健太郎が出征して早くも一年が過ぎてしまいました。
あいちゃんはこの一年間悩み続けていました。健太郎青年が無事なのか、どの戦場にいるのか? 知る術も無く、ただ悩み続ける事しか出来ません。
ある夜、あいちゃんは何事かを決意して、座長のシロに相談しました。
「わたし、健太郎さんが無事なのか、どこにいるか知りたいんです。座長だったら知っていると思って相談に来ました」
シロは口を吽とばかりに一文字に結んで、あいちゃんを睨むようにして見詰め続けるばかり。
「お願いです。教えて」
あいちゃんはシロの顔を覗き込む為に跪きました。
シロは今度はそっぽを向いてしまいます。
あいちゃんの胸に不安が拡がります。座長は矢張り知っているんだわ、黙っているのは何か悪いことでも有ったからかも知れない。
「座長! わたしどんなことでもちゃんと聴くから、お願い」
あいちゃんは遂に泣き出してしまいました。
「教えてあげなよ」
「あいちゃんの健気な心に応えてあげたら?」
頭上からさこひめと小雪の声が落ちてきました。
二人を見上げたシロが微かに頭を下げて頷きました。
立ち上がったあいちゃんは、さこひめと小雪を交互に見詰めて息を潜めています。
口を開いたのはさこひめでした。
「あの学生さんは満州にいるよ」
「まんしゅう?」
「日本から出た事の無いあいちやんは知らないよね。ずっと北に有る国だから、あたしも一度行って見たいと思っているんだ」と、小雪。
「健太郎さんは無事なの?」
「今のところはね」と、ぶっきらぼうに言い放つさこひめ。
「ソ連という大きくて強い国との国境の街にいるよ。ソ連はね今のところ日本と戦争をしていないけどね、いつ攻めてくるか分かりやしない」と、言葉を繋ぐ小雪。
「ソ連がその気になったら、関東軍なんて一網打尽で玉砕、なんの抵抗も出来やしない。小娘をよってたかって手籠めにするような物さ」
さこひめの言葉を聞いたあいちゃん、青ざめた顔でブルブルと震えています。
「わたし、どうしてもそうなる前に、一目で良いから健太郎さんに逢いたいの。お願い!」
涙を浮かべてさこひめを必死に見詰めるあいちゃん。連れて行って呉れるとしたらさこひめだと知っていたからです。
「連れて行っても良いけどね、後は知らないよ。先の事は自分で切り開かなければいけない。あいちゃん大丈夫?」
「はい、覚悟は出来ています。わたし大丈夫、がんばるから」
「ホントだね」と、少しかがんで背中の翼を拡げるさこひめ。
「しっかりと捉まるんだよ」
さこひめの翼によじ登るあいちゃん、首をしっかりと抱きしめた。
「有り難うさこひめさん」
「良いさ、ついでだからね。わたしの兄さんが今トルコにいるのさ。ちょっとだけ寄り道してあげる」
「兄さんって?」
「人は素戔嗚尊と呼ぶけどね。本当は須佐の王だった人さ。大昔の事・・・」
素戔嗚尊は新出奇抜で色々な場所に現れる。出雲はもちろん、京都や東京、新羅(韓国)、そして西はトルコにまで出かける事が有る。
「兄さんに蘇民将来のお札を貰って来るからね」と、座長と小雪に言い残して、大きな翼を羽ばたかせた。
あっという間に姿を消すさこひめとあいちゃん。
「すごい! まるで空を飛んでいるみたい」
とんちんかんな感想を述べるあいちゃん。仕方が有りません、あまり速いので何も見えなかったのです。
さこひめは新京の街にあいちゃんを届け、「がんばるんだよ」と言い残してあっという間に姿を消した。
不安に脅え、深夜の新京市街を眺めるあいちゃん。
「健太郎さんを探さなくては」と決意を改めるあいちゃんでしたが、その為には生きて行かなくて成りません。
エッ? どうしたかって? ご想像に任せます。可愛そうなので私の口からは言えません。
あいちゃんはこの新京の街で一年近くも生き抜きました。
