GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「映画つれづれ草子2」(極上のサスペンススリラー)

2011年05月29日 | Weblog
 私にとって<感情移入>これが傑作と判断するキーワードだ。例えば「羊たちの沈黙」。映画はFBIアカデミー訓練生クラリス・スターリング(ジョディー・フォスター)が林の中をランニングするシーンから始まる。彼女の息づかいの中に何かに怯えるものが感じられた。この不安を感じさせる息づかいは作品の根底を流れ続け、いずれ恐怖へと移っていく。ガラス越しとはいえ、近づくのも怖いレクター博士との面談シーン。クラリスの恐怖が観客にのり移り始める。レクターによって触れられたくない幼い頃の記憶が引き出されていく。気丈夫を装うクラリスだが、彼女の怯えがだんだん観客に感情移入していく。ラストシーン、情報収集に向かったある家で、昆虫を見つけた時、クラリスはそこにいた男が犯人であることを確信する。心臓の鼓動は一気に高みに達する。腰からリボルバー(拳銃)を握りしめるが、震えはおさまらない。観客の心は彼女の恐怖と一体になる。暗闇の中、殺人鬼と二人だけの対決が始まる。相手は暗視スコープをつけいてる。ビクビクして手探りのクラリスが犯人に追い回される展開は、映画史上稀に見る傑作シーンだ。恐怖で心臓が破裂しそうになる。彼女の息づかいは、観客としっかりと同調していたはずだ。彼女が放った一発の銃弾で、ようやく観客は感情移入から解き放たれる。アンソニー・ホプキンスの怪演も見逃せない。この種のスリラーとしては珍しくアカデミー賞の作品・監督・主演女優・主演男優賞といった主要部門を独占したのも頷ける。

 もう1本、ハラハラドキドキ度、90点越えの映画を紹介しよう。以前も何回か日記で紹介した韓国映画「チェイサー」だ。この映画は実際に起こったユ・ヨンチョル事件をモチーフに製作された。
ユ・ヨンチョル事件・・・ユ・ヨンチョル(柳永哲)は2003年9月から2004年7月までの10ヵ月間に、21人を殺害したとされる。「逮捕されなければ100人以上殺していた」と語った彼を、韓国メディアは「殺人機械」と呼んだ。殺害人数について本人は31人だと主張している。また「自宅で4人の臓器を食べた」とも供述している。2004年7月18日逮捕され、2005年6月死刑判決を言い渡された。死刑を求刑されたとき、ユ・ヨンチョルは「感謝する」と語ったという。

 映画「チェイサー」を見た衝撃は、過去に類がない。韓国でのユ・ヨンチョル事件のことなど私は知りもしなかったが、映画の現実感に驚愕した。黒澤明監督の「天国と地獄」、「羊たちの沈黙」をも越える重厚なリアリズムがある。売春婦など誰も真剣に探さないだろうという恐ろしい現実感だ。病的なストーカーに怯える恐怖は、第三者には決して理解できない事と似ている。個人主義時代に突入した資本主義国おいて、他人の孤独や貧困、そして、恐怖を考える余地など皆無になりつつある。そこに重苦しいこの映画のテーマ、「現代の孤独」がある。

 殺人鬼は売春婦を殴りつけながら「お前が消えても、誰も探さないさ」と呟く。この言葉は殺人鬼と化した自分にもあてはまることを彼は自覚していた。だからこそ、他人に同じ思いを味合わせたいのだ。口元をくくられ両手両足を縛られて無人の家の浴室に放置された売春婦。「誰か、助けて!」叫んでも声にならない。帰って来ない彼女に何かあったと気づく風俗店経営者の元刑事。幼い娘は一緒に母を探し回る男性(=元刑事)の姿を見て、母親の死を予感しタクシーの中で泣き叫ぶ。音声は聞こえてこない。とても胸に迫ってくるシーンだ。少女の泣き声が頭の中で響いてくるようだった。
"他人の悲しみなど第三者に分かるはずがない。声など聞こえるわけがない"という監督の熱くて重いメッセージが伝わってくる。放置された売春婦の恐怖が、観客にどんどん乗り移っていく。下着一枚の彼女が自力で縄を切って、ようやく脱出したときは喝采したい気持ちたっだ。しかし、その後の展開は誰一人想像できないだろう。こんな結末があっていいのだろうか… この映画の3分の2は現実にあったことだと監督は語っている。

