アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

窮れる女王と女狐 Ⅰ

2016-12-08 23:52:55 | 伝奇小説
 聖武天皇の御世、二十三人の皇族が互いが心を合わせる為に、代わる代わるに宴を催した。
 この皇族方は皆天智系の方々で、王と王女もたくさん居られました。この時代、王と王女は天武と天智兄弟の孫だけが名乗る事の出来る尊称であった。聖武天皇は天武天皇の孫でしたので、天智系の皇族は恵まれず、大変不遇を囲い、不満が募っていました。
 この日の主催は白壁の王でしたが、客の皇族の不平不満や政庁への悪口にはまるで耳を貸しません。白壁王は、白壁の如く目立たずに頭を下げて災禍の通りすぎるのを待つ賢さと忍耐を持っていました。
 白壁王は、隅で一人しおれた様子で膳の食事を慎ましくお食べに成っている窮(せま)れる女王(名は伝わっていません) の側に歩み寄って、優しい言葉を掛けました。
「女王様」
 窮れる女王は、恥ずかしそうに瞬きをしながら白壁王を見ました。
「お気を確かにお持ちなさい。葛城王はやくそくして下さいました。必ずあなたに渡る筈のお金や衣料などをくすねている者を見つけ出して、罰を与えると」
 この女王が貧乏だったのは、母親が亡くなってから、届くはずの物が届かなくなっていたからです。官吏の誰かが懐に入れていたに違いません。
「有り難う御座います。でも、私が貧乏なのは、きっと前世で悪い行いが有ったからですわ。私は前世を悔いて、一生懸命に仏様にお祈りを捧げておりますの」
 目立たぬのが心情でしたが、白壁王は窮れる女王の慎ましさや篤い信心に心を打たれ、なんとか力にならねばと決意を新たに致しました。

 宴の帰り、窮れる女王は平城左京の服部堂の吉祥天像の前で泣き崩れてしまいました。
「わたくしは、前世で貧乏に成る因果を作って、貧乏に成る報いを受けております。わたくしは宴会の仲間になりましたが、ただ人の物を食べるだけで、お返しをする事が出来ません。どうか、大それた望みなど抱きませんが、たつた一度で良いから細やかな宴を開けるだけの財をお与え下さい。望みを叶えて頂ければ、わたくしの命をお捧げ申し上げます」
「その願い、適えて使わそう」
 驚いた女王が吉祥天の顔を拝みましたが、穏やかな微笑みを浮かべているものの、唇はピクリとも動きません。
 吉祥天像の裏に、一匹の女狐が隠れていて、天女に代わって言ったのです。

 この女狐は荒れ果てた女王邸に住み着いていて、窮れる女王と寄り添うようにして助け合う仲だったのです。日頃から食べ物などを女王に届けたりして、宿の恩を返していました。

 女狐は生駒山の母狐の元に一目散に掛けました。
 彼女の母狐は位の高い狐で大抵のことは可能にしてくれるのです。

 女狐が必死に祠に駆け込むと、母狐は来るのを知っているかのように待っていました。
「どいう風の吹き回しかね、久し振りじゃないか」
「お母様、実は・・・」
「何かほしいんだろ? その前に」と、声を張り上げて「来寝麻呂、出ておいで」
 女と見まごう程の美男子、来寝麻呂が奥から姿を現しました、何故か人の姿をしています。
 女狐の胸は早鐘のように鳴り続けます。こんなに美しい人間に会った事が無かったからです。
「お前の兄さんの来寝麻呂じゃ」
「やあ、やっと会えたね」
 優雅な美しい声で、来寝麻呂は妹に挨拶をしました。
 お兄さんだなんて、残念だわ。なんて事を女狐が考えていると、
「ところで、なんだい? 欲しい物かい? それとも願い事かね?」
「いいえ、お母様、相談です」
 女狐は母と兄に窮れる女王の哀れな身の上、哀しい話をすっかり話しました。
「なんだい、そんな簡単な事かい? お前が世話になっているお方の為だ。力になって上げようじゃか、ねえ来寝麻呂。すぐに支度に掛かっておくれ
「畏まりました」
 来寝麻呂と母狐は、夜が明ける前に、沢山の食べ物や装束、豪華な食器、絢爛とした家具などを揃えてしまいました。
 夜が明けるとすぐ。
「さあ、出かけようじゃないか」
 母狐は女王の乳母に化け、来寝麻呂は家来の侍に変装しています。
 狐のままの娘に声を掛ける母狐。
「何をしてるんだい。まさか忘れたんじゃないだろうね、化けるのを」
「はい、でも、私は誰になればいいのかしら」
「そうだね、女王の幼なじみの侍女がいいだろう」
 女狐は若い侍女に懸命に化けました。
 なんとか格好がついたとホッとすると、来寝麻呂の鞭が尻尾に飛んで来ました。
「気をゆるんじやないよ」
 ペコリと舌をだして尻尾を隠す女狐。

 こうして、生駒の山奥から五十人もの行列が女王宅目指して出発しました。
    2016年12月8日   Gorou
 

あいものがたり Ⅳ

2016-12-08 19:46:45 | 物語

 喜び勇んで客席に走り込む親子。
 舞台袖で河太郎が芸者達に責め立てられていた。」
「速く幕を開けな」「来寝麻呂を見せておくれ」「早くしないと火をつけてしまうよ」
 物騒な事を言う芸者までいた。
 新門の若頭が河太郎に声を掛けた。
「こんな入りじゃ、俺っちに払う二十円が出来ねえよな」
 額に汗を滴らせた河太郎が必死に良いわけををした。
「もう少しけ待ってくれ。直に客が一杯押し寄せる事になってる。大体、役者が揃ってねえなだ」
 幕間から優雅な腕が伸びてきて河太郎を引っ張った。

 舞台に佇んでいるさこひめ、笑顔で河太郎を見上げる。
「役者は揃った。さあ、始めようじゃないか」

 再び袖に現れる河太郎。悠然と客席を見渡して、自信満々で語り始めた。
「これからお見せしやすのは、義経千本桜四段目、道行初音旅。新演出でお贈りいたします。歌舞伎座でもお目にかかれない代物だ。無粋な女形なんて出てこない。静御前は優雅な美女さこひめ、源九郎狐は来寝麻呂だ」
 キャーキャー騒ぐ深川と浅草の芸者衆。
「隅から隅までズズィーット・・・ご覧下さりませ」

