GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

映画つれづれ草子(4)「名セリフ集」

2011年08月29日 | Weblog
「朝の一番の挨拶から気持ちを込められる、そんないい奴だった」

これは大好きな西部劇映画、ケヴィン・コスナー製作・監督の「ワイルドレンジ 最後の銃撃」の中のセリフです。昨夜でたぶん8回目のDVD観賞でしたが、また泣けてしまいました。物語は人のいいカウボーイ仲間が痛めつけられた末、悪徳牧場主に雇われたゴロツキどもに殺されてしまいます。可愛がっていたコスナーが呟いたセリフです。このあとまるでゲイリー・クーパーの傑作西部劇「真昼の決闘」を凌ぐような対決シーンへと展開していきます。今回は映画の話ではなく、セリフの素晴らしさです。

 物書きは先生と同様に私の夢の職業ですが、性格のいい青年を表現するのに「朝の一番の挨拶から気持ちを込められる、そんないい奴だった」とは、何年かかっても私にはとても書けません。こんなセリフが名作には散りばめられています。


私の好きな名セリフを集めてみました。
今思い出すだけでもそのシーンが浮かんできて、深い感動や感銘を受けます

・「ライム・ライト」
 『人生を恐れてはいけない
  人生に必要な物は勇気と想像力と少々のお金だ…』

・「カサブランカ」
 女  『昨日は何処にいたの?』
 リック『そんな昔のことは忘れたよ』
 女  『明日は何処にいるの?』
 リック『そんな先のことは分からない』

・「OK牧場の決闘」
 『どうせ死ぬなら、唯一の友の為に死なせてくれ』

・「ボーン・アルティメイタム」
 『最悪に備え、最良を祈れ』

・「ダークナイト」
 『夜明け前が一番暗い』 『モラルなんて善人の戯言だ』
 『彼はヒーローじゃない 暗黒の騎士(ダークナイト)だ』
 
・「ショーシャンクの空に」
 『…人間の心は石でできてるわけじゃない。 
  心の中には何かある。だれも奪えないある物が……君の心にも』
 『一体何だ』
 『…希望だよ』
 『希望か』
 『お前に言っとくが、希望は危険だぞ。
  正気を失わせる。 壁の中では禁物だ。よく覚えておけ』

・大河ドラマ「天地人」
 『わしはこんなとこに来とうはなかった。
  喜平次様の小姓になどになりとうはなかった』

・「人のセックスを笑うな」
 『みんな寂しいんだよ。
  みんな寂しいんだったら
  寂しいなんて言うの意味ない』

・「ショ―ガ―ル」
 『君は何を見つけたの?』
 『it's me』

・「ティアーズ・オブ・ザ・サン」
 『善なる人々が行動を怠れば必ず悪が勝利する』~エドモンド・バーク~

・「G・Iジェーン」
 『野性なるものが自らを憐れむのを私はみたことがない。
  小鳥は凍え死んで枝から落ちようとも
  自分を惨めだとは決して思わないもの』(D・H・ロレンス)

・「グッドウィルハンティング」
『おれはこう思ってる。
 毎日お前を迎に行き─酒を飲んでバカ話 それも楽しい
 だが一番のスリルは─車を降りてお前んちの玄関に行く10秒間
 ノックしてもお前は出てこない 何の挨拶も無く お前は消えてる そうなればいい…』

・「ジョー・ブラックをよろしく」
 『好きなものを、ただ奪うことは愛とは言わない。
  愛の本質とは生涯を懸けて相手への信頼と責任を全うすること、
  そして愛する相手を傷つけぬこと』

・「ブレイブハート」
 『我らの命は奪えても、奪えないものがある。それは自由だ!』

・「千と千尋の神隠し」
 『あなたに私の欲しいものは出せない』

・「ラブアクユアリー」
 『love actually is all around』

・「靴をなくした天使」
 『世の中に真実なんて無い。ウソがあるだけだ。
  その中で好きなウソを信じて生きて行けばいい』

・「ルパン3世 カリオストロの城」
 銭形  『くそー、一足遅かったか。ルパンめ、まんまと盗みおって』
 クラリス『いいえ、あの方は何も盗らなかったわ。私のために戦ってくださったんです』 
 銭形  『いや、奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です』
 クラリス『はい』

