アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

あいものがたり Ⅲ

2016-12-07 17:48:45 | 物語
さて、座敷童だけが残されたテントの前は閑散としていました。
 桜の木陰、緋色の紬で後神がテントの木戸口を見やっていました。一目で田舎者分かる親子が悩んでいたからです。
「母ちゃん、見たいよ」
 女の子の訴えに母親は溜息を付いて連れ合いを見ます。
「父ちゃん、おいら一生懸命勉強して一杯お金を貯めるから、花子に見世物をみせておくれ」
「太郎ねそんな先の事を言ってもしょうが無い。今、家は貧乏なんだよ」
 父親は財布の中を覗き込んで首を力なく振ります。
「東京見物だって清水の舞台から飛び降りるような気持ちで出て来たんだ」
「母ちゃん、やっぱり見たいよ!」
 愚図る花子の手を引いて歩き出す母親、父親も太郎を促して歩き出す。

 桜の木陰から姿を消している後神、木戸口に一陣の風とともに姿を現す。
 風に長い髪が乱れて、後頭に大きな眼が現れる
が、慌てずに髪を整えると、親子の後ろ髪を引いた。
 未練たらしく木戸口に戻って来る親子。
 後神は、出来る限りの笑顔を創って女の子に話しかけた。
「お嬢は幾つ?」
「花子、六つ」
「だったら問題無い。この小屋は十まではただ。僕は?」
「もうすぐ十五」と、胸を張る太郎。
「嘘だろう。どう見ても十にしか見えない。十まではただて見られる」
「本当ですか?」
 母親が顔を輝かせた。
「どうか、二人を入れて下さい」と、後神に頭を下げる父親。
「それが出来ないんだ。大人が付き添わないと駄目なんだ」
「だったらあんた、二人に付き添っておくれな。後の遣り繰りははあたしがなんとでもするからさ」
「だから、田舎者は嫌なんだ。良く考えてご覧、大人が二人で八十銭、あんたら親子は四人だろ? 四で割ったら二十銭、こんな計算も出来ないのかい」
「二十銭」と、財布を覗き込む父親る。
「分かったよ、十銭でいいよ。だけど条件が有る。弁当を四つ貰つておくれ。売れ残って困ってるんだ」
 確かに弁当が山のように積まれている。だが、満席になる目論見だつたから、これでも足りない位だった。
 弁当が四銭、四つで十六銭、どう計算しても六銭の赤字になる。それでも後神涼しい顔をして、耳を澄ました。
 風に乗って、チンドン楽隊の音が聞こえて来た。
「もうすぐ帰ってきそうだね」
   2016年12月7日    Gorou

あいものがたり Ⅱ

2016-12-07 12:04:12 | 物語
 舞台袖に駆け込んだ河太郎が桶の水を頭から被った。
「これで生き返ったぜ! 小雪姐さん」と、傍らの年増の美女を見下ろして声を掛けた。
「どうです? 入りは」
「ご覧の通りさ」
 幕間から客席を覗いた河太郎、散々の入りに溜息をついた。
「今日は八幡様の祭礼ですからね。みんな深川に行ったんでしょ」
「だろうね」
 色白の頬を微かに桃色に染め、大きく溜息を付く小雪。真っ赤な襦袢に雪の結晶が鏤められた萌葱の浴衣が心に染みいるほど鮮やかだ。その白い息とともに寒気が拡がって行く。小雪は雪女だった。
「だけど、来寝麻呂目当ての芸者衆がぼちぼち集まってるよ」

「来寝様ーッ!」
 最前列の手古舞姿の深川芸子が黄色い声を上げていた。
「来寝麻呂!」「来寝様ーッ!」
 深川衆を取り囲むようにして、浅草の芸者達も負けずに黄色い声を上げている。
「生娘みたいな声出すんじゃ無いよ。来寝様はあたしら浅草ッ娘のものさ」
「白塗りの化け物みたいな顔で騒ぐんじゃない」
 負けずにやり返す深川衆。

「あんな優男のどこが良いのかねえ?」と、小雪。
「姐さんにはね来寝様の素晴らしさが分からないの! 女にしたい程良い男つてのは来寝のことさ」
 いつの間にか鎌鼬のかまおが小雪と河太郎の傍ら佇んでいた。
「来寝様」と、息も絶え絶えに呟くかまお。胸の大きく開いたシースルーのワンピース、裾が膝から十センチは上がっていた。
「さてと、あたし達も一回りして客を集めて来ようかね」
 屈み込んだ小雪が、子犬のシロの耳元で囁いた。
「座長、良いですか。用意して下さいな」
 シロが小太鼓を首から提げて小雪を一睨み。
「駄目駄目、そんな可愛らしい姿じゃ」
 今度は、吽とばかりに口を真一文字に結んで、前足を力一杯に強ばらせると、身の丈七尺は超えようかの偉丈夫に姿をかえた。道中姿に白塗り、首から大きなチンドン太鼓をぶら下げていた。
 チンチンドンドコ、座長のチンドン太鼓を合図に座員が集まって来て、それぞれに用意を調えた。
 小雪はクラリネット、むさ火とけち火が三味線、おまんばあさんがアコーディオン、さこひめが龍笛、ピンクの忍衣装で身を固めているお軽が指笛、という具合に。
「おい、かまお! 何をぐずぐずしてるんだ」
 河太郎の叱責にも澄まし顔で受け流すかまお。
「あたいは行かないよ。もうすぐ来寝様の出番じゃないか」
「お前は何時でも見れるじゃ無いか」
 かまおの頭をドつく河太郎、腰に蹴りを入れる。
 よろけるかまお、恨めしそうに河太郎を睨む。
「お前が主役だ、かまお!」
「わかました・・・ョ!」
 渋面を強ばらせながらもねバイオリンを小脇に抱えるかまお、一同の後に付いていく。

 チンチンドンドコ。ジヤンジャンジャラジャラ、ピーピーピーひゃら。
 チンドン太鼓を先頭に小屋から出て来るチンドン楽隊。バイオリンのかまおが座長と小雪の間に割り込んで楽隊が完成した。バイオリンを弾きながら、かまおが見事なカストラートで歌い出した。