 丁度その時、チンドン楽隊が大勢の客を引き連れて帰ってきて、客席は忽ち満員御礼。

 ゆっくりと緞帳が上がると、夜明け前の吉野が拡がっていた。
 満開の吉野桜の奥に連なる山々が霞んでいる。
 琵琶と事の哀しい連弾に乗せて謡が聞こえて来た。

 春はあけぼの 春はあけぼの やうやう白くなりゆく やうやう白くなりゆきて
 山はぎ少し明かりて 紫だちたる雲の細くたなびきたる

 曙に浮かび上がる満開の吉野桜。彼方の稜線が紫色に色づいている。

 さて、この小屋はサーカスも出来るようにむなっていて,綱渡りようの太綱が渡されていた。
 その太綱にお軽と先ほどの娘が座って舞台を見ていた。この二人は見た目の年齢が近いこともむあって気が合っていた。むろもつとも、この娘に限っては一を分け隔てなんか決してしません。誰にでも慈しみに満ちた愛を捧げるんです。
「なつかしい?」
 こくりと頷く娘。この舞台の吉野は書き割りなんかじゃ無くて、みんな本物なんです。
「帰りたい?」
「ううん、だってもう誰も居ないんだもの。ほら、右の奥に霞んでいる山の向こう側に有ったのよ」

 舞台では謡が続いていた。
 恋と 忠義は どちらが重い かけて思いははかりなや 忠と信のもものふに 君が情けと預けられ 静かに忍ぶ都おば
 微かに現れる静御前(さこひめ)。緋色の袴ね小袖五つ衣、薄絹を身につけており、とうてい白拍子静御前の道中姿には見えなかった。
 近づくに連れ、静御前の姿が確かになった
 跡に見捨てて旅立って つくらぬなりも義経の御行方難波津の 波に揺られて漂ひて
 今は吉野と人づての噂を道のしほりにて 大和路辿りて 吉野に来たり

 立ち止まって、辺りを見渡して溜息を付く静。
「ああ、我が君判官九郎様はいずこに。噂を信じれば、確かこの辺り」
 義経の形見とも言うべき初音の鼓を取り出す静。ポンと一打ち。
 静の前に姿を現す二人の武者。
「懐かしや忠信殿。もう一方は?」
「今巴御前と謳われし我が妹ございます」
 静かが義経を偲んで鼓を二つ打つと,忠信と妹は膝を抱えてしゃがみこんでしまった。二人の肩は涙で噎んで震えている。
 更に静が鼓を続けると、二人は悲しみの余り大地に両手をつき、もがき苦しんだ。
「なんとしました? 忠信殿」
 恨めしそうに静を睨む忠信、両の眼が吊り上がってただならぬ形相に成っていた。
「なんとその顔は・・・?! 忠信殿と思うたは静香の見間違い、何者であるか?」
「あなた様には到底隠し通せませぬ。そ、その初音の鼓は、我ら兄妹の父母の革でつくられておりまする」
「なんと、父母の革とな。ああ痛ましや」
 妹武者が、たれ下げた静の初音の鼓にすり寄って、愛おしくも抱きすくめる。兄の武者はその妹を後ろから抱き支える。
 鼓を持つ手の力を抜く静。初音の鼓は妹武者の手に渡った。
「是非も無い、この初音の鼓はそなた達の者であるぞ」
 鼓に頬づりをした妹武者は、ポンポンポンと打った。
 忠信武者は鼓に合わせて舞い、飛び跳ねて父母との再会を喜んでいる。
 忠信が妹に駆け寄って鼓を受け取って鼓を打つと、今度は妹がんで飛び跳ねた。
「忠信殿、忠信狐殿。今一度初音を我が手に。・・・せめてもの手向けにわらわが曲を手向けようぞ」
 忠信狐から初音を受け取ると、管弦の合唱に乗せて鼓を打ち続けた。
 忠信狐と妹狐の歓喜の舞は弾けた。クルクルと忠を舞い、翼が有るがごとくテントの天井を突き破る程にも飛翔したかと思うと、霞む吉野の彼方までにも飛んでいった。

 万雷の拍手と歓声。鳴り止む事を忘れて、観客の興奮は最高潮に達した。

 舞台で鼓を打っていたさこひめも興奮していた。もう自分を抑える事など適わず、本性を現した。さこひめの両肩から大きな翼が現れ、二人の狐に負けづに、羽ばたいて弾けた。

      2016年12月8日   Gorou

炎の男、火麻呂 防人の歌 Ⅳ

2016-12-08 17:30:54 | 物語

 四
「火麻呂、逃げようとしていたのかどうか、正直に答えて見よ」
 不幸にも不安が的中し、火麻呂は脱走兵として詮議にかけられた。
「逃げる気など毛頭ありませんでした」
 白州に引き据えられた火麻呂が古麻呂に答えた。
 大宰の帥大伴旅人の代理という立場で赴任している古麻呂に事は一任され、
何故か古麻呂が当の本人だけと話したがったのだ。
「何故離れた部隊をすぐ追わなかったのか」
「深い森で方角を見失いました」
「迷ったのか?」
「はい」
「良いか火麻呂、事態はお前に不利である。脱走の意思が無かったという証が
見えぬのだ」
「証拠なら有る」
 毅然として言い放つ火麻呂。
「ほほう、ならば言うてみよ。虚言は許さぬぞ」
「逃げる気なら、とっくに逃げていた。第一筑紫になぞ来ぬ」
「その気があればいつでも逃げれるとでも言いたいのか?」
 胸を反って頷く火麻呂。
「おうさ、いつでも」
 そのふてぶてしい様子に言葉を荒げる古麻呂。
「ほざくな下郎! ならばなぜ捕らえられて白州に引き据えられておるのじ
ゃ」
「あの時は逃げる気が無かった」
「あの時は? ・・・今は? どうなのだ、火麻呂」
「隙があれは逃げて見たいと思うておる」
「私が一声上げれは兵士が飛んでくるぞ。それに、素手のお前に比べて」
 腰の刀子に手を添える古麻呂。
「私には武器があるし、いささか腕にも自信が有るぞ」
「さあ? やって見なければ分からぬ」
「ハハハハ、面白いことを言う男じゃ。だが火麻呂、依然として状況はお前に
不利だ。葛麻呂の弟の子虫が煩くてな、いやな連中に恨まれたものじゃ、何を
したのだ?」
「したい事をしただけだ。子虫も糞も見たことも会ったことも無い」
「公卿を呼び捨てにしてはならぬぞ火麻呂。私とて大伴氏の端くれなのだ。も
し、もしも冤罪で処刑されても誰も恨むでないぞ。良いか火麻呂」

