十一 ショートストップ
次の日の夕方。つまり、西暦千九百七十年、昭和で四十五年目の弥生三月二日の夕方。私はあやの屋に綾香を訪ねた。
借りていたシャツとトレーナーとウインドブレーカーを返す為だ。だが真の目論見は他にあった。
小さな庭のある縁側で少し話をした。
「気に入らないわよね、こんな赤い色のジャンパー」
茶の湯をたてながら綾香が言った。
とんでもない、赤いから良いのだ、何よりもスーパーマンのマークが私の好みに合った。
「良ければ使って貰おうと思っていたのよ」
「良いんですか?」
「あら、気に入っているの?」
「ええ、着心地は満点、デザインも最高です」
「だったら進呈するわ。弟のだけど」
だけど、のあとに興味が沸いた。
「弟さん、どうしているのですか?」
「ショートだったの。甲子園に出たのよ、一度きりだけど」
ショート、ショートストップ、遊撃手とも言う。偶然私も遊撃手だった。甲子園は駄目だが、神宮だったら出たことが有る。
「さあどうぞ。作法なんか気にしなくて良いのよ」
綾香がたてた抹茶に私は怯えた。飲み慣れたお茶とは大分様子が違う、泡立つ濃緑色の抹茶はいかにも苦々しげにも、憎げにも見えている。
思い切ってガブリと一息に飲み込んだ。
意外だ! 少しも苦くない、どころか上品な甘味が口中に拡がって行く。
そこで初めて茶器に意識が向いた。
鈍く光る黒い凸凹な茶碗、とても意図的に創ったと思えぬ独創的なその茶碗が、掌に心地よく収まっている。
「オリベっていうのよ」
「オリベ? 古田、・・・織部」
茶の湯は初めてでも、そういう知識は私のお手の物だ。
「あらっ、博学なのね」
古田織部、千利休の弟子で、前田利家の娘の養父としても知られている豊臣大名の一人だ。師の利休は秀吉に切腹させられ、弟子の織部の方は、夏の陣の後豊臣方に内応した詮議で家康に切腹を命じられた。反骨精神の旺盛な古武士、という印象しか持っていなかったが、茶器の作者として高名だとは知らなかった。
私はその時、軽いカルチャーショックを受けていた。歴とした日本人の、二十代半ばの文化を愛する青年が、茶の湯に驚いている。滑稽と言えばこんなおかしな話は無い。茶道に強烈な興味を覚えていたが、世辞を言って気を惹くと思われると癪なので、懸命に堪えた。
紅い夕日が創る綾香の影が縁側から室内へと伸びていた。その先の居間の小さな仏壇で線香が薄紫の煙を上げながら微かに灯っていた。
綾香の頬の影が哀しそうだ。いや、彼女は偲ぶ追憶を愉しんでいる様にも見えた。
「甲子園の直ぐ後、肩を壊してプロを断念したわ。社会人になってから、スーパーマンって草野球のチームを創って愉しんでいたわ」
そのスーパーマンのウインドブレーカーをなぜ私に呉れるのか、どうして必要なくなったのか解らない。聞くのが恐くもあったので、野球の話はもう止めた。
「金田の出入りしている所、知っていたら教えて呉れませんか?」
「だいたい分かるけど、お止めなさい、ヤクザになんか関わるの」
「ちょっと聞きたい事が有るだけです」
「本当に大丈夫なのね。危ない事に顔なんか突っ込んじゃ駄目よ」
心とは裏腹にハッキリと頷く私。
余り気が乗らない風にして、綾香はやっとパチンコ店と雀荘を教えてくれた。
その日の深夜、さっそく雀荘に行った。
フリー打ちの雀荘で、入ると直ぐメンバーがルールの説明を始めた。
場が二卓立っており、奥の方の卓に金田がいた。
「よろしければ、すぐ打てますよ」
手前の卓に雀ボーイが入っているのだ。金田と打たなければ意味が無いので、店に入ってきた男に番を譲った。
二十分ほど待って奥の卓が割れた。負けていた二人が同時に席を立ったのだ。
私と、その後に来ていたスキンヘッドのチンピラが卓につこうとすると、
「店のメンバーを一人入れましょうか?」
恐る恐る店長が金田に聞いた。