♪ 空にさえずる 鳥の声 峰より落つる 滝の音 大波小波 とうとうと
響き絶やせぬ 海の音 聞けや人々 面白き この一座の 出し物を
調べ自在に 弾きたもう 語るも自在に 演じたもう 我らが御手の尊しや
2016年12月7日   Gorou

三つのライブ、トスカ、椿姫、リゴレット

2016-12-07 03:18:25 | クラシック音楽
3つのライヴ・フィルム 《トスカ》《椿姫》《リゴレット》[Blu-ray Disc 3枚組]
クリエーター情報なし
NAXOS


幻の映像、遂に登場! 「その時、その場所で」演じられた3つの名作オペラ映画
1992年、名作オペラを、実際に""物語の舞台となった場所""で映画として撮影するというプロジェクトが行われました。演目は「トスカ」。主演にマルフィターノとドミンゴ、ライモンディを迎え、物語の通り、7月11日の午後からその翌朝6時に起きた出来事を、カヴァラドッシが絵を描いていた聖アンドレア・デラ・ヴァレ教会、スカルピアの公邸であったファルネーゼ宮殿、そして第3幕の舞台となったサンタンジェロ城でそれぞれ撮影、その模様を世界108ヶ国(残念ながら日本は放送されませんでした)で衛星同時生中継するという前代未聞の企画は、世界中のファンを熱狂させるとともに、日本のファンは悔し涙を流すことになりました(その後NHK BSで放送)。

2000年には演目を《椿姫》に変え、主役ヴィオレッタには当時期待の新人グヴァザーヴァ、アルフレード役には人気絶頂を誇ったクーラ、父ジェルモン役にはヴェテラン、パネライを配し、パリとその郊外でロケを行い、世界140ヶ国以上に中継。この時も日本では放映されず、日本のファンはサントラ盤とブックレットに挿入された写真で、情景を思い描くのみでした。

2010年に行われた「リゴレット」は、インターネットによるストリーミング配信、その翌年にはテレビでも放送されました。当時、新進気鋭の若手テノールとして注目を浴びたグリゴーロのマントヴァ公はもちろんのこと、ドミンゴがリゴレット役を歌うということでも期待された上演で、ハイビジョンによる美しい映像は、それまでの2作品を凌駕する素晴らしい出来栄えとなっています。

1.プッチーニ:歌劇《トスカ》-トスカ・イン・ローマ(1992)
フローリア・トスカ…キャサリン・マルフィターノ(ソプラノ)
マリオ・カヴァラドッシ…プラシド・ドミンゴ(テノール)
ローマ・イタリア放送交響楽団&合唱団

2.ヴェルディ:歌劇《椿姫》-ラ・トラヴィアータ・イン・パリ(2000)
ヴィオレッタ・ヴァレリー…エテリ・グヴァザーヴァ(ソプラノ)
アルフレード・ジェルモン…ホセ・クーラ(テノール)
イタリア国営放送交響楽団

3.ヴェルディ:歌劇《リゴレット》-リゴレット・イン・マントゥヴァ(2010)
リゴレット…プラシド・ドミンゴ(テノール)
ジルダ…ユリア・ノヴィコヴァ(ソプラノ)
イタリア国営放送交響楽団

ズービン・メータ(指揮) 注 アマゾンのホームーページより


大変素晴らしいディスクが輸入されました。が、入荷が遅れていたので、具体的ななレビューは控えていましたが、どうやら入手が可能になったので、レビューをお届けします。
 
 まず、プッチーニ:歌劇《トスカ》-トスカ・イン・ローマ(1992)。
 演奏の質としては、後の二作品に及びません。指揮のメータもまだ今ほど円熟して居りません。が、本当の意味でのライブならではの魅力、ローマのロケーションとビットリオ・ストラーロの映像が素晴らしいので星四つという処でしょうか。

ビットリオ・ストラーロ、多分知りませんよね。アカデミー賞を三度(フランシス・フォード・コッポラ監督『地獄の黙示録』、ウォーレン・ベイティ監督『レッズ』、ベルトルッチと組んだ『ラストエンペラー』)も受賞している名撮影監督です。
 ベルトリッチとは殆どの作品でコンビを組んでいます。
 色彩感覚と移動撮影が真骨頂ですので、この三作品での起用は素晴らしい選択でした。
 光と影、重厚な色彩とロケ映像。全てが素晴らしいの一語に尽きます。この三作品の一番の売りだと私は思って居ります。

 次がヴェルディ:歌劇《椿姫》-ラ・トラヴィアータ・イン・パリ(2000)。
 これは文句のつけようが無い名演です。
 椿姫はディスク化を前提にしたライブでは、大変難しい作品です。ヒロインビオレッタのキャスティングが大変です。歌、演技、容姿と三拍子揃ってなくては面白く有りません。
 エテリ・グヴァザーヴァ,全く問題の無い起用ですね。彼女はとてもスリムで、憂いを秘めた美しい顔の持ち主です。期待の新星という事でしたが、一体何処に消えてしまったのでしょう。私は一度も彼女を見た記憶が有りません。
 実質的なファーストシーンは移動撮影です。パーティー会場のロングから参加者のグループショットにより、合唱団の合間を縫ってヴィオレッタが登場します。今度は、カメラがアルフレードを付け回します。大きなガラスの向こうにヴィオレッタが居ます。舞台では実現仕様が無い出会いです。ヴィオレッタは微妙微笑みでアルフレードを見詰めます。
見事な出会いで、今後の展開を暗示させています。
 椿姫のライブで、最良の作品の一つに間違い有りません。限りなく五つに近い、星四つ半です。

 最期がヴェルディ:歌劇《リゴレット》-リゴレット・イン・マントゥヴァ(2010)。
リゴレットはキャスティングに注文が付く作品です。リゴレット、ジルダ、マントヴァ、暗殺者とその妹が歌唱力と容姿が重要なポイントになります。このディスクはほぼ理想的です。ラストの四重奏(リゴレット、ジルダ、暗殺者その妹)は当に必聴です。素晴らしい歌唱と演技、ストラーロのカメラが映し出す迫力と緊張感は、とても言葉で表れません。 このリゴレットは、私の知る限り、最高のライブ映像です。

