私たちが死ぬとき、何が起こっているのか─「臨死体験」研究の最前線に迫る
4/18(日) 10:00配信
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クーリエ・ジャポン
Photo: Mark Garlick / Getty Images
バージニア大学名誉教授のブルース・グレイソンは、約半世紀という長きにわたって、精神医学の見地から「臨死体験」を研究してきた。数多の体験談を聞いてきた彼によると、臨死体験には不思議にも共通している「感覚」があり、本人のその後の人生にも甚大な影響をもたらすという。
【動画】国連で臨死体験について語るブルース・グレイソン
人々の興味を惹きつけてやまないこの現象は、現代科学でどう説明されうるのか? 臨死体験を50年研究した今、人間について思うこととは? 英紙「ガーディアン」によるインタビューを、前後編でお届けする。
「今なら、世界を完全に理解できる」
グレッグ・ノームは24歳のとき、滝つぼの激流に飲み込まれて溺れ、砂だらけの川床に何度も叩きつけられた。
ところが、そこで彼は驚くべきものを見た。突然、子供時代の光景や自分でもほとんど忘れていた出来事、そして大人になったばかりの頃のいろいろな場面がはっきりとよみがえり、視界を埋め尽くしたのだ。
これらの記憶──それがそう呼べるものならば──は、鮮明で生き生きとしていた。ノームはこのとき、それらの出来事をもう一度体験し直していたのだろうか? そうとは言えない。それらは高速でほとんど一気に、波のように押し寄せてきたからだ。
とはいえ、ノームはそのひとつひとつをしっかりと認識することができた。それどころか、彼は現実における周囲のものまでも完全に知覚していた。激しい水の流れや砂の川床も、すべて鮮やかにくっきりと見えていた。「聴覚も視覚も、かつてないほどに研ぎ澄まされていました」と、のちに彼は回想している。
そして、水の中に沈んで出られないのにもかかわらず、彼は冷静で安らかな気持ちだった。これまでの自分は、感覚がどこか鈍っていたに違いない。だって今なら、世界を完全に理解できるし、宇宙の本当の意味すらわかるかもしれないのだから──そう考えていたのをノームは覚えている。
しかしやがて、イメージはかすんでいった。次に見えたのは、「暗闇だけでした」とノームは言う。「そして今にも何かが起こる、その前の小休止という感じがしたんです」
臨死体験との「出会い」
それから4年後の1985年、コネティカット州で開かれた支援グループの会合で、ノームはこのときの体験について語った。彼は生還したが、死にかけた際にどうしてあのような精神状態になったのかを知りたいと思っていた。
その会合を主催したのは、精神科医で現在はバージニア大学名誉教授の、ブルース・グレイソンだ。
グレイソンは長年にわたり、こうした体験談を聞いてきた。1960年代、精神科の研修を始めて1ヵ月が経とうとする頃、グレイソンは、「病院のベッドで意識不明になっている間に、自分の身体から魂が離脱していた」と主張する患者に遭遇した。
そして、この患者はのちに、「別の空間で」起こったというその出来事について、正確に描写したのだった。
グレイソンには訳がわからなかった。「私は科学的にものを考える家庭の出身なんです」と彼は言う。「父は化学者でした。ですから私も、物質的な世界がすべてだと思って育ちました」
きっと誰かが患者に入れ知恵でもしたのだろう、と彼は考えた。「身体から離脱するなんていったいどういうことなのか、意味がわからない」と思ったという。
半世紀にわたる情熱
それからずっと、グレイソンはそんな話は忘れてしまおうとした。けれども、医者に死亡したと判断されてから、あるいは死に近いと思しき状態になってから生に引き戻されるまでの間に、あの世に行ったかのような体験をした人々の強烈な話を、彼はたびたび聞くことになる。