「この人さえよければ構わねえよ、メンバーとなんか打ちたくはねえ」
口ひげの男が言い放った。
「構いません、その代わり、場所決めだけはさせて下さい」
渋々店長が東南西北を伏せて混ぜた。
私は、いち早く手を出して、四枚の伏せた牌を人差し指から小指で押さえてほんの少しずらし、ちゃんと東を引き当てた。壁際の席を選ぶ為だ。
ヒゲが上家、スキンヘッドが下家、従って金田がトイメンだ。ヒゲもスキンヘッドも金田も指輪をしていた。麻雀の他流試合で指輪を見たらイカサマ師と思えばほぼ間違いない、指輪は牌を隠すのにすこぶる便利なのだ。
私と金田の左角に雀ボーイが貼り付いた。イカサマを封じるためだろう。明らかに組む三人より私の方を警戒したに違いない。触っただけで牌を読む雀士など、熱海にいるわけがないからだ。
壁際の席を手に入れた以上、私は平気だった。詰め込みもすり替えも自由自在に成功させる自信があった。
四人とも猛スピードで牌を積んだ。
私は、積んだ十七列の山を区切らずに少しだけ前にずらし、サイを振る。勿論五だ。もう一度振る。今度は二。
右から七列十四枚を残して、配牌を取っていった。ドラ表示牌は敢えて開けない、ここがポイントだ。
配牌を平たく揃えず右隅に置いて行く、最後に二つの同じに見える山が出来上がる。その二つの山をすり替えれば完成だ。
配牌を開いて、あれこれと牌を揃えながら首をしきりと傾けて見せ、
「うーん、・・・えーと」
と、なかなか切らない。実は切る気など皆目ないのだ。
イライラとドラ表示牌をひっくり返すヒゲ。
「いい加減にしろ、早く切れよ!」
スキンヘッド。
「切る牌が見つからない」
少し勿体ぶって間を置いた。
「やっぱり有りません。・・・無い」
「無ければ上がりだろう。嘗めた事言うじゃネエ」
「それ、それです、どうやら上がっているみたいです」
と、手牌を倒した。言うところの天和である。
私のいきなりの宣戦布告に場が一気に緊張した。なんでも有りのルールだったが、イカサマまで有りのルールを宣言したに等しい。
誰も文句は付けなかった。イカサマは現場を押さえない限りどうにもならないのだ。だが、次の局から、相手の三人とも遠慮無しにやりたい放題を尽くした。
南場を待たずに雀ボーイが二人とも卓を離れた。こんなめちゃくちゃなイカサマ合戦に付き合うのがバカバカしくなったのだ。
ヒゲとスキンヘッドは牌を積む時、左手を山に着けたまま動かさない。賢明に考えながら詰め込もうとしているのだ。ドシロウトが見え見えだ。金田だけはややましに見えたが、こんな連中が三人組んだところで少しも恐くない。
頭を低くして振り込みだけに気を付ける、殆ど上家に合わせて牌を切るのだ。それでも、三局に一度位の割合であがれた。
南場の親で又仕組んだ。
「リーチ!」
大声を出して牌を叩く! 人は誰でも大きな音の方に目を奪われてしまうものだ。その空きに、四枚目の一ピンを拾って来た。イカサマは技術よりも度胸、私の持論である。
敵は、リーチを掛けてきた私の意図が分からず迷っている。組まれた麻雀でリーチを掛ける馬鹿など誰もいない。迷うだけ迷うが良い。一回りのうちになんとかしなければ私の上がりだ。そう確信していた。
下家が積もらずに上積に牌を載せた。誰かの当たり牌を置いたのだろう。
私は、中指で軽く上積牌の右側をチョント押しながら、親指と薬指で私が積もる予定だった牌を巧みに抜いて、盲牌もせずに卓に叩き付けた。
「ツモ! 国士十三面待ち! ここではダブルでしたよね」
最後まで自由には言わせて貰えなかった。
ヒゲが牌を私に投げつけ、スキンヘッドに卓の外に引き吊り出された。
「いい加減にしやがれ!」
雀ボーイも店長も客も見て見ぬ振りをしている。
作戦は大成功だ。私の計画通りに進み、電話の並んだ事務所に連れ込まれた。