 この三つのライブは、入荷数が少なく、購入に日数を要すと考えられますが。是非ご覧になる事をお勧め致します。三作品とも、NHKが権利を持っているようですから、いつかオンエアーされるかも知れません。
2016年12月8日   Gorou

あいものがたり Ⅰ

2016-12-07 02:31:22 | 物語
 今は昔、
 浅草に見世物小屋が有りました。隅田の河原にサーカスのテントのように建てられていましたので、六区や仲見世などの繁華街から少し離れていました。
 この見世物小屋に、アイちゃんと呼ばれる誰にでも好かれる可愛い娘がおりました。

♪ 空にさえずる 鳥の声 峰より落つる 滝の音 大波小波 とうとうと
響き絶やせぬ 海の音 聞けや人々 面白き この一座の 出し物を
調べ自在に 弾きたもう 語るも自在に 演じたもう 我らが御手の尊しや

 夏の盛りの昼下がり、
 小屋の前二畳ほどの呼び込み台で、口から先に生まれた河童の河太郎が口上をがなりたてていました。
「ハイ僕ちゃんからおじいちゃん、お嬢ちゃんからおばあちゃんまで、さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい。宇宙の神秘、医学の謎、世の中には不思議な事がたくさん有る」 河太郎の傍らに佇んでいる愛くるしい娘、やうやく肩位までしかなかった。
「例えば可愛らしいこの娘」
 屈み込むようにして娘の肩を抱いて、十人程しかいない客に見せる河太郎。
「クレオパトラか楊貴妃か、はたまた小野小町がこの娘と同い年のころ、こんなに清純で美しかったでしょうか?」
 はにかみながら微笑んでペコリと頭を下げる娘、桜柄の小袖に紫袴、長い髪をリボンで結ぶという、明治時代の女学生のような出で立ちで精一杯に笑顔を続けている。
 左側にちょこんと座っている座敷童の女刀自。
 右側にはもう一人の 座敷童の身刀自 、この子もまたただただ笑っているいるだけだ。
「親の因果が子に報い。なんてのは見世物小屋の決まり文句。この娘にはそんな生ぬるい言葉は当てはまらねえ! 涙なしには語れはしねえ。聞けば驚く因果応報」
 屈み込んだ河太郎が娘にささやいた。「暑いから小屋にお戻り」
「いいの?」とばかりに見上げる娘に、河太郎は優しく頷いた。
 客にぺこぺこと頭を下げた娘。呼び込み台を降りて、小走りに小屋に向かった。
 リボンを解く娘、その長い髪が小屋から吹いてくる冷風に巻き上げられ、美しい項が陽光に煌めいている。
 娘を見送る河太郎が呟いた。「やだねえ、あんな清らかな娘を見世物にするなんて」
「どうせ蛇女かたこ女だって言うのだろう」
 河太郎にヤジが飛んだ。
 客に向き直る河太郎、苦渋の表情を笑顔に変えて、
「悪いが外れだ。あの娘の故郷は奈良県は奥吉野、大峯山の秘境にあったが、二千年の差別と迫害にあって、生き残ってのはたった一人」
「だからなんだってんだ!」
そいつは見てのお楽しみ。チャキチャキの浅草生まれのこの河太郎が保証するぜ!」
 拡がる嘲笑! 皆河太郎が田舎者だとは承知していた。
「自慢じゃねえが、うちの小屋には種も仕掛けもありゃあしねえ」
「ふざけるな,自慢してるじゃないか」
 纏袢纏にいなせな鉢巻きの若い衆が河太郎に嘲笑と声を掛けた。
「なあ、おめいらも聞いたろう?」
 男が左右の若い衆に同意を求めた。
「おいらも聞いたぜ」
「おいらもだ、聞き捨てにはならねえ」
 三人の若い衆り晒に血が滲んでいる。
「こいつはご挨拶じゃねえか、新門の若頭。八幡様のけえりですか?」
「あたぼうよ! 今年も本舎神輿は浅草が頂いたぜ」
「三社祭の時も新門組の兄さん方は、深川の連中を全く寄せ付けなかった。新門組は浅草っこの誇りですぜ。・・・」
 頭をぺこぺこと下げて若頭に愛想笑いを送る河太郎が言葉を繋いだ。
「こんな趣向はどうです?」
「なんだい?」
「もし、もしもだが、種とか仕掛けとかが見つけられたら?! 木戸銭を十倍にして返すってのは? どうでかす」
「面白え、乗った!」
    2016年12月7日   Gorou

Kozue(胡都江)~Twins of Formosa 十Ⅵ

2016-12-07 02:15:26 | 物語
エピローグ


十六 一九九九年。
 
 一九九九年、四郎とミズエの駆け落ちから二十九年もの年月が流れていた。
その六月上旬、この日は梅雨の最中にも関わらず、鮮やかな程の晴天だった。
 
 一人の初老の男が、熱海の日舞稽古場(芸子達を教えるための)の前に所在無
げに佇んで、稽古場から流れてくる三味線と鼓の音に耳を傾けていた。
 男の名は山本太一、熱海署の元刑事だった。
 山本はもう三十年前の事件を思い出していた。
 不思議な事件だった。熱海グレートホテルでボヤ騒ぎが有り、消防車が出動
した。火元は宴会場の客席だったが、直ぐに消化されたが、続いて救急車とパ
トカーが駆け付けた。焼け跡に死体が見付かり、傍に短刀を握りしめた女が佇
んでいた。死体はグレートホテルで興行を終えた市村吉之輔(本名河村義三)
で、女は座長の市村胡蝶(本名波多芳江)だった。二人は夫婦だった。
 熱海署に勤務していた山本はこの事件を担当した。
 目撃証言に依ると、現場となった客席には吉之輔と胡蝶の他に二人、胡蝶の
娘コズエと地元のヤクザ金田がいたという、激しく罵り合う声が轟き渡ってい
たという。
 容疑者は胡蝶と娘のコズエ、そして金田、当然そうなった。
 次に疑われたのは、当夜駆け落ちをしていたコズエの姉、一卵性双生児のミ
ズエと駆け落ち相手の大久保四郎だった。
 金田の行方はようとして掴めなかった、海外に逃亡したに違いない。
 凶器の包丁から胡蝶とコズエと金田の指紋が取れた事で、犯人はほぼ三人に
絞られたが、事件は意外な展開を見せた。