 火麻呂を下がらせた後、古麻呂は別室の子虫と白麻呂の元に行った。
 二人の上座に座る古麻呂、苦虫を噛み潰したような顔で子虫に話し掛けた。
「私には本気で逃げようとしていたとは考えられぬ。子虫殿、どうしてもあの
男を処刑せねばならぬのか?」
「この事は旅人の帥の了解を得ています」
「あの温厚な旅人の帥の意思とは思えぬが。・・・きしの火麻呂と言うたな、
どんな漢字を当てる?」
「吉兆の吉に志とか、越の末かと思われます」
「葛麻呂殿の祖父に従って武蔵に下ったと聞くが、ならば紀直の紀氏では無い
のか? もしも紀氏なら我が大伴氏とは同国近隣の人である、大目に見てやれ
子虫殿」
「どちらせにしろ牛馬よりも劣る奴同然の男」
 憮然として言い放つ子虫。
 襟を正し、東方を望む古麻呂。
「海行かば水侵く屍、山行かば草生す屍。・・・この歌を知っておりますな、
子虫殿」
「もちろん、我が大伴氏の伝承歌では御座いませんか」
「ならば心得よ、大伴氏がこの世に存在しているわけを。大伴氏とは、背に靫
を負い、肱に鞆をつけ、手に弓矢を持ち、剣を腰に帯び、恐れ多くも天皇の前
駆を勤める者であらねばなりません。天皇には澄んだ、明るく清き心で仕え奉
らねばなりません。その大伴氏の貴方が、仮初にも私事に奔命するなどもって
の外。貴方は防人の将としてこの大宰府にいるには余りにもお若い。私が旅人
の帥に書状を認めますから平城に戻りなさい、しかるべき師を見つけて学びな
おしなさい」
 思わぬ古麻呂の叱責に青ざめる子虫、唇を慄かせて何か言おうとするが、声
になって出てこない。
「白麻呂殿、防人としての火麻呂はどうなのです?」
 今度は白麻呂に尋ねる古麻呂。
「防人に成る為に生まれてきたような男です」
「ほほう、そんなに優秀な防人ですか」
「はい、強く賢く敏捷です。何よりも火長として将からも兵卒からも信頼され
ています」
「ならば防人にしておくのが一番。そうですね白麻呂殿」
「ハハーッ!」と、畏まる白麻呂。
「優秀な防人を失う分けにはいきません」
「必ず逃亡しますぞ!」
 叫ぶように言い放つ子虫。
「ならば、逃げぬように見張れば良い。もし逃げたなら、白麻呂殿、貴方の責
任です」
 反論しようとする子虫を制しながら立ち上がり、その部屋を出てゆく古麻
呂。
「古麻呂奴、古麻呂奴、おのれ」
 立ち去る古麻呂を睨み付ける子虫、顔面蒼白となり、わなわなと唇が怒りで
震えている。
「白麻呂! 構わぬ、火麻呂など殺してしまえ!」
「シーツ、お声が高い」
 子虫に顔を寄せる白麻呂、低い声で囁く。
「容易い事、だが古麻呂様からお咎めが有りませんでしょうな」
「古麻呂より兄のほうが位階が上だ、殺ってしまえ」
「ハハーッ」
 子虫に平伏して見せる白麻呂、上目遣いに伺い、子虫が古麻呂の後姿を睨み
付けているのを確認してニタリと笑った。

「火麻呂など殺してしまえ」
 城門脇の木陰から囁く白麻呂。
 陽だまりの中で、眉一つ動かさずに伯父白麻呂を見る黒麻呂。
「仰せと有れば何時でも」
「なあに、子虫がほざいていただけだ。だが、見張れ」
「チッ」と舌打ちする黒麻呂。
 背中の長刀を抜いて日に翳す黒麻呂。
「殺してしまう方が簡単だ」

 雪連黒麻呂は、後世の言葉を借りれば、傾く人と言えた、いや相当に傾いて
いた。
 傾くとは、歌舞伎の語源になった概念で、日本人の特徴の一つで有る。新奇
の文化に貪欲で、古い因習に拘らない好き者が日本の歴史の節々に出現した。
織田信長がその代表と言える。
 壱岐という、中華の洗礼を真っ先に受ける島に生まれ育った事で、黒麻呂の
傾く心がいやがうえにも磨かれて行った。雪の結晶に例えられる壱岐に因んで
雪氏を称した一族そのものが傾いていたとも言える。
 兵役に就いて直ぐ、黒麻呂は衣裳と武具に工夫を凝らした。特に太刀に只な
らぬ拘りを見せた。誰も見たこともない程の長刀を鍛冶師に創らせて常用とし
た。その太刀は幅も広く相当の重さになった筈だが、黒麻呂は軽々とその長く
て重い太刀を捌いた。ただ、余りにも長いので横に剥ぐには不便なので肩に襷
に架けた。
 太刀鞘の意匠にも工夫を凝らした、漆黒の漆に真っ赤な雪の結晶がちりばめ
られている。その結晶の数だけ敵の首をはねたという噂が流れていた。