名誉の為に弁解を言う。私は前にも言ったようにイカサマをやらない人だ。第一イカサマなどやらなくても勝てたのだから、そんな必要など更々無い。行きつけの場でこんな事をやれば忽ち仲間外れだし、命など幾つあっても足りやしない。この時は、金田を怒らせて二人きりになるのが目的だった。
「学生さん、どういう積もりであんな事をしたのかね」
金田は思いの外ちゃんとした発音で日本語を喋った。
「翡翠の事が聞きたかっただけです」
金田が顎を癪って二人のチンピラを外に追いやった。
「さあゆっくりと言分を聞かせて貰おうか」
「あの姉妹をどうする積もりですか?」
「知っているのか?」
「だいたいはね」
「偶然見かけただけさ」
「父娘の名乗りをあげる積もりじゃないでしょうね」
「まさか。・・・これでも己を弁えている。胡蝶も娘達もキッパリと諦めているさ」
この後一時間ほど話し合っただろうか。私も色々話したが、吉之輔のミズエに対する性的悪戯だけは言わなかったのは当然だ。
金田の話によると、溥儀とは異母兄弟にあたると言い、台湾では満州族である事を未だに隠し続けているという。昭和二十一年の夏に密入国で日本に渡り、間もなく先代の市村胡蝶一座に拾われ、雑用ならなんでもやらされたらしい。座長の娘と恋仲になって生まれたのがミズエとコズエの姉妹だ。
姉妹が二歳の誕生日を迎える前に警察に捕まった。吉之輔に密告されたのだ。
台湾に強制送還された後香港に渡り、裏の世界に入ったという。五年前に偽造パスポートで再来日した。
秦河勝の末裔が清朝最後の皇帝・愛親覚羅溥儀の異母弟と日本で結ばれ、溥儀の弟溥傑の娘愛親覚羅慧生の従姉妹にあたる麗しきフォルモサの娘を産んだのだ。こうやって整理して見ると、ミズエとコズエ姉妹を巡る因縁が、彩なす糸のように絡み合っているのが良く理解出来た。
この彩糸を巡って、千秋楽までの短い期間に、様々な出来事が私を襲った。
2016年12月3日 Gorou
次の日の夕方。つまり、西暦千九百七十年、昭和で四十五年目の弥生三月二日の夕方。私はあやの屋に綾香を訪ねた。
借りていたシャツとトレーナーとウインドブレーカーを返す為だ。だが真の目論見は他にあった。
小さな庭のある縁側で少し話をした。
「気に入らないわよね、こんな赤い色のジャンパー」
茶の湯をたてながら綾香が言った。
とんでもない、赤いから良いのだ、何よりもスーパーマンのマークが私の好みに合った。
「良ければ使って貰おうと思っていたのよ」
「良いんですか?」
「あら、気に入っているの?」
「ええ、着心地は満点、デザインも最高です」
「だったら進呈するわ。弟のだけど」
だけど、のあとに興味が沸いた。
「弟さん、どうしているのですか?」
「ショートだったの。甲子園に出たのよ、一度きりだけど」
ショート、ショートストップ、遊撃手とも言う。偶然私も遊撃手だった。甲子園は駄目だが、神宮だったら出たことが有る。
「さあどうぞ。作法なんか気にしなくて良いのよ」
綾香がたてた抹茶に私は怯えた。飲み慣れたお茶とは大分様子が違う、泡立つ濃緑色の抹茶はいかにも苦々しげにも、憎げにも見えている。
思い切ってガブリと一息に飲み込んだ。
意外だ! 少しも苦くない、どころか上品な甘味が口中に拡がって行く。
そこで初めて茶器に意識が向いた。
鈍く光る黒い凸凹な茶碗、とても意図的に創ったと思えぬ独創的なその茶碗が、掌に心地よく収まっている。
「オリベっていうのよ」
「オリベ? 古田、・・・織部」
茶の湯は初めてでも、そういう知識は私のお手の物だ。
「あらっ、博学なのね」
古田織部、千利休の弟子で、前田利家の娘の養父としても知られている豊臣大名の一人だ。師の利休は秀吉に切腹させられ、弟子の織部の方は、夏の陣の後豊臣方に内応した詮議で家康に切腹を命じられた。反骨精神の旺盛な古武士、という印象しか持っていなかったが、茶器の作者として高名だとは知らなかった。