 二日後、コズエの水死体(自殺とされた)が湯河原の浜辺で発見されたのだ。
 水死体となったコズエの前で胡蝶が放心状態で立ち竦んでいた。
「確かにコズエさんですか?」
 山本の問いに胡蝶は暫く何も答えなかった。
 苛立ちを隠せずに山本が声を荒げた。
「どうなのです⁉ 母親だったら分かるはずだ!」
「娘なのは確かですが、コズエかミズエかは分かりません」
「えっ⁉ どう言う分けですか」
「二人は実の母の私でも見分けることが出来ません。見分ける為にコズエの項
に黒子を描き、化粧でミズエは面長で目を細く、コズエは丸顔で目を大きく見
せ、二人ともショートカットにして、ミズエには長い髪のカツラをつけさせて
いました」
「実の母親が見分けられないなんて有るのでしょうか?」
「性格はミズエが暗く、というよりは繊細で臆病な程用心深く、妹のコズエは
明るく、何事にも大胆に挑戦し、一つ一つ自分の物にしていました。透視能力
や予知能力に優れ、毎朝のように朝日を拝跪して何事か祈りを捧げていまし
た。もしかしたら、誰かを呪い殺そうといたのかも知れません」
「えっ⁉ 一体誰を?」
「吉之輔です。娘たちは彼を毛嫌いし呪っていました」
「訳は?」
「可哀想なミズエ、あの男が義理の娘、ミズエに性的虐待を続けていたので
す。私はあの夜、初めてその事を知りました。いえ、なんとなく気が付いてい
たような気もします」

 事件が有った夜、金田の組織の賭場でいかさまがばれて拉致されていた吉之
輔は胡蝶が用意した身代金で解き放され、大広間の客席で、吉之輔、胡蝶、コ
ズエ、金田の四人が対峙したという。
 眼を釣り上げたコズエが激しく吉之輔を叱めたて、真っ赤な口を大きく開い
て叫んだ。
「お前なんか死んでしまえ! みんな燃えてしまえ」
 呪いの言葉と共に客席に炎が広がった。
 炎の中でコズエが短刀を握りしめ、吉之輔の前にたちはだかって身構えてい
た。
 金田が背後からコズエを抱きすくめたが、コズエは屈強な金田を引き摺って
吉之輔にせまって行った。
 恐怖に顔を引きつらせた吉之輔が逃げまどい、胡蝶がおかまの夫とコズエの
間に割って入った。
 逃げまどう吉之輔に迫るコズエ、二人を引き離そうとする胡蝶と金田、四人
はもつれ合うようにして絡み合った。
 気が付いた時には、コズエと金田の姿は消え、胡蝶の傍らで死体となった吉
之輔が転がっていた。そして、胡蝶の手には血まみれの短刀が握られていたと
いう。

「生きていれば声や話し方で分かるのですが」
 姉とも妹も分からぬ娘の死体の前で、放心状態の胡蝶の目からポロポロと涙
が零れ落ちた。

 事件から二日後、ミズエと大久保四郎の身柄は京都で確保され、熱海に移送
された。
 この頃は二人の容疑は晴れていた。胡蝶が全てを自白していたからだ。彼女
はあの夜、全てを知った。愛し合っていた胡蝶と金田の間を、密入国者として
警察に垂れ込んで引き裂いた事も、夫となったあと、おとなしい姉のミズエを
執拗なまでに凌辱し続けていた事も。激しく吉之輔を憎悪し、はっきりとした
殺意をもって何度も彼を刺した。と、自供したのだ。



 十七 道行。

 いつの間にか三味線と鼓の音が消えていた。
 稽古場から若い芸子たちが出てきて熱海の街に散って行った。
 その後も山本は立ち続けた、誰かが出て来るのを待っていたのだ。
 数分後、待ち人が稽古場から出て来た。初老、もう六十に手が届こうとして
いる今でも、美しさを見事に保っていた。
 山本は彼女の後を数メートルの間をとってつけた。尾行と言うにはいかにも
不用心で作為が全く見られなかった。
 その女性は一軒の置屋に入って行った。
 その置屋の前に佇む山本。看板に《あやの屋》と書いてあった。
 その看板の文字を確認した山本が呼び鈴を鳴らした。
 すぐ若い芸子が顔を出した。
「どなた様ですか?」
「山本と申します」
 そう名乗って芸子に名刺を渡した。名刺の肩書に綾瀬警備保障会社係長と書
いてあった。
「綾香さんにお会いしたいのですが、この名刺を見せて下さい、もしかしたら
覚えてくれているかも知れません」

 山本は今、あやの屋の仏壇に焼香を捧げていた。あれから二十九年の月日が
流れていた。すっかり初老となった綾香ではあったが、年とは思えぬ美しさと
威厳というか貫禄を湛えていた。
 四郎が殺されてから早くも十五年程経っていた。身寄りのない四郎を綾香が
引き取り、こうやって弟と共に菩提を弔っているのだ。

 二日前に長い間閉館になっていた熱海グレートホテルが原因不明の火災を起
こし、家業の漁師を継いでいた小道具係の吉田健一が大やけどをしたのだ。尋
ねた山本に健一はこう言ったという。
「あの火事は胡蝶一家の呪いで起こったのです。コズエが、みんな燃えてしま
え、と呪った瞬間にあたり一面が火の海になってしまいました」
 その吉田健一は今朝、放火犯の嫌疑をかけられたまま息を引き取ったとい
う。