 古麻呂が何故助けてくれたのか火麻呂にはよく分からなかった。
 同じ大伴氏でも、古麻呂は葛麻呂や子虫に比べて人としての器が違うのだけ
は理解できた。
 だが、次もまた古麻呂が助けてくれる保障はどこにも無い。近いうちに罪を
着せられて処刑されるに違いない。だったら、いつその事白麻呂の誘いに乗っ
て逃げて見るか?
 火麻呂の思考は頭の中でぐるぐる回り取り止めがつかなかった。
「冷めないうちにお食べ」
 母の声で我に返る火麻呂、膳部の汁椀を取って一口啜った。
「お前の好きな茸を汁にした。うまいか?」
「ああ、旨い」
 母真刀自の元気な姿に胸を撫で下ろす火麻呂、母の用意してくれた夕餉を猛
烈な速さで食べ始めた。
 解き放たれた息子を見ながら涙ぐむ真刀自。
「郡司様の事が露見したのかと心配で心配で」
「あの事を喋る奴も訴える男もいるものか。第一、泥麻呂が一切を被って逃走
して呉れたから大丈夫だ」
 火麻呂が壱岐で捕縛された時、真刀自は覚悟を決めた。脱走罪だけでなく猪
足殺害の罪も受けて死刑になるかも知れない。息子の従者として筑紫まで着い
てきたのは、乱暴者の火麻呂が短気を起こして脱走しないためだった。その愛
する息子の処刑を見るなど耐えられるとはとても思えなかった。
 そんな火麻呂が何の咎も受けずに帰ってきたのだ。真刀自は菩薩に感謝し
た。祈りが通じたのだ。息子の無事な姿を見て一時的に体調が良くなったが、
決して長くは無いと悟っていた。 自分が死ねば、甥泥麻呂が言っていたよう
に、火麻呂に一年の自由が与えられる。強く賢い火麻呂だったら、雅と共に逃
げて、どこか遠くで幸せに暮すに違いない。

 火麻呂が夕餉を平らげると同時にとんぼが訪ねてきた。
「お別れに参りました」
 馬鹿丁寧な言葉で真刀自に挨拶するとんぼ。
「父親が死んだと知らせが参りましてな、明日朝鴨郷に帰ります」
「まあ! それは大変で御座いますなあ、郷を出た時はあんなにお元気でした
のに」
「とんぼ、座って一杯飲め」
 火麻呂の勧めで腰を下ろし、杯を受け取って酒を喉に流し込むとんぼ。
「親が死ぬと防人を免除されるのか?」
「一年だけだ、また帰って来ねば罰を受ける」
「帰れるのか、郷に。それにしても随分暗い顔をしておるな」
「たった一人で郷に帰り着けるとは思えない。銭も力も無いんだから。無事に
帰れるのはせいぜい十人に一人だそうだ。また筑紫まで来れるのがその内の十
人に一人というから、百に一つも助からない」
「弱音を吐くなとんぼ」
「そうです、気を確かにすれば必ず無事に辿り着けますよ」
「愚痴を言うても仕方が無い。明日は早いから帰りますぞ。真刀自様、御体を
労わって下され。それから火麻呂、悪い話ばかり聞こえて来る、罠にはまるな
よ」
 肩を落として長屋を出て行くとんぼ。
 隅の壷から銭を鷲掴みにした火麻呂が後を追おうとすると、真刀自が懐の銭
袋を火麻呂に渡した。
「これも使っておしまい」

 暗闇をとぼとぼと歩くとんぼに追いつく火麻呂、手に掴んでいる銭を真刀自
の銭袋に捩じ込んでとんぼの手に握らせた。
「持って行け」
「困る、それは困る、そんな積もりで尋ねたのではない」
「分かっておる。銭など大した役には立たぬ。もし、もし銭が残ったら、雅に
渡して呉れ」
「ああ、必ず渡す。出来るだけこの銭は使わず雅様にお渡しする」
「山の我が家に居ると思うが、もしかしたら実家で待っているかも知れない。
頼むぞ、銭が残らなくても尋ねて呉れ。必ず迎えに行くと伝えて呉れ」
 何度も何度も振り返って火麻呂に頭を下げるとんぼ、闇の中に消えて行く。
「親が死ねば郷に帰れるのか」
 呟きながら道端に座り込む火麻呂、頭を抱え込んで悩んだ。
 群雲の間から月が顔を出した。
 足元の水溜りを見てギョッとする火麻呂、そこにはまるで鬼のような己の顔
が映っていた。
 風が耳元で何か囁いている。
「ウオーッ!」
 魔王でも追い払おうと言うのか火麻呂、傍らの大岩を抱えあげて水溜りの鬼
に向かって投げつけた。
     2016年12月8日    Gorou

炎の男、火麻呂 防人の歌 Ⅲ

2016-12-08 17:26:40 | 物語

 大宰府の古麻呂の元に次々と戦況が届いていた。
 海賊船の壊滅と逃走。
 残党狩りで四人の海賊が投降した事。火麻呂が谷に下りた直後に降伏してき
たのだ。彼らの言葉を信用するなら、小島に逃れた海賊はこの四人が全てだと
いう。
 更に恐るべき報告が対馬からもたらされた。
 新羅の水軍が対馬沖に集結しているという、その数三万。
 この時も古麻呂の決断は早かった。平城に急使を送ると共に大宰府の総力を
上げて増援軍を編成し、自らが率いて壱岐に向かった。

 この軍に従軍していた葛麻呂の弟大伴宿禰子虫は船中で火麻呂の行方不明を
知った。逃亡したのかも知れない。だとすれば、見つけ出して処刑すれば良
い。兄からの厄介な依頼にうんざりしていたので、ほっと胸を撫で下ろした。
 夜の海を壱岐へと急行する古麻呂軍。

 その頃火麻呂は終結地目指して神秘の森を徘徊していた。歩いても歩いても
森を抜ける事が出来なかった。迷ったのかも知れない。
 新羅娘が後をつけてくる。
 火麻呂が立ち止まって振り返ると、素早く木陰に隠れる娘。
 歩き出すとまた後をつけてくる。
 娘はこの漢といれば安全な事を本能的に知っていたのだ。

