アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

あいものがたり Ⅶ

2016-12-14 11:35:46 | 伝奇小説
 ある夏の昼下がり、突然のにわか雨。
 あいちゃんは小さな神社で雨宿り、濡れた髪を手拭いで拭きながら、空を見上げる。ますます激しくなる雨に溜息を付いた。
 カランコロン、高下駄で走る音が聞こえてきた。
 カランコロン、カランコロン、だんだん音が近くなった。
 耳を澄ましながら、あいちゃんは雨のカーテンの彼方を見詰めて、溜息を付いた。
 あの学生さんに違いない、そんな予感がした。
 その学生さんが躓いた。が、かろうじて片足で立っていた。
 鼻緒の切れた高下駄に手を伸ばす青年、あいちゃんが走り寄って素早く手に持った。
「危ないからわたしの肩につかまって」
 素直にあいちゃんの肩に左手を置く青年、娘を見詰めて首を傾げた。どこかで合ったような気がしたのだ。
 手拭いを口で裂くあいちゃん、手際見事に鼻緒をすげ替え、濡れた桐の板を自分の袖で吹いて、青年の足下に片方の高下駄を置いた。
「有り難う」
 青年は両足でしっかりと立ち、見覚えのある娘を見詰めた。
 立ち上がったあいちゃん、青年の肩まで届かなかった。
「有り難う。濡れるから走ろう」
 青年はあいちゃんの手を握って走り、二人は神社の軒先に駆け込んだ。
 
 これから二人は時々遇うようになつた。逢い引きなどとはとても言えない他愛も無い物だつたが、あいちゃんにとつては生まれて初めての至福の時でした。
「僕の名は健太郎」
「わたしはあいちゃんて呼ばれてるわ」
 健太郎青年は色々な話をしてくれたが、あいちゃんは何時も黙ってニコニコと微笑んでいた。青年は東大の三年生で二十歳だという。
「君は幾つ?」
 哀しそうに健太郎を見詰めるあいちゃん、答える訳にはいかないのだ。
「十五か六?」
「幾つかなんて覚えてないわ」
「可愛そうに、つらい事が有ったんだね」
 
 健太郎青年はあいちゃんの前では饒舌でした。
「戦争なんて絶対にいけない事なんだよ。早く戦争が終わって平和な世界が来るといい」
「ほんとに戦争、終わる?」
 顔を曇らせる健太郎、彼はこの戦争が簡単に終わらず、日本が負ける事もしつていたのです。
ある日、こんな事も言いました。
「あいは英語では自分自身のことなんだ。アイ、愛、藍、哀、・・・本当に良い名前だね」

 ザツザツザツ、雨の神宮球場で軍靴の音が轟きね健太郎青年は学徒出陣してしまいました。
    2016年12月14日  Gorou


あいものがたり Ⅵ

2016-12-14 02:59:25 | 伝奇小説
 あいちゃんは客席の後方に佇む一人の学生を見つけると、頬は桃色に染まり、胸は張り裂けそうになりました。あいちゃんはその学生さんに恋をしていたのです。
 ドロドロドロとドラムのロールが不気味に響き。
 ピーピーピーヒャラ、笛が不安を客席の不安を募ります。
 あいちゃんは舞台袖の座員達に哀願の眼差しを送って、哀しげに首を振り続けます。
 ドロドロドロ、ピーピーピーヒャラ。
 哀しいことに,心とは裏腹に、あいちゃんの首が反応してしまいます。その美しい項が、少しずつ伸びて行きます。
 ドロドロドロ。
 二メートル、三メートル、そして十メートル以上も伸びて、客席を徘徊します。
 阿鼻叫喚、残念ながら客席に恐怖の叫び声など上がりません。むしろ、皆喜んで拍手喝采! それほどあいちゃんはここの常連に愛されていたのです。
 あいちゃんは舞台の奥で震える子犬に気がつき、その首が子犬(座長のシロ)をめがけて襲います。
 キャイ~ンとばかりに鳴いたシロの首筋から真っ赤な血がしたたり落ち、あいちゃんは舌なめずり、その血はイチゴシロップの味がしました。
 アーイッと現れるからあいちゃんと呼ばれるその娘はろくろ首だったのです。重ねて断言します。この一座にインチキは有りません。座員は皆本物の妖怪でした。