 日本と同じように急速な発展を経験した韓国。映画を観ていて、日本と同様の<孤独>という恐怖がはっきりと見えてくる。「羊たちの沈黙」は、非常に良くできた米国ハリウッド作品。怖い映画だが、あくまで作りものとして安心して見ることができる映画だった。しかし、この映画「チェイサー」は違う。作られた映画とは思えないくらいのリアリティを感じるのだ。わが国に最も近い国韓国。見た目や生活様式も大きく違わない。ここにも同調する恐怖が存在する。バブルが弾け経済発展に乗り遅れた人たち。ヤクザの存在を感じる社会。金のかかる福祉に手を焼く政府。救いの手を伸ばす人も友人もいない。他人のことなど気にかけていられない焦りが巷に充満している。落ちこぼれを救おうとする社会力が希薄になっている。ヤクザは彼らからも金や血まで搾り取ろうとする。ヤクザにもなれない孤独な獣たちが街を徘徊する。ここに資本主義社会の闇がある。気の弱い人は、絶対に見てはいけない作品であることを改めて助言しておく。「羊たちの沈黙」の比ではないからだ。しかし、名作であることは間違いない。


「映画つれづれ草子1」(最近の映画)

2011年05月29日 | Weblog
最近、映画館で見た映画を挙げてみた。
「男たちの挽歌」   (70点)
「戦火の中へ」    (72点)
「悪魔を見た」    (70点)
「SP革命篇」     (72点) 
「あしたのジョー」  (68点)
「ツーリスト」    (68点)
「ファイター」    (75点)
「トゥルー・グリット」(70点)
「ブラック・スワン」 (78点)

 
 どの映画もイマイチ。特に評判高いナタリー・ポートマンの「ブラック・スワン」は、正直少しがっかりした。プリマドンナに抜擢されたニナ(N・ポートマン)が、プレッシャーの為に精神が病んでくるストーリー。現実と妄想の区別がだんだん判別できなくなる。主人公も映画を観ている観客もその判別が麻痺してくるというクリストファー・ノーラン監督の「インセプション」を彷彿させるスリラーだ。しかし、私はニナに感情移入できなかった。アカデミー主演女優賞を獲得したナタリーの演技に共感できなかったのだ。脚本に無理があったようにも感じた。その他、記述した映画も、80点越えできない作品ばかり。「ヒア アフター」(87点)を除き、不満が続いている。

 私が一押しする韓国のカン・ジェギュ監督(「シュリ」「ブラーザー・フッド」)が、オダギリ・ジョーとチャン・ドンゴン主演映画「マイウェイ」を製作中だ。この作品は期待したい。韓国で一番好きな監督だからだ。映画の時代設定は、1928年日本統治下の京城(現ソウル)。憲兵隊司令官を父に持つ何不自由のない少年と、使用人として雇われていた一家の少年との物語。二人は走ることに夢中なり、友情を育むが、ロンドンオリンピック選考会からその関係は変わっていく…。楽しみにしている。

「シャンハイ」この映画も面白そうだ。ジョン・キューザック、コン・リー、チョウ・ユンファ、渡辺謙、菊地凛子の豪華顔ぶれ、監督は「ザ・ライト エクソシストの真実」「1408号室」のスウェーデン人のミカエル・ハフストローム監督。以前ジョン・キューザック主演の「1408号室」を見たが、今までにない展開と映像感覚に驚いた記憶がある。北欧スウェーデン人の監督に、売れ線を狙うハリウッド映画にない斬新さを期待したい。監督を気に入ったキューザックが製作に参加しているのかな。