・「ハート・ロッカー」
 『人は大人になるたびに大切なものを無くしていくんだ
  この玩具もやがてはただのぬいぐるみとブリキにしかすぎないことに気づく
  父さんにはもう宝物は一つしか残っていない…』

・「守護神」
 『死んでも離さない』
 『知ってるさ』

・「マグノリア」
 『過去を捨てたと思っても、過去は我々を追ってくる』

・「恋人たちの予感」
 “You are the last person I wanna talk to before I go to sleep at night.”

・「ディパーテッド」
 『No one gives it to you
  You have to take it “Non serviam”』

・「ボディガード」
 『守られる意識の無い人間を守るのは不可能だ』

・「大いなる陰謀」
 『人は大人になるときの境界線が曖昧なまま決断を重ねてしまう』

・「マイ・ボディガード」
 『強い者などいない。鍛えたか、そうでないかだ』

・「バットマンビギンズ」
 『人の心はわからない、でも本性は行動に出る』

・「レオン」
 『大人になっても人生は辛い?』

          

・「七人の侍」
『今度もまた、また負け戦だったな…』
『いや、勝ったのはあの百姓たちだ…儂たちではない…』


映画つれづれ草子(3)「人は野獣だった」

2011年08月26日 | Weblog
 英国の名優マイケル・ケインが老齢の元海兵隊を演じた「狼たちの処刑台」は、移民大国の荒廃した現状を描いており、イギリスへの旅行を考えてしまうような映画だった。冒頭で警察官ですら配属されたくないと思う労働者階級の住宅地域で、若い母親が暴走した野獣たちの銃弾で亡くなる。クスリと暴力が充満する野獣たちの街で、静かに老いを迎えるケインは若いときに一人娘を亡くし、植物人間となった妻も病院から死亡の連絡を受ける。そんな時、野獣たちに執拗な嫌がらせ受けていたただ一人の友人も彼らになぶり殺される。傷心のケインはいつもの酒場でやけ酒をあおって自宅に帰る途中、クスリ中毒の野獣にナイフで脅される。しかし、沈黙していた元海兵隊の血が反応して野獣を殺してしまう。肺気腫に冒されていたケインに、もう失うものは何もなかった。友人を殺した野獣たちを血祭りに上げるために立ち上がった…。

 映画を見終わって、もし愛や情や絆を知らずに育った輩は、何処に向かおうとするのかと考えてしまった。テレビドラマも始まった『ジウ』3冊(警視庁特殊班捜査係・警視庁急襲部隊・新世界秩序)の原作を読んだが、愛や情や絆を一切知らない<ジウ>がかつてない犯罪を犯していく。動機が見えない警察組織は、狼狽えながらも<ジウ>との戦いに挑んでいった…。この原作の中で、愛や情や絆を権力者や既得権者が与えた足枷ではないかという表現があった。考えたこともない発想だが、宗教は権力者に常に追随してきた歴史がある。日本でも欧米諸国でも同じだ。宗教は構築された生活や文化、財産を守る秩序を教える役目があった。キリストや日本の法然、親鸞の新宗教は、当初はその秩序を乱すとされ迫害を受けた。旧体制側では受け入れがたいものだったからだ。

