アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

丘の上のマリア Ⅳ マリア①

2016-12-22 14:15:15 | 物語
マリア

 紗智子の精神が病んでいったきっかけは由美でした。
1990年、ミッション系の女子大を卒業した由美は芦屋の本家に呼ばれた。花
嫁修業と結婚の準備の為である。友恵は加藤家の跡取りを紗智子には少しも期
待せず、由美子の子に託した。
 最期の夜、由美は紗智子に哀願した。
「お姉様をこんなに宏大な屋敷に置いて行くなんて、わたくしの本意では有り
ません。お願いですから、家政婦をお雇いになって。それからT電力など辞め
て学者の道を目指して下さい」
「わたくしはT電力の社員ですが、原子物理学者でも有ります」
「T電力ではお姉様の真価は発揮出来ません。なぜ飼い殺しになっているの
か? お母様から圧力が掛かっているに決まっております」
「だとしても、わたくしは決して負けません」
 芦屋と松涛の距離はそれほど遠くは無い、週に一度くらいは会えると、二人
はその点では楽観していたが、全く外れた。由美は友恵の秘書団の末席に加え
られて日中は仕事で縛られ、夜は様々な花嫁修業で縛られた。
 紗智子にとって由美は何だったのか? 六歳離れた妹では無く,この世で愛
する唯一の家族で、姉のような存在だったのだ。

 紗智子は松涛加藤邸でたった一人、寂しい生活を始めた。食事はコンビニか
外食、健康管理をしてくれる者も、愚痴を聞いてくれる者も居なかった。

 紗智子の変態ぶりは遺憾なく会社で発揮された。
 ひそひそと歩くので,気付いたらおかっぱの紗智子が直ぐ横に立っているの
で気味悪がられた。親しい友も皆無だった。
 そもそも彼女は他人とコミュニケーションを取るのを苦手にしていた。
 大学在学中は幾らでも男が寄ってきた。いや、高校(慶応)でもだ。紗智子
は性に対して極めて開放的だった。いつでも彼氏(というよりセックスフレン
ド)を従えていた。普通は最低でも二三か月はそんな関係は続くものだが、彼
女の場合一週間と持たなかった。
 紗智子の目から見ると、若い男は皆物足りなかったのだ、セックス的な不満
では無く人間として尊敬出来ないのだ。次々と男を変えるから、次々とストー
カーが現れた。その度に新しい彼氏が撃退をした。
 社会人になっても、矢張り男は寄ってきたが、紗智子は誰とも付き合わなか
った。元々好色な女では無かったのでセックスのない生活に不満など持たなか
ったのだ。
 好みの男性のタイプはたった一つしか無かった。父幸太のような人、優しく
包容力を備え頭の良い、最低一回りは年上が条件だ。紗智子はこの年になって
も父親離れが出来なかったのだ。

 そんな男性が現れた。大林健一郎と言う名の男で、政界から天下って来た。
友恵と浮き名を流していて現職大臣大林健太の長男だ。
 紗智子三十一歳、総務部副部長という立派な管理職に成っていた。
 大林は総務部長に赴任してきた。
 紗智子の様子がいつもと違っていた。なんとなくそわそわとして居るのだ。
髪に櫛をかけたり、リップクリームを塗ったりするが、相変わらずおかっぱで
ダークスーツ姿だった。
 紗智子を何日か観察していた大林がかまを掛けてきた。
「紗智子君、今夜は開いているかね?」
「はい、部長、今夜は大丈夫です。身体を空けますわ」と、低く小さな声で紗
智子が答えた。

 大林は、指定したホテルのロビーに一時間近く遅れて到着した。「さすがに
もう居ないかな?」と、ロビーを見回した。やはり紗智子は居なかった。
 さして気を落とす事無く去ろうとした。しょせんほんの気紛れで誘ったの
だ。オールドミスの女になど未練の欠片も無かった。
 一人の美女が立ち上がって大林を見詰めていた。
 年の頃二十三四、亜麻色の長い髪を持っていたのでハーフと見た。「いい女
だ・・・誘って見ようか」
 その美女が真っ赤なドレスで近づいてくる。裾の割れたドレスは歩く度に太
股が見え隠れして悩ましい。
 スラリとした長身で、女は大林の前で立ち止まって、彼を見詰めた。ライト
に当たった彼女の輝く眼、その瞳がエメラルドグリーンに煌めいた。
「部長、お待ちしていましたわ」
 ソプラノの高い声で美女が言った。
「き・君は、紗智子君なのか?」
 優雅な微笑みを称えた美女が魅力溢れる頷きを大林に与えた。

 ディナーの後は当然ベッドイン、という事になった。
 大林は紗智子とのセックスを堪能した。李のようにピチピチとして潤い多
く、高級白桃が如く美味を極めていた。
 ベッドサイドで帰り支度をする大林の口が緩みっぱなしに成っている。
「紗智子君、きみは朝までゆっくりしなさい」
 妻子持ちの彼は泊まる分けにはいかなかったのだ。
 そんな大林をベッドの紗智子が見詰めている。
 大林は趣味の悪い財布を取り出して、三枚の万札を摘まんで紗智子を見た。
 紗智子は小首を傾げていた。
 不満と見た大林は万札を一枚加えてサイドテーブルに置いた。
 紗智子が不思議な顔をして、少し笑った。
 大林が消えると、紗智子は万札を指でつっいて呟いた。
「わたしは四万の女、・・・か?」