 スウェーデンといえばスティーグ・ラーソンの超ベストセラー推理小説「ドラゴン・タトゥーの女」「火と戯れる女」「眠れる女と狂卓の騎士」から成るミレニアム三部作を思い出した。原作は読んでいないが、映画はDVD3本で鑑賞。wowowでもやっていたので、合計3回は見てしまった。この映画が、今年今まで見た映画の中でのベスト1だ。昨年の9月に一作目を見て、後の2本は今年になってからの観賞。とにかく一作目の密度の濃さは「Yの悲劇」のエラリー・クィンを彷彿させてくれた。ミリテリーファンなら必ず満足するだろう。しかし、全篇を通して、女性への偏見・軽蔑・暴力がテーマとなっていて、気の弱い人には不向きな作品だ。
 主人公のリスベットの異様な姿と誰にも頼ろうとはしない不屈の精神力、そして実行力が素晴らしい。こんなに売れたのは、スウェーデン版「風と共に去りぬ」的要素があったかも。この本は何とシリーズで290万部を越える超ベストセラーとなり(スウェーデン人口925万人口)、全世界でも800万部も売れた。ハリウッドでも只今リメイク中。「ファイト・クラブ」「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」「ソーシャル・ネットワーク」で今売れっ子のデビッド・フィンチャー監督、007のD・クレイグ主演で映画化が進められている。とくかく推理小説やスリラーものが好きな人にはたまらない作品だ。まずは、ハリウッド版でなく、北欧の湿った冷たい空気を満喫できるオリジナル版をお奨めしたい。
 映画ミレニアム3部作は、グッドラック感動のハラハラドキドキ映画度(88点)


<心底惚れた料理>(「西心斎橋 ゆうの」

2011年05月21日 | Weblog
 私は長い期間、食べ物を提供しその代金を頂くという仕事に従事してきました。ファミリーレストランに12年、その後現在のレジャー施設に至るまで、自ら設計したデザインしたカウンターしゃぶしゃぶ店、割烹の支配人、フレンチ&イタリアンの支配人等を経験しました。この30数年間で美味しい思える料理を何度も食べてきましたが、心から本当に美味しい、心底惚れた料理はそうそうざらにありません。今まで食べた最高の料理は、南紀白浜「コガノイベイホテル」http://www.coganoi.co.jp/bay/に二泊して食べた和食とフレンチのコース料理(2007 2月)でした。皿に乗っている全ての食材、全てのソースを舐めるように食べきった記憶が残っています。肝類や酢の物は弱冠苦手な私ですが、何も残さず、あんなにきれいに食べたことはかつて経験がありません。和食もフレンチも工夫を凝らした思いもよらないデザートにも仰天しました。

       

 あれから4年と3ヶ月、大阪「西心斎橋 ゆうの」で、生涯で2度目の心底惚れる料理に出会いました。待ち合わせ場所から、6人で心斎橋日航ホテル裏の道を歩いていたら、何と店主自らのお出迎えに遭遇。最初から感激してしまいました。店内に入ってカウンターにズラッと6名が並んで着席(カウンターが全部で8席)。
 ビーカーを感じさせる底の薄いグラスに、お好みのドリンクが注がれて、「乾杯!」。疲れた筋肉までほぐれそうな優しい笑顔で、店主自らカウンター越しに一品ずつ料理紹介が始まった。

 食べ終わると次の品が提供され、全品で8品。選び抜かれた特産の野菜から特選の魚介類、お肉、フルーツに至るまで、細やかな技が施されているにも関わらず、強い主張は見せず素材が活きていました。手を加えすぎて、技が全面に主張してしまう懐石料理がありますが、柚野(ゆうの)氏の料理は違っていました。それは、きっと氏の優しい性格が料理にも反映されているのだろうと感じました。酢の物にぶどうのデラウエアが二粒入っていたオリジナリティには驚きました。