私はその時、軽いカルチャーショックを受けていた。歴とした日本人の、二十代半ばの文化を愛する青年が、茶の湯に驚いている。滑稽と言えばこんなおかしな話は無い。茶道に強烈な興味を覚えていたが、世辞を言って気を惹くと思われると癪なので、懸命に堪えた。
紅い夕日が創る綾香の影が縁側から室内へと伸びていた。その先の居間の小さな仏壇で線香が薄紫の煙を上げながら微かに灯っていた。
綾香の頬の影が哀しそうだ。いや、彼女は偲ぶ追憶を愉しんでいる様にも見えた。
「甲子園の直ぐ後、肩を壊してプロを断念したわ。社会人になってから、スーパーマンって草野球のチームを創って愉しんでいたわ」
そのスーパーマンのウインドブレーカーをなぜ私に呉れるのか、どうして必要なくなったのか解らない。聞くのが恐くもあったので、野球の話はもう止めた。
「金田の出入りしている所、知っていたら教えて呉れませんか?」
「だいたい分かるけど、お止めなさい、ヤクザになんか関わるの」
「ちょっと聞きたい事が有るだけです」
「本当に大丈夫なのね。危ない事に顔なんか突っ込んじゃ駄目よ」
心とは裏腹にハッキリと頷く私。
余り気が乗らない風にして、綾香はやっとパチンコ店と雀荘を教えてくれた。
その日の深夜、さっそく雀荘に行った。
フリー打ちの雀荘で、入ると直ぐメンバーがルールの説明を始めた。
場が二卓立っており、奥の方の卓に金田がいた。
「よろしければ、すぐ打てますよ」
手前の卓に雀ボーイが入っているのだ。金田と打たなければ意味が無いので、店に入ってきた男に番を譲った。
二十分ほど待って奥の卓が割れた。負けていた二人が同時に席を立ったのだ。
私と、その後に来ていたスキンヘッドのチンピラが卓につこうとすると、
「店のメンバーを一人入れましょうか?」
恐る恐る店長が金田に聞いた。
「この人さえよければ構わねえよ、メンバーとなんか打ちたくはねえ」
口ひげの男が言い放った。
「構いません、その代わり、場所決めだけはさせて下さい」
渋々店長が東南西北を伏せて混ぜた。
私は、いち早く手を出して、四枚の伏せた牌を人差し指から小指で押さえてほんの少しずらし、ちゃんと東を引き当てた。壁際の席を選ぶ為だ。
ヒゲが上家、スキンヘッドが下家、従って金田がトイメンだ。ヒゲもスキンヘッドも金田も指輪をしていた。麻雀の他流試合で指輪を見たらイカサマ師と思えばほぼ間違いない、指輪は牌を隠すのにすこぶる便利なのだ。
私と金田の左角に雀ボーイが貼り付いた。イカサマを封じるためだろう。明らかに組む三人より私の方を警戒したに違いない。触っただけで牌を読む雀士など、熱海にいるわけがないからだ。
壁際の席を手に入れた以上、私は平気だった。詰め込みもすり替えも自由自在に成功させる自信があった。
四人とも猛スピードで牌を積んだ。
私は、積んだ十七列の山を区切らずに少しだけ前にずらし、サイを振る。勿論五だ。もう一度振る。今度は二。
右から七列十四枚を残して、配牌を取っていった。ドラ表示牌は敢えて開けない、ここがポイントだ。
配牌を平たく揃えず右隅に置いて行く、最後に二つの同じに見える山が出来上がる。その二つの山をすり替えれば完成だ。
配牌を開いて、あれこれと牌を揃えながら首をしきりと傾けて見せ、
「うーん、・・・えーと」
と、なかなか切らない。実は切る気など皆目ないのだ。
イライラとドラ表示牌をひっくり返すヒゲ。
「いい加減にしろ、早く切れよ!」
スキンヘッド。
「切る牌が見つからない」
少し勿体ぶって間を置いた。
「やっぱり有りません。・・・無い」
「無ければ上がりだろう。嘗めた事言うじゃネエ」
「それ、それです、どうやら上がっているみたいです」
と、手牌を倒した。言うところの天和である。
