ばーばの独り言

愛する娘へ。孫と過ごす喜びと身辺の出来事

☆ 吉村昭「東京の戦争」から

2007-07-16 04:08:09 | 本、映画
図書館で吉村昭の「東京の戦争」を手に取った。
パラパラめくってみると、大東亜戦争、第2次世界大戦等と
呼ばれる戦争の、戦時下の東京の庶民の生活が描かれていた。
この本は平成13年初夏(2001年7月)に出版されている。
戦後55年が経ち「18歳の夏までに眼に映じた東京での生活を
この機会に書いてみようと思い立った。」と書いてある。

私にとって戦時下の記憶は少なくて断片的だが、
父や母と過ごした幼い日の記憶でもある。
思い出に出てくる父と母は若くて懐かしい!

吉村昭の記述には幼かった私の記憶を補い、勝手に想像したものかと
思い込んでいた記憶が、現実だったことも証明してくれた。

彼は昭和2年5月に東京の荒川区東日暮里に生まれ終戦時は18歳。
その年齢で体験した戦争の記憶は鮮烈だったろう。

私は昭和14年10月に生まれ生家は本所の曳舟川のほとり。
終戦時は6歳。 
本所に住んでいたのは多分4歳くらい迄だろうが
暖かい記憶として近所の人とのつきあいを覚えている。
本所から短いあいだ千葉県の市川市に引越し、そこから
下町の荒川に又引っ越した。工場の隣に自宅が有った。
その時母は、周りの人から止められたそうな。
「空襲が激しくなった東京に帰るなんて死にに行くようなものだ」と。
父は薬品工場をやっていてその工場は荒川(現隅田川)の辺に建っていた。
荒川は川幅が広く、対岸には陸軍の高射砲陣地が有る。
今は区立の「あらかわ遊園」になっている。

空襲が益々激しくなったので昭和19年、母と弟と私は鬼怒川に疎開した。
疎開して驚いたのは雷が多いことだった。
雷が鳴り続け、頭を抱え小さくなっていたのを思い出す。

その他は鬼怒川は平和だった。たまに飛行機は飛んでくるが
ほとんど爆音も聞こえず、はるか青空高く小さく機影が見えるだけ。
キーンという金属音と共に低空飛行をして襲ってくる気配は無かった。

鬼怒川の辺に岩を刳り貫いたような露天風呂があり混浴だった。
母や弟と出かけると、男の子達が川の中に泳ぎに出ていって
また風呂の中に戻って来たりして遊んでいた。
ドキドキしながらもとても羨ましかった。


昭和20年3月10日の夜間空襲は、吉村昭の「東京の戦争」によると

「記録によると、298機のB29が飛来し、下町方面に1783tの
焼夷弾を投下、それによって182,066軒の民家焼失し
72,000名が死亡したとある。」

このニュースは疎開先まで聞こえて来て母を心配させたが
まもなく荒川の我が家は無事だったことを知った。

「」内は「東京の戦争」からの引用。
その後の
「4月13日の夜、町に大量の焼夷弾がばらまかれた。米軍側資料によると、
来襲したのは330機である。裏の家から炎が噴き出し、私は避難する人とともにすぐ近くの谷中墓地に身を避けた。」

「壮絶な情景が眼の前にひろがっていた。視野一杯に炎が空高く噴き上げ、
しかも逆巻いている。空には火の粉が喚声をあげるように舞い上がり
乱れ合っている。得体の知れぬ轟音が私の体を包み込み、大津波が私に向って
押し寄せてくるような感じであった。
私の生まれ育った町は、その夜、永遠に消滅した。」

作家って凄い! 事実をこのように表現出来るんだ!

そして同日の空襲で、荒川の辺にあった父の工場も我が家も全焼した。
おそらく父の眼に映った光景も、吉村昭の見た光景と同じだったのだろう。
幸いにも全員無事だったが、しばらくの間、疎開先の家以外
帰る家の無い子になった。

「空襲のこと」以外にも「電車、列車のこと」「石鹸、たばこ」「蚊、虱」
「歪んだ生活」など項目があったので、その頃の生活を残った記憶やあの頃の
雰囲気を思い出し、父や母の戦いの一端を理解することが出来たような気がした。

「母のノート」 「父の俳句」 「男たちのやまと」と戦争の記憶


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6 コメント

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Unknown (オールドレディー)
2007-07-16 08:30:20
 私はこの作家の作品は「破獄」しか記憶にないのですが、吉村昭氏といえば、膵臓癌で療養中にみずから点滴の管を抜き、次いで首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、その数時間後逝去、という壮絶な最期を遂げた作家ですね。奥さんは作家の津村節子氏とか…。