 大林は赴任する時、大して調査をしなかった。どうせ腰掛けと高を括ってい
たのだ。大きなミスだ、同期の同僚に自慢話をすると。
「君は大した度胸だね。加藤紗智子はうちでは禁断の果実なんだぜ。彼女が何
者か知っていたのか? あの加藤友恵の長女さ」
 大林は脅え、後悔して二度と紗智子を誘わなかった。
 紗智子の方もすっかり忘れているいるように見えた。一度の逢瀬で底を見つ
けていたからだ。

 紗智子は原子力発電事故の時、必ず派遣団に加えられた。彼女の豊富な知識
を役立てるためだ。事故の処理は完璧だったが、報告書には辟易した。大事故
を引き起こす前に廃炉にすべきだと言い、それが適わぬなら、最低十メート
ル、出来れば十五メートルの防御壁で覆わなければ成らない。と主張するの
だ。T電力は勿論無視した。こうなったら両者の根比べだ。

 紗智子の精神病は加速度を増した。
 数年後、赤坂で高校の同級生に出会った。
 彼女は近くで【ルージュ】というクラブを開いている。
「一度おいでにならない?」
 小首を傾げて微笑む紗智子を見て、その同級生は後悔した。

 数日後、真っ赤なドレスのあの女がルージュに現れた。勿論紗智子だ。
 紗智子はルージュでマリアという源氏名でアルバイトを初め、瞬く間にナン
バーワンになった。語学に堪能で肉体を武器にする事も厭わなかったから、当
然の結果と言える。
 ルージュで馴染みを開拓した紗智子は独立した。
 円山町のマリアの誕生だった。

 今夜も、東京渋谷道玄坂の石畳をカッカッカッと靴音高く颯爽と闊歩するマ
リア。
 十センチ程も有ろうかのハイヒールで大股に歩き、真紅のスプリン
グコートの裾を翻してその坂(道玄坂)を登っていく。まるで小さな旅女〔たび
びと〕が如くエルメスのトートバッグを肩にかけ、亜麻色の長い髪を風になび
かせていた。
 彼女の華麗な容姿、真紅のコート、そして黒のエルメスとが盛り場の宵に輝
くばかりに映えた。
 年のころ二十五、六と見える彼女はいつものごとく、甲高い声で歌を口ずさ
んでいた。
「ロクサーヌ」
 ポリス〔スティング〕の歌であったが、誰にもそのようには聞こえなかっ
た。恐ろしい程の音痴だったからである。

「お兄さん、お茶しない」
 彼女はすれ違う男という男に、明るく高い声で話しかける。
「お兄さん、遊ぼうよ」
 男という男、彼女にとって老人であっても若者であっても、英・米人、フラ
ンス人、ドイツ、スペイン、ロシア、どの国の男でもかまわなかった。
 通称、円山町のマリアと呼ばれていた彼女はなんと十数ヶ国語を理解してい
たのである。
 外国人が何語で声をかけても即座に反応した、が、彼女の口から吐き出され
るのは嬌声と日本語だけだった。彼女は会話が苦手だった、それ以上に嫌悪し
ていた。

 彼女が道玄坂で客を拾うなどという幸運はほとんどなかった。
 道玄坂上の交番を必ず右折して、彼女は自分の猟場である丸山町に入って行
く。
「ずいぶん暖かくなったわね。もう春よ」という具合に交番の巡査に声をかけ
る。まるで彼女自身が佐保神になって春を呼んできたように声をかけるのだ。
 声を掛けられた巡査(彼らは皆彼女がマリアと呼ばれている街娼である事を
知っていた)はやや顔を顰めるか苦笑を浮かべる。赴任したての若い巡査な
ど、彼女の華やかさにうろたえて顔を赤らめたりするのだ。
 カッカッカッカッ! 円山町をマリアは漁る、獲物を、客を。相変わらずロ
クサーヌを口ずさんでいた。
「マリア!」
 その筋と思われるサブと呼ばれる男がマリアに声をかけた。
「この間の話、考えてくれたかい」
ひとひらの桜が風に待ってマリアの頬に止まった。
「あらっ、サブちゃん、何だったかしら?」
立ち止り、振り返ってマリアが男に聞き返した。
「うちの組は渋谷の連中」
 男はそう言って拳を額に当てて言った。
「奴等にだって顔が訊くんだ。お前みたいな商売は一人でやるには危ないぜ」
「大丈夫よ。あたしにはいつだって覚悟が出来ているわ。それよりどう?」
 街灯に照らされたマリアの瞳が青く光っていた。
「よせやい、おれは女なんぞに不自由はしてねえ」
「あらまあ、そのお面相で良く言うわね。あたしのほうが御免さ」
 笑いながらそう言うと、踵を返してまた歩き始めた。そのマリアの瞳が今度
はエメラルドグリーンに煌いた。頬の桜の花弁が頬から夜空に向かって旅立っ
た。
 マリアを他人はおそらくハーフではないかという、数ヶ国語〔実際は十数ヶ
国語〕を解し、青い瞳と亜麻色の髪を持っていたからである。
  あたしのほうが御免さ、と毒づかれた男はマリアに対して腹を立てなかっ
た。今夜だけでなくいつもである。マリアが明るくあまりにもあっけらかんと
していたからである。