       

「この素材を引き立てるには、どの技を用いればいいのか、
 しかもより多くの人に美味しいと言わせたい」

この追求こそ、柚野氏の命題のように感じました。

 もともと茶会に出す料理として千利休らによって考案された会席料理は、懐石料理、割烹として京都と大阪で発展してきました。それらの料理は見た目や皿が優先するかのような料理でした。だから皿が決まらなければ料理は決まらない、などと驕った気持ちが出てくるような気がしていました。今まで何度か、口に入れると「美味しくない」と感じるものもありました。

 料理は人だけが作るもの。当然作る人それぞれに味覚はオリジナルです。例えば辛い物が好きな料理長と塩っ辛いものが好きなシェフでは味付けが変わってきます。その料理をお金を出して若い人から年配者まで食べられるのです。個人の味覚も年齢や体調の変化で変遷していくものですから、味覚は十人十色以上となるでしょう。すべての人に「旨い!」と言わせるのは至難と云えます。特に一人当たりの金額が高ければ、高くなるほど、提供される料理を心底美味しいと感じる確率は低くなるのではないか。それは舌が肥え、自己主張してくるからに他なりません。つまり歳を重ねてくると好みが限定してくるのです。ここに調理人の難しさがあります。しかし、ここに調理人のアイデンティティが存在します。

       

 5月19日、大先輩あいらんど氏の食事会「西心斎橋 ゆうの」でいただいた和食料理は、私の無粋な邪念も吹き飛ばすほど、素晴らしい料理でした。100人が100人、すべての人が「美味しい!」と言うのではないか、そんなふうにも感じてしまいました。オープンして3年のお店が何と、2011年度「ミシュランガイド 1つ☆」を獲得したのも頷けます。あいらんど氏の食事会は、すでにこの数年で10数回、開催されていますが、今回が一番でした。ご招待を受けて一番などと言い放つ私の無粋さをお許し下さい。食事会そのものが私にとって宝物TIMEなのですが、今回はカウンター席で店主自らお料理説明というシチュエーションのため、料理そのものが主人公になったためだと思ってください。

       

 この食事会では口数が少ない私ですが、いつになく饒舌になってしまったのも、素晴らしいお料理に遭遇し、気持ちが高揚したからに他なりません。あいらんど氏はきっと今回、私を唸らせてみようと計画したのではないか。(これこそ、無粋な勘ぐりですが…)万が一、そんなお気持ちだったら大成功だったことはここに記しておきます。きっとこの日記も読まれるはずだから。近い内に連れ添いを誘ってもう一度来店したいと思っています。

「あいらんど様、本当にごちそうさまでした! 心底最高の料理でした!」


もし大阪に来られたとき、本当に美味しいものを食べたいとお思いなら、
決して後悔しないお店を改めてご紹介しておきます。


「西心斎橋 ゆうの」 店主 柚野 克幸氏
住所:〒542-0086 大阪市中央区西心斎橋1-10-35 アルシュ11ビル1A 
営業時間:17:00~23:00 (Lo22:00) 月曜定休
電話番号:06-6281-3690

                    

「脱原発」

2011年05月09日 | Weblog
政治を正しく機能させるものは市民の「漠とした不安のほかにない」。「科学は安全だ」と科学者、政治家が口を揃えようと、市民の「不安」は消えない、そのような新技術は受け入れてはいけない -「国民的合意なき国策」が究極の「リスク社会」を生む。
 前世紀末、ウルリッヒ・ベック(ミュンヘン大学教授)は、このように「リスク・ソサエティ」の概念を構築した。

