リドリー・スコット監督作品「ロビンフッド」の中で、『マグナ・カルタ』の成立の場面がでてくる。こんな娯楽作品の一場面に出てきたので思わず目を見開いた。『マグナ・カルタ』(大憲章)はイングランドの憲章で、ジョン王の権限を限定する法として作られ、国王が貴族や聖職者の権利が認められた法律だ。しかし、ジョン王はすぐにその約束を反故にした。『マグナ・カルタ』を世界史で勉強して少し知識はあったが、映画を見ていてもまるで絵に描いたモチのような扱いに驚いた。まるで日本の前首相の所信演説のようだ。 しかし、歴史の中に埋もれかけたに見えた『マグナ・カルタ』の理念は、その400年後、500年後に甦ってくる。17世紀のピューリタン革命(清教徒革命)やアメリカ合衆国建国の理念となったのだ。権力を法で縛り、権力の行使には適正な手続き(→議会)を要する事、そして、法治国家の考え方、生存権や自由主義的思想の原型となった。こうして『マグナ・カルタ』は永遠のものとなった。
今まで私が知っているロビン・フッドは、映画やTVドラマでも、権力やその他の支配から逃れ、自由に生きようとする姿が描かれていた。小学校の頃、彼らが使う石弓(映画は弓だけ)を苦心して自分で作った覚えもある。ヒーローは常に権力の外側にいて、神出鬼没で内側に潜む腹黒い連中に矢を打ち込む。この図式は全世界同じ様な気がする。日本の大盗賊、石川五右衛門や鼠小僧次郎吉もよく似た描かれ方をしている。
ロビン・フッドが謳う自由と平等の理念は仏教・儒教国の日本や中国、韓国には見られない。イスラム教国家も同じように見られず、よって市民革命なるものが歴史上存在していない。奈良・平安の貴族政治が消滅した以降も、675年もの長き渡って続いた武家政権が、「自由」や「平等」という言葉の発生を阻害してきたのだ。
イエス・キリストは、紀元1世紀初頭にパレスティナで生まれたが、「ポリス」国家を持っていた古代ギリシャとは地理的にそう遠くは離れていない。紀元前8世紀頃急速に栄えた古代ギリシャ文明では都市国家「ポリス」では直接民主制を採用した「ポリス」もあったという(凄い!)。天候に恵まれた地中海で伸び伸びと育った「自由」都市ポリスの思想の欠片から、「自由」や「平等」といった概念がひょっとすると彼に影響を与えたのかもしれない。
ユダヤ教はとても戒律が厳しい宗教で、信仰、教義そのもの以上に、その前提としての行為・行動の実践と学究を重視している。日本の曹洞宗、臨済宗の禅による厳しい修行と同様だ。しかし、これでは僧でもない、生活に追われる庶民への波及は難しい。そこで、法然が現れて浄土宗を作り弟子の親鸞が浄土真宗として発展させた。こうして日本全国に宗教が浸透していった。日本では法然・親鸞がイエス・キリストと同格的な働きをしたと私は認識しいる。
日本の武士道には仏教色、儒学・朱子学が色濃く流れている。「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」、ひいては「家名の存続」という儒教的態度が底流に流れている。イデオロギー色の濃い朱子学も人間は自分の所属する共同体へ義務があるとした。この共同体とは家を意味し、その上は藩、最上のものは上様=幕府となる。武家政権に当てはまったのだ。
古き日本人の血にはこの濃いDNAが流れている。だから日本では歴史上自由や平等なる理念が発生しなかった。当然この流れは中国や韓国も同じだと思う。イスラム教もまた師に忠、親に孝、自らを節することに厳しい。本当は違うのだが、「自由平等」の理念には自分を律するイメージが欠如しているように思える。仏教とイスラム教、ユダヤ教には、日本の武士道と似たスタンスがある。人は生まれながらにして平等・自由の理念を持つキリスト教と大きな違いがここにあるような気がする。
『マグナ・カルタ』は英国という身分階層がいまだに明確な国家に生じたことは必然のように思えるが、カトリックから分離したプロテスタントの存在なくして考えられない。そして王党派と議会派に分裂していった。今もなお英国の大憲章となっているのはその後の「清教徒革命」のおかげだと云える。国王が存在し、議会が国を動かす立憲君主制が以後確立する。カトリック対プロテスタント、後者が市民革命の担い手となっていった。ピューリタン(「清教徒」=プロテスタント)の中には祖国での弾圧を逃れ、1620年、メイフラワー号に乗りアメリカに移住した者が数多くいた。そして王のいない立憲共和制の国を作った。
中国の長い歴史においても「自由」の理念は育たなかった。武官政権は日本と違って秦の始皇帝ただ一人、その後の長い歴史は貴族たちによる政権、つまり奈良・平安時代のような文官政権が4000年以上続いたのだ。この流れがいまだに民主化の流れを阻害しているように感じる。日本も中国も世界で云う市民革命の経験がないのだ。イスラムやヒンズー教国家も「平等」「自由」という理念が発達しなかった。詳しく学んだわけではないが、仏教や儒教、イスラム教、ヒンズー教、つまりアジアの世界には「自由・平等」の理念の発達がなかった。だから市民革命と呼ばれる欧米と同格の革命がなかったのだ。
ロビン・フッド映画には悪政から市民を開放しようとする熱い想いが常に存在している。それは「自由と平等」を愛する人たち、キリスト教圏内に住む人々のDNAと共鳴する。その元は『マグナ・カルタ』「清教徒革命」に流れる熱い理念と云える。そしてもっと掘り下げていけば、ローマ帝国に処刑されたイエス・キリストにまで想いは辿り着く。しかし、イエスの死によって「自由と平等」は永遠の理念となり至高の目的となったのだ。ロビン・フッド映画は仏教国家やイスラム教国家ではヒットする筋書きではないようだ。
(今回は少し飛躍し過ぎたかな… ま、いいか)
皆様、良い年をお迎え下さい!