 長い祈りを終えた山本が綾香に向き直った。
「なぜあの時・・・」と、何か言いかけて言葉を詰まらせた。
「なんの事でしょうか?」、綾香には見当も着かなかった。
 山本は迷いながらにも口を開いた。
「私が事件の事でお話を伺ったときのことです。あなたはなにも知らないし何
も見なかったと仰ってましたよね」
「ええ、確かに」
「大久保四郎と市村湖都江〈ミズエ〉は、事件から三日後京都で身柄が確保さ
れました。すでに市村胡蝶の自供で吉之輔殺しと胡都江〈コズエ〉の投身自殺
は解決していましたから、ほんの形式的な事情聴取で済ませましたが。二人は
こんな事を言っていました。熱海駅で綾香さんに出会ったので東京行きをやめ
て京都に行ったとね」
「すみませんでした。二人が事件と関係あるとは思いもしませんでした」
「ええ、それはそれでいいのです。重要参考人、もしくは被疑者として逮捕は
免れませんでしたからね、それは貴女の機転で回避されたのですから。でも
ね、二人はD51で京都に行ったと言い張るのです」
「それがなにか」
「当時D51は東海道線では廃止になっていましてね。そのD51に乗れるわ
けがないのですよ」
「まあ!」
「私は京都に行って二人の動向を調べました。いや、刑事の性とても言うので
しょうか。1970年4月1日の早朝に二人を見かけたという証人が二人も見
つかったのです」
「あのう、・・・あのう、山本さんは事件の真相がまだあると思っておられる
のですか?」
 微かに首を傾げながら小さく頷く山本。
「仮に真相が他にあるとしても、何になるのでしょう、四郎さんも胡蝶さんも
コズエさんも吉之輔も死んでしまっているのですよ」
「いや、金田も死んでいます。一旦香港に潜伏していたが、数年後金城という
名で入国し、新宿を縄張りとする暴力団に所属していました。その金田はつま
らない抗争に巻き込まれて死んでいます。あの事件の関係者で生きているのは
ミズエさんだけになりました。金田の舎弟に話を聞きました。新宿じゃなくて
グレートホテルの事をね。彼は熱海時代にも金田の下で働いていました」
 綾香はあまり興味を示さなかったが、それでも真剣に話を聞いている素振り
だけは見せた。
「あの夜、金田は彼のアパートに二時ごろずぶ濡れで転がり込んで、自分の部
屋から着替えやら大事な物を纏めて持ってくるように命令したそうです。その
まま金田は熱海から姿を晦ましました。きっと日本からも逃げ出していたと思
います」
 山本の話を聞きながら、綾香は想像した。海に身を投げたコズエを助けるた
めに金田も海に飛び込んだが、彼女を助ける事が出来なかったのだろう。その
時の金田とコズエの絶望感が自分の事のように湧き上がって来た。

 熱海署から東京に転属した山本は一時公安に席を置いていたという。
 熱海の事件の事が忘れられず、彼は任務の合間を見つけては色々調べたとい
う。

 四郎の親友河野は結局よど号には乗れなかったという、由美子が睡眠薬を飲
ませたからだ。その二年後に二人はアラブに渡ったと云う。数年後にサナアの
遊撃手と恐れられた東洋人が現れた。初めは男か女か分からなかったが、その
狙撃手は女性だったという噂が流れた。「たぶん由美子だ、河野はきっと死ん
だに違いない」四郎が履きつけるように呟いた。
 四郎のミス東京時代、同棲していた笑美子は付き纏われていた男と結婚して
しまったという。よりによってストーカーと夫婦になってしまったのだ。四郎
が見つけ出して男から笑美子を離婚させ、隠してしまった。多分知り合いの暴
力団を使ったに違いない。今は秋田の山奥で再婚して子供ができたそうだ。
 
 四郎とミズエのこんな話もしてくれた。
 ミズエは六本木のクラブで歌手として歌っていたという。大変な人気が有っ
たという。特に評判の高かったのは、シクラメンの香りの中国語バージョンと
東京夜景という曲で、どちらもテレサテンの持ち歌だったが、殆ど話題にもヒ
ットしなかったという。
 ミズエがシクラメンの香りを歌うときには必ずといって良いほど、四郎がバ
イオリニストとして参加していたそうだ。
 綾香は山本の話を聞きながら頭の中で想像した。ミズエの歌はどんなにかク
ラブの客を魅了したかを。そして、それがコズエだったら一層生き生きと歌声
が弾んでいたに違いない。

 ミズエの歌に惹かれたレコード会社の何人かが、プロにならないかと誘っ
た。もう二十台の半ばに差し掛かっていたミズエを十七位のアイドル歌手とし
てデビューさせると言って熱く語りかけたが、ミズエは全く関心を示さなかっ
た。
 
 四郎のほうは麻雀とか競馬とかにのめり込んでいたという。ミズエの紐に甘
んじていたのというと、そうでもないと言う。可成りの収入を得ていたらし
い。
 ある日、一念発起したらしく、習作時代のシナリオ数本を携えて、シナリオ
作家教会の事務局に乗り込み、研修課の学生にして欲しいと談判した。当時、
協会は研究課と研修課のシナリオ作家養成機関を持っていて、研究課が基礎を
教え、研修課はライターの実践を教え、新人の育成にあたっており、現に数々
のシナリォライターを排出していた。両部門ともども試験が有ったが、四郎は
試験を受けていない、しかもいきなり研修課の生徒にするように直談判をした
のだ。
 丁重に断るのが常識で有る。が、許された、処遇は特別講習生である。学費
は免除、大変な厚遇で有る、対応した担当者が、大久保四郎という青年に余程
の好意と才能の階を見つけたに違いない。
 だが、四郎はたった三回しか講義を受けていない。
 一回は吉田喜十監督の秋津温泉という、長門裕之と岡田莉利子主演の心中物
で有り、吉田喜十と岡田莉利子の代表作で有る映画の上演だった。監督吉田喜
十の解説後、生徒からの質疑応答が有った。この時、四郎が吉田氏を怒らせて
しまったので有る。
「先生は、映画のクライマックス、心中の場面を、普通なら数分で終えられる
筈なのに、どういう意図が有って、あんなに長い時間を掛けて描いていったの
でしょか?」
「そんな事は、私が君達に説明する義務も必要も無い」
 やや青ざめた顔で言った後、静かに退席したと言う。
 この事はかなりの評判(悪評も含めて)を呼んだらしい。