 1985年、デンマークは「原子力はこれを永久に放棄する」と宣言した。同国では「コンセンサス会議」がもたれる。デニッシュ・ボード・オブ・テクノロジー(デンマーク技術協議会)と呼ばれている。市民20名程度を集め、遺伝子操作、原子力、地球温暖化問題などをテーマに学び合う。男女の割合、学歴、地域、さまざまな条件をバランスさせて、参加者を選び、そこに中立的な専門家、科学者、研究者、つまり、高度のエキスパートが加わり、徹底した専門知識を市民に与えながら議論を尽くす。
 あるものは「科学的にはそうえいるかもしれないが、しかし、私は不安だ」といい、他の市民は「これだけ勉強したけれども、それでもなおこのように不安が残る」と率直に意見を開陳する。それら全てがこと細かに記録され、議会をはじめ科学者、メディアに全て公開される。最終的な意志決定は議会だとしても、誠実に行われた末の国民的議論は、議会も科学者も誠実に聞かなければならない。こうした対応が「リスク社会」時代にふさわしいあり方という認識が徹底していのだ。
デンマークは原発エネルギーを避けたことで、「エネルギー消費を減らしながら国民生活を豊かにする」という国策に向けて英知を結集することができた。いま同国はエネルギー消費の総量をふやすことなく、石油ショック時以降、GDP(国民総生産)を2倍の規模に成長させている。
 デンマークに限らずアメリカでさえ住民投票でサクラメントの「ランチョ・セコ原子力発電所」が廃止され、イタリアでも1987年に20基の原発すべてが国民投票で廃止が決定。90年に全て閉じられている。オーストリアも78年の国民投票で原発廃止を決め、現在原発は1基もない。           (5/8 神戸新聞 うちはし・かつと氏の記事を抜粋)


さて、現在の日本の原発是非の世論はどうだろうか。
2009年4月は、79%(原発容認)、17%(脱原発)
2010年4月は、56%(原発容認)、41%(脱原発)

これだけの大被害を被りながらもまだ国民の半数以上が、原発を容認している国民の意識はいかがなものか。もし今、原発が自らの町や村に作られるということを聞かされたら、100%に近い住民が反対するに違いない。にも関わらず、56%の人が容認してるこの現状をどのように受け止めればいいのか、残念でしかたがない。

 大沢在昌氏は、『天使の爪』の中で、日本人をこのような表現している。『日本人は奇妙な民族だ。大きな夢を持ちたがらない。小銭で車を買ったり、洋服やバッグを買えば満足する。ほとんどの人間は、あきらめて生きている。自分が大きな夢をかなえることなど、ありえない、と。金が好きなのだ。大人も子供も。バブルと呼ばれた、経済が異常に好調だった時代からこっち、日本人は金を使うのが大好きになった。そのくせ、大金持ちになれないと思っている』

 少し過激で小説的な表現だが大沢氏の言葉に共感するものがある。高度成長を経験し、ものを買う喜び=幸福という公式が浸透してしまったように思えてならないからだ。盲目的な資本主義の行き着く先は個人主義でしかない。個人の幸福が他に優先するということだ。周囲の人や自分の家族でさえ優先されることはないのだ。家族の絆や恋愛という言葉は、個人主義の前では価値も重さ暖かさも見いだせなくなってしまったのか。究極の個人主義者が、犯罪者となる。つまり現在の日本は犯罪者予備軍が多数いるということになる。親族を巻き込む悲惨な出来事が数多いのはもしかしてそのせいかもしれない。

 企業の存続の為に首を切られる本人でさえ、あきらめてリストラを受け入れる。契約社員と言う制度は日本と隣国の韓国以外存在しない。企業が国家を動かし新しい法を作る珍しい国家、それが日本だ。そんな両国の資本主義の深耕が、国民一人一人の思想をも歪なものに変えていったのかもしれない。
 大沢氏が云うように、本当に「ほとんどの人間はあきらめて生きている」のかもしれない。誰が首相になろうと、どんな政党が政権を取ろうが、大きな変わりがなく、大企業が国家を動かしているとあきらめて生きているのか。いつの間にか企業存続という大義名分に、まず政治家や国家が心酔し、国民一人一人の心までその意向が深耕してしまったのか。原発容認56%という数字は、国家の成長経済への義務感と国民の過剰な個人主義的購買欲が存在し、電力エネルギーの30%以上を占める原発維持は、現状の経済発展に不可欠と考える国民が過半数以上存在しているということだ。