 夜の闇の中を徘徊していても迷うばかりだと悟る火麻呂、大木の根元に座り
込んで樹根を枕に身を横たえた。
 目を瞑る火麻呂。
 岩陰から様子を伺っていた娘がそろりそろりと火麻呂に近付いて来る。
 火麻呂の傍らで立ち止まって聞き耳を立てる娘。
 早くも寝息を立てている火麻呂。
 更に近付く娘、恐る恐る顔を覗き込んだ。
 突然目を開ける火麻呂。
「まだ殺そうとしているのか?」
 頸を横に振る娘。
「痛むか?」
「少しな」
「このままでは腐ってしまうぞ」
「仕方がない」
 娘に背を向けてしまう火麻呂。
 傷口に巻いた布を解く娘。その傷口が大きく口を開けて血が滲み出してい
る。
 血を丹念に拭う娘、懐から薬草を取り出し、口で噛み砕いて傷口に塗りこん
で行く。
「ウッ」と呻く火麻呂。
 胸を締め上げている布を引き裂く娘、火麻呂の傷口にその布を巻いて結ん
だ。
「毒でも塗ったのか。えらく痛むぞ」
「そうだ、毒を塗った」
 火麻呂の頬を小突く娘。
 目を開ける火麻呂。
「なんと呼べば良いのだ?」
「火麻呂」と、答えて再び目を瞑る火麻呂。
 今度は火麻呂の頬を叩く娘、目を開けてようやく娘に振り返る火麻呂に、
「私の名を聞かぬのか?」
「聞いてどうする」
「名乗った以上聞くのが礼儀だ」
「分かった、何と言う」
「ジョンヒ。・・・漢字で正しい姫と書く」
「えらく大袈裟な名前じゃな」
「それだけか? 氏は知りたくないのか?」
「どうせ金か朴だろうが」
 頬を膨らませ、眉を顰める正姫、火麻呂の視線が顔でなく胸の方に向いてい
るのに気が付く。
「何処を見ている、火麻呂」
「顔を出しているぞ、大事なものがな」
 慌てて自分の胸を見る正姫。
 解けた布から顔を出している両の乳房。
 顔を真っ赤に染めてうろたえる正姫、急いで布で胸を再び締め上げ、ニタ付
く火麻呂の尻を思いっきり蹴り上げると、火麻呂から離れ、岩陰に腰を下ろし
た。
 正姫に背を向けて眠り込む火麻呂。
 深々と静まり返る神秘の森。
 狼なのか、獣なのか、魔物なのか、遠吠えが轟き、梟が不気味な鳴き声で応
えている。
 不安に身を竦める正姫、救いを求めるかの如く火麻呂を見た。
 早くも鼾をかいて眠り込んでいる火麻呂。

「さて、どうする火麻呂」
 わざと鼾をかく火麻呂の耳元で誰かが囁いた。白麻呂の声だ。
 さて、どうする火麻呂。今度は己の心に呟きかけた。
 数日前の丑三つ時、大野城坂本口城門まで白麻呂が訪ねてきた。
「子虫という男を知っているか?」
「さあ?」
「武蔵国守葛麻呂の弟だそうな。その若造が古麻呂に従って大宰府に赴任して
来た」
 白麻呂を無視して歩哨を続ける火麻呂。
「汝の事をあれこれと聞きまわっておってな。終にわしの所にも来たぞ」
 火麻呂に顔を近づけて声を潜める白麻呂。
「気の毒だが汝は生きて郷には帰れぬぞ。さて、どうする火麻呂。いっその事
逃げるか火麻呂。年老いた母親がいては出来ぬのう。だったら壱岐の我が館で
匿ってやっても良いぞ、ほとぼりが冷めたら迎えに来れば良い。そうだ、逃げ
てしまえ火麻呂。私は名前の如く、雪のように清らかで真っ白い男だから、嘘
を付いたり、人を罠にかけたりはせぬ。信用しろ」
 白麻呂の悪魔の囁きを思い出しながら、火麻呂は考えた。逃げたら捕まえて
処刑するつもりせなのだ。
 さて、どうする火麻呂。留まれば地獄、逃げても地獄。
 いっその事、逃げるか? 母刀自を担いで逃げるか。
 どう考えても無理な相談だ。母子もろとものたれ死ぬのが見えている。
 一人なら、一人なら逃げ切れる自信が有った。雅を奪還して、北の果てのま
つろわぬ国で暮らせば良い。ああ! 年老いた母、病に苦しむ母、真刀自さえ
いなければ。何度考えてもそこで思案が尽きてしまう。まるで万華鏡のような
地獄絵だ。
「待ってます、待っています、あなたを」
 天空から雅の声が降ってきた。風が囁いたのかも知れない。
「あなたをお守りします、あなたをお守りします」
 今度は水の精霊が囁きかけた。
 風の囁きを聞き、水の精霊に守られながら、火麻呂の心は深い闇の中に沈ん
でいった。

 真夏の太陽が容赦なく火麻呂の寝顔を襲った。
 眩しげに目を開ける火麻呂。
 正姫が火麻呂の腕を枕にして眠っていた。
 正姫を揺り起こす火麻呂。
 目を開け、恥ずかしそうに微笑む正姫。
「狼の遠吠えが聞こえてきたの。凄く怖かった」と、言いながら起き上がって
可愛らしい欠伸をした。
 昨夜と打って変わったしおらしい様子に苦笑する火麻呂。
「この島に狼などいるものか」
 起き上がってあたりを見回す火麻呂。
 夜の闇に阻まれて気が付かなかった池が見えた。蛇行する流れが岸壁に阻ま
れて大きな水溜りを創っていたのだ。
 その畔に行って顔を洗い、水を飲む火麻呂。
 正姫もまた、火麻呂を真似て顔を洗い、水を飲んだ。
 直垂を脱ぎながら正姫が言った。
「水浴びをします」
 火麻呂をじっと見詰める正姫。
「決して見てはならぬぞ! 火麻呂」
 言葉とは裏腹に目は艶かしく微笑んでいた。
 胸の布に手をかける正姫。
 慌てて目を逸らす火麻呂は寝床にしていた大木まで歩いて行った。
 するすると布を解き、袴を脱ぐ正姫、全裸になって池に飛び込んだ。