 無事興業が終わり、一同はテントの前の縁台でのんびりと過ごしていました。楽しそうに話し合う一座の面々の中であいちゃんだけは俯いて哀しそうです。
「あいちゃん、元気出しなよ」
 お軽があいちゃんを励まします。
「人の世に起きる事なんかにくよくよしたってしょうがない。あいちゃんご覧よ綺麗じゃないか、蛍が光ってるよ」と、さこひめが言った。
 確かに辺り一面に蛍が光ってゆらゆらと飛び交っていた。
 あいちゃんはやっと顔を上げて蛍を見た。
「ほんとだ、キレイ!」
「綺麗だけどね」と、小雪がお軽の耳元で密やかに囁いた。「河太郎のいたずらさ、こんな汚い隅田の河に蛍なんか棲めるもんか」
 小雪の囁きが聞こえなかったのか、お軽も蛍に喜んで、飛ぶ蛍と戯れだした。
 辺りを見回すさこひめ。
「おや、おまあばあさんの姿が見えないね」
「今夜もかい、ひさ火もけち火も付き合ってるみたいだね」と小雪。
 
 林の小道を急ぐ若い娘がいた。
 数人の不良が後をつけてていた。
 気配を感じた娘は歩みを早め、やがて小走りに走り出した。
「極上の獲物だ。逃がしちゃならねえ」と、不良達も走り出した。
 大木の陰から突然現れるおまあばあさん。
「おまあらの母じゃ」
 驚いて立ち止まる不良達。
「おまんらの母じや」
「ふざけた事抜かすな。俺っちのおっ母は、・・・男と逃げた」
「おいらは自慢じゃ無いが孤児だ」
「俺のお袋は二日前におっ死んだ」
「おまあらの母じゃ」
「おい、こんなきちがい相手にするな」
「そうだ、急がなくては逃げられてしまう」
 不良達はおまあ婆さんを残して、娘の後を追いかけた。
 遠ざかる不良達に呼びかけるおまあ婆さん。
「おまあらの母じゃ!」
 なぜか嬉しそうに微笑んでいるおまあ婆さん。

 急ぐ不良達の前に二つの人魂が現れて、おいでおいでとばかりに墓場のほうに誘う。
 ジャンジャンジャラ、どこからともなく不気味な三味線が聞こえて来た。
 怯んで竦む不良達。
 人魂はだんだん数が増えて行く。
「てやんでえ。人魂なんか怖くねえぞ! だよなあ」
「あたぼうよ。人魂が怖くて浅草で悪さなんて出来るか」
 不良達はだんだん元気を取り返します。
「かまうことはねえ! とっ捕まえて見世物小屋に売り払っちまおう」と、匕首を抜き放って人魂に飛びかかって来た。
 これには、人魂のむさ火とけち火の方が怯んで姿を消した。
「ざまあ見ろ!」
「さあ早く追いかけようぜ」
 娘の後を追う不良達ですが、残念無念、娘は我が家に逃げ込んでいました。
     2016年12月14日   Gorou

吉備真備と藤原仲麻呂

2016-12-14 00:34:30 | 日本古代史
 西暦752年四月九日、東大寺の中庭で大仏開眼供養が行われました。一万人の僧侶と皇族・貴族が参加して行われた国際色豊かな大イベントでした。開眼師のインド僧菩提遷那を初め、ベトナム僧仏哲、ペルシャ僧ラームヤール等が参列していました。まさに華厳による光輝く太陽の帝国がこの世に出現したのです。
 光り輝く華厳の皇国を実現するための二つの巨大プロジェクトがこの年展開されました。大仏建立と遣唐使発遣です。しかし、この大仏建立は、崩壊、混迷、騒乱への序曲となったのです。あんな巨大なモニュメントを創る国力、財力があの時の日本にあったのでしょうか? 搾取、酷使、疫病、公害、あらゆる人災が庶民を苦しめたに違い有りません。大仏の建立に成功したのは、行基の協力があったからとされていますが、私には理解出来ません。民間布教に尽くし、真の菩薩業を行い、政庁から小僧と罵られ続けていた行基がどうして? 

