世界標準技術開発フォローアップ市場展開

ガラパゴス化から飛躍:小電力無線IEEE802規格開発会議・・・への寄与活動拡充

リスク,北大陸19/7,シベリア抑留60万人,ソ連側証人,親中派転向

2019-07-02 20:21:38 | 連絡
伊藤忠に「軍隊式経営」をもたらした。 シベリア抑留から帰国した2年後の'58(昭和33)年、瀬島は伊藤忠商事に入社した。瀬島の部下だった伊藤忠OBが述懐する。 「当時の商社マンと言えば、コセコセ、セカセカしたイメージでしたが、瀬島さんは背筋をピンと伸ばし、『ザ・参謀』という印象でした。 最初の報告の時にどっさり資料を持って行ったら、『報告は紙1枚、しかも3点に集約し、3行で済ませろ。そうでないと鉄砲が飛んでくるぞ! 』と怒られました」 「着眼大局、着手小局」「悲観的に準備し、楽観的に対処せよ」……瀬島語録はその後、伊藤忠で「社員心得」としてまとめられた。 瀬島は社内でメキメキ頭角を現し、2年後には航空機部門の機械第三部長に昇進。航空機ビジネスを拡大させ、業務本部長、常務取締役と昇進し、'68(昭和43)年に専務取締役に就く。 「'71(昭和46)年のキッシンジャー米大統領特別補佐官の極秘訪中を受けて、瀬島さんは『これからは中国の時代だ』と声高に唱えた。そして社長以下を焚き付けて、中国ビジネスの準備を始めたんです」(前出の伊藤忠OB) 翌年3月、瀬島は十数人の部下を引き連れて訪中、周恩来首相ら要人とパイプを作り、伊藤忠は日本の友好商社第1号となった。同社OBが続ける。 「その半年後に、田中角栄首相が訪中し、日中国交正常化を果たしたことから、瀬島さんは『伊藤忠の角栄』と呼ばれたものです。いまでも『中国ビジネスなら伊藤忠』と言われるのは、瀬島さんが先鞭をつけてくれたおかげです」 軍隊式経営と、卓抜した予見能力で、中国以外にもアジアや中近東各国とのビジネスを開拓した瀬島だったが、「なぜかソ連だけは避けていた」(前出OB)。 山崎豊子の小説『不毛地帯』のモデルにもなった瀬島は'78(昭和53)年、ついに同社会長に上り詰めた。出典7/2(火) 6:01配信、週刊現代、『週刊現代』2019年6月22・29日号より、彼はソ連のスパイだったのか?「昭和の怪物」瀬島龍三の正体。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190702-00065321-gendaibiz-bus_all&p=2

リスク,北大陸17/1,シベリア抑留60万人,【和訳】歴代ソビエト連邦国歌,価値観

2019-07-02 20:07:44 | 連絡
2017/12/08, 【和訳】歴代ソビエト連邦国歌 (カナルビ付き!), 
出典:Владимир Наполов、」2017/12/08 に公開
1、インターナショナル 00:00 ~ 03:54 
2、ソ連の国歌(1944~1955) 03:56~ 07:10 
3、ソ連の国歌(1977~1991) 07:13 ~ 11:00
https://www.youtube.com/watch?v=kyNJLDCOg_E

 
 

リスク,北対岸大陸17/1,シベリア抑留60万人,ロシア,国歌価値観

2019-07-02 17:46:32 | 連絡
解説 ロシア連邦の国歌は1940年代に作曲されたアレクサンドル・アレクサンドロフの「ソヴィエト連邦の国歌」(愛称:「祖国は我らのために」)に、著名な映画監督であるニキータ・ミハルコフが新たに歌詞をつけたものが原型となっている。 ソ連崩壊後、ロシアではボリス・エリツィン大統領が国民的作曲家ミハイル・グリンカ作曲のロシア愛国歌を国歌として定めたが、その曲はなかなか定着せず、公式の国歌として定めることができなかった。 議会で比較的勢力の強かったロシア共産党が「ロシアの誇りを呼び戻すべきだ」と主張し、「ソヴィエト連邦の国歌」の復活を要求。エリツィン大統領と真っ向から対立した。エリツィン大統領に代わり大統領になったウラジーミル・プーチンは2000年末に「ソヴィエト連邦の国歌」のメロディーを復活させる国歌法を制定。歌詞を修正し、2001年1月1日にロシア連邦の国歌としてよみがえらせた。
https://www.youtube.com/watch?v=GBlM7t4Mfy0

2017/12/08, 【和訳】歴代ソビエト連邦国歌 (カナルビ付き!), https://www.youtube.com/watch?v=kyNJLDCOg_E


リスク,北対岸大陸17/1,シベリア抑留60万人,ソ連,国歌価値観、

2019-07-02 17:39:41 | 連絡
出典:2017/01/22,ソビエト国歌 (和訳付き), ソビエト連邦(ソ連)の国歌「Государственный гимн СССР(和訳例:ソ連国歌)」です。 ソ連とロシアの国歌で「祖国は我らのために」が題名として扱われる場合がございますが、日本で付けられたもので、ロシアで「祖国は我らのために」という題名が使われることはありません。 なお、ロシア連邦と曲が同じですが、ロシア連邦の国歌では歌詞が改変されています。
https://www.youtube.com/watch?v=tLQeN9NJthA

リスク,北対岸大陸16/12,シベリア抑留60万人,死者数5万人?,実態>8万人

2019-07-02 17:27:58 | 連絡
日本現代史に黒々と深く刻まれるべきシベリア抑留だが、アカデミズムにおける研究は絶望的に立ち遅れた。筆者=栗原 俊雄=のみるところ、理由は大きく言って三つある。つまり①戦後長く、アカデミズムの一部にソ連とソ連式共産主義を重んじる親ソ派が存在したこと②抑留者の有力団体が対立関係にあり、大学の研究者らが一方に肩入れすることが難しかったこと③ソ連の史料にほとんどアクセスできなかったこと、である。こうした研究の荒野に鍬を入れたのが、在野の研究者で、その多くが抑留経験者である。村山常雄さんは、その一人である。新潟県出身。19歳で陸軍に召集され、満州の関東軍に入隊した。敗戦後、ソ連領に歩いて向かう途中、日本人らしき遺体が散乱していた。「自分が歩くだけで精いっぱいでした。手を合わせることもできなかった」戦友が歩けなくなった。「待ってくれ」という声が聞こえたが、助けることもできなかった。「自分の靴が壊れたときは、遺体からとって履いたんです」。劣悪な収容所でもたくさんの仲間が死んでいった。日露両政府が協力して、抑留の実態解明に当たっているのか、という点でも疑念が残る。安倍晋三首相とプーチンロシア大統領が今月、会談したことは記憶に新しい。第一次安倍政権以来16回目である。しかし過去15回、シベリア抑留の問題は取り上げられたことがなかった。今回も取り上げられた節はない。日本政府の、シベリア抑留の問題に取り組む姿勢を巡っては、しばしば「全容解明がなされていない」といった批判が寄せられる。筆者=栗原 俊雄=もその通りだと思う。たとえば政府は、ソ連による抑留の日本人死者を5万5000人と推計している。これは説得力に乏しい。様々な史料から、筆者は8万人以上だろうと思う(拙著『シベリア抑留 未完の悲劇』)。出典:2016.12.27.栗原 俊雄。毎日新聞東京本社学芸部記者。シベリア抑留「4万人死亡名簿」をたった独り調べ続けた日本人がいた。一日10時間を10年間、休むこともなく。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50557?page=3