「新羅の娘を置き去りにしてしまおう。一緒にいればどんな災難に見舞われる
かも知れない」
 そう思いついた火麻呂は池の方を盗み見ようと、そっと振り返った。
 礫が飛んできて幹に跳ね返った。
「見てはならぬと言うたであろう!」
 水の中で立ち上がった正姫が叫んでいた。
 池は思いのほか浅く、正姫の腰までしかなかった。
「小娘の裸なぞ見たくもないわ」
 呟く火麻呂の脳裏に雅の裸身が蘇った。
 例えれば李のような正姫の裸身に比べて、雅のそれは熟した桃のような芳醇
な味と香りに溢れていた。今の火麻呂に雅以外の女などまるで目に入らない。
 急いで戎具を纏めて担ぐ火麻呂、太陽の位置を確かめて歩き出した。
 出発する火麻呂を見て、慌てて水からあがる正姫。

 少し歩くと官道に出た。時の政庁はこんな無人島にまで軍用道路を築いてい
たのだ。
 真新しい足跡が無数に刻まれていた。残党狩り部隊の足跡に違いない。それ
でも火麻呂は、太陽の位置を確認してから、北の方角、足跡の向かっている先
に歩き出した。
「火麻呂ーッ」
 後方から正姫の声が聞こえて来た。
 無視して歩く火麻呂、更に歩を早めた。
「火麻呂ーッ!」
 大声で叫ぶ正姫。
 立ち止まって振り返る火麻呂。
 正姫が息を切らせながら火麻呂を追って来る。
「大声を出すな。人に聞かれたらどうする」
 立ち止まる正姫。
「ウェノムは夜明けに撤退すると言うたではないか」
「俺を待っているはずだ」
「兵卒など待っているものか。置き去りにされたに違いない」
「かも知れぬが、大声など出さぬ方が安全だ」
 正姫の言うように置き去りにされ、脱走兵として処刑されるかも知れない。
と、火麻呂は覚悟した。
 厳しい表情で踵を返す火麻呂、再び歩き出した。
 正姫は火麻呂から距離を置いて付いて行く。
 磯の香りと共に波の音が聞こえてきた。
 道路は大きく西に曲がりながら急坂になっていた。どうやら浜辺に続いてい
るようだ。
 道路の右端が断崖絶壁になっていた。
 絶壁から海を臨む火麻呂。
 軍船が岬を曲がって壱岐島に帰還するのが見えた。矢張り置き去りにされた
ようだ。
「捨てられたか、火麻呂」
 火麻呂の横で正姫が毒づいた。
 無言のまま沖を指差す火麻呂。
 指差す先で独木舟が漂っていた。その小舟に戯れるようにして海豚が群れ、
白海豚が小舟の上を飛び越えた。
「あの舟を取ってきてやろう」
 浜辺の岩を指差す火麻呂。
「あそこの岩にでも隠れていろ」
 正姫の返事も待たず、肩から戎具を下ろし、上衣と袴を脱いで下帯だけにな
る火麻呂、絶壁から飛び込んだ。
「おおっ」と、驚きの声を上げて絶壁から覗き込む正姫。
 足から落下して行く火麻呂、海面直前で平衡を失って腹から海中に突っ込ん
でしまう。
「キャッ」
 可愛らしい叫び声を上げて水面を凝視する正姫。
 海底に向かって気絶した火麻呂が沈んで行く。
 海豚の群れがやって来て、代わる代わるに火麻呂の身体を頭で突付いて海面
へと追いやった。
 気絶したまま海面に浮かぶ火麻呂。
 火麻呂の上を飛び越えながら甲高い声で鳴く白海豚。
 その声でようやく蘇生する火麻呂、沖の独木舟に向かって泳ぎだした。
 それを見てホッと胸を撫で下ろす正姫、浜辺に続く官道を下りて行った。

 独木舟に泳ぎ着く火麻呂、その舟に乗り込み、櫓を巧に操って浜辺を目指し
た。
 白海豚が嬉しそうに鳴きながら空中に飛翔した。
 浅瀬で船を下り、自分で引っ張る火麻呂。
 名残を惜しみながらも、沖に向かって引き返す海豚達。
 待ちきれずに岩陰から飛び出す正姫、小舟に向かって走った。
 正姫が傍らに来ると再び小舟に乗り込む火麻呂、正姫を抱きかかえるように
して舟に乗せた。
「こんな舟では新羅まで帰りつけぬな」
「沖に出れれば良いのだ。必ず私を迎えに来る」
「遁走した船が帰って来るものか」
「私を見くびるな火麻呂。汝こそ同胞に捨てられた身であろう。いっそ私と来
ぬか、将官の端くれ位にはしてやるぞ」
「ほざくな小娘」
 それも良いかも知れない。ふと思う火麻呂。しかし、雅のいない世界に逃避
するなど考えられぬ相談だった。
「おれは泳いで帰る。ところで漕げるのか?」
「こんなちっぽけな舟など見たこと無い」
「よく見ておけ」
 ゆっくりと櫓を漕いで見せる火麻呂。
「分かったか」
「ああ、簡単じゃないか」
 櫓を正姫に握らせる火麻呂。
 へっぴり腰で恐る恐る櫓を漕ぐ正姫。
 海面を滑る櫓に業を逃がす火麻呂。
「なんだ、そのへっぴり腰は」
 正姫の背後から抱きかかえるようにし、手を添えて櫓を漕いでみせる火麻
呂。
「こうだ。こんどは一人で漕いでみろ」
 正姫から離れて見守る火麻呂。
「もっと腰を入れろ」
 正姫の尻を叩くようにして腰を正す火麻呂、暫く様子を伺い、どうやら漕げ
るようになったのを見計らい、
「まあなんとかなるだろう。後は知らぬぞ」
 ザンブと海に飛び込む火麻呂、浜辺目指して悠々と泳ぎ始めた。
 チラッと火麻呂を見やった後、懸命に櫓を漕ぐ正姫。