 井の頭線神仙駅を渋谷発の終電が発着した前後にその踏み切りを必ず渡っ
た。
 渡りきって松涛方面に向かって、今度は密やかに、足音を忍ばせて歩き始め
ると彼女の歌が変わる。
「ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン!」
 苦渋に満ちた顔で円山町を振り返るマリア。
「ああ、わたくしは何をしているのだろう?」
 彼女は紗智子の低い声で自問する。
「お父様、わたくしを憐れんでください、この流れる涙を憐れんで下さい」
 溢れて流れ落ちる紗智子の涙。
 悲しみの余り、十六夜う筈の月が、悲しみの余り沈んだ。
    2016年12月22日   Gorou

丘の上のマリア Ⅲ 加藤紗智子④

2016-12-21 19:49:12 | 物語

 恭平を連れ帰った時、母友恵はあからさまに不快な顔をしたが、紗智子も由
美も全く気に掛けません。松涛の加藤邸では口出し無用と約束させられていた
からと、友恵は一年の大半を芦屋の本家で過ごし、活動の本拠を関西に置いて
いたからです。
 恭平は従業員の住居に一室を与えられましたが、食事は由美の造った食事を
三人で摂りました。友恵は関西に居るか、東京でもパーティーやら会合やら接
待に明け暮れていたので、夕食時に松涛邸にいる事など全く有りませんでし
た。
 恭平は夢心地の毎日でした。大好きで優しい由美と、憧れの聖女紗智子と同
じ家で過ごせたのですから、当に至福の時でした。現に彼はこれ以上の幸福感
を生涯味わえませんでした。

 友恵と紗智子の関係は益々険悪になっていました。
 ある日の夕方、華やかに着飾った友恵が二階から降りて来ました。
 玄関に向かう友恵の後ろから紗智子が声をかけた。
「お母様」
「なあに」と、返事をしたが振り向く気配が無かった。
「娘がお願いしているのです。こちらをお向きになって」
「何なの?」と、ようやく紗智子の方に向き直る友恵。
「お母様、ちょっと」と、紗智子は軽く顎を笏って母を呼んだ。
「なんて生意気な娘なの、無礼にも程が有ります」と、激怒しながらも紗智子
の横に立った。
 紗智子は母の肩を押さえて百八十度回転させた。そこには壁一面の姿見が有
った。
 鏡には華やかで美しい友恵が映っていた。何よりも嬉しいのは、紗智子の姿
が自分の身体で隠れて見えない事だった。
 今更ながら自分の姿に見惚れる友恵。その顔の横に紗智子の顔だけが並んで
にやりと笑った。
「お母様、恥ずかしくは有ませんの?」
 笑った後、紗智子は全身を友恵の横に佇ませた。顔こそ瓜二つでしたが、肌
の張りも艶も潤いも、スタイルも容姿その物が段違いでした。
「いい年をして、死に損ないの孔雀のようですわ」
 青筋を立てて怒りまくる友恵、地団駄をふんで悔しがった。
「お黙り! 化け猫!」
「ハアッ! どっちが?」
「う・る・さ・い」と、叫んで紗智子を突き飛ばす友恵。
 不意を突かれて転がる紗智子、素早く立ち上がって友恵に向かって飛びかか
ろうとする。
 由美が抱きつき懸命に姉を制止した。
「お姉様! お願いやめて」
 由美を引きずりながら友恵に迫る紗智子。
「地獄に落ちろ! この雌豚」
「ふん、お前なんか殺して剥製にしてやるからね」
 捨て台詞を残して、友恵は表に走り出してしまいました。

 度々罵りあい、憎み合う母と姉に心を痛めていた由美でしたが、今日のよう
な修羅場は初めてでした。
 その由美の胸に響く、母の「殺して剥製にしてやる」という言葉に不安を募
らせます。母・友恵が望めば、一人や二人を抹殺する闇の力を持っている事を
知っていたからです。
 由美の不安は希有に終わりました。この日を境に二人の言い争いはピタリと
止みました。仲直りをした分けでは有りません、口を聞かなくなったのです。

 恭平の学力は驚く程上がって行きました。間違いなく合格出来ると紗智子は
安心しました。が、年末を控えて壁に突き当たってしまいました。覇気が無
く、ぼんやりと悩む姿が多くなったのです。