1975年にベストセラーになった『かいまみた死後の世界』において、著者であり、かつてグレイソンの同僚だったこともある精神科医レイモンド・ムーディは、この手の体験を「臨死体験」(near-death experiences, NDEs)と呼び、この名が定着した。
「そのとき初めて、これは私が出会ったその患者一人だけの問題ではないと思ったのです」とグレイソンは言う。「一般的な現象なんだ、と」
こうして彼は、この種の体験談の特性や、そこから浮かんでくる疑問に関心をもつようになった。なかでも最大の疑問はおそらく、「人が死ぬときに何が起こるのか」ということだろう。
「私はそれにのめり込んでいきました。そして50年経った今も、答えを求めているのです」
人はなぜ臨死体験に惹かれるのか
臨死体験は新しい現象ではない。プラトンによれば、ソクラテスも体験したというし、大プリニウスも自らの体験を記録に残している(1世紀のことだ)。また、崖から落ちた登山家が恐怖よりも至福を感じたという例は、歴史上にたくさんある。
しかし、私たちは今なお変わらず、臨死体験の意味を知ろうと夢中になっている。ポピュラーカルチャーのなかにも、臨死体験のモチーフはふんだんに散りばめられている。
昨年、筆者は4歳の息子と一緒にディズニー映画『ソウルフル・ワールド』を観た。この作品は小さな子供たちに臨死体験を紹介し、意識、死後の世界、そして私たちを私たちたらしめている目には見えないものについて考察している。
コンピュータ中心のこの時代、私たちは「正しく」生きるように促す物語をもてはやす傾向にある。よくあるのは、あらゆる瞬間に感謝し、ありのまま受け入れること、それに権力や名声や物質的な豊かさを求めるよりも、経験や人間関係を大切にするといったことだ。(平たく言えば、それが『ソウルフル・ワールド』のプロットだ)。
誰もがそのように生きられるわけではなく、私たちの多くはそういう生き方をしていないわけだが、それでも、この世での貴重な時間をむだにしないように、正しく生きるべきだとは感じている。
それゆえ、私たちは臨死のモチーフがある物語に心惹かれるし、文化のなかでそのような物語が好まれ続けてきたのだ。臨死の物語は私たちにこう問いかける。
「もう一度チャンスがあったとしたら、どんなふうに生きる?」
精神科医が語る「臨死体験」とその影響
“臨死体験”を50年研究した今、「生命には肉体以外の何かがあると確信しています」
Photo: bradleyhebdon / Getty Images
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ガーディアン(英国)
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Text by Alex Moshakis
バージニア大学名誉教授で精神科医のブルース・グレイソンは、何十年にもわたり、臨死体験について人々と対話を重ねてきた。体験者たちが口にするこの不思議な現象は、人間という存在そのものについて、また生のあり方について、何を示唆しているのだろうか──。
「臨死体験」の世界
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現在74歳のブルース・グレイソンは、ヴァージニア州シャーロッツヴィルの自宅から、しわのないシャツとネクタイといういでたちで、親切かつ丁寧に取材に応じてくれた。
長年にわたり、グレイソンは何百もの臨死体験のエピソードを収集してきた。
彼の研究を知って自ら話しにきてくれる人もいれば、たまたまそういう体験をした患者から病院で話を聞くこともあるという。どの場合でも、話を聞く方法はだいたいいつも同じだ。枕元にそっと寄り添い、優しく声をかけて情報を聞き出していく。
「まず、『意識を失う前で最後に覚えていることは何ですか』と尋ねます。そして『その次に覚えていることは何ですか』、最後に『ではその2つのあいだで、何か思い出せることはありますか』と質問します」
誰もがこの質問にうまく答えられるわけではない。ほとんどの人は、グレイソンをきょとんと見つめるだけだ。