電力提供はどの国でも基幹産業だが、日本は政治家や国家まで膨大な資本の前にひれ伏してしまった結果が、今回の未曾有の大被害を起こしたと云える。原子力の危険性は衆知の事実だったが、今までそれを力を入れて啓蒙してきた政治家も研究者もほどんどメディアには登場しなかった。それは大企業の権力の前に国家もメディアも媚びへつらってきたからに他ならない。そして国家自身が経済発展という打ち出の小槌によって豊かで安全な市民生活を保障するかのごとく教え諭してきたのだ。国家と電力会社のような大企業が結託してきたからこそ成せる技といえないか。しかし、今後はそれができなくなろうとしているのだ。

 民主党は2009年のマニフェストに既存の水力・火力と風力・太陽光などの再生可能エネルギー源を組み合わせた分散型電力供給システムを構築をめざすと未来図を示した。このとき、私は拍手して喜んだものだ。しかし、昨年6月、民主政権下の「エネルギー基本計画」としての国策は、30年に向けて電力構成の50%を原発に依存し、原発を戦略的な輸出産業に育てると掲げ、原発の新設は14基、既存54基に加えて合計68基とした。私たち国民はいつこの計画に合意したのか。

日本は今大きな岐路に立っている。今後も今までの路線、つまり個人主義を助長させる盲目的資本主義を掲げ(?)、「金を掴むことは正義だ!」とのごとく突き進むのか。それともデンマークのような「コンセンサス会議」を発足し、企業を交えない理性的な協議会を通して、今後のあるべき日本の姿を模索していくのか。大きく分ければこの2択の岐路だ。戦後の高度成長やバブル経済を経験した私たちは、過去の栄光による負の遺産を数多く見てきたはずだ。今回の原発被害はその最たるものかもしれない。デンマークは原発エネルギーを避けたことで、「エネルギー消費を減らしながら国民生活を豊かにする」という国策に向けて英知を結集することができたのだ。決して日本もできないはずがない。勇気と理性と時間をかけ強い信念を持ってすれば。

 企業にひれ伏す政治家たちではそのリーダーシップは取れない。政治家は誰もが臆病な風見鶏だ。だからまず、「デニッシュ・ボード・オブ・テクノロジー」のような国民と議論できるコンセンサス会議を発足し、メディアはその議論の様子を茶化すことなく正確に報道し、国民意識を高める必要がある。この流れを感じて政治家たちは初めて本気になって動き出すに違いない。そして大きくなった民意を背景に、数を増やし議会で将来の電力計画を可決する。道のりは決して容易ではない。経済成長の鈍化を企業や一般市民も望まないなからだ。頼もしいことに災害のための増税や福祉の為の消費税アップを可とする理性的な民意も存在する。政府はその民意に甘えることなく、国民とコンセンサスを得るための議論場を発足し、そして議論を重ね進むべき道を選んで欲しい。

 原子力の代替えエネルギーコストは膨大な数字になる。しかし、今後の国策として民意に基づき、たとえ政権が変わろうとも政府の明確な決定がなければ、今後も代替えエネルギー研究は本腰を入れて進むはずがない。史上初の原子力発電は、1951年、アメリカ合衆国の高速増殖炉EBR-Iで行われた。この時に発電された量は、200Wの電球を4個灯しただけだった。その後日本もまた原子力発電は民意である多数決を得て、発展してきたことはまちがいない。しかし、その多数決に不安がなかったことは一度もなかったはずだ。民主主義の代名詞、「多数決」を得るには、個人主義たちが大喜びする膨大な金が動く。そしてその末端にはヤクザが存在する。民主主義の危険はここにある。つまり資本(金)に動かされるという人間の哀しい性だ。日本民族は戦後この渦中で道を誤ったと云える。今回の大災害を経験して気づくべきだと思う。