 そんなある夜、いつものように紗智子が家庭教師として恭平の部屋を訪れま
した。
 恭平は問題用紙に向かっていますが、殆ど筆が進みません。
 黙って見詰め続ける紗智子、彼のおでこを指で軽く弾きます。
「どうしたの? そんな事じゃ落ちちゃうぞ」
「俺、頑張りますから」
 そう言う恭平の眼に力が有りません。
「駄目駄目、今日は休みにしよう。シャワーでも浴びてきなさい。少しはスッ
キリとするから」
 そう言い残して、紗智子は部屋を出て行きました。
 暫くボンヤリと悩んでいた恭平、紗智子に言われたようにシャワーを浴びて
来ますが、又ボンヤリと悩み込んで終いました。
 恭平の紗智子への想いは募るばかりで、楽しかった紗智子との勉強の時間
が、段々辛くなっていたのです。
 息がかかるほどの近くに居ることが、悩ましくて堪らないのです。「俺、ど
うしちゃったんだろう?」
 その時、紗智子が部屋に戻って来ました。今度は何故かパジャマを着ていま
した。
 紗智子は恭平の前に膝を抱えて座り、顔を覗き込んで来ました。
「君くらいの年の男の子には良くある事なの。わたくしが治して差し上げま
す」
 何故か恭平の胸が激しく動機を撃ち、顔が紅潮していました。
「眼を瞑りなさい」
 言われるが儘に眼を瞑ると、何かが近づいて来る気配、息が恭平の顔に吹き
かかり、その口が何かに塞がれてしまいました。
 夢見心地で薄目を開ける恭平。その時には紗智子の顔と唇は離れて行きま
す。
 今度は恭平の顔を優しく抱き寄せる紗智子、その右手がパジャマのホックを
外して行きます。胸には何も付けていません。
「好きにして良いのよ」
 左の乳首を口に含み、右の乳房を揉み拉く恭平。知らぬ間に紗智子の左手が
下腹部を弄っていました。いつの間にか全裸にされていました。
 痺れる快感が全身を貫き、恭平は紗智子の掌で果ててしまいました。
「初めてだったの?」
 無言で顔を赤らめ、項垂れる恭平。
 紗智子はティッシュで恭平の後始末を優しくして、濡れタオルで綺麗に拭っ
て呉れました。
「元気を出しなさい恭平。恥ずかしがっては駄目。君は立派なお・と・こなん
だから。ホラッ」
 恭平は紗智子の掌で早くも復活をしていた。
「こんなに立派じゃないの」
 紗智子は恭平の腰に跨がり、恭平自身を彼女の入り口にあてがって、ゆっく
りと身体を沈ませて行きます。
「今度は、わたくしが良いと言うまでいっては駄目よ」
「ハイ」と、眼を瞑って懸命に堪える恭平。ゆっくりと紗智子の中に導かれて
行くのが分かった。

 すっかり覇気を取り戻した恭平は東大を受験し、この日は意気揚々と合格発
表に向かった。矢張り合格していた。
 紗智子の待つ加藤邸に急ぐ恭平。電話などで無く、己の口で報告したかった
からだ。少しだけ、褒美を期待していました。
「紗智子姉さん、受かりました、お陰様で合格しました」
 恭平の報告を涼しげに聞き流している紗智子、恭平の前にアパートの案内書
を置いた。
「当然です。わたくしは信じていました。これは君が明日から暮らすアパー
ト。十時に引っ越し屋が来ますから、今夜の内に荷物を纏めなさい」
 合格した翌日、恭平は加藤邸を追い出されてしまいました。手を付けずにす
んだ工場の支給金と、紗智子が援助を続けて呉れたおかげで,東大を卒業。弁
護士事務所に就職も適ったのです。もしかしたら、紗智子と加藤家が裏で手を
回していたのでは? と、思いましたが。これは全く彼自身の実力で勝ち得た
物でした
     2016年12月21日   Gorou

丘の上のマリア Ⅲ 加藤紗智子③

2016-12-21 11:49:14 | 物語

 御母衣恭平は高二で父・宗介を亡くし、高三の冬、頼みの母・俊子が重い病
に臥せった。東大受験の直前だった。
 看病の疲れと、将来の不安に苛まれる恭平。虚ろな眼で病床の母・俊子を見
詰めていた。
 俊子の唇がかすかに動いていた。何か歌っていめようだ、怨歌のように聞こ
えたが、なぜか懐かしかった。幼き日々が過ぎった。
「恭平、ああ、可愛そうな恭平。お前は一人で生きていくのよ」
 勿論恭平には分かっていたが、覚悟がまだ定まらなかった。
「恭平、あの家には近づいては駄目。罪と怨念の渦巻いた、あの加藤家には」
 これが俊子の最期の言葉になった。

 恭平は東大を諦めた。たとえ試験に受かったとしても無一文の彼は入学が出
来ない。働くしか方法が無かった。もしも幸太叔父さんが生きていたら、面倒
を見て呉れたかも知れない、頭の片隅で浮かんだりした。
 彼は普通の方法での就職を選ばなかった、どうせ十か月ほどで離職して受験
勉強を再開して、来年東大を受験するのだ。
 恭平は、浜松の自動車工場での期間工を選択した。無欠勤と期間満了でかな
りの報奨金が貰えたからだ。数ヶ月の生活費と受験と入学の費用が貯められる
計算になった。

 恭平は浜松へと旅立つ。
 紗智子だけが未練だった。二日間、恭平は松涛加藤邸の回りをうろついた、
一目でも紗智子の姿を見たかったのだ。
 紗智子の姿を見ることは出来なかった。が、加藤邸の門戸を叩くことはしな
かった。紗智子が現れたとしても、物陰から見詰めるだけだと自分に言い聞かせ
ていたからだ。