 二回目はゼミだった。片岡薫という社会派シナリオ作家のゼミで、生徒は四
人、男が一人、女性が三人、皆二十台の中ごろに見えた。先生を除く四人は突
然の闖入者に戸惑っている風に見えた。ゼミは一か月以上前に始まっていたの
だ。生徒たちは遠慮のかけらもない視線を四郎に投げかけていた、何人かは彼
が吉田喜十を怒らせた本人だと知っていたようだ。
 授業は生徒が持寄ったシナリオを回し読んで意見を交わすという形で行われ
たが、男性一人しかシナリオを持参しなかったので、必然的に彼が書いた『赤
報隊(せきほうたい)始末記』を回し読んだ。赤報隊というのは薩摩人相楽総三
以下十名程が維新東征軍の先鋒、あるいはゲリラ的に派遣された隊でその作品
は相楽総三と任務先のある農村の娘との悲恋を描いていた。相楽総三とその隊
は維新軍からも見放されて非業の最期を遂げる。
 授業は二時間で、意見交換の時間は三十分位しか残っていなかった。
「どうやって調べたのですか? それだけでも凄いと思います」
「とても分かりやすく、文章もしっかりとしていて、台詞等、適度に維新当時
の言葉、農民や薩摩言葉も入って、とにかく素晴らしいし驚いています」
 などと、女性たちの賛辞だけで三十分が過ぎてしまった。
 この間、書いた本人も片岡先生も、四郎も何の発言もしていない。
「今日はこれ位にしましょう、来週もこの作品をテーマにしたいと思っていま
す」
 片岡薫の言葉で授業は終わった。

 次週も四郎は顔を出した。
 冒頭で、筆者の青年が先生に促されて、調査とか考証の苦労とか狙いとかを
簡単に説明した。
「さて、先週の続きですが、この授業は傷の舐め合いなどが趣旨では有りませ
ん、むしろ作品のあら捜しをして、真摯に意見を交換しなくてはいけません」
と言って、片岡先生はひとりひとりの顔をゆっくりと見回していった。
 片岡薫の視線が四郎の上で止まった。
「大久保君でしたね」
 四郎を除く四人は初めてその名前を知った。自己紹介すらしていなかったの
だ。
「君は、まだこの授業で一言もしゃべっていません。沈黙も又意志の表現にな
ります。気が向いたらで構いません。何か有りませんか」
 暗い顔で俯いて黙り込む四郎。暫くして、ようやく顔を上げた。
「シナリオって何でしょう? 何のために存在しているのかな?」
 立ち上がった四郎が一人の女性に声をかけた。
「貴女はどう思います?」
「映画を作るためです」
「確かに、だったら文学である必要は全く有りません。この作品は文章もうま
いし分かりやすい。その上なんでも書いてある。シナリオである必要は全く無
い」
 やや顔を赤らめた筆者が四郎に聞き返した。
「僕はシナリオを書いた。確かにそう思っています」
「錯覚しているだけです。自己満足かも知れない。この作品には決定的な欠点
が有る。と、僕は思っています」
「大久保君はシナリオで大切なのは何だと思っているのですか?」
 片岡薫が問いかけた。
 四郎は小首を傾げて少し考えてから確りとした声で応えた。
「姿勢です」
「僕はちゃんとした姿勢でこの作品に取り組んだつもりです」
 この筆者には四郎の言った姿勢の意味が僅かに分かっているようだ。だが三
人の女性には何の話なのか全くわからなかった。
「それは時代考証とか方言とか、物語を構築するための姿勢にしか過ぎない。
君は、残念ながら、この作品が映像化される可能性に疑いを持っていた筈だ。
だからこれはシナリオとして書かれたのではなくて、むしろ小説として書かれ
た。・・・結果、最低でもここにいる四人の読者を得た。恐らく全員が面白い
と思ったのも確かです。でも、映像を頭に描けなかった、文字面から想像位は
浮かべたかもしれません」
「僕の頭にはちゃんと映像が展開しています」
「錯覚です。或は、・・・そう思いたかった」
 筆者である青年は反撃理論を考えていた。が、黙り込んでしまった。
 四郎は、まるでそこに数百人もの聴講生がいるかのように一方的に喋り始め
た。
「姿勢が正しければ正しいほど美しい。日本舞踊だってバレエだってそうでし
ょう。例えば楽器、バイオリンは、正しい姿勢、美しい姿勢で弾かれれば美し
い音が奏でられて、人を感動させるのです。話を映画とシナリオに戻しましょ
う」
 ここで、四郎は教授である片岡薫を見て、眼でこのまま話を続けていいかと
同意を求めた。
「大久保君、話を続けなさい。私も興味が有る」
「有難う御座います。今、日本ではゴダール、トリュホー、ルイ・マルとか、
いわゆるヌーベルバーグ作家が持てはやされていますが、残念ながら僕はそれ
程沢山の作品を見てはいないので、彼らに影響を与えたと思われる日本の作家
に例をとりたいと思います。若尾文子という女優がいますよね、彼女ほど恵ま
れた女優はいません。溝口健二、小津安二郎、川島雄三という監督の作品に出
演する事が出来ました。溝口監督の祇園囃子、彼女は初初しくて瑞々しい、実
に若々しくて美しい。同じ溝口作品でも赤線地帯になると美しさよりも強かに
生き抜く女性を演じています。川島雄三作品の雁の寺では年齢のせいも有りま
すが妖しいまでの色香を見せる女を演じています」
 この頃になると、三人の女性たちはメモを取り出した。きっと四郎が例に引
いた作品を見ていなかったに違いない。
 青年だけが、不満や欺瞞を表しながらも傾聴していた。
「いや、演じさせられていた。と言った方が正しい。溝口作品に山椒太夫とい
う作品が有ります。安寿というヒロインを演じたのが香川京子という美しい女
性ですよね、でも演技が必ずしも上手く無かった、あくまでもこの頃はという
意味ですが。悩みに悩んで監督にすがったそうです。溝口健二は演技について
あまり注文をつけたりアドバイスをするタイプではなかったのですが、ただこ
う言ったそうです。出来るだけ沢山の菩薩像を見て、観察をして下さい。安寿
というヒロインは弟厨子王の命を救い、彼を世の中に出して民衆を救い、非業
に喘ぐ二人の母親を救済する女性で、菩薩そのものだった」
 ここでようやく四郎が一息ついた後、再び話を続けた。
「すいません、物凄く脱線したみたいですね。赤報隊始末記に戻します。この
作品のクライマックスはラストシーンですよね」
 作者の青年が頷いた。
「志に反して主人公は非業の最期を遂げます。恋人となった娘が死骸に縋り付
いて泣き崩れます。彼女の一日前を想像して下さい」
 四朗は一人一人を見詰めて話を続けた。
「彼女は幸福感で満ち溢れていました。愛する人との生活。貧農として育った
娘には信じられようもない明るい未来が語られていました。身分差別のない世
界、租税も半分になるという事や色んな夢のような事を愛する人から聞かされ
ていた彼女の顔は喜びに溢れ、希望と愛に輝いていたに違いありません。これ
はドラマツルギーの一つでしか有りませんが、ヒロインの輝く顔でラストシー
ンとする方法が有ります。ただし悲劇は観客にだけは分かるように仕組んでお
きます。ヒロインは泣きませんが、何割かの観客の涙を誘うかも知れません。
これは幾つかの方法の一つで最良最高のものとは限りません。シナリオを書く
ための姿勢、というのはこんな具合に映像が幾つにも重なり合いながら描かれ
ている必要が有る。少なくとも書き手の頭に映像がはっきりと描かれていなけ
ればなりません。すると、カット割り」
 ここで四郎が続きを躊躇った。彼ら、特に女性たちにこの単語がわからいの
ではと疑ったのだ。
「カットとは映画の最小単位と思って下さい。幾つかのカットが集まってシー
ンが出来、シーンが幾つか集まってシークエンスが出来、シークエンスが重な
り合って映画が完成します。研修課の生徒は知っている筈です」
 片岡薫が四郎の怪訝を補充して呉れた。
「映像を頭に浮かべながら書かれたシナリオではカット割りさえ分かるので
す。ロングショットだったり、ツーショットだったり、空撮だったり、ズーム
だったり、移動だったり。映像化
された時、必ずしも書き手の意図したものになるとは限りませんけれども」
 結局、二時間の授業を四郎が一人で喋りつづけた。