 日本にはまだ、米国や英国、フランスの下層階級が住む荒廃した地域が存在しない。クスリや暴力の汚染された家族たちが住む地域だ。好景気を背景に移民政策を取ってきたことが、負の遺産として残ってしまったのではないか。また、銃器の所有が暴力を増大させている。米国では国内に3億丁近くの銃器が出回っているとされ、事件のたびに規制を求める声が上がるが、歴代大統領、誰一人として断固たる姿勢を示せないでいる。それは開拓時代からの自衛の伝統が重んじられ、銃所持の本格規制には反発が強いためだ。多民族国家での社会システムや教育のシステム作りは決して容易な作業ではない。そして、たとえ生きるためといえど、他民族にとって大国の言葉や習慣、文化を受けいるには大きな忍耐が必要になる。そして特に下層階級では公正・平等の対応は決して期待できない。その堪えきれないストレスがクスリや暴力に走り、犯罪組織に身を投じることになる。

 話を戻すが、愛も情も絆もないクスリと暴力に汚染された社会で、人が育てられたらどんな人物に成長するのか、私は野獣になるしかないように思う。環境が人に与える影響は甚大だ。だからこそ、親が子供に愛を伝えることは何事にも代え難い重大事だと考えている。親でなくてもいい、親の方がいいに決まっているが、親でなくてもいい。誰かに愛を受けたことを感じる心(=情)や絆を感じられることができたら、暗い野獣の世界に落ちることはないと思う。


人は愛に気づかなければ野獣に落ちる
生きる喜びも見いだせない野獣に落ちる
食べて犯して寝るだけの野獣に落ちる

人はもともと野獣だったのだ
しかし、長い時間をかけて愛を教えられ
愛することに目覚め
愛を信じるようになったのだ

野獣は100万年の時を得て 人となったのだ
この悠久の時間を無駄にしてはいけない
油断するとまた野獣が目覚めてくることを意識しておかねばならない

ただ 感性は野獣性の中に潜んでいる
野獣性のコントロールは決して容易くない
知性、感性、野性は 人が長い時間をかけて得た大切なもの
だからこそ バランスに気を付けなければならない
そのために教養が必要となる

人は愛に気づかなければ野獣に落ちる
生きる喜びも見いだせない野獣に落ちる
食べて犯して寝るだけの野獣に落ちる
人はもともと野獣だったのだ
このことを忘れてはならない

<Beingの幸せ>

2011年08月23日 | Weblog
「求めなさい されば与えられん」マタイ7章7節―11節の言葉
「与えなさい されば与えられん」と云い変えたい

「喜ばせなさい されば喜べる」
「幸せにしなさい されば幸せになれる」
「楽しませなさい されば楽しめる」

恋する相手や可愛い子供の幸せそうな笑顔を見て
共感し自らの幸せが達成される
個人の欲望を追求しDoingの喜びを得ようとしても 
欲望には限りがない だから真の幸せは得られない 
欲望や不安や心配がいっさいない絶対安心状態
これがBeingの幸せと呼べるかもしれない
我が子に絶対安心を与えられる幸せは
親にとってBeing の幸せと呼べるかもしれない

周囲の人の笑顔を喜びに昇華できる気持ち
家族の笑顔を自分の幸せに昇華できる親心
Beingの幸せとはこういうもの

若い頃はDoingの喜びや楽しみを追い過ぎる
そして Doingの喜びも楽しみも限度がないことに気づかない
そのままでは木枯らしが吹く頃 
童話の中のキリギリスとなり果てる

若い頃はBeingの喜びや楽しみを探そう

感性はBeingの中で磨かれる
Doingでは欲望だけが先走る


<Beingの幸せ>
分かりやすく云えば 現在のクルム伊達選手のテニス
若い頃のテニスは外国勢の体力に対抗するためにスピードを身に付け
ライジングショットを磨いて諸外国のトーナメントを連戦した苦しいテニス
結婚し外国での暮らしに慣れ
テニスができる体力があることを素直に喜び 再びラケットを握った
欠点を克服し新たな戦略を練りながら
若き強豪たちとコートで戦うことを心から楽しんでいる
決してランキング維持に苦慮している姿はない
心から信頼できる良き伴侶もすぐそばにいる
若い頃のインタビューや試合中の表情と最近のものには大きな差がある
現在の表情には悲壮感が喪失し 喜びや楽しみに満ちている
クルム伊達のテニスを見るたびに
<Beingの幸せ>とは何なのかを教えてくれる