 恭平は懸命に働いた。可能な限りの残業を志願したため、寮では睡眠を取る
のが精一杯で勉強など適わなかった。なれれば出来る、たとえ一時間でも、三
十分でも良い、毎日続けられれば学力は落ちない。と、死にものぐるいで働い
た。
 あっという間に三か月が過ぎ、五月に入った、この工場でもゴールデンウイ
ークの休暇は有ったが、ラインが動かないだけで、何らかしらの雑用は有っ
た。

 五月五日、恭平が食堂で昼食を取っていると、アナウンスが流れた。
「御母衣恭平さん、ご面会です。第一工場玄関までお越し下さい」
 誰だろう? まるで見当が付かなかったが、恭平は昼食を掻き込んで玄関に
向かった。
 玄関には若い女性が立っていた。キリリとした立ち姿は目にしみるほど美し
かった。胸をときめかして近づくと、矢張り紗智子だった。
「紗智子姉さん、どうしたのですか?」
「決まってるでしょう。君を迎えに来たのよ」
「何処にですか?」
「東京、わたくしの家」
「急になんて無理です。俺、工場にも話してないし」
「わたくしが話をつけておいたわ。早く支度していらっしゃい」

 今、恭平は憧れの聖女・紗智子と、新幹線の一等席に並んで座っている。新
幹線自体が初めての経験だった。赴任するときは運賃を節約して東海道線を使
ったからだ。
 浜松を出て直ぐ、サービスワゴンが来た。
 紗智子が売り子を呼び止めた。
「ウナギ弁当下さいな」
 売り子から恭平に視線を移す紗智子。
「一つで良い?」
「紗智子さんは?」
「わたくしは良いわ」
「俺、昼飯食べたばかりなんです」
「君は食べ盛りの男の子なんだから」と、
「二つお願い、お茶も二つ」
 恭平は膝に置かれたウナギ弁当の一つを貪るように食べます。こんな美味い
物は初めてでした。父・宗介に連れられて加藤家に行った時も、食事は遠慮し
て自宅で夕食をとりました。宗介の教育方針でした。加藤家の贅沢な食事は恭
平の為にならないと知っていたからです。
「どうして、あの工場で働いていると分かったのですか?」
 難しそうな原書から目を外して、紗智子が答えます。
「あの工場は加藤家の傘下なのよ」
 恭平は夢でも見ている心地でした。紗智子さんは俺のことを心配して、探し
出してくれたんだ。
 
 恭平を探し出したのは紗智子では無く高校三年の由美でした。
 由美は幼友達の恭平が両親を亡くした後、姿を消したのを心配して、興信所
を使って探し当てたのです。
 まず紗智子に報告しました。
「お姉様、恭平君が見つかりましたわ」
「きょうへい?」
 紗智子は二三度しか逢っていない御母衣恭平を覚えていない。
「お父様の従弟で幼なじみの宗介叔父様の息子さん」
「ああ」
 やっと思い出しましたが、顔まで出て来ません。
「浜松の自動車工場で働いていたの」
「どうして?」
 姉の反応の悪さに、由美は事の顛末を説明する羽目になってしまいました。
彼女は姉が、見かけほど冷酷で無い事も、才能有る者が不当に才能を生かせる
場を奪われる事を嫌う性格だと知っていました。
 その後、由美は浜松の工場長と連絡を取りました。

 新幹線ではウナギ弁当二つを平らげた恭平が、懐から給与袋を取り出して中
を覗き見していました。慌ただしく去ったのに、彼の給料はちゃんと用意され
ていたのです。仕組みが分かりませんでした。
 明細書を見て、恭平の眼が固まってしまいました。彼の想像を遙かに超えて
いました。満期の遙かに前の退職に関わらず報奨金が全額支給されていただけで
無く、無遅刻無欠勤とか、勤務態度と勤勉で優秀だったとか、色々な事をでっ
ち上げて支給額を増やしてたのです。工場長の加藤家へのおべっかの他何でも
有りません。
 そんな恭平を紗智子が首を傾げて見てました。
「これ、俺は五月は四日しか働いていないのに、これ」
 紗智子は恭平から明細書を取り上げて、ざっと目をとおします。
「七十万とちょっとか、呉れるんだからいいじゃない。無駄遣いは駄目よ、君
が東大に入学してから、一人で生きていくのに必要なお金なんだから」

 東京に連れてこられた御母衣恭平は、紗智子の松涛邸の従業員住宅に寄宿を
して東大を目指す事になった。一切の生活費は紗智子が援助したので、工場か
ら支給された金を使う必要は無かった。
 更に、紗智子は毎晩のように恭平の家庭教師をした。