 協会の出口で、四郎は三人の女性に囲まれてしまった。
「大久保さん、私たち貴方が例に挙げられた作品を一つも見ていません」
 受講生の一人が言い、四郎は成り行きで立ち止まる事になった。
「私は山椒太夫だけは見たことが有ります」
 もう一人が言った。さらに最後の一人が話を続けた。
「川島雄三なんて監督がいることも知りませんでした。川島監督の作品で他に
何か有りませんか?」
「幕末太陽伝。怪作です。石原裕次郎や小林旭の大根振りを見るだけでも価値
が有ります」
「ばくまつたいようでん」
 彼女は発音しながら手帳に書きつけた。
「すいません、約束が有るので、来週の授業の後は開けておきますから、少し
話をしませんか?」
「はい」
 三人が一斉に嬉しそうな声を出した。
 夫々にどこか魅力的な三人、一人は年の割には幼いまでに可愛らしく、一人
は大人の女性だけが持っている情緒を湛えた美しさを持ち、一人は輝く顔と煌
めく瞳の他はどこかアンバランスだったが、一言でいえばやはり美人と言わざ
るを得ない。
 四郎はそんな三人を残して協会から足早に去って行った。
 約束をしていたにも関わらず、四郎は二度とシナリオ作家協会に現れなかっ
た。約束をした時点でその事を固く決意していたに違いない。

 三か月後、四郎に作家協会から電報が来た。部屋にはミズエ名義の電話しか
なかったからだ。
《○月○日、赤坂プリンスのロビーに来られたし。片岡薫先生がお待ちしてい
ます》
 四郎は約束の時間にそのロビーに言った。下駄を履いた彼はそこでは完全な
異邦人だった。
「先生、お久しぶりです」
 さきにきていた片岡先生の前に四郎が腰を下ろした。
 彼は小言を言われると、覚悟をしていた。強引に押しかけて研修生にして貰
ったにも関わらず、たった三回で逃げてしまったのだから。
「実はね、大久保君」
 四郎にしては珍しくも居住まいを正し、聞くべき姿勢を示した。
「今、七人の弁護士というテレビドラマの企画が進められていてね、何人かの
ベテランが決まっているのですが、最低一人は新人を起用する事になった」
 四郎には話の意味が良く分からなかった。新人起用は片岡薫が言い出したに
違いない。
「大久保君、君さえよければ、やってみないかね」
 四郎は驚いて片岡薫を見詰めた後、顔を伏せて考え込んだ。
 とんでもない幸運が舞い込んできたのかも知れない。だが、書けるだろう
か? 本格的な社会派テレビドラマなんか書けるだろうか? 答えはノー。無
理だと思った。
「最初は誰かの、例えば私と共著という形を取らざるを得ませんが」
 片岡先生の言葉が四郎の頭の中で滑っていった、君だったら必ず出来る。そ
んな事も言っているようだ。
 ほんとに出来るだろうか? やはり無理だ。四郎は理論的に言えば完璧な映
画青年だった。某私立大学の映画学科での二年間、主席でオール優だったが、
両親ともに死に、頼るべき親類が無かった為に三年になる前退学をした。経済
的な理由だったが、もし、それが解決したとしても、退学をしたに違いないと
思っていた。
 ようやく何事かを決意した四郎が顔を上げて片岡薫を確りと見詰めてこう言
った。
「ご厚意感謝します。身に余る光栄です。でも無理です、僕には資格も才能も
有りません。・・・自信は微かにあるように思えますが、辛抱とか努力すると
か、そういう資質が欠けているのです。最大の理由が、テレビドラマを書きた
いとは少しも思わないという事です」
 黙って四郎を見詰める片岡に向かって、
「すいません」
 四郎が頭を下げた瞬間、全てのチャンスが、彼の短い人生の最後のチャンス
が音もなく崩れ去った。
 四郎が躊躇い恐れたのは、あるかないか分からない己の才能と対峙するのが
恐ろしかったのだ。