何事にも誠心誠意尽くすうちに
ふと新しい発想やアイデアが生まれるものだ
私はこれを<オリジナル>と呼んでいる
オリジナルの構築は 仕事に置いても自らアイデンティティの構築となる
<Beingの幸せ>はこの<オリジナル>の中に存在することがたびたびある
そして 感性もこの中で磨かれる

<Beingの幸せ>は誠実な受動姿勢から能動姿勢に変わるその狭間にあるのではないか

この人にために頑張ろう
この子のために頑張ろう
この上司をために頑張ろう
この監督のために頑張ろう
このチームのために頑張ろう

この気持ちが自分を鼓舞する
この気持ちが自らの活力となることを実感する

<Beingの幸せ>はこの中に存在する


「人生のルール」

2011年08月21日 | Weblog
若い頃、人は必ず何かに夢中になるものだ。
そして 時が過ぎて夢中になってその対象のほとんどが色褪せてしまう。
幼い頃、私はプラモデル作りに夢中になったが、
ギターの音色に心を奪われて以来、一度もプラモデルを買うことはなかった。
小学校の頃マンガばかり読んでいたが、
吉川英治の『宮本武蔵』に出会って以来、マンガ本を買うことがなくなった。
夏には必ず蝉とりに行ったが、幼なじみにチエちゃんから
「7年も土の中にいて、土からでてきた蝉は一週間で死んじゃうのよ」と教えられ、
二度と蝉とりには行かなくなった。
プラモデルや蝉とりやマンガに興味を持たなくなったが、ギターや本は今も手放せない。

中学1年生の時、他のクラスの女の子に一目惚れした。
2年生になってその子と同じクラスになったことをとても喜んだが、
その子と話してみて瞬時に熱が冷めてしまった。
言動がとても薄っぺらく感じてしまったのだ。
色白で美しく見えた横顔が何故か醜く見えてきた。
自分も陳腐な若造だった。
そんな私が見た目で恋などするものではないと強く思ったものだ。

その人の人間性は言動に表れる。
言動を見つめるようになったのはあの子のおかげと言っていい。
女も男も人間性に好意を抱くようになったのはあの頃からだ。

五木寛之の『蒼ざめた馬を見よ』や
アガサ・クリスティーの『検察側の証人』を読んで
自分の知識や発想の陳腐さにがっかりした。

                               

読書や映画のお陰で、見た目や性格の一面しか見ることができなかった自分の
知識の貧困さに気づかされ、何度も愕然とさせられたものだ。

様々な出会いの中で、無意識に何かを選び
同時に無意識に何かを捨てていく。

私の場合、ギターを選んでプラモデルを捨て、
本を選んでマンガや蝉取りを捨てたのだ。

成長の過程で選ぶ力、捨てる力を身に付けていく
選ぶのは感情が優先するが、本当に捨て去るには強い理性が必要だ。

弱き者はいつまでも同じ過ちを犯す
その原因は 捨て去るための強い理性や信念を構築できないからだ。

                                         
若者よ
知識を求め
冒険を求めるがいい
そして、今いる場所からの旅立ちを始めよ
他国から日本を見たとき
きっと大切な何かを見つけることができるだろう

若者よ
人に恋するのではなく
人間性に好意を持て
そして もっと多くの人間性に触れ
自分に足りないものを気づくことだ
それが自分が今立っている地点を知ることになる
今いる場所が分からなければ
地図は無用の長物でしかない

若者よ
今いる場所が分からなければ
目的の場所には決して行き着けない
これが人生のルールだ

「暑中お見舞い申し上げます!」

2011年08月14日 | Weblog
暑中お見舞い申し上げます!