「けれども5人に1人ぐらいが、『えっと、そうですね、20年前に亡くなった父を見た気がします』なんて言うんですよ。そうしたら私が『詳しく教えてくれませんか』と……そういう感じで話してもらうんです」
2008年、国連で臨死体験について語るブルース・グレイソン
ほとんどの臨死体験に共通する「感覚」
グレイソンはこの一連のケーススタディを収めた新著『アフター』(未邦訳)で、自身の研究の成果を発表した。そこに書かれた体験談はどれも、テレビや本のなかの話のように神秘的だが、共通のテーマが見受けられる。
麻酔の副作用に見舞われたある患者は、自分の臨死体験について、「気づいたら草原にいて、心が澄みきっていて、自分が完全な状態であるように感じられました」と語っている。
その女性はさらに続けて、その草原は「見たこともない、この世のものとは思えないような、荘厳かつ輝かしい光で照らされて」いて、「草の1本1本も、内部にやわらかな火が灯っているように輝いていました」と語った。
体験談のほとんどに、これと似たような、「不思議と心が晴れる至福の感覚」が含まれているとグレイソンは言う。幽体離脱をしたと回想したり、長いトンネルを通ったと言う人もいる。また、神やアッラーと思われる存在や、亡くなって久しい家族に会う人もいる。
時間がまるで伸縮自在であるかのように、歪んだり、たわんだりするのを感じる人もいる。手術中に生死の境をさまよったある警官は、グレイソンにこう言ったという。
「ある時点から別の時点へと進むのではなく、すべてがただそこにあり、そこに自分も完全に沈み込んでいるような、時間が存在しない状態──これをどのように言い表せばよいのでしょう?」
また、「自分の精神エネルギーが、穏やかな多幸感の海をすいすい泳ぐ巨大なクジラのように、流れているみたいに感じられた」と語る者もいたという。
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「香りをクレヨンで描く」ような作業
しばしば不可解なこれらの体験談を、「臨死体験者」が楽に語れる場をセッティングする──それがグレイソンの精神科医としての務めだ。しかし、患者が語る勇気を出せたとしても、適切な言葉を探すのに苦労することもある。
「臨死体験をしたという人に話を聞くとき、最初によく言われるのが『言葉にできない、表現のしようがない』ということです」と彼は言う。言葉で表現しても、「いつも自分で納得がいかない」といらだつ人もいる。
また、私たちは3次元で生きているが、「自分が生死の境で見たものは、どこか次元を超越したものだった」として、表現するのは難しいと説明する人もいる。本当の意味は非言語的な手段でしか共有できないとでもいうように、絵画や音楽を用いて臨死体験を表現しようとする人もいる。
だが、それも完璧な方法ではないようだ。ある患者は、自分の臨死体験を思い出し、それを表現するのは「香りをクレヨンで描く」のに似ていると言った。要するに、基本的に不可能なのだ。
臨死体験を説明しうるいくつかの仮説
研究を始めて何年も経った今になって、『アフター』を出版しようと思ったのはなぜか、グレイソンに尋ねてみた。すると、彼は「何が起こっているのかを理解するために、臨死体験についての充分な知識がそろうまで待たなければならなかったからです」と答えた。
ただそれは、臨死体験の正体がすでに解明されているという意味ではない。科学の進歩のおかげで、臨死体験ではない多くの事柄を除外できるようにはなった、ということだ。
「理論上は当てはまるんじゃないかと思われる、生理学的な仮説はいくつかあります」とグレイソンは言うが、定説となったものはない。
エンドルフィンのような脳内麻薬的な化学物質が、命の危険の際に体内に分泌されることで、多幸感がもたらされるのだろうか? 脳に酸素が不足すると、現実と見まがうような幻覚を誘発するのだろうか? 脳のいろいろな部位が突然一気に動き出すことで、普通とは違うおかしな状態になるのだろうか?