不思議な事が起こりました。あいちゃんと出会った兵隊さん達、前線に配属されて意気消沈している兵隊、傷を負ったり、片腕を無くした兵隊も、皆心身共に元気になるんです。だけど、大抵はまた傷を負って帰って来ます。
あいちゃんは遂に健太郎青年を見つける事は出来ませんでした。
怖れていた事が起こりました。千九百四十五年八月八日、ソ連がソ満国境に進攻を開始したのです。
瞬く間に関東軍は殲滅されました。
この日、あいちゃんは大勢の日本婦人、天使のような看護婦や、白い衣装を着て看護婦気取りの娼婦たちと街外れに立っていました。
続々と撤退してくる日本の敗残兵を励まし、水や食べ物を与えるためです。
あいちゃんは、甲斐甲斐しく兵隊達に水や乾パンを与えながら、必死に健太郎青年を探しますが、とうとう見つける事は出来ませんでした。
八月十五日、終戦。
その頃には浅草にはあの見世物小屋は有りません。
座員はてんでんばらばらになって、多くは故郷に帰って行きました。
もし、あなたが青森奥入瀬に旅をしたら、奥深くの大滝を訪れて下さい。
ほら、聞こえて来たでしょう。
♪ 空にさえずる 鳥の声 峰より落つる 滝の音 大波小波 とうとうと
響き絶やせぬ 海の音 聞けや人々 面白き この一座の 出し物を
調べ自在に 弾きたもう 語るも自在に 演じたもう 我らが御手の尊しや
かまおは河太郎と夫婦になっていました。
もし、あなたが雪山の遭難で助かったとしたら、きっと小雪のおかげです。
エッ? シロはどうなったって?
あなたの街の神社の境内で、うんとばかりに口を真一文字に食いしばった、吽形の狛犬を見かけたら、きっとシロです。
あいちゃんは? わたしは知りません。でも、試しに呼んで見ましょうか?
さあ一緒に声を合わせて大声で、・・・
「アイチャーンッ!」
「アーイーッ!」
あいものがたり・完
2016年12月15日 Gorou
あいちゃんはこの一年間悩み続けていました。健太郎青年が無事なのか、どの戦場にいるのか? 知る術も無く、ただ悩み続ける事しか出来ません。
ある夜、あいちゃんは何事かを決意して、座長のシロに相談しました。
「わたし、健太郎さんが無事なのか、どこにいるか知りたいんです。座長だったら知っていると思って相談に来ました」
シロは口を吽とばかりに一文字に結んで、あいちゃんを睨むようにして見詰め続けるばかり。
「お願いです。教えて」
あいちゃんはシロの顔を覗き込む為に跪きました。
シロは今度はそっぽを向いてしまいます。
あいちゃんの胸に不安が拡がります。座長は矢張り知っているんだわ、黙っているのは何か悪いことでも有ったからかも知れない。
「座長! わたしどんなことでもちゃんと聴くから、お願い」
あいちゃんは遂に泣き出してしまいました。
「教えてあげなよ」
「あいちゃんの健気な心に応えてあげたら?」
頭上からさこひめと小雪の声が落ちてきました。
二人を見上げたシロが微かに頭を下げて頷きました。
立ち上がったあいちゃんは、さこひめと小雪を交互に見詰めて息を潜めています。
口を開いたのはさこひめでした。
「あの学生さんは満州にいるよ」
「まんしゅう?」
「日本から出た事の無いあいちやんは知らないよね。ずっと北に有る国だから、あたしも一度行って見たいと思っているんだ」と、小雪。
「健太郎さんは無事なの?」
「今のところはね」と、ぶっきらぼうに言い放つさこひめ。
「ソ連という大きくて強い国との国境の街にいるよ。ソ連はね今のところ日本と戦争をしていないけどね、いつ攻めてくるか分かりやしない」と、言葉を繋ぐ小雪。
「ソ連がその気になったら、関東軍なんて一網打尽で玉砕、なんの抵抗も出来やしない。小娘をよってたかって手籠めにするような物さ」