 浜辺に泳ぎ着く火麻呂、沖を見返ることなく断崖への道を上り始めた。
 絶壁に立ち、ようやく沖を見やる火麻呂。
 そこにはもう独木舟の姿は消え、代わりに無数の新羅軍船がひしめいてい
た。
「オオーツ」
 思わず感嘆の声を上げる火麻呂。
 ひしめく軍船の手前の海面がざわめき、数万とも思える海鳥が群れて海中に
突っ込んで行く。
 小魚の大群が北上して来たのだ。
 海鳥の攻撃から逃れて深海に向かう鰯の群、こんどは鮫に襲われ、数万もの
数が大きく固まって鮫を威嚇した。
 巨大な魚影にひるんで攻撃をためらう鮫達。
 海豚の群が漁場に到着し、鰯の巨大な魚影に突っ込んで散り散りにさせ、海
面に追いやった。
 絶壁の火麻呂が防人の本能に目覚めた。
 太刀を振り翳し、膝を折り曲げ、天に向かって雄叫びを上げた。
「ウオーッ!」
 火麻呂の雄叫びと共に、鰯と海鳥と鮫と海豚の大軍が新羅水軍目掛けて突進
して行く。
 島影から姿を現す古麻呂水軍、魚鱗の陣形を整え、矢張り新羅水軍を目指し
た。

 新羅水軍の先頭をきる一際大きな軍船の舳先に、黄金色に輝く煌びやかな甲
冑を纏った正姫がいた。
 将軍と参謀が正姫を護るようにして横に並び、古麻呂の水軍を凝視してい
る。
 新羅水軍、その数三万余り。対して古麻呂軍は凡そ二万。今まさに白村江以
来の海戦を交えようとしていた。
 金箔の采配を翳す正姫。
 固唾を呑んで陽に煌く采配の行方を待つ新羅水軍。
 采配をグルグル回し踵を返す正姫、振り上げていた采配をゆっくりと下ろし
た。
 一斉に右旋回を始める新羅全軍。
 艫に向かう正姫の目に古麻呂水軍の魚燐の陣が展開した。
 古麻呂軍を無視して彼方の小島を遠望する正姫。
 豆粒のような火麻呂が見えた。天に祈るように跪き、太刀を翳して雄叫びを
上げる火麻呂の姿が見えた。
 思わず微笑む正姫。
2016年12月8日   Gorou


炎の男、火麻呂 防人の歌 Ⅱ

2016-12-08 02:53:13 | 映画

 小島の浜辺に防人が群れていた。
 無数の軍船が小島を目指し、次々と兵士が上陸している。
 たかが千に満たない海賊に万余の防人軍が壱岐に終結していた。白村江の屈
辱的な大敗から七十年余り、その記憶と恐怖に大宰府が過剰とも思える反応を
示した。
 たかが海賊、といえども、背後に新羅の水軍が、更に唐の大軍が潜んでいる
かも知れないのだ。この過敏な大宰府の反応を笑うことも責めることも出来な
い。
 戦術的にはむしろ賞賛に値するかも知れない。正確な情報収集が困難だった
この時代では、兵力を小出しにして様子を見るより、主力を一気に投入する方
が遥かに勝利に近かったと言える。
 思えば防人が徴用されたのも、水城が築かれたのも、大野城築城、そして大
宰府そのものが新羅と唐からの防衛制度であった。

 きらびやかな甲冑に身を固めた壱岐直鹿人が馬上で唐太刀を抜いて陽に翳し
た。
 片枝の戟に白虎を表した纛旙が真夏の青空に翻っている。
「吾等は日出る国の天子の兵である。よいか、吾等は神の子であり、神の軍隊
である」
 大音声で呼ばわる鹿人。
「新羅の海賊を一人たりとも生かして返すなーっ!」
 唐太刀を頭上でぐるぐる回す鹿人。
 白馬に跨った黒麻呂が自慢の長刀を翳して奇怪な嬌声を上げて喚いた。
「ウオーツ!」
 纛旙と夫々の隊旗が揺れ、水辺にまでひしめき合っている防人たちが一斉に
雄叫びを上げた。
 ウオーツ!
 地をも揺るがす大軍の雄叫びに森の獣たちが怯えて逃げ惑い、鳥が天空に舞
い散った。   弓兵が虚空に無数の鏑矢を放った。
 ヒュルヒュルヒユルーツ! 不気味な音を立てて青空に飛翔する無数の矢。
 ドドン、ドン! 鼓吹司の太鼓が轟き渡った。
 ザザッ、バン! 数千の軍勢が、まるで踏歌を舞うようにして足を踏み鳴ら
し、盾や伽和羅を叩いた。
 吹き鳴らされる法螺貝を合図に、防人の大軍の間から二十人を一隊とした五
つの部隊が現れ、そろりそろりと神々の森に向かって進んだ。
 盾を頭上に翳し、森からの弓矢の奇襲を警戒しながら行軍する五つの部隊の
一つに火麻呂の隊がいた。

「糞暑いのになぜこんな物を着けなくてはいけないんだ」
 密林の中を行軍しながら同郷の防人、とんぼが胴丸を叩きながら火麻呂にぼ
やいた。
「堪えろとんぼ、襲われても死なずに済むかも知れぬ。それに汝はまだ増し
だ」
 短甲だけの兵卒とんぼに比べて、火長火麻呂は肩鎧、頸鎧、挂甲に眉庇付兜
といった重装備で固めていた。
「それにしても己等はあんな大軍を見たのは初めてだ」
 とんぼが呟くように火麻呂に囁いた。
「新羅の奴等は強く恐ろしいと聞いていたが、日本の方が強そうじゃないか」
「どうだか、・・・たかが三四人の賊にこの有様じゃ、馬鹿馬鹿しくて話にな
らん」
「もし、火長が大将だったらどうする?」
「こんな無人島に逃げ込んだ賊などに構わず、逃げた船を追って新羅まで攻め
込んでやるわい」
「やれやれ、汝が大将でなくて助かった。それにしても壱岐直は強欲じゃの
う、三百人もを手に入れたのにまだ足りないらしい」
 谷底から一陣の風が吹き上げてきた。その風の音に耳を澄ませる火麻呂。
 ヒューッ、吹き上げてくる風に乗って人の声が聞こえてきた。
「防人に 行くは誰が背と 問ふ人を」
 火麻呂には確かにそう聞こえた。
 とんぼの様子を伺う火麻呂、何も聞こえていないようだ。とんぼは相変わら
ず汗だくになってよろよろと歩いている。
「先に行ってくれ、すぐ追いつく」
 と、とんぼに囁いて谷に下りていく火麻呂。
 心細げに火麻呂を見送るとんぼ、隊からかなり離れているのに気が付き、慌
てて走り出した。