確かなことは誰にもわからない。「『あ、これかな』と思いはしますが、『いや、データと合わない』。『それじゃあこっちかな』、『いやいや、それもデータと合わない』。この繰り返しですよ」とグレイソンは言う。
「意識の最後の瞬間」か、あるいは「死後の世界の始まり」か
ケンタッキー大学では、神経科医のケヴィン・ネルソンが、グレイソンと同じくある種のアカデミックな副業として、長年にわたり臨死体験の記録をとっている。
ネルソンは、臨死体験とは「身体的あるいは心理的に大きな危機が迫ったときに起こる、覚醒状態とレム睡眠の状態という2つの意識状態が混ざったもの」だと考え、多くの臨死体験は「夢のよう」であり、神経学的に言えば「ボーダーランド」(二つの状態が重なりあう部分)で起こっていると論じる。
数年前に亡くなった神経学者オリヴァー・サックスなど、臨死体験は「きわめて複雑な」幻覚であるとみなす研究者もおり、この考えは少なくともこの業界では受け入れられているようだ。
グレイソンが自らの研究について同僚に話すと、「『正気か?』というものから『じゃあ私の臨死体験の話も聞いてくれ』というものまで、さまざまな反応を受ける」という。
臨死体験についての研究の形式を整えるため、1980年代にグレイソンは「グレイソン・スケール」というアンケートを作った。それは20以上の言語に翻訳され、現在でも使用されている(「突然、すべてを理解したように感じましたか?」「宇宙と調和したり、一体になったりするような感覚がありましたか?」というような設問がある)。
権威ある医学雑誌に論文が載り、広く知れわたったこともある。ただ、ときにグレイソンは、くせのある独特な考えを思いつく。
『アフター』において、グレイソンは、「臨死体験は、脳に対して物理的な変化が加わることで引き起こされる可能性が高いと考えている」と書いたが、一方で、心が脳とは「独立して」作用することもあるのではないかという説も捨てていない。
神経学者たちの間では、「心は脳の産物である」というのがほとんど共通の認識と言ってもよい。しかしグレイソンによると、脳が動いていない間に臨死体験をしたという報告はいくつもあるし、「さらに、まさにそういう状態のときにこそ、体験者は自分の人生で最もいきいきとした経験をしたと言う」のだ。
これはグレイソンにも訳がわからないという。会話の途中だったが、彼は自問した。「これは意識の最後の瞬間なのでしょうか? それとも死後の世界の始まりの瞬間なのでしょうか?」
臨死体験は「その後の生き方」を変える
グレイソンにとって最も驚くべき発見だったのは、臨死体験がその体験者たちの人生に強い影響を与えていることだ。
「私の精神科医としての本業は、人々の生き方を変える手助けをすることです。生き方を変えるというのは簡単なことではありません。でも、ものの数秒で、人の考え方、価値観、信念、行動を劇的に変えてしまう体験が存在するのだとわかりました」と彼は言う。
この変化が何十年にもわたって持続することもよくある。ほとんどの場合、体験者はもはや死に対する恐れがないと悟る。それは「その人の生き方にも重大な影響を与えます」
なぜなら、「生きているうえで感じる恐怖も同様に消えるからです──何かを思い切ってやってみることを、恐れないようになるわけです」
グレイソンはときどき、臨死体験をした前後でその人がどう変わったかを、彼らのパートナーに尋ねることがある。「するとみんな、『そう、私が結婚したのはこんな人ではありませんでした。人が変わってしまったようです』と言います」
グレイソンはこうも言う。「それまで見えなかった人生の目標が見えるようになるんです。これほど大きな『人を変える力』を、私はほかに知りません」
「私たちには物質的ではない部分がある」
何か例を挙げてもらえないか尋ねると、グレイソンはこう答えた。
「警察官だったり、職業軍人の将校だったりした人で、臨死体験の後に職場に戻れなくなった人たちを知っています。暴力を行使するのに耐えられなくなるんです」
それはなぜか。「誰かを傷つけることが忌まわしいと感じるようになったのですよ」とグレイソンは肩をすくめる。「結局、その人たちは誰かを助ける職業に転職していきました。教師になったり、医療従事者になったり、ソーシャル・ワーカーになったりですね」
グレイソン自身はこの研究によって、何か考え方が変わったのだろうか。
「他人との関係性という点では、変わったとは思いません。ただ、物事を素直に受け入れられるようになり、聞き慣れない考えに対してよりオープンになりました」