 戦後我が政府は、新たなエネルギーに本腰を入れたことは一度もない。米国の原子力開発に追随してきただけだ。エネルギーに関して自立など皆無だった。政権を取った途端に方向転換した民主党は、電力会社から「原発の代替え費用はこれだけかかる、いいですか?」と脅されたに違いない。ならばその内容を開示し、マニフェスト変更のために国民の是非を問わねばならない。それが国策であるマニフェストの意義のはずだ。しかし、政権交代のためのお飾りマニフェストであったことを我々国民は見抜けなかったために、国民はその是非も問えない。
 だからこそ、もう一度云いたい。理性的なデンマークに真似て「ジャパニーズ・ボード・オブ・テクノロジー」のようなコンセンサス協議会の発足を提案して欲しい。そして国民は同じ目線で、このような日本の悲惨な現状を憂い、解決策を模索する場で真摯に議論して欲しい。そしてメディアは誠実にその議論状況を国民に提示して、全体の意識の向上に努めて欲しい。東京湾の先に原発を作る計画は「NO!」で、過疎が進む市町村なら「OK!」という自分だけ良ければいいという個人主義的発想から早急に脱して欲しい。そして将来の家族のために、将来の日本のために、理性的で正しい決断ができる国民にならなければならないと思う。

「むきだしの心は重すぎる」

2011年05月01日 | Weblog
「人に語ることは、教えることではない。それは人にたずねることなのだ」
これは新聞小説『親鸞』激動編の中の一節です。

 作家五木寛之氏の文章にはとても温かいものを感じます。氏の文章を何度も日記で語ってきましたが、今回もその通りだと気づかされました。自分の考えや姿勢を相手に押し付けるのではなく、語ることによって自らを正すことだと私は受け止めました。

氏は連載にあたってこんな事を語っています。
「親鸞の思想は絶えず、揺れ動いています。念仏することで、自分の思想を取り戻す。完成したとか、成熟したとかいったものではないのです。そんな固定したものではない。一歩一歩、完成に向かって進んでいくのではなく、変化し、成長し、後退し、それを繰り返して、最後まで揺れ動いた人だと思います」
「親鸞のいう悪とは、心の闇ということだと思うのです。それは、孤独であり、疎外感であり、妬みであり、コンプレックスであり、鬱でもある。そういうものを象徴的に表したのが悪という言葉だと思います。その心の闇を照らす光が欲しい。仏とはなにか。それは目に見えない、大きな光ではないかと思うのです」
「12年連続で日本の自殺者は3万人を超えました。心を病んでいる人、安定剤を飲んでいる人はその何倍にもなるでしょう。今の日本は、人々の魂が恐慌を起こしています。経済のデフレなんて、それほどたいした問題じゃない。心の闇が濃くなり、命がデフレを起こして、その値段がどんどん安くなっている。それが深刻な問題です。悪とは何か。罪とは何か。この問題を19世紀に徹底して考えたドストエフスキーと、13世紀に先駆的に全身で取り組んだ親鸞が、今の日本で読み直されるのは当然のことだと思います」
(http://shin-ran.jp/upload/shin-ran.jp/images/echo/img_mainichi.jpg より)

 この新聞小説『親鸞』が大きな支持を得ているのは、主人公親鸞の揺れ動く心が、最も身近である読者自身の弱い心と共鳴するからだと思っています。人は獣と違って、生まれてすぐでは、人の世話を受けずして3日と生き延びることができません。しかもその後も何年も人の手を必要とするとても弱い生きものです。そして生き延びるために文字を学び先人たちの教えに耳を傾け、本から知識を習得して<理性>を構築できる唯一の生きものです。