    2016年12月21日   Gorou

丘の上のマリア Ⅲ 加藤紗智子②

2016-12-20 05:59:03 | 物語

 紗智子がT電力の入社試験を受けると宣言した時、誰もが驚きました。
 当然彼女は大学院に進み、物理学者に成ると思い込んでいましたし、望んで
もいました。
 
 紗智子は颯爽と面接に臨みます。濃紺のダークスーツに身を包んでいました
が、彼女の美しさ、華やかさは隠せません。168センチの彼女が、凜と背中を
伸ばして颯爽と歩く姿はまるでワルキューレの騎行です。
 しかし、普段の彼女は猫背で、眼を細めてゆっくりと歩き、遠慮がちにもぞ
もぞ話しますが、スイッチが入ると誰も止めることなど出来ません。彼女の脳
はスーパーコンピュータの様に整然と知識が整理されて収納されており、キー
ワードによって瞬時に呼び出せるのです。本気になった彼女と論戦で勝てる者
は誰もいなかった。

 面接室では、紗智子は普段の彼女に戻って小さな声でもぞもぞと答えていた。
「趣味は音楽と書いて有りますが」
「ええ、音楽は好きです」
「どんな音楽が好きですか?」
「えーと・・・」と戸惑う紗智子、面接で何と答えるべきか考え込んでいたの
だ。
「ごく普通の、わたくしの年頃が聴くような」
「ほーう、どんな?」
 話が進まぬのに業を逃がした別の面接官がこう聞いた。
「特技、物理学と書いて有りますね」
「はい、そう思いますし、周りの人もそう言います。でも,どちらかというと
趣味も物理学です」
「趣味、物理学。特技、物理学。わかいのに可愛そうに」
 少し苦笑が興った。
 ここまでの面接官達の印象は間違いなく落第だ。だが、皆こう考えていた。
「こんなにとてつもない優秀な人財が何故T電力に入社を望むだろう」
「ひやかしだろう」と、思う者もいた。
 履歴書を見詰めていた面接官の一人が気が付いた。
「加藤さん、貴女の父上は、当社にいた、あの加藤幸太さんですか?」
「ハイ」
 ハッキリと答えて胸を張る紗智子、眼がキラキラと輝いている。
 ざわめきが起こった、面接官の中に、元同僚もいれば、ライバルも、可愛が
られていた者もいたからだ。
「お悔やみを申し上げます。惜しい方を亡くした」
「正直に申しますと、貴女の父上は当社で余り恵まれていたとは言えない。そ
んな会社を志望した動機は?」
「父の遺志を継ぐためです」
 結局採用と決まったが、本当に出社して来るのか、誰もが半信半疑だった。
ある者は,こんな逸材を他社に取られては成らないと思い。ある者は、政財界
に多大な影響力を持つ加藤友恵の長女を社員にする恩恵を期待した。
 だが、紗智子は意気揚々と入社してきた。
 T電力では女子職員の制服は無く、私服が許されていたが、紗智子は生涯ダ
ークスーツ通した。

 女性管理職候補であったが、一年くらいは雑用が常識で、紗智子とて例外で
は無かった。

 入社当時のエピソードを一つ。
 紗智子が所属部署で、茶碗やコップなどの食器の類いがやたらと壊れるの
だ。
 紗智子を疑った女子社員がそっと覗き見ると、紗智子は洗い桶に水を満た
し、食器と洗剤を入れ、桶ごと豪快に振るのだ。当然、勢い余った食器は床で
壊れた。

 掃除をさせれば、四角い机を丸く拭くし、コピーをさせれば、コピー機の前
で腕組みをして考えた上に分厚い説明書を読み出す様だった。

 二ヶ月も経たぬ内に、誰も紗智子に雑用を頼まないようになった。
 紗智子はめげない。これ幸いにと勤務時間に専門書や資料を読みあさった。
 その結果として、色んな国の原書を読むために、一年に二カ国語くらいは修
得した。どんな難しい本でも理解したが、会話は苦手だった。そのため周りの
者は誰も紗智子の語学力に気が付かない。

 こんな事も有った。
 T電力では女性管理職候補の一人をハーバードに留学させるシステムを持っ
ていた。当然紗智子が有力候補だったが、別の女性が選ばれた。彼女が英文学
科の出身で、流暢な英語を話した。対して紗智子の英会話は拙く聞き取りにく
かった。なによりも決め手に成ったのは、その彼女は気立てが優しく、誰にで
も優しかった。つまり八方美人だったのだ。
 皮肉なことに、その彼女は留学を終えて帰国すると、直ぐに寿退社してしま
った。

 いわゆる新入社員としては殆ど役に立たなかった紗智子だったが、給料だけは
どんどん上がった。彼女を飼い殺しにする気だったのかも知れない。だが、一
部の重役は気付いていた。この会社に不慮の災害が興った時に紗智子の能力が
必要になる。なにしろ彼女は世界中の原子物理学に精通していたのだから。

