしているのだろう?」
彼女は紗智子の低い声で自問する。
「お父様、わたくしを憐れんでください、この流れる涙を憐れんで下さい」
溢れて流れ落ちる紗智子の涙。
悲しみの余り、十六夜う筈の月が、悲しみの余り沈んだ。
2016年12月22日 Gorou
一
紗智子の精神が病んでいったきっかけは由美でした。
1990年、ミッション系の女子大を卒業した由美は芦屋の本家に呼ばれた。花
嫁修業と結婚の準備の為である。友恵は加藤家の跡取りを紗智子には少しも期
待せず、由美子の子に託した。
最期の夜、由美は紗智子に哀願した。
「お姉様をこんなに宏大な屋敷に置いて行くなんて、わたくしの本意では有り
ません。お願いですから、家政婦をお雇いになって。それからT電力など辞め
て学者の道を目指して下さい」
「わたくしはT電力の社員ですが、原子物理学者でも有ります」
「T電力ではお姉様の真価は発揮出来ません。なぜ飼い殺しになっているの
か? お母様から圧力が掛かっているに決まっております」
「だとしても、わたくしは決して負けません」
芦屋と松涛の距離はそれほど遠くは無い、週に一度くらいは会えると、二人
はその点では楽観していたが、全く外れた。由美は友恵の秘書団の末席に加え
られて日中は仕事で縛られ、夜は様々な花嫁修業で縛られた。
紗智子にとって由美は何だったのか? 六歳離れた妹では無く,この世で愛
する唯一の家族で、姉のような存在だったのだ。
紗智子は松涛加藤邸でたった一人、寂しい生活を始めた。食事はコンビニか
外食、健康管理をしてくれる者も、愚痴を聞いてくれる者も居なかった。
紗智子の変態ぶりは遺憾なく会社で発揮された。
ひそひそと歩くので,気付いたらおかっぱの紗智子が直ぐ横に立っているの
で気味悪がられた。親しい友も皆無だった。
そもそも彼女は他人とコミュニケーションを取るのを苦手にしていた。
大学在学中は幾らでも男が寄ってきた。いや、高校(慶応)でもだ。紗智子
は性に対して極めて開放的だった。いつでも彼氏(というよりセックスフレン
ド)を従えていた。普通は最低でも二三か月はそんな関係は続くものだが、彼
女の場合一週間と持たなかった。
紗智子の目から見ると、若い男は皆物足りなかったのだ、セックス的な不満
では無く人間として尊敬出来ないのだ。次々と男を変えるから、次々とストー
カーが現れた。その度に新しい彼氏が撃退をした。
社会人になっても、矢張り男は寄ってきたが、紗智子は誰とも付き合わなか
った。元々好色な女では無かったのでセックスのない生活に不満など持たなか
ったのだ。
好みの男性のタイプはたった一つしか無かった。父幸太のような人、優しく
包容力を備え頭の良い、最低一回りは年上が条件だ。紗智子はこの年になって
も父親離れが出来なかったのだ。
そんな男性が現れた。大林健一郎と言う名の男で、政界から天下って来た。
友恵と浮き名を流していて現職大臣大林健太の長男だ。
紗智子三十一歳、総務部副部長という立派な管理職に成っていた。
大林は総務部長に赴任してきた。
紗智子の様子がいつもと違っていた。なんとなくそわそわとして居るのだ。
髪に櫛をかけたり、リップクリームを塗ったりするが、相変わらずおかっぱで
ダークスーツ姿だった。
紗智子を何日か観察していた大林がかまを掛けてきた。
「紗智子君、今夜は開いているかね?」
「はい、部長、今夜は大丈夫です。身体を空けますわ」と、低く小さな声で紗
智子が答えた。
大林は、指定したホテルのロビーに一時間近く遅れて到着した。「さすがに
もう居ないかな?」と、ロビーを見回した。やはり紗智子は居なかった。
さして気を落とす事無く去ろうとした。しょせんほんの気紛れで誘ったの
だ。オールドミスの女になど未練の欠片も無かった。
一人の美女が立ち上がって大林を見詰めていた。
年の頃二十三四、亜麻色の長い髪を持っていたのでハーフと見た。「いい女
だ・・・誘って見ようか」
その美女が真っ赤なドレスで近づいてくる。裾の割れたドレスは歩く度に太
股が見え隠れして悩ましい。
スラリとした長身で、女は大林の前で立ち止まって、彼を見詰めた。ライト
に当たった彼女の輝く眼、その瞳がエメラルドグリーンに煌めいた。
「部長、お待ちしていましたわ」
ソプラノの高い声で美女が言った。
「き・君は、紗智子君なのか?」
優雅な微笑みを称えた美女が魅力溢れる頷きを大林に与えた。
ディナーの後は当然ベッドイン、という事になった。
大林は紗智子とのセックスを堪能した。李のようにピチピチとして潤い多
く、高級白桃が如く美味を極めていた。
ベッドサイドで帰り支度をする大林の口が緩みっぱなしに成っている。
「紗智子君、きみは朝までゆっくりしなさい」
妻子持ちの彼は泊まる分けにはいかなかったのだ。
そんな大林をベッドの紗智子が見詰めている。
大林は趣味の悪い財布を取り出して、三枚の万札を摘まんで紗智子を見た。
紗智子は小首を傾げていた。
不満と見た大林は万札を一枚加えてサイドテーブルに置いた。
紗智子が不思議な顔をして、少し笑った。
大林が消えると、紗智子は万札を指でつっいて呟いた。
「わたしは四万の女、・・・か?」
大林は赴任する時、大して調査をしなかった。どうせ腰掛けと高を括ってい