 谷底には小さな清流が流れていた。
 一面に水煙が立ち込め、真夏だというのにひんやりと涼しかった。
 左岸の苔むした岩に誰か座っていた。薄暮の光の中で陽炎のようにゆらゆら
と揺れるその人影はまるで精霊のようだ。
 火麻呂が用心深く近づくと十程の小稚児だった。
「あれは汝が歌っていたのか?」
 ゆっくりと首を横に振る小稚児。長い髪を後ろで束ね、藤模様の唐衣に紅紫
の裳をはいたその小稚児は不思議な微笑を火麻呂に投げかけている。
「じゃあ誰だ」
「あなたには分かっている筈」
 火麻呂には雅の声だと分かっていたが、恋しさ故の幻聴か白昼の悪夢だと疑
っているのだ。
「どんな意味だ」
「言葉の意味ですか? それとも本当の意味?」
「本当の意味だ」
「わたしはここにいます。あなたを待っています」
 風と清流が共鳴して共に囁いた。
「待っています、待っています、あなたを」
 天空を見上げる火麻呂。その声が天から降って来たように感じたのだ。
 再び小稚児を見る火麻呂。不思議な小稚児だった、男でも女でもなく、妙に
整った美しい顔を持っていた。
「汝は誰だ」
「さあ?」、不思議な微笑みを浮かべて風に漂う小稚児。
 食い入るように小稚児を見詰める火麻呂。
「汝は女か? 男か?」
「あなたが望めば男児にも女児にもなります」
「名は?」
「まだ有りませんが、蘇芳とでも呼んで下さい」
「蘇芳?」
 立ちあがる小稚児。
「紅に燃える藤の色です」
 赤紫の裳が風に翻ってはためいた。小稚児の身体がゆらゆらと揺れ、藤浪が
ざわめいている。
「火麻呂ーっ!」
 雅の絶叫が背後から轟いた。
 振り返る火麻呂の目に一本の矢が飛び込んできた。
 新羅の若武者が放った征矢だ。
 上体を反らせるて矢から逃れる火麻呂。
 その矢が蘇芳の心臓を貫いた。と見えたその瞬間、蘇芳の身体が水飛沫と成
って砕け散った。
 素早く二の矢を番える若武者。
 若武者目掛けて突進する火麻呂。
 頭槌の太刀で若武者の弓幹を真二つに裂く火麻呂。
 力なく虚空を舞う矢。
 環頭太刀の柄に手をかける若武者に体当たりを食らわせる火麻呂。
 吹き飛ぶ若武者、仰向けに倒れながらも太刀を抜き放った。
 己の太刀を地面に突き刺した火麻呂が若武者に馬乗りになり、太刀を翳す若
武者の右手首を押さえつけた。
 バタバタともがく若武者。
 若武者から取り上げた太刀を放り投げる火麻呂。
 木漏れる日に煌きながら大木の幹に突き刺さる太刀、環頭の中の金龍の目が
きらりと光った。
 なおも火麻呂の巨躯の下で暴れる若武者。
 火麻呂は若武者の両手首を左手一本で掴んで頭の上で押え込み、足掻く両足
の股を裂くようにして広げ、己の足を絡めて自由を完全に奪った。
 まったく身動きの出来ない若武者の美しい顔を夕日が照らした。
 大きな右手で若武者の顎を掴んで顔を除きこむ火麻呂。
 ようやく観念した若武者、目を閉じて唇を噛み締めた。
 一筋の赤い血が若武者の唇から流れ出、顎を持つ火麻呂の手に伝わった。
 手についた血をチラッと見た火麻呂、再び若武者に目をやった。
 争いで肌蹴た鎧直垂の間で若武者の胸が真っ赤に染まっていた。いや、この
若者は胸を赤い布で締め上げていたのだ。
 小首を傾げながら若武者の項の辺りに顔を近付けて匂いを嗅ぐ火麻呂、左手
を若武者の胸の布にかけて引き千切ろうとして思いとどまった。そして、今度
は小袴の中に手を突っ込んで股間を弄った。
「キャツ!」
 悲鳴を上げる若武者。
 驚く火麻呂、有るべきところに有るものがなかったのだ。
 若武者から飛び離れる火麻呂、左手を眺め回して呟いた。
「矢張り女か」
 羞恥と怒りで顔を真っ赤に染めた新羅の娘が幹の太刀を引き抜いて火麻呂に
襲いかかった。
 娘の太刀が火麻呂の首を撥ねようとした瞬間、けたたましい叫び声と共に怪
鳥が叢から飛び出して娘の眼前を横切った。
 怯む娘、それでもその太刀は正確に火麻呂の肩鎧と頸鎧の間の急所を狙っ
た。
 ガチッ!
 激しい金属音と共に飛び散る火花。
 鎖籠手で火麻呂が太刀を受け止めたのだ。
 右の拳で娘に当身を食らわせる火麻呂。
 顔をしかめてうづくまる娘。
 娘から奪った太刀を無造作に放り投げる火麻呂。
 清流に沈む太刀。
 身をひるがえして清流に走りこむ娘、慌てて水中の太刀を探し回る。
「無駄な事はやめろ! 汝には俺は殺せぬ」
 ようやく太刀を探し当てる娘、火麻呂を睨んで太刀を構えた。
「ほーう、どうやら言葉が分かるようだな」
「殺す!」
「なんだ喋れるのか」
 鎖籠手を外して左腕を覗き込む火麻呂、傷口からおびただしい血が流れてい
る。
 倭文機帯を解き、鎧兜を次々と外して行く火麻呂。
「夜が明ければ倭軍は引き上げる。それまで森にでも潜んでいろ」
 娘の翳した太刀が夕日に煌いている。
 娘の直ぐ傍の岩に腰を下ろす火麻呂、腕の傷口を流れに浸して血を洗い流
し、直垂の袖を引き千切って傷口に巻きつけた。
 火麻呂の余りに無防備な様子に却って戦意を失う娘、振り翳した太刀を持余
し、何をすべきか戸惑っている。
 脱ぎ捨てた戎具を蔓で纏め、大地の太刀を鞘に収める火麻呂、戎具を肩にか
けて悠々と上流に向かって歩き出した。
   2016年12月8日   Gorou