暑い日が続く
人は夏の涼を求め 海やプールや山に赴く  
ある人はクーラーの効いた映画館やショッピングセンターの出向く
しかし 汗を防ぐのは難しい

夏は学校が夏休みに入るために多くの人が外に出る
会社や組織も夏休みがある
家族が何処かへ連れて行けと叫びだす
汗を防ぎきるのは至難の技

暑中お見舞い申し上げます!

暑さを避けて南半球へ
便利な世の中になったのでこんなこと金と暇があれば可能
でもそんな優雅なことができる人は ほんの一掴み
蒸し暑い夏を受け入れて
額の汗を受け入れ 暑い夏をやり過ごす

暑中お見舞い申し上げます!

この暑い夏がなけれなうまく育たない作物がたくさんある
米や美味しい果物たちがそうだ
彼らには暑さはストレスではなく自然の恵みに違いない
海水浴場の海の家で一年の生活費を稼ぐ人たちがいる
我が会社は7,8月の2ヶ月で年間売上の40%に達する
私のレストラン部門では60%にも届く
だから 米も美味しい作物も我が社も 暑中御礼申し上げます

暑中御礼申し上げます!

海に近い場所では盆が過ぎれば秋の訪れが早い
吹いてくる風が秋の潮の香りを運んでくるからだ

湘南の鵠沼海岸に住んだことがある
秋の訪れを今でも描けるように感じられたものだ
あの夏の日々が懐かしい
息子が幼稚園に通った日々
生温かい砂浜に座って鎌倉の花火大会を見た日々
すべてが走馬燈のように浮かんで見えてくる

暑中御礼申し上げます!

夏の終わりを感じるとき
人生の素晴らしい想い出が甦ってくる
人生で最高のもの
それは手で触れられるものでもなければ 目で見えるものでもない
きっと心で感じられるものだ
素晴らしい想い出もその一つに違いない

だから 暑中御礼申し上げます!

<良き習慣>

2011年08月09日 | Weblog
物事を目上のものから命じられた場合、人によって言動が違う。
1.命じられない限り、何もしない人
2.命じられたことを、自分勝手にやる人
3.自分で考えたこと以外は、ほとんど適当にやる人
4.命じられたことを誠実にやる人

 高校生の頃からバイトしするとして、その後の10年で経験の量は、1と4の人では大きな差が出てくる。就職してからでは、上司や先輩関係が生じ、命じられることは飛躍的に増大する。当然、新たな経験の量も膨大となる。4の人の作業は、自分なりの工夫や効率を考える傾向がある。この経験が独自のものとなって身に付いていく。経験の質を高めていくことにもつながっていく。4の人が自発的に考えた行動は、的を外さないが、1、2、3の人が考えた自発的行動はよく的を外す。それは人にからの指導を好まず、すぐに自分勝手にやってしまうからだ。分かりやすく云えば、基本を分かろうとしない為に的外すことになる。自発的な工夫も当たりはずれが多い。<自発的行動>こそ、自立し生きて行くための鍵だと私は思っている。

 夏休み前に、大学生や高校生のアルバイトを数多く採用する私は、1から4の差が何故生まれるのか、長年考えてきた。1~4の若者を見ていると、彼らの言動はすでに習慣となっていて、短期間のアルバイト研修で言動が変わる者は少ない。良き習慣も、悪しき習慣も確実に人格を形成していく。だからこそ幼い頃家庭で、親が良き習慣をいかに身に付けさせるかが、とても大切なこととなってくる。

 例えば、レストランで働く髪の毛が長い女の子に、「髪を束ねるものを持ってきなさい」と命じても、「はい」としっかりと理解した返事をする子は50%。その返事に「笑顔」で答える子は、その50%くらいだろうか。つまり「笑顔で返事する子」は25%しかいないことになる。男子の長髪をカットするようにと伝えても、笑顔で「はい」とは誰一人云えない。そして、表情がもっと乏しくなり、採用さえ難しくなる。

「はい」と云う返事。

 このコミュンケーションは、子育ての間に何度も親子間で経験してる。そのときの子供への躾が、良き習慣となって後に大きな差になって表れる。将来を見据えてないと躾はおざなりになる。