 荘厳な大仏開眼供養会。
 丁度この頃、四隻の遣唐使船が唐に向かっていました。
 第十二次遣唐使一行です。大使に藤原清河、副使に大伴古麻呂、そして副使はもう一人いました。吉備真備です。これは極めて珍しい事なんです。
 第十二次遣唐使の発遣が決まったのは前年でした。大使藤原清河、藤原氏初の遣唐大使です。清河は藤原北家の人で母は立野夫人で、兄の永手と真楯の母が牟呂王女でしたから、北家では主流とは言えませんが、大使に選ばれたからには教養と容貌が優れていたに違い有りません。かなり若かったと私は想像しています(生年不詳)。この藤原氏の貴公子を補佐する副使には唐に行った経験がある、大伴氏一の気骨の有る大伴古麻呂が任命されました。中々良い人事だと思いますね。しかし、この年の十一月七日、吉備真備が副使に追加任命されたんです。この時真備は藤原氏と藤原仲麻呂の為に九州に左遷されていました。勘ぐれば、九州に左遷するだけではもの足りず、遙かなる中国大陸まで遠島にしたつもりだったのかも知れません。
 真備だけではなく、藤原清河も大伴古麻呂も藤原仲麻呂にとって邪魔な存在でした。数年の間日本から消えているだけで、だいぶ独裁政権の確立に有利でしたし、三人が海の藻屑と消えればもっけの幸いと思っていたに違い有りません。その確率は五割くらいあったのですから。

 藤原氏と吉備真備の対決が始まったのは740年の広嗣の乱。からと私は思っています。
 太宰府に左遷された藤原広嗣(式家宇合の長子)は諸兄政権に協力する玄昉と真備を除くようにと、上表文を聖武天皇に奉りました。政治の得失も天地の災害も二人の責任だとしています。玄昉については、『密かに皇位を狙っている』と断じ、真備には、『田舎ものの子で器量のない小人。智有り勇有り弁有り権有り、口に邪言を弄す有為姦雄の客である』と罵っている。面白いのは、智有り勇有り弁有り権有りと認めている事です。真備は政敵からも有能と認められいたのですね。あんな凄いやつが重用されては、藤原氏の独裁はかなわないと思っていたんでしようね。この広嗣の上表文は聖武天皇の逆鱗に触れ、広嗣は反乱者として討伐されてしまいます。藤原各氏も藤原仲麻呂も静観しました。或いは、藤原氏の乱暴者広嗣を除きたいと思っていたのかも知れません。捕らえられた広嗣は裁きの席にも着かずに処刑されてしまいます
 乱の影響が有ったのかどうか? 745年、玄昉が筑紫観世音寺に左遷され、行基が大僧正に任命されます。いよいよ大仏建立の態勢が整ったのです。
 翌年、玄昉は筑紫で入寂してしまいます。広嗣の呪いと噂されていますが、藤原氏の暗殺ではないかと私は思っています。その仲麻呂の魔の手も真備には及びませんでした。東宮大夫(皇太子の師)として尽くす真備が天皇一家の深い信頼を得ていたからです。