精神科医として「精神疾患とみなされる徴候をちゃんと意識する」姿勢は変わらない。それでも彼が言うには、「異常ではないけれども普通とは違う考えを、より受け入れられるようにはなっています。そのおかげで、未知のことにもより誠実に向き合えるようになりました」とのことだ。
「私はスピリチュアルなものとは無縁の環境で育ちました。それに今でも、スピリチュアルがどういうものなのかわかっていません。ただ、この研究を40~50年やってきた今では、物理的な肉体だけにとどまらないものが生命にはあると確信しています。
私たちには物質的ではない部分がある、そう気づいたのです。それがスピリチュアルな考え方なのでしょうか、私にはわかりません。スピリチュアリティとは普通、自分より偉大な何かや、宇宙に生きる意味・目的の探求を意味します。それならば、私は確かにスピリチュアルな生き方をしていますね」
mux***** | 8時間前
今は亡き父の話ですが、父は、戦争と交通事故により二度死の淵を彷徨った経験を生前話してくれました。その話の共通点は、暗い暗いトンネルのような所を抜けると綺麗なお花畑があり、その向こう側にやはり川が流れていたそうです。その川を渡りたかったみたいですが、父の親父さんが凄い形相で来るなあっちへ行けと言わんばかりに手で追い払われたと言ってました。その瞬間病院のベッドで寝ていた父は、目が覚めたと言ってました。交通事故の時は、医者からもう駄目ですから親戚の方々を呼ぶように仰られたくらいの事故でした。こんな話ですみません。
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フルフラット | 9時間前
確かに死ぬ時、または身体にそれに近い変化が起こって意識が遠のく時、脳内に起こる現象は共通だと思う。
ただ、死に対する意識って人によって違うから、その現れ方も違うんじゃないかな。自分は、貧血と急性アルコール中毒でぶったおれたことがあるが、気持ち悪くて苦しいのに、意識が遠のくときは、ふわ〜っと気持ち良く光の中に引き込まれ、ストンとした次の瞬間、周りの声に起こされた。
死ぬときもこんな感じなら怖くないし、もし神様が起こしてくれたらいいなと思う。笑
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フルフラット |5時間前
そうです。笑
意識レベルの小さな死みたいなものかなと捉えています。
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ha? |7時間前
それはおそらく失神の現象ですね
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d****b | 6時間前
臨死とは違うのでしょうが、初めて全身麻酔で手術後の麻酔が薄れてきて目が覚める寸前に、幼い頃住んでいた場所で若い母とブランコに乗っていた場面にいました。
見たのではなく、その場に居たようなハッキリとした感覚でした。
その後、肩を揺すられて起こされたのですが、手術台にいる事はすっかり忘れて、ここはどこ?お母さんは?と思ったくらい夢と言うにはあまりに鮮明で意識が混乱したのを覚えてます。
死ぬ前がこんななら怖くないなって思いました。
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b |2時間前
私もです!全身麻酔の手術後の麻酔切れかけに懐かしい場面にいて、声も聴こえてあまりにリアルで…。看護師さんに名前呼ばれて起こされました。説明したら夢を見たのね、と笑われましたが(°_°)
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ecl | 7時間前
そもそも人間の意識というものの実態が解明されない限り、死をどのように感じるかは、臨死体験した人の体験談に頼らざるを得ないのだろう。
これまで何百億あるいは何千億の人間が生きて死んできたのだから、臨死体験をした人の数も膨大なはず。
だけど、彼らが語ることが本当なのか、またその体験が実際に死ぬ時と同じものなのか、は証明しようがない。
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xstapl6359 | 5時間前
臨死体験と言えるかどうかは分からないが、幼い時高熱が出て布団に寝かされていた、脳裏には無数の星が弾け、強力な力で障子が渦巻き状に捻じ曲げられてゆく幾度も幾度も繰り返す、苦しい苦しい苦しい意識が遠のく・・・
