世界標準技術開発フォローアップ市場展開

ガラパゴス化から飛躍:小電力無線IEEE802規格開発会議・・・への寄与活動拡充

リスク,北対岸大陸19/7,シベリア抑留60万人,代価生還,大本営参謀,親ソ派転向

2019-07-02 17:13:32 | 連絡
「ソ連スパイ説」は本当だったのか。 瀬島龍三は「大本営参謀」「シベリアでの抑留生活」「伊藤忠商事の幹部」「行財政改革の立て役者」と、4つの時代を生き抜いた「昭和の怪物」だった。 だが、死後のいまでも謎に満ちているのが、前半生の部分だ。「ソ連(現・ロシア)のスパイだったのでは?」との疑念が解けないのである。初代内閣安全保障室長を務めた元警察官僚の佐々淳行氏(故人)は、著書『私を通りすぎたスパイたち』で、「昭和三十年代、ソ連大使館員の尾行を続けていると、その館員と接触する日本人ビジネスマンがいた。それが瀬島だった」と記している。 瀬島は大本営参謀だった太平洋戦争末期の'44(昭和19)年12月から翌年2月にかけて、単独でモスクワ出張に出る。自身の回想録『幾山河』には、「外交・軍事機密文書を在モスクワ日本大使館及び武官府に届ける役目」で、「私の偽名は『瀬越良三』だった」と書いている。 日本が日ソ中立条約の継続を望み、広田弘毅元首相をモスクワに派遣しようとしていた時期の重要任務だったが、瀬島は回想録で「遠くない将来、ソ連の対日参戦は不可避となるだろうと思わざるを得なかった」と、思わし気な述懐をしている。 日本の敗戦時、関東軍作戦参謀として満州に赴任していた瀬島は、ソ連軍との停戦交渉を担った。ここでも「60万の日本人をシベリアに送る密約を交わした」との説があるが、回想録で否定している。 その後、11年のシベリア抑留生活を送ったが、その間、'46(昭和21)年10月には、「ソ連側証人」として東京裁判に出廷。抑留中も過酷な野外労働ではなく室内労働だった。 ノンフィクション作家・保阪正康氏も疑惑の目を向ける。 「ソ連人が記した『シベリア抑留秘史』がソ連崩壊後に出た時、瀬島は日本語翻訳版の監修を務めて改竄。私がそれを指摘すると『事実を書いて何が悪い』と開き直りました」
出典7/2(火) 6:01配信、週刊現代、『週刊現代』2019年6月22・29日号より、彼はソ連のスパイだったのか?「昭和の怪物」瀬島龍三の正体。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190702-00065321-gendaibiz-bus_all&p=2

リスク,弧状列島19/3,技術:レーダー:無知・無理解・無関心・無視,人命損失160名

2019-07-02 12:32:35 | 連絡
いまから74年前、昭和20(1945)年3月21日午前11時20分。鹿児島県の鹿屋海軍航空基地から、「神雷(じんらい)部隊」の異名をもつ第七二一海軍航空隊の双発の一式陸上攻撃機(一式陸攻)18機、続いて、陸攻を護衛する零戦が相次いで離陸滑走をはじめた。一式陸攻のうち15機は、胴体下の爆弾倉からはみ出す形で、小型の飛行機のようなものを搭載している。それは、母が子を抱いているような姿だった。陸攻に抱かれていたのは特攻兵器「桜花」。1.2トンの爆弾に翼と操縦席とロケットをつけ、それを人間が操縦して敵艦に体当りする超小型の飛行機で、「人間爆弾」とも呼ばれる。母機の一式陸攻に懸吊(けんちょう)されて敵艦隊の近くまで運ばれ、投下されると主に滑空で、ときには装備したロケットを噴射して増速し、搭乗員もろとも敵艦に突入することになっていた。一機で一艦を撃沈することを目的とした、日本海軍の最終兵器だった。「桜花」はこれが初の出撃だったが、レーダーで探知して待ち構えていた米海軍戦闘機と遭遇、敵艦隊にたどり着くことなく、全機が母機とともに撃墜された。護衛の零戦も、30機のうち10機が還らなかった。桜花搭乗員15名、一式陸攻搭乗員135名、零戦搭乗員10名、計160名もの若い命が、九州・都井岬南東の沖に消えた。戦争が終わったとき、神雷部隊の隊員は、「3年後の3月21日、靖国神社で会おう」と約して解散。昭和23(1948)年3月21日、まだ空襲の爪痕も生々しい東京・九段に、約束通り約40名が集った。昭和26(1951)年からは毎年、春分の日に慰霊祭を行うこととし、これは、隊員の高齢化で、戦友会が公式には解散した現在も、存命の隊員や遺族によって続けられている。その結束の固さは、ほかの部隊にはちょっと例を見ないほどである。大田は、神雷部隊の慰霊祭に参列したことは一度もなく、生存者のなかにはいまなお彼を快く思わない人もいる。昭和3(1928)年生まれ、最若年の「桜花」搭乗員で、満16歳で終戦を迎えた浅野昭典さんは、
「大田さんが生きていたのなら、戦後、せめてみんなの前で一言詫びてくれれば」と言う。いっぽうで、軍令部、航空本部、航空技術廠で大田のアイディアを採用、それを「桜花」として完成させ、部隊を編成し、作戦を実行した上層部の関係者のほとんどは、戦後、このことについて自らの責任に言及することのないまま、天寿を全うした。出典:2019.3.23。カメラマン・ノンフィクション作家。神立 尚紀。人間爆弾・桜花を発案した男の「あまりに過酷なその後の人生」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/63584?page=6