 経験の量と質が、人格を形成していくと思っている。様々な経験に、どう対処していくかが人格を作る。その第1歩が「はい」という心地よい返事ができるかどうかのような気がする。
 幼い頃、実家は商店街で商売をしていて、私や兄は何度も父から命じられた経験がある。小学校の頃、父はこういって私を叱った。

「どっちみちやるなら、気持ち良くやれっ!」
遊びたい盛りの私は、きっと返事も表情もいやいやだったのだろう。

 子供は最初、自分の感情を親に読まれているとは考えないものだ。度重なるしかり方が、自分の本音を指摘されるだけに、利発な子は読まれていることに気づきだす。私の場合、気持ちを読まれているなど高校を過ぎるまで考えもしなかったが…。しかし、悪知恵が働く子は、いずれ親を騙すようになっていく。騙す相手は親から兄弟姉妹、そして他人へも波及していく。だから子供が小賢しくなる前に、親は子供に良き習慣を躾ける必要がある。最初は半ば強制的でいいと私は思っている。そして、小学校低学年までに良き習慣を躾け終えてなければならない。

私が考える<良き習慣>とは?
・「はい」という心地よい返事。
・整理整頓
・身辺を清潔に保つ
・命じられたことは、いやいやせず誠実に行う
・喧嘩はせず、弱き者は守る
・読書する
・スポーツをする
・敬語や言葉使いには気をつけ、挨拶を大切にする
・字は誰が見ても分かるように丁寧に書く
・気分や好き嫌いではなく、誰にでも平等に接っする

まだまだあるような気がするが、すぐに思い出したのはこんなところか。
50歳を過ぎた私がこの良き習慣を身に付けているかというと、
・清潔に保つ
・喧嘩はせず、弱き者は守る
・読書する
・敬語や言葉使いには気をつけ、挨拶を大切にする
・気分や好き嫌いではなく、人には平等に接っする。
せいぜい、この4つくらいだろう。
父に教わった「はい」という心地よい返事は、40歳頃まではできていたように思うが、
この歳になると役員に命じられてもそうそうできるものではない。
とにかく、大切な時期、父の教えは私の良き習慣の一つだったと述べておく。

<習慣>というのは苦痛を伴わない、意識しないでできる行為のこと。
私には読書する習慣があるが、もし「本を読まなければいけない」という意識のもとに、
読んでいる人と習慣で読んでいる人では量的にもかなりの差が生じるはず。
読書という習慣が知識をいつのまにか広げていく。(私の場合、かなりの偏りがあるが…)
読書の習慣は学ぶという姿勢をいつまでも保つことができる。これがいい。

<良き習慣>はその後の人生に多大な影響を与えていく。
このことをしっかりと意識し、子供達や若い部下達に半ば強制的でもいいから指導すべきだ
というのが私の熱い想いです。

「西心斎橋 ゆうの」2回目

2011年08月03日 | Weblog


 今日は連れ添いの誕生日。生涯で一番美味しいと感じたお店、「西心斎橋 ゆうの」へ妻を連れて行きました。夏の味覚を存分に取り入れた素晴らしい料理を、改めて今度は二人で堪能しました。連れ添いの満足げな表情を見ながらの食事、至極の幸せを感じました。予約するとき、誕生日であることを伝えていたのですが、8席あるカウンター席には3名のお客様も在席しており、アメリカ的なサプライズは最後までありませんでした。せっかく予約時に誕生日であることを伝えていたのに、と少し残念な気がしました。ところが、店主柚野氏が店の外まで見送って下さり、その時、背中に隠していた花束を、「お誕生日、おめでとうございます!」と連れ添いに手渡されました。これには本当に驚きました。思いもしない感動とはこのことでした。日本的な他のお客様にも気遣いのある奥ゆかしいおもてなしに、お料理と共に心を温めてくれました。