どれだけ経過したであろうか私はなぜか部屋隅の天井付近にいた、そしてそこで見たのは布団で寝ている私と看病している母親の姿だった。
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dinge an sich | 8時間前
臨死体験がそのまま死後の世界の存在の証拠だとは即断できないが、こうした体験記を読むと死への恐れが軽減するように感じられる。
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kak***** | 2時間前
一説によれば、臨死体験というのは死の危機に瀕している際に自身の生存欲求を高めるための「脳機能」だとか。
だから体験者の証言が共通するのは「人間の脳」そのものにそういう機能が備わっているため、という理屈。
つまり臨死体験が「現実」か「妄想」かは極論どーでもいいことなんだよね。
それこそ人間皆いつか死ぬんだからその時に答え合わせをすればいいだけの話。
重要なのは、その体験を通じて「生きる」という意思が湧いてくること。
かく言う自分自身、臨死体験をしたことはないけれども、人生に行き詰まっていた時にその手の証言集を読み漁って生きる気力が湧いてきた。
今の自分があるのは、そうやって臨死体験した人たちが自分の体験を頑張って言葉で表現して共有してくれたおかげなんだな。
本当にありがとう。
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sfk******* | 3時間前
今なら、世界を完全に理解できるし、宇宙の本当の意味すらわかるかもしれない
これ、経験があります。ただ夢のような感覚で、確かに世界の理が分かったような完全に悟った気持ちになりましたが、時間がたつにつれ普通の感覚になり、残ったのは確かに経験したという記憶のみ。
またあの感覚を体験したい。
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you***** | 59分前
5年前に18歳で亡くなった愛犬の話です。
夫婦で可愛がっていて、愛犬は亡くなる前の1年ぐらいは、認知症になって、飼い主が誰もわからなかったはずだ。愛犬が亡くなった時は夫婦で号泣した。
動物霊園で初七日の法要の時に、愛犬の匂いがぷんと鼻先をよぎった。その時は匂いを嗅いだのは私だけで、家内は何も感じなかった。
それをきっかけに、家に居る時に、愛犬の匂いが何度でもしたし、面白い事に、必ず夫婦別々に愛犬が会いに来てくれた。
また、認知症で亡くなっても、自分の飼い主が誰かとか、誰が世話してくれていたのかを、ちゃんとわかっている事だった。
その後2年ぐらいは、頻繁に会いに来てくれた(なぜ会いに来たのがわかるのかと言えば、その時は必ず、愛犬特有の匂いがしたからだ)。
今はめったに会いに来てくれなくなったが、「もう生まれ変わったのかなあ」と家内と話している。
私も家内も、死んで終わりじゃないと信じている。
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dpg***** | 5時間前
臨死体験はそれぞれに異なる、異質な臨死体験をする人達がいる、それは霊能者達だ、彼等は世界の未来や過去を現在のことと見ることができる。
その他に、天才科学者と言われる人、彼等は未来の技術の設計図を見ることができる。完成したものや動作しているところまで見ることができる人もいる。
信じるか、信じないか・・・・。
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AHO***** | 4時間前
戦前の事で、町内では今も語り草になっている怪談を一つご紹介。当職の近所のS家で病気で亡くなった方があって、三途の川に名無しで送れないとかの理由でその遺体の足の裏に住所と名前を書いて葬ったところ、すぐ隣のM家では出産がありその子の足の裏に何やら不気味な黒い痣があって、その痣が子供の成長につれて次第に文字のようになり、S家の亡くなった方の住所と名前になってきたという。ところがその子が成長して、今度は兵士として日支事変に出征し戦死してしまったという顛末なのだが、両家はこの怪談の因縁で今も親戚付き合いをしている。これと似た話は臨死関連の本を読めば日本全国あちこちにあるようで、無下に否定するのはいかがなものかという気もする。
が
ath***** | 1時間前
私も、30年前に心臓が止まり、後数分、蘇生が遅れたら、死んでいた、と医者に言われ、死の間際、見たのは、当時飼っていた犬、犬達が、騒いでいて、私は犬を静かにさせようとしていた、そして家族に、この子達をお願い!と頼んでいた事、