 親鸞がいう<光=良心・理性>を知らずして知識だけを身に付けていくと、深い心の闇によって病んでいくのかもしれません。歳を重ね、生き伸びることは決して目の前の階段を上がっていき、高みに上がることではなく、まるで騙し絵の階段にように上がった筈の階が、今までの階より下にある、しかもこの事に人は気づかない。これが五木氏がいう、「完成に向かって進んでいくのではなく、変化し、成長し、後退し、それを繰り返して、最後まで揺れ動く」人間の本質かもしれません。

 五木氏はその<悪>を「孤独」「疎外感」「妬み」「コンプレックス」「鬱」らを象徴的に表したものだと言いました。私も日記の中で心が病んでいくのは「孤独」「妬み」が大きな原因だと述べてきました。だから五木氏の考え方にとても共感します。そしてそれらを<悪>とするところに彼の非凡で深くて温かい観察力を感じます。


昨夜、一週間ほど前から読んでいた『心では重すぎる』(大沢在昌作品)の中に偶然こんな文章を見つけてドキリとしました。

『(人の心は)いつだって危ないところに浮いている。
 底なし沼の水面のような場所でな。
 浮かせているのは、そいつの道徳心や倫理観だったり、
 他人との友情や愛情、家族との絆や何かさ。
 それがないと、むきだしの心ってやつはひどく重たい。
 憎しみや嫉妬、欲望が、のべつ渦まいているからな。
 どんどん沈んでいくだけだ。心に比べれば、人間の体なんてのは軽いものさ。
 体の方は死んじまって、残っている心だけが、
 人を動かしていることがあるくらいだからな』

 佐久間公を主人公とする失踪者を探す探偵シリーズですが、この作品は日本のマンガ業界やクスリ中毒に悩む人たち、そして東京渋谷にたむろする悪に汚染されながも、それに気づかない若者たちが描かれています。銃撃戦のような激しいアクションは皆無ですがお奨めの名作です。親鸞の話を読んだばかりだったので、共通するこの文章にとても驚きました。

『心では重すぎる』という変わった作品名ですが、失踪した漫画家を捜して当時の編集者に出会い、彼が上記の言葉を佐久間公に伝えます。まさしく大沢在昌氏らしい主題表現の方法です。

『むきだしの心ってやつはひどく重たい。
 憎しみや嫉妬、欲望が、のべつ渦まいているからな』

このセリフが私の心を強震したのです。
憎しみや嫉妬、欲望が人間の本質、本能に直結していると気づいたからです。

 幼い頃、弟や妹が自分のオモチャを使って楽しいそうに遊んでいる姿を見て喜ぶ兄や姉はいません。心が育つには時間がかかります。道徳心や倫理観、他人との友情や愛情、家族との絆を身に付けるには長い時間や温かい環境も必要です。親鸞がいう<心の闇>、つまり<悪>は周囲の愛情や友情、家族の絆が乏しい心に、いつの間にか蔓延していくのです。そして、本人はそれに気づかない。

 ドストエフスキーを心酔した黒澤明監督は映画「赤ひげ」の中で、『貧困と無知』こそ、<悪>であると主人公に言わせましたが、現代の<悪>は貧困だけはなく、豊かな生活を営む家庭にも数多く潜んでいるように思います。これが五木親鸞が思い悩む現代の<悪>の有り様だと思います。<命のデフレ>はここから生じています。

 私たちは心の闇が蔓延しないように、むきだしの心の重さや性質を知らなければなりません。そして、「孤独」「疎外感」「妬み」「コンプレックス」「鬱」は、<悪>に染まり始まる危険な要素だという五木氏の提言に耳を傾けなければなりません。大沢氏は、むきだしの心のままでは重いために水面から沈まぬように浮力が必要だと提言しています。その浮力とは道徳心や倫理観、他人との友情や愛情、家族との絆だと。

 私たちは誰もが心に闇を持って思います。それが人間の本質だからです。だからこそ、その闇に陥らないように光を見つけ、浮力を身に付けなければなりません。そして、幼子ひとりでは決して光や浮力を見出すことも身につけることもでないことを知っておかねばなりません。