 750年、仲麻呂はようやく真備の九州左遷に成功しますが、それにも飽きたらず、遣唐副使に追加任命させます。表向きは藤原氏一の信望を集める清河が大使、大伴氏唯一の気骨漢古麻呂が副使、日本一の知識者真備も副使、この人事は万全に見えますが、三人とも仲麻呂の政敵だったのです。この人事はかなり無理が有ったんです。真備の位階が大使の清河よりも上位だったんです。為に清河と古麻呂の位階をあげて矛盾を繕いました。
 第十二次遣唐使の派遣は藤原仲麻呂にとっては半ば成功といえます。藤原清河と阿倍仲麻呂が遂に日本に帰れなかったからです。
 この第十二次遣唐使団には大事な使命が託されていました。
 一つが鑑真とその高弟達を渡日させる事。一つは日本という国を文明国家として唐に認めさせる事でした。
 753年元旦、朝賀の席に着こうとした遣唐使一行、特に古麻呂が驚いた。日本の席次が西のチベットの下で、東の一番が新羅だったからです。直ぐに抗議する古麻呂。
「昔から今に至るまで、久しく新羅は日本に朝貢しています。ところが今、新羅は東の一番の上座に連なり、日本はその下位に置かれています、これは義にかなわない事です」
 古麻呂の抗議が叶い、新羅を西の二番に、日本を東の一番に席次を交換しました。煩わしいから、新羅とチベットに言い含めて代えたのです。大使の清河と真備がどう考えていたのかは伝わっていません。少なくとも真備はどうでも良いと考えていたとと思いますし、清河も玄宗皇帝を余り刺激したくないと思っていた筈です。その後も古麻呂の強気な外交が効をそうします。
 鑑真の招請を願いでた所、あっさりと許可されます。しかし、道士(道教僧侶)を連れて行くことが条件でした。李姓の玄宗皇帝は、同じ李姓の老子を敬愛して仏教から道教へと国教を代えつつありました。念のために、この道教は老荘の教えとは全く関係有りません。老荘というのは宗教では決して無く、むしろ哲学に近いかも知れません。老荘を簡単に説明するのは到底無理ですが、人は無に帰り宇宙と一体にならなければいけない、大体こんな具合に考えれば良いかと思います。ちなみに、私は真備は老荘の徒であったと推測しています。
 遣唐使一行は道士の受け入れを断り、鑑真の招請もあきらめてしまいます。しかし、玄宗皇帝への配慮として、四人の留学生に道教を学ばせる事にしました。ここでまた、古麻呂が活躍しました。鑑真和上自身が渡日に強い意志を持っていたなら、密航させようと言い張ったのです。
 鑑真一行の密航が決まり、鑑真は大使清河と阿倍仲麻呂の乗る第一船に乗り込み、いまや出航という時、唐の官憲の動きが活発になり、船の捜索が行われそうだ。という噂がながれ、大使清河は苦渋の選択をします。鑑真一行はやむなく下船させられます。落胆に呉れる鑑真一行を古麻呂が助けます。密かに鑑真和上と弟子達を招き、独断で自分の乗る第二戦に乗せてしまいました。古麻呂というのはまるで戦国武将のような気骨をもった人ですね。武士の原型になったのかも知れません。
『海行かば、水漬(みず)く屍、山行かば、草生す屍』これは大伴氏の家訓となった歌で軍歌の元になりました。大伴氏というのは大和朝廷随一の丈夫(ますらお)で、その大伴氏で一番の気骨漢が古麻呂だったんです。