 紗智子が入社して六年程経った。その頃には、彼女の猫背とひたひた歩きは
度をましていた。視力が甚だしく落ちているのに眼鏡を好まなかった。大きい
はずの眼も殆ど認識出来ない程細く感じた。
 その年、ソ連からフランスに帰化していた高名な原子物理学者が来日し、T
電力で会見を開いた。
 大会議室でズラリと並ぶ役員達。なぜか端の方に紗智子が座っていた。彼女
がフランス語が分かる事を知っていたのと、困った時には彼女から助けて貰お
うとの魂胆だった。
 フランス語の通訳が付いていた。博士がフランスに帰化して十も年が経って
いたから、フランス通訳で事足りると思たからだ。
 博士が口を開くと通訳の顔が青ざめ、唇が歪んだ。
 なんと博士はロシア語で喋り始めたのだ。
「すいません、ろ・ロシア語です」
 会議室がざわめき、一人が走り出た。ロシア語通訳を手配するためだ。
 紗智子だけが慌てる事なく博士の言葉に耳を傾け、眼鏡を掛けてキラキラと
輝く眼で博士の言葉を傾聴していた。
 紗智子に向きを変えた博士が一言話すと、彼女は口を左手で隠して「ほ・ほ
・ほ」と笑った。博士が何か冗談か皮肉でも言ったのだろう。
 紗智子は通訳に半ば命じた。
「博士に通訳して差し上げて」
 困惑の表情を浮かべる通訳。
 紗智子は構わずに言葉を繋いだ。
「フランス語で構いませんわ、そのかわりゆっくりと、良い?」
 頷く通訳。
「わたくしは、弊社の社員で、加藤紗智子と申します。博士の論文は全て読ん
だと思っております」
 紗智子はゆっくりと話し、時々間を置いた。
「どんな難解なお話でも構いません、どうかお聞かせ下さい。精一杯理解する
ように努力して、弊社の今後の役に立たせたいと願っております」
 博士はもう紗智子しか見なかった。
 博士がロシア語で話し、紗智子がメモったロシア語で応える。そんなやりと
りが二時間ほど続き、博士がフランス語で役員達に話しかけた。
 通訳が伝えた。
「御社は素晴らしい人財をお持ちです。何か事故などが起きた時、紗智子女史
の知識が必ず役に立ちます」

 その後、紗智子は専務室に呼ばれた。
「博士とはどんな話をしたのかね」
「今,お話いたしましょうか?」
「いや、理解できるか分からないから文書で提出しなさい」
「明日の朝で構いませんでしょうか」
「ああ、良いです。それにしても、君がロシア語に堪能だなんて。いつの間に
マスターしたのかね?」
「私は時間とお給料はたっぷりと頂いて居ります。一年に二つや三つの言語を
習得して当然ですわ」
「ということは? 君は一体何カ国語が分かるのかね」
「さあ、」と首を傾げる紗智子。
「数えたことはありませんが、多分もうすぐ二十に届くと思います」
 絶句した専務はこんな事を考えた。「この女、手放せない。両刃の剣だが、
危険を犯す価値は十分に有る」
 両刃の剣? 紗智子は毎年のように意見書を提出してていた。
 このままではT電力も日本も未曾有の災害に襲われて滅んでしまいます。と
いう言葉で始まる有名な意見書だ。
 以下要約する。
 原子力発電は出来るだけ早く廃炉すべきである。代替えエネルギーの開発は
日々進み、太陽光エネルギー、水力、風力、地熱、バイオマスなどを積極的に
採用すれば、近い将来原子力に頼らない電力の供給が実現します。

 原子力が危険かどうかとか言う論点はT電力だけで無く、日本の電力会社で
はタブーであった。原子力の平和利用は国を上げての政策だったのだ。加藤幸
太とその遺志を継いだ紗智子の思想は危険だったのだ。
    2016年12月20日   Gorou

丘の上のマリア Ⅲ 加藤紗智子①

2016-12-20 00:42:23 | 物語

 加藤紗智子が高校二年の時、父幸太の従弟、御母衣宗介が一人息子の恭平を
連れて加藤邸に遊びに来た。この親子は、近くの円山町に住んでいたので、度
々訪れていました。
 二階のベランダでは幸太と宗介が、昼間からワイングラスを傾けながら昔話
に花を咲かせていました。紗智子は、少し離れたロッキングチェアーで珍しく
も本を読んでいました。彼女は、いつも自分の部屋に籠もりきりで勉強漬けの毎日を
送っており、ノンビリと読書を愉しむのは珍しい事です。
 何を読んでいるのか、一寸盗み見しましょう、\(◎o◎)/! なんとアイ
ンシュタインの相対性理論、それもドイツ語原本です。微笑みながら読む本で
しょうかね? 今まで彼女は断トツの首席を続けています。T電力の重役なが
ら原子物理学者でもあった父・幸太も認める程に成っていました。
 庭の芝生で、小学六年の又従弟・恭平と、彼と同い年の妹・由美がバトミン
トンで遊んでいました。
 恭平の打った羽根が風に乗ってベランダに飛んで行きました。
「お姉様ーッ」
 妹の声でベランダの羽根に気づいた紗智子は、拾い上げて由美に投げ返しま
す。
 見上げる恭平に衝撃が走りました。初めて見た紗智子の姿に魅了されてしま
ったのです。逆行で佇む紗智子は後光で光輝き、そよ風でフレアーのスカート
が巻き上がり、優しく微笑みました。「聖女だ」、恭平はそう思いました。
 恭平にとって運命の出会いとなりました。紗智子は彼にとって永遠の憧れ
で、聖女のような存在になったのです。