今まで私が知っているロビン・フッドは、映画やTVドラマでも、権力やその他の支配から逃れ、自由に生きようとする姿が描かれていた。小学校の頃、彼らが使う石弓(映画は弓だけ)を苦心して自分で作った覚えもある。ヒーローは常に権力の外側にいて、神出鬼没で内側に潜む腹黒い連中に矢を打ち込む。この図式は全世界同じ様な気がする。日本の大盗賊、石川五右衛門や鼠小僧次郎吉もよく似た描かれ方をしている。
ロビン・フッドが謳う自由と平等の理念は仏教・儒教国の日本や中国、韓国には見られない。イスラム教国家も同じように見られず、よって市民革命なるものが歴史上存在していない。奈良・平安の貴族政治が消滅した以降も、675年もの長き渡って続いた武家政権が、「自由」や「平等」という言葉の発生を阻害してきたのだ。
イエス・キリストは、紀元1世紀初頭にパレスティナで生まれたが、「ポリス」国家を持っていた古代ギリシャとは地理的にそう遠くは離れていない。紀元前8世紀頃急速に栄えた古代ギリシャ文明では都市国家「ポリス」では直接民主制を採用した「ポリス」もあったという(凄い!)。天候に恵まれた地中海で伸び伸びと育った「自由」都市ポリスの思想の欠片から、「自由」や「平等」といった概念がひょっとすると彼に影響を与えたのかもしれない。
ユダヤ教はとても戒律が厳しい宗教で、信仰、教義そのもの以上に、その前提としての行為・行動の実践と学究を重視している。日本の曹洞宗、臨済宗の禅による厳しい修行と同様だ。しかし、これでは僧でもない、生活に追われる庶民への波及は難しい。そこで、法然が現れて浄土宗を作り弟子の親鸞が浄土真宗として発展させた。こうして日本全国に宗教が浸透していった。日本では法然・親鸞がイエス・キリストと同格的な働きをしたと私は認識しいる。
日本の武士道には仏教色、儒学・朱子学が色濃く流れている。「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」、ひいては「家名の存続」という儒教的態度が底流に流れている。イデオロギー色の濃い朱子学も人間は自分の所属する共同体へ義務があるとした。この共同体とは家を意味し、その上は藩、最上のものは上様=幕府となる。武家政権に当てはまったのだ。
古き日本人の血にはこの濃いDNAが流れている。だから日本では歴史上自由や平等なる理念が発生しなかった。当然この流れは中国や韓国も同じだと思う。イスラム教もまた師に忠、親に孝、自らを節することに厳しい。本当は違うのだが、「自由平等」の理念には自分を律するイメージが欠如しているように思える。仏教とイスラム教、ユダヤ教には、日本の武士道と似たスタンスがある。人は生まれながらにして平等・自由の理念を持つキリスト教と大きな違いがここにあるような気がする。
『マグナ・カルタ』は英国という身分階層がいまだに明確な国家に生じたことは必然のように思えるが、カトリックから分離したプロテスタントの存在なくして考えられない。そして王党派と議会派に分裂していった。今もなお英国の大憲章となっているのはその後の「清教徒革命」のおかげだと云える。国王が存在し、議会が国を動かす立憲君主制が以後確立する。カトリック対プロテスタント、後者が市民革命の担い手となっていった。ピューリタン(「清教徒」=プロテスタント)の中には祖国での弾圧を逃れ、1620年、メイフラワー号に乗りアメリカに移住した者が数多くいた。そして王のいない立憲共和制の国を作った。
中国の長い歴史においても「自由」の理念は育たなかった。武官政権は日本と違って秦の始皇帝ただ一人、その後の長い歴史は貴族たちによる政権、つまり奈良・平安時代のような文官政権が4000年以上続いたのだ。この流れがいまだに民主化の流れを阻害しているように感じる。日本も中国も世界で云う市民革命の経験がないのだ。イスラムやヒンズー教国家も「平等」「自由」という理念が発達しなかった。詳しく学んだわけではないが、仏教や儒教、イスラム教、ヒンズー教、つまりアジアの世界には「自由・平等」の理念の発達がなかった。だから市民革命と呼ばれる欧米と同格の革命がなかったのだ。
ロビン・フッド映画には悪政から市民を開放しようとする熱い想いが常に存在している。それは「自由と平等」を愛する人たち、キリスト教圏内に住む人々のDNAと共鳴する。その元は『マグナ・カルタ』「清教徒革命」に流れる熱い理念と云える。そしてもっと掘り下げていけば、ローマ帝国に処刑されたイエス・キリストにまで想いは辿り着く。しかし、イエスの死によって「自由と平等」は永遠の理念となり至高の目的となったのだ。ロビン・フッド映画は仏教国家やイスラム教国家ではヒットする筋書きではないようだ。
(今回は少し飛躍し過ぎたかな… ま、いいか)
皆様、良い年をお迎え下さい!