しかし、私はその時、心臓が止まり死んだ状態だった、同時刻に自宅で犬達が狂った様に一斉に吠えだし、家族が驚いたと、後から聞いて、本当にそんな事、在るんだなと思った。今思えば犬達が、私を死神から、守る為に、吠えてくれていたのだろうか‥…
mam***** | 7時間前
母がたまたま病院の待合室で発作をおこして、蘇生措置を受けた。1日意識不明のあと目覚めて話したのが「広い、草原みたいなところにいて、淡い光がさしていた。その淡い所からぼんやり人影がいくつか見えその中の一人が振り返ったら、祖母だった。ついていこうとするとピシャリと怒られた。人影の中には後ろ姿だったが、母や叔父もいて、置いていかないで、いかないで、と大泣きしても体が動かず、目が覚めた」とのことだった。
それから2年して母は亡くなったが、うっすら笑みさえ浮かべた死に顔で、ああ、今度はみんなについて行ったんだな、と思うと涙が止まらなかった。
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nik***** | 5時間前
既に亡くなった母ですが子供のころあの世の門まで自分の母親と歩いた記憶を話してくれました。道の両側は綺麗な花が咲いており、二人で歩いていくと門があり通ろうとするとその子はまだ通れないので引き返すよう言われ引き返したところ、遠くで自分の名前を呼ぶ声が聞こえ段々呼ぶ声が大きくなり気がついてそうです。次に癌で亡くなる前ですが意識不明になり医師から親戚を呼んだ方が良いと言われ母の兄弟を呼んだところ兄弟が着くとパッと目を覚まし、なんで来ているという顔をしましたが後から聞くと意識不明の時兄弟の家を回っていてどこそこの家は玄関が閉まっていては入れなかったなどと話してくれました。亡くなる前に兄弟親戚の家を回ってきたと話すのは母だけではありません。亡くなった母も母親が亡くなる前に同じ話を聞いたと言っていました。
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qvh***** | 6時間前
生命って肉体から切り離されそうな時に
浮かび上がって感じられるものなのかな。
ならば臨床者が感じた荘厳な幸福感は、
元々生命に潜伏しているものかも知れませんね。
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tue***** | 5時間前
私は高校生の時柔道の絞め技で意識が無くなった時、やはり草原で足元に風がヒューヒュー吹いていました、何十年も経ちましたが、未だにその時の光景と感覚ははっきりと覚えてます。
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夜明け前 | 4時間前
宗教的な事は別にして、「苦痛」は「生きる為に必要な情報」なんだな、と思う。「体のここに異常がある!」「動かすとひどくなるから動かすな!」等を体が頭に伝えてくる。でも、大怪我や、耐えられない苦痛が続くと、脳内麻薬といわれる物質が分泌され、苦痛は無くなり多幸感を持たせて脳を慰撫しようとする。脳と体はお互いに助け合っている。
下半身麻痺の人は、足を切ったりぶつけたりしても気が付かなくて、危険な状態になるリスクがあるそうです。苦痛は嫌なものですが、忌むべきものではなく、生きる為には大切で必要な事なんだな、と思うと、痛みに少し寛容になれたりしないかな。
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rfb***** | 5時間前
この説がいいな↓
ケンブリッジ大学の数学者ロジャー・ペンローズとアリゾナ大学のスチュワート・ハメロフは、意識は何らかの量子過程から生じてくると推測している。ペンローズらの「Orch OR 理論」によれば、意識はニューロンを単位として生じてくるのではなく、微小管と呼ばれる量子過程が起こりやすい構造から生じる。この理論に対しては、現在では懐疑的に考えられているが生物学上の様々な現象が量子論を応用することで説明可能な点から少しずつ立証されていて20年前から唱えられてきたこの説を根本的に否定できた人はいないとハメロフは主張している。
「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、体験者が蘇生しな…(でお調べを)
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