 3日前に予約を入れたのですが、満席に近い状態でした。「ゆうの」の客席は、カウンター8席とテーブル席が合計8席の合計16席。こぢんまりしたお店ですが、それでもミシュラン一つ星店。今年の5月19日に大先輩のあいらんど氏に連れられて、素晴らしい料理に心底惚れ込みました。すぐにでも再来店したと思っていたのですが、2ヶ月半も過ぎてしまいました。仕事もとても忙しく、8月末まで週休1日の状況でしたが、連れ添いの誕生日が休日だと気づいたのは7月31日の夜でした。「ゆうの」に予約電話を入れ頼み込んでカウンター席を何とか確保していただきました。

 カウンター越しに竹串を束ねたもので、跳ねたような動作が目に入り、気になった。出されてきた椀のふたを見て理解した。椀のふたに打ち水?されていて、涼感を表現していました。日本の和食以外決してみられない超日本的演出だした。中の入っていたのは、ハモと白キクラゲとしんじょ(鯛のほぐしとユリネ)。このしんじょの柔らかさに隣のお客様も感動の声を上げていました。コリコリしたユリネも素晴らしいコラボでした。





  
 カウンター越しに出される料理を食べながら、亡き母を連れてくればきっと大喜びしただろうと思いました。心斎橋でカフェを楽しみ、帰りの車の中でその話をすると妻も同じ事を思っていたそうです。突然、墓参りを思い立ち、帝塚山に立ち寄りました。柚野氏から頂いた妻の誕生日花束を分けてお墓に供えました。お盆には少し早かったけれど、きっと二人の想いは通じたに違いありません。母がいなければこんな幸せな時を過ごせなかったと二人が感じていたのです。ただ、母から「花では味が分からない」と云われそうですが…(笑)



「光明の世界」

2011年08月02日 | Weblog
行きつつある方向からやってくる

幸せも不幸せも 自分が行きつつある方向からやって来るのではないか
日頃の行いや生き方の中に それらを呼び込んでいく種があるのではないか

「こんなことを続けていてはいけない」
心の中でそう思って今までの悪しき習慣や悪しき行為を止めたことが
誰もが一つくらいあるのではないか
そのとき 不幸せの種は 一つ消滅しているのかもしれない
そして そのことが幸せを呼び込もうとしているのではないか

嫌ったり 怒ったりせず 嘘も 悪口も云わず
嫉妬もせずに 誠実に 心穏やかに 過ごしたい
美しいものを 心から美しいと思いたい
美味しいものを 心から美味しいと味わいたい
この人と出逢えたことを 心から喜びたい
そして 生まれてきたことを 心から良かったと感謝したい
そんな気持ちが 幸せを呼び込んでいくのではないか

               
苦しみは 常に自分に対する執着(=我執)の中にある
我執とは 煩悩、エゴに支配されていること
悟りとは 我執の支配から逃れ 
光明の世界に達すること

人は生まれた時 
誰もが 無知(=無明)・暗黒の世界に生まれる
<知>によって人は光明の世界に導かれる

私たちは仏でもなければ聖人でもない
欲しいものもあれば 誰かに恋焦がれ 煩悩に悩まされることも多い
だから 我執の支配から逃れるのはとても難しいことかもしれない
人が光明の世界に達することなど 永遠に不可能かもしれない
しかし その心を学ぶ事はできるはず

悟りの世界 光明の世界があることを学ぶことはできるはず
無知であることを自覚することは誰もができるはず
惜しむ気持 大切にしたい気持ち 許せる気持ちは誰もが持てるはず
行くべき方向は その気持ちから明らかになるのではないか
<知>はそのとき 光を放ち 導いてくれるのではないかと思っている


暗黒の世界も 光明の世界も 
常に自身の心の中にある
<知>はこのことを知らしめてくれる大切なもの

暗黒の世界ではなく
我執を捨て 光明の世界を目指したい
たとえ行き着くことがかなわなくても
光明の世界を目指したい