私のいきなりの宣戦布告に場が一気に緊張した。なんでも有りのルールだったが、イカサマまで有りのルールを宣言したに等しい。
誰も文句は付けなかった。イカサマは現場を押さえない限りどうにもならないのだ。だが、次の局から、相手の三人とも遠慮無しにやりたい放題を尽くした。
南場を待たずに雀ボーイが二人とも卓を離れた。こんなめちゃくちゃなイカサマ合戦に付き合うのがバカバカしくなったのだ。
ヒゲとスキンヘッドは牌を積む時、左手を山に着けたまま動かさない。賢明に考えながら詰め込もうとしているのだ。ドシロウトが見え見えだ。金田だけはややましに見えたが、こんな連中が三人組んだところで少しも恐くない。
頭を低くして振り込みだけに気を付ける、殆ど上家に合わせて牌を切るのだ。それでも、三局に一度位の割合であがれた。
南場の親で又仕組んだ。
「リーチ!」
大声を出して牌を叩く! 人は誰でも大きな音の方に目を奪われてしまうものだ。その空きに、四枚目の一ピンを拾って来た。イカサマは技術よりも度胸、私の持論である。
敵は、リーチを掛けてきた私の意図が分からず迷っている。組まれた麻雀でリーチを掛ける馬鹿など誰もいない。迷うだけ迷うが良い。一回りのうちになんとかしなければ私の上がりだ。そう確信していた。
下家が積もらずに上積に牌を載せた。誰かの当たり牌を置いたのだろう。
私は、中指で軽く上積牌の右側をチョント押しながら、親指と薬指で私が積もる予定だった牌を巧みに抜いて、盲牌もせずに卓に叩き付けた。
「ツモ! 国士十三面待ち! ここではダブルでしたよね」
最後まで自由には言わせて貰えなかった。
ヒゲが牌を私に投げつけ、スキンヘッドに卓の外に引き吊り出された。
「いい加減にしやがれ!」
雀ボーイも店長も客も見て見ぬ振りをしている。
作戦は大成功だ。私の計画通りに進み、電話の並んだ事務所に連れ込まれた。
名誉の為に弁解を言う。私は前にも言ったようにイカサマをやらない人だ。第一イカサマなどやらなくても勝てたのだから、そんな必要など更々無い。行きつけの場でこんな事をやれば忽ち仲間外れだし、命など幾つあっても足りやしない。この時は、金田を怒らせて二人きりになるのが目的だった。
「学生さん、どういう積もりであんな事をしたのかね」
金田は思いの外ちゃんとした発音で日本語を喋った。
「翡翠の事が聞きたかっただけです」
金田が顎を癪って二人のチンピラを外に追いやった。
「さあゆっくりと言分を聞かせて貰おうか」
「あの姉妹をどうする積もりですか?」
「知っているのか?」
「だいたいはね」
「偶然見かけただけさ」
「父娘の名乗りをあげる積もりじゃないでしょうね」
「まさか。・・・これでも己を弁えている。胡蝶も娘達もキッパリと諦めているさ」
この後一時間ほど話し合っただろうか。私も色々話したが、吉之輔のミズエに対する性的悪戯だけは言わなかったのは当然だ。
金田の話によると、溥儀とは異母兄弟にあたると言い、台湾では満州族である事を未だに隠し続けているという。昭和二十一年の夏に密入国で日本に渡り、間もなく先代の市村胡蝶一座に拾われ、雑用ならなんでもやらされたらしい。座長の娘と恋仲になって生まれたのがミズエとコズエの姉妹だ。
姉妹が二歳の誕生日を迎える前に警察に捕まった。吉之輔に密告されたのだ。
台湾に強制送還された後香港に渡り、裏の世界に入ったという。五年前に偽造パスポートで再来日した。
秦河勝の末裔が清朝最後の皇帝・愛親覚羅溥儀の異母弟と日本で結ばれ、溥儀の弟溥傑の娘愛親覚羅慧生の従姉妹にあたる麗しきフォルモサの娘を産んだのだ。こうやって整理して見ると、ミズエとコズエ姉妹を巡る因縁が、彩なす糸のように絡み合っているのが良く理解出来た。
この彩糸を巡って、千秋楽までの短い期間に、様々な出来事が私を襲った。
2016年12月3日 Gorou