 恭平の父・宗介の御母衣家は分家で谷底に有り,幸太の御母衣家は本家で高
台に有りました。この事は二人の運命を分けてしまいました。
 御母衣ダムの建設で分家は追われ、本家は残りました。宗介は流れ流れ
て、今は円山町で連れ込み旅館[ドナウ]の経営を任されていました。
 幸太は東大を首席で卒業してT電力に入社、出世街道に乗りました。加藤財
閥に見込まれて婿に収まり、二人の娘に恵まれて、傍目には幸せに暮らしてい
ます。

 実は、誰も知らない因縁が恭平と加藤家にあったのです。
 宗介は岐阜で八百屋を営んでいた時、中国人の朴俊英(俊子と改名)を見初め
て妻に迎えました。彼女は乳飲み子を抱えて宗介の元に来ました。恭平です。
宗介は恭平を実の息子として可愛がり、けっして連れ子だと誰にも言いません
でした。
 俊子は夫にある秘密を隠していました。彼女は中国人ではなく満州人でし
た。彼女の父母は満州で加藤公司の地獄の工場で働いていました、命からがら
逃げ出し、インドシナを経て台湾に渡って、中国人と偽って生き延びて来たの
です。
 満州時代、こんな怨歌が労働者の間で歌われていました。
「加藤公司はこの世の焔魔堂、生きて入って、死ぬまで出てこれぬ」
 俊子の父母が生きて加藤公司を逃れられたのは奇跡でした。彼女はこの歌を
良く幼い恭平に、子守歌のように聴かせていました。
 宗介が親友で従兄の加藤幸太邸に遊びに行くと聞いたとき、俊子は身震いが
止まりませんでした。満州人の憎しみと怨念の籠もった加藤家と親戚になって
いたのです。この事は胸の奥深くに秘めて誰にも明かさぬと決意しましたが、
何度誘われても、その加藤邸を訪れる事など出来ません。恭平が行くのも阻み
かったのです。きっと何かが、悪いことが興る、不吉な予感に胸が引き裂かれ
そうに成りました。

 紗智子が東大に入学した年の秋、幸太は左遷されます。加藤宗家の男が左
遷? 普通は考えられません。この時には紗智子の祖父友一郎の死去で、母・
友恵が加藤財閥の全てを相続しており、夫婦仲がすっかり冷め切っていました。
何人かの重役が激怒しましたが、この理不尽な人事に敢えて友恵は誰にも介入
させませんでした。
 T電力は加藤幸太を持てあましていました。加藤家という政財界に莫大な影
響力を誇る勢力をバックに持つ彼を怖れてもいましたが、彼の信念は原子力発
電の廃止と代替エネルギーの促進で、頑固な彼は自説を決して曲げません、T
電力は恐る恐る彼の左遷に踏み切りました。逃げ道は用意して有ります、健康
上の苦渋の判断だと。意外にも加藤家からクレームも報復も有りませんでし
た。
 幸太の左遷先は皮肉にも御母衣ダムでした。
 幸太は病身ながら、単身で赴任しました。娘の二人は毎週のように顔を見せ
ましたが、妻は一度も訪れませんでした。癌で入院した後もです。

 幸太は、紗智子が大学三年の秋、他界しました。
 その時、紗智子は母と妹を前に決意の宣言をしました。
「わたくしは、父の遺志をついで生きて参ります、お母様、この松涛の家では
わたくしが家長です。貴女がご自分の財産で何をしようがかまいませんが、こ
の家の経費一切わたくしが責任を持ちます」
 紗智子は母の運転手と家政婦を一人だけ残して全員の首を切りました。幸太
の僅かな遺産を相続した彼女に、贅沢は許されないのです。
 そんな紗智子の決意を母の友恵はせせら笑うようにして見据えていました。
「由美、貴女は、この家の家事を取り仕切りなさい」
「はい、お姉様」
 優しく従順な由美は姉の言葉にまったく反論しません。
「何を言ってるの紗智子、由美はまだ高校に入ったばかりなのよ」
「由美だったら出来るはずです。お母様、不満がお有りでしたら、芦屋にお帰
り遊ばせ」
 黙り込む友恵、怒りが込み上げ、腹の虫が治まりません。しかし、彼女は由
美を溺愛していました。自分が芦屋へ去ったら、どんな酷い仕打ちを冷酷な姉
から為れるかも知れない。と、この場は我慢しました。「由美が大学を卒業し
たら、結婚相手を関西で見つけ、二人で芦屋に移ろう」と、堅く決意しまし
た。
 友恵が由美を溺愛していたのと同様に,死んだ幸太は紗智子を愛していまし
た。が、優しく心の広い彼は、それを、特に由美の前では決して見せませんで
した。
 幸太が紗智子を由美より愛したのは、紗智子が若かりし頃の友恵に生き写し
だったからです。強い気性もそっくり引き継いでいました。
 妹・由美は父の優しさと寛容さを受け継いでおり、故に友恵の愛が彼女に集
中したのです。そのことに友恵は気づいてはいませんでしたが・・・
 友恵と幸太は結婚して十年くらいは仲の良い鴛夫婦でしたが、幸太が加藤家
が望んでいる程出世せず、再三の政界入りの要請も頑として撥ね付け続けた為
に、友恵の愛が離れていったのです。

 由美は健気にも姉の言い付けに随い、立派に松涛の家を守って行きました。
     2016年12月20日   Gorou