十七 綾香。

「まるで、その場に居たようにお話をするのですね」
「ええ、大久保君を特別講習生にした人、大石さんにも、片岡薫さんにも、ゼ
ミの生徒さんにも、二人だけでしたが、そのお二人は今ではテレビドラマの作
家として活躍されています」
「四郎さんの代わりに起用されたわけですね」
「多分」
 その後、二人は暫く黙り込んだ。
 綾香は山本の語る内容を少し知っていた。四郎の遺体を引き取った時、彼の
書いた手記を受け取っていたからだ。「四郎さんは、あれを何時書いたのだろ
うか」、考えた、駆け落ち直後に書いたに違いないと思うのだが、山本が語る
内容の予言のような物も書かれていたから、死ぬ直前に書いたのかも知れな
い。だいたいあれは私小説だったのかしら? もしかしたらシナリオのつもり
で書いたのかも知れない、いくつかの場面に綾香がいたので、映像として思い
出せたし、四郎には全てが映像そのものだったに違いない。
「駆け落ちしたのはどっちだったのでしょう?」
 山本が突然呟いた、が綾香には考え事のために良く聞こえなかった。
「なにでしょう?」
 顔を上げる綾香に山本が話しかけた。
「駆け落ちをしたのはミズエだったのか、コズエだったのか?」
「さあ、私には分かりませんわ」
「私はこう考えています。一卵性双生児の一人の肉体だけが生き残る、その肉
体に二人の魂が宿ったとね、大久保さんは戸惑ったでしょうね、コズエが出て
きたり、ミズエになったりした分けですから」
「そうですね」
「あの事件の関係者は皆死んでしまいました。いや、ミズエだけは生きてい
る。現に台湾で見かけたという人がいるのです。この写真を見てください」
と、山本は一枚の写真を綾香に手渡した。
 写真をじっと見詰める綾香。華やかな民族衣装を纏った台湾の原住民と思わ
れる数十人の娘たちが踊りながら祈っている。そんな写真だった。
「私の知人が五年前、台湾に観光した時の写真の一枚です。シカワサイと呼ば
れている、台湾原住民アミ族の祭です、いまだにシャーマニズムが残っている
のですよ。アミ族は大変小柄なのです。よく見てください」
 確かに皆小さい。よく見ると一人だけ頭一つ抜き出た娘がいた。フォーカス
がボケていて、綾香には顔がしかと認識出来なかった。
「今は、コンピュータがえらく発達をしていましてね、公安の後輩に写真を解
析して貰いました」
 山本は写真をもう一枚取り出して綾香に渡した。
 じっと見詰める綾香。アミ族の一人だけのアップだ、かなり鮮明に映ってい
た。
「私にはミズエに見える」
「ええ、私にもそう見えます。間違いなくミズエさんです」
「台湾に帰ったミズエがアミ族のシャーマンになっていたとしたら、面白いと
は思いませんか⁉」
「かも知れませんね」、と言った綾香は暫く考え込んでいた。何か迷っている
ような素振りで顔を伏せていた。
 山本は、綾香が何を考えているのか興味を持って見つめ続け、彼女の言葉を
待った。
静かに顔を上げた綾香は、隅の小机の引き出しから、きれいに装丁された
原稿を取り出して山本の前に置いた。
「これは?」
「四郎さんの手記です、熱海に来てから駆け落ちするまでの事が綴られており
ますわ」
 山本は、『麗のフォルモサ』とタイトルされたその原稿を食い入るように見
つめた後、上目づかいに綾香を見た。
「お借りするわけには」
「いいえ、私にとって大切な形見ですもの、何回読み返したか分かりません」
「そこをなんとか、滞在を一日延ばして、明日の夕方には必ず返しにまいりま
すから」
「わかりました、約束を違えないで下さいましね」
 山本は四郎の手記を大切に抱えてあやの屋を出て行った。

 綾香は仏壇の見える縁側に座って四郎と弟を偲んだ。
「四郎さんと駆け落ちをしたのは本当にミズエさんだったのだろうか? なん
どか疑問が沸いていたが、分からなかったし。分かったところで仕方がないと
思っていた」

 四郎が殺された二年前、もう十年以上も前の事になる。
 三月下旬、四郎が綾香を訪ねてきた。御殿山の桜見物の約束を守るために来
たと言った。
 綾香は四郎の余りの変わりように愕然とした。
「どうしたの?」
「だから、御殿山の桜を見に行こうと誘っている」
「ミズエさんは? ちゃんとやれているの?」
 暗い顔で無理に微笑みを創る四郎、ポツリと、聞き取れない程の小声で言っ
た。
「いま香港に行っている」

 綾香は休みを取って御殿山に四郎を連れていった。
 その夜、自然な形で身体を求めあった。
「四郎さん、ダメよ、覚醒剤なんて。お願いだからやめて」
「うん、僕が一番わかっている、・・・ミズエが帰ってくれば大丈夫、魔法の
ように治してくれるさ。前にも一度、命を救われた。だけどあれはコズエだっ
たかも知れない」
 二人は夜が明けるまで尽きせぬ話を語り合った。
 
 蒲原御殿山の悲しい逢瀬の二年後、四郎は笑美子の夫だった変質者に殺され
てしまったのだ。

 いつのまにか紅い夕日が創る綾香の影が縁側から室内へと伸びていた。その
先の居間の小さな仏壇で線香が薄紫の煙を上げながら微かに灯っていた。
 若い芸子が二人、化粧を始めた。
 台所で包丁の音が聞こえている、家の者が夕餉の支度を始めたのだ。
ピンポーンと玄関のチャイムがなった。
 あやの屋で手の空いている者は綾香しかいない。仕方がないので自ら玄関に
立って、戸をあけた。
 夕陽を真正面から受けた綾香の目が眩んだ。薄眼をあけると若い娘の像がゆ
らゆらと揺れながら浮かんできた。
 手を翳して夕陽をよける綾香、一歩。そしてまた一歩と身体を進め、斜め越
しに見つめた。
 そこに立っていたのは、昔と変わらぬ美しく麗しいフォルモサの娘、その一
人だった。
 フォルモサの娘は綾香にたとえ様もないくらい魅力的に頬笑んだ。その頬笑
みは綾香の脳裏の中で限りなく広がり、心の中では四郎の手記の映像が閃光の
ように虹んでいった。
                      
~KOZUE・完  GOROU~