たのだ。大きなミスだ、同期の同僚に自慢話をすると。
「君は大した度胸だね。加藤紗智子はうちでは禁断の果実なんだぜ。彼女が何
者か知っていたのか? あの加藤友恵の長女さ」
大林は脅え、後悔して二度と紗智子を誘わなかった。
紗智子の方もすっかり忘れているいるように見えた。一度の逢瀬で底を見つ
けていたからだ。
紗智子は原子力発電事故の時、必ず派遣団に加えられた。彼女の豊富な知識
を役立てるためだ。事故の処理は完璧だったが、報告書には辟易した。大事故
を引き起こす前に廃炉にすべきだと言い、それが適わぬなら、最低十メート
ル、出来れば十五メートルの防御壁で覆わなければ成らない。と主張するの
だ。T電力は勿論無視した。こうなったら両者の根比べだ。
紗智子の精神病は加速度を増した。
数年後、赤坂で高校の同級生に出会った。
彼女は近くで【ルージュ】というクラブを開いている。
「一度おいでにならない?」
小首を傾げて微笑む紗智子を見て、その同級生は後悔した。
数日後、真っ赤なドレスのあの女がルージュに現れた。勿論紗智子だ。
紗智子はルージュでマリアという源氏名でアルバイトを初め、瞬く間にナン
バーワンになった。語学に堪能で肉体を武器にする事も厭わなかったから、当
然の結果と言える。
ルージュで馴染みを開拓した紗智子は独立した。
円山町のマリアの誕生だった。
今夜も、東京渋谷道玄坂の石畳をカッカッカッと靴音高く颯爽と闊歩するマ
リア。
十センチ程も有ろうかのハイヒールで大股に歩き、真紅のスプリン
グコートの裾を翻してその坂(道玄坂)を登っていく。まるで小さな旅女〔たび
びと〕が如くエルメスのトートバッグを肩にかけ、亜麻色の長い髪を風になび
かせていた。
彼女の華麗な容姿、真紅のコート、そして黒のエルメスとが盛り場の宵に輝
くばかりに映えた。
年のころ二十五、六と見える彼女はいつものごとく、甲高い声で歌を口ずさ
んでいた。
「ロクサーヌ」
ポリス〔スティング〕の歌であったが、誰にもそのようには聞こえなかっ
た。恐ろしい程の音痴だったからである。
「お兄さん、お茶しない」
彼女はすれ違う男という男に、明るく高い声で話しかける。
「お兄さん、遊ぼうよ」
男という男、彼女にとって老人であっても若者であっても、英・米人、フラ
ンス人、ドイツ、スペイン、ロシア、どの国の男でもかまわなかった。
通称、円山町のマリアと呼ばれていた彼女はなんと十数ヶ国語を理解してい
たのである。
外国人が何語で声をかけても即座に反応した、が、彼女の口から吐き出され
るのは嬌声と日本語だけだった。彼女は会話が苦手だった、それ以上に嫌悪し
ていた。
彼女が道玄坂で客を拾うなどという幸運はほとんどなかった。
道玄坂上の交番を必ず右折して、彼女は自分の猟場である丸山町に入って行
く。
「ずいぶん暖かくなったわね。もう春よ」という具合に交番の巡査に声をかけ
る。まるで彼女自身が佐保神になって春を呼んできたように声をかけるのだ。
声を掛けられた巡査(彼らは皆彼女がマリアと呼ばれている街娼である事を
知っていた)はやや顔を顰めるか苦笑を浮かべる。赴任したての若い巡査な
ど、彼女の華やかさにうろたえて顔を赤らめたりするのだ。
カッカッカッカッ! 円山町をマリアは漁る、獲物を、客を。相変わらずロ
クサーヌを口ずさんでいた。
「マリア!」
その筋と思われるサブと呼ばれる男がマリアに声をかけた。
「この間の話、考えてくれたかい」
ひとひらの桜が風に待ってマリアの頬に止まった。
「あらっ、サブちゃん、何だったかしら?」
立ち止り、振り返ってマリアが男に聞き返した。
「うちの組は渋谷の連中」
男はそう言って拳を額に当てて言った。
「奴等にだって顔が訊くんだ。お前みたいな商売は一人でやるには危ないぜ」
「大丈夫よ。あたしにはいつだって覚悟が出来ているわ。それよりどう?」
街灯に照らされたマリアの瞳が青く光っていた。
「よせやい、おれは女なんぞに不自由はしてねえ」
「あらまあ、そのお面相で良く言うわね。あたしのほうが御免さ」
笑いながらそう言うと、踵を返してまた歩き始めた。そのマリアの瞳が今度
はエメラルドグリーンに煌いた。頬の桜の花弁が頬から夜空に向かって旅立っ
た。
マリアを他人はおそらくハーフではないかという、数ヶ国語〔実際は十数ヶ
国語〕を解し、青い瞳と亜麻色の髪を持っていたからである。
あたしのほうが御免さ、と毒づかれた男はマリアに対して腹を立てなかっ
た。今夜だけでなくいつもである。マリアが明るくあまりにもあっけらかんと
していたからである。
井の頭線神仙駅を渋谷発の終電が発着した前後にその踏み切りを必ず渡っ
た。
渡りきって松涛方面に向かって、今度は密やかに、足音を忍ばせて歩き始め
ると彼女の歌が変わる。
「ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン!」
苦渋に満ちた顔で円山町を振り返るマリア。
「ああ、わたくしは何をしているのだろう?」
彼女は紗智子の低い声で自問する。
「お父様、わたくしを憐れんでください、この流れる涙を憐れんで下さい」
溢れて流れ落ちる紗智子の涙。
悲しみの余り、十六夜う筈の月が、悲しみの余り沈んだ。
2016年12月22日 Gorou