 戦争の記憶は、母から聞いたことか自分の記憶か定かではないけど、岡山空襲のうろ覚えの記憶があります。むしろ戦後の食糧難や荒れ果てた周囲の様子などの記憶だけです。
 また、あの熱い日を想起させる「終戦記念日」が近くなりました。戦争を語り継ぐ人たちも段々少なくなっているとき、この本は貴重でしょうね。
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Unknown (うらら)
2007-07-16 15:06:28
叉大きな災害が新潟で起こりましたね
次ぎから次ぎに起る自然災害に自分達はタマタマ幸運だったとしか思えないですね
あの戦争、何処かの大臣が「仕方ない」というのは大間違いです
まさに人が起こした悲劇
庶民の我らは本当にひどい目にあったのです人災ですよね
それでも被害者の立場になれずに何時までもどこかの国の顔色を見ながら来た事は何だか不思議です
国としては勝てば官軍負ければ賊軍(違ったかな)ですが私達は人間としての主張は、ソロソロ声に出しても良いのではと思います、焼夷弾での大勢の無差別殺人だけでなく、広島も長崎までも、ここまでされても“マア良いじゃないか”とは思えません
靖国にコソコソ参るよりもっと戦争で犠牲になった人達のレクイエムを日本も、もっと世界に大きく発信出来たら良いですね、ちなみに私は1944年8/8終戦の1年前のうまれで誕生日が近づくと長崎、広島と云う事でとても印象が有ります
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オールドレディーさんへ (ばーば)
2007-07-16 16:26:04
吉村昭の本、他に読んではいるのですが題名を忘れました。
読後感が清々しかったことだけ覚えていたので手に取りました。
昨年亡くなった事は知りましたが、そういう壮絶なことがあったのですか。
たくさんの死をみてきて最後は自分で選んだのですね。

私は家が焼失したので、父だけ東京で仮住まいをしていて、呼び戻されたのは終戦の歳の晩秋だったかな。やはり戦後の食糧難で線路傍に自生していたかぼちゃの葉を油で炒めて食べた記憶がありますが、今かぼちゃの葉を見ると強い毛が生えていて食べられるものじゃありません。母がどうやって料理したのか不思議です。
吉村氏のこの本は買って家に置いておきたい一冊です。
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うららさんへ (ばーば)
2007-07-16 16:55:01
土、日、と今日の夜まで1人だったので、気儘に過ごして午後1時テレビをつけたら、新潟で震度6強とのニュースでビックリしました。雨で地盤が緩んでいる所に又の震災。3年前に中越地震があったばかりなのにお気の毒で言葉もありません。以前もこんなに全国的に地震が続いたのでしょうか?現在は情報が詳しくテレビで報道されるので以前より頻繁に感じるのでしょうか。ヘリコプターで上空から眺めると被害がそれほど多く見えませんが、実際現場を見るとこれから被害の大きな実態が報告されてくると思います。

そうですね。あの戦争があり、日本でも非戦闘員の大きな被害があったのに、ひたすら恭順の意を示すばかりです。
もっと主張すべき点は主張しなければ国際社会では認められないのに。お隣の北の国は原子炉を持って強いこと言っているのにね。
私も思想には係り無く、あの戦争で亡くなった戦闘員、非戦闘員の区別なく、みんなで堂々と慰霊をしたいとおもいます。
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生々しい体験 ()
2007-07-21 15:31:07
とても感慨深く読まさせていただきました。
胸がつまる思いです。

いま父の葬儀で旭川に帰ってきています。
父は享年97歳、昭和40年から4年間もシベリアで抑留されておりました。
そのときの極悪の生活をよく聞かされていたので、このような生々しい体験は
他人事に思えません。
沖縄戦、東京大空襲、原爆、とてもいまの時代では考えられないことです。
もうすぐ終戦記念日ですね。
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春さんへ (ばーば)
2007-07-21 19:27:00
おかえりなさい!
お留守のわけはお父様のことだったのですね。
ご冥福 お祈りいたします・・・
幾つになっても親は親、生きていてほしいと子は願います。
シベリヤ抑留のお話し、日本の大きな歴史の一つです。香月泰男のシベリヤシリーズの「涅槃」が、何よりもその過酷さを物語っていると思います。
出来れば私もお父様の口から直接お話を聞きたかったな等と思ってしまいます。終戦の一週間前に参戦し、その挙句の不条理なシベリア抑留など口惜しい事ばかりです。 
そうですね、もう直ぐ終戦記念日がやってきますね。
私にも感慨深いものがあります。 
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