 運命というものは不思議なものですね、鑑真が下船した第一船は強風で中国に戻され、藤原清河と阿倍仲麻呂は遂に故国の土を踏めませんでした。他の三船はなんとか日本に帰還しました。
 帰朝を果たした吉備真備と大伴古麻呂には藤原仲麻呂との死闘が待ち受けていました。
 無事帰朝を果たした副使の二人、吉備真備と大伴古麻呂も、そして第四船も754年四月に日本に帰り着きましたが、第一船は安南に漂着し、藤原清河も阿倍仲麻呂も遂に日本には帰ることが出来ませんでした。
 754年三月、孝謙天皇は真備を鑑真和上への勅使に任命しました。
「大徳和上、遠く滄波を渡りてこの国に投ず、(中略)、今より以後、受戒伝律のこと、ひとへに和上に任す」と口頭でで勅を伝える真備。この事はいかに孝謙天皇が真備を信頼していたかを物語ますが。孝謙天皇の心情は複雑だったに違い有りません。真備を嫌う藤原仲麻呂とは愛人関係に有ると噂されていたからです。いいえ、この頃までは孝謙天皇は藤原仲麻呂を愛していたと思われます。以後、その愛は道鏡の方に向かって行きます。  四月の人事で、副使の二人はともに正四位下へと昇進したが、古麻呂が左大弁(中央各省の調整官)を賜ったのに対して、真備を待っていたのは太宰府への左遷でした。大和朝廷の忠臣二人を切り離し、藤原仲麻呂は着々と独裁へと盤石の布石をしいて行きます。
 756年二月、左大臣橘諸兄臣下の佐味宮守が紫微令(しびりょう)藤原仲麻呂に「左大臣は聖上皇にたいして謀反の疑いが有る」と密告しました。激怒した諸兄は失意の内に追い詰められ、孝謙天皇に対して辞任を申し出ました。この辞任願いは慰留される事無く直ちに受理されました。藤原仲麻呂の思うつぼにはまったのです。
 756年五月、聖武上皇崩御。
 もはや藤原仲麻呂が遠慮する権力は何も有りません。
 聖武上皇の初七日が終わった日、三関(愛発、鈴鹿、不破)は閉じられ、謀反の疑いが有るとして、大伴氏の長老格大伴古慈悲(こしび)と天智天皇系の淡海三船(おうみのみふね)が逮捕されました。二人は二日後に釈放されましたが、古慈悲は土佐守に左遷されてしまいました。一族の長大伴家持は『族(やから)を諭す歌』を詠んで軽挙妄動を戒めました。これら一連の謀略を太宰府の真備はどんな気持ちで見ていたのでしょうか。真備はただ黙々と防衛の為の任務をこなしていました。
 翌757年正月、橘諸兄が亡くなった。いよいよ藤原仲麻呂の独裁恐怖政治が始まったのです。
 六月九日、勅令五条によって、橘、佐伯、大伴氏の各氏族が徒党を組むことを禁じた。明らかに三氏族への弾圧法でした。
 六月十六日、藤原仲麻呂は大幅な人事異動を行いました。橘奈良麻呂を兵部卿(長官)から右大弁(調整官)へ、大伴古麻呂は左大弁から陸奥鎮守将軍として辺境に追いやられました。さらに仲麻呂は執拗に弾圧を強行します。
 七月二日、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を初めとした反仲麻呂の大物が次々と逮捕され、厳しい糾問と凄惨な拷問が行われ、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、大伴池主、大伴駿河麻呂、小野東人らが次々と悶死していった。仲麻呂は兄の豊成さへも太宰府に左遷してしまい、完全な独裁体制を完成させました。
 翌758年八月、孝謙女帝は淳仁天皇(仲麻呂の傀儡)へ譲位し、仲麻呂は藤原朝臣恵美押勝と改名して朝廷の政治と軍事の権力を一手に集めました。
 760年、恵美押勝は六人の腹心を太宰府に派遣して、吉備真備から諸葛亮孔明の八陣(はっちん、軍陣の形式)や孫子の九地(くち、地形による戦術)を学ばせています。恵美押勝は吉備真備の実力を認めていながら、地方豪族でしかない真備を、自分の兵力を持たない真備を、侮り過ぎていたのかも知れません。九州に置いている限り安全だと思っていたのです。
 761年、大規模な新羅征討計画を発表。
 762年六月、孝謙上皇が反撃に出た。嘗ての愛人押勝の傀儡淳仁天皇から天皇権を剥奪しようとした勅令を発した。
 764年正月、孝謙上皇は造東大寺長官として吉備真備を都に呼び戻しました。この時、真備は辞表を太宰府に提出していましたが、それが朝廷に報告されない内に、いままでは殆ど藤原氏に独占されていた造東大寺長官に任命されてしまったのです。
 真備の人事が物語っているいるように、上皇陣営が次第に優位にたって行きます。
 九月十一日、追い詰められた押勝が遂に挙兵しました。いわゆる恵美押勝の乱ですね。大乱になりかねない騒乱でしたが、真備の戦略であっけない程の短期間(八日間)で鎮圧され、恵美押勝は家族従者三十四人とともに処刑されてしまいました。
 続日本紀に曰く、
 藤原仲麻呂が謀反を起こした時、吉備真備の指揮や編隊ぶりは非常に優れた軍略で、賊軍は遂に策謀に陥り、短期間ですべて平らげられた。・・・と。
 その後も真備は朝廷と日本の為に懸命に尽くし、遂には右大臣にまで登り詰めました。真備が出世そのものを望んでいたとは、私には到底思えません。真備の本質は学者であり、教師であり、啓蒙家だったんです。真備は囲碁の名人としても知られています。真備の戦略眼というのは囲碁によって培われていたのかも知れません。また、私は真備は老荘の徒であると推測しています。真備が留学した唐の、いや古代中国の政治家の多くが、昼は儒家か法家、夜は老荘の徒でした。真備も儒教を学ぶために唐に留学し、老荘の教えに出逢ったのではないでしようか。だから、出世を望まぬのに右大臣まで登り詰めてしまったのです。
   2016年12月14日   Gorou&sakon