さこひめの言葉を聞いたあいちゃん、青ざめた顔でブルブルと震えています。
「わたし、どうしてもそうなる前に、一目で良いから健太郎さんに逢いたいの。お願い!」
涙を浮かべてさこひめを必死に見詰めるあいちゃん。連れて行って呉れるとしたらさこひめだと知っていたからです。
「連れて行っても良いけどね、後は知らないよ。先の事は自分で切り開かなければいけない。あいちゃん大丈夫?」
「はい、覚悟は出来ています。わたし大丈夫、がんばるから」
「ホントだね」と、少しかがんで背中の翼を拡げるさこひめ。
「しっかりと捉まるんだよ」
さこひめの翼によじ登るあいちゃん、首をしっかりと抱きしめた。
「有り難うさこひめさん」
「良いさ、ついでだからね。わたしの兄さんが今トルコにいるのさ。ちょっとだけ寄り道してあげる」
「兄さんって?」
「人は素戔嗚尊と呼ぶけどね。本当は須佐の王だった人さ。大昔の事・・・」
素戔嗚尊は新出奇抜で色々な場所に現れる。出雲はもちろん、京都や東京、新羅(韓国)、そして西はトルコにまで出かける事が有る。
「兄さんに蘇民将来のお札を貰って来るからね」と、座長と小雪に言い残して、大きな翼を羽ばたかせた。
あっという間に姿を消すさこひめとあいちゃん。
「すごい! まるで空を飛んでいるみたい」
とんちんかんな感想を述べるあいちゃん。仕方が有りません、あまり速いので何も見えなかったのです。
さこひめは新京の街にあいちゃんを届け、「がんばるんだよ」と言い残してあっという間に姿を消した。
不安に脅え、深夜の新京市街を眺めるあいちゃん。
「健太郎さんを探さなくては」と決意を改めるあいちゃんでしたが、その為には生きて行かなくて成りません。
エッ? どうしたかって? ご想像に任せます。可愛そうなので私の口からは言えません。
あいちゃんはこの新京の街で一年近くも生き抜きました。
不思議な事が起こりました。あいちゃんと出会った兵隊さん達、前線に配属されて意気消沈している兵隊、傷を負ったり、片腕を無くした兵隊も、皆心身共に元気になるんです。だけど、大抵はまた傷を負って帰って来ます。
あいちゃんは遂に健太郎青年を見つける事は出来ませんでした。
怖れていた事が起こりました。千九百四十五年八月八日、ソ連がソ満国境に進攻を開始したのです。
瞬く間に関東軍は殲滅されました。
この日、あいちゃんは大勢の日本婦人、天使のような看護婦や、白い衣装を着て看護婦気取りの娼婦たちと街外れに立っていました。
続々と撤退してくる日本の敗残兵を励まし、水や食べ物を与えるためです。
あいちゃんは、甲斐甲斐しく兵隊達に水や乾パンを与えながら、必死に健太郎青年を探しますが、とうとう見つける事は出来ませんでした。
八月十五日、終戦。
その頃には浅草にはあの見世物小屋は有りません。
座員はてんでんばらばらになって、多くは故郷に帰って行きました。
もし、あなたが青森奥入瀬に旅をしたら、奥深くの大滝を訪れて下さい。
ほら、聞こえて来たでしょう。
♪ 空にさえずる 鳥の声 峰より落つる 滝の音 大波小波 とうとうと
響き絶やせぬ 海の音 聞けや人々 面白き この一座の 出し物を
調べ自在に 弾きたもう 語るも自在に 演じたもう 我らが御手の尊しや
かまおは河太郎と夫婦になっていました。
もし、あなたが雪山の遭難で助かったとしたら、きっと小雪のおかげです。
エッ? シロはどうなったって?
あなたの街の神社の境内で、うんとばかりに口を真一文字に食いしばった、吽形の狛犬を見かけたら、きっとシロです。
あいちゃんは? わたしは知りません。でも、試しに呼んで見ましょうか?
さあ一緒に声を合わせて大声で、・・・
「アイチャーンッ!」
「アーイーッ!」
あいものがたり・完
2016年12月15日 Gorou