今でも時々大河ドラマ「篤姫」を思い出します。
彼女のパワーの源はなんだったろうか?
私は<信じる>力だったように思えてなりません。
母やお菊、斎彬をはじめ、出会ってきた多くの人の真心を信じ、
言葉を信じ、人を信じてきたからこそ、大義を成せたのでしょう。
私は誰かを信じ、誰かを想うことで心の暖炉に火がともるように思います。
その暖かさは、いずれ周囲まで暖めるのではないか、そんなふうに思っています。
しかし、闇雲に信じたり想うわけではありません。
その人の言葉や行動、態度は隠しきれないものがあります。
氷山の一角をみて全体を計るのは難しいことですが、
一対一でのコミュニケーションではなく、
人目を気にしていない何気ない言動の中に、
集団行動での目立たない言動に中に、
人の本質が表れるような気がしています。
私の<信じる>判断基準の一つです。
「誰に対しても、どんな人に対しても同じ応対ができる人」
(友人には笑顔で、知らない人にはぶっちょう面、
表の顔、裏の顔、二枚舌、上司にはぺこぺこ、
部下には偉そうに振る舞う人、
目下にみた話ぶりや接客者に対してお客様ぶる人、
は好きではありません)
一対一で判断するのは最も危険なような気がします。
逢った瞬間恋に落ちる、俗に言う「一目惚れ」など危険極まりないと思っています。
誰かを信じて裏切られることを恐れ、恋ができない人がいる。
きっと過去の経験や知識がそうさせるのかもしれません。
「人が人を騙す」
残念ながらあらゆる人間関係で存在します。
詐欺犯罪がその最たるもです。
振り込め詐欺がいまだに横行しています。
本当に悲しい現実です。
このような人々と私たちは一体となって生活していることを
自然体で受け入れることが大切なような気がします。
しかし、人を信じられないで、時を過ごすのではなく、
<信じる>ことは心を暖かくし、
勇気まで与えてくれることを大切にしたいと思います。
酸素や塩も与えすぎれば害となるように
<信じる>も過ぎてはよくはありません。
そのために私は<信じる>基準を心の中に構築して行くべきだと考えています。
喩えがあまりよくありませんが、
ゲームのオセロはルールが簡単で幼い子供達にもすぐプレーできますが、
囲碁や将棋や麻雀はすぐにはできません。
幼い子が独り立ちできないことを似通っています。
囲碁や将棋は攻めと守りが一体となったゲームですが、
麻雀の勝敗は攻めと守りの他に運が大きな要因の一つとなります。
そう言った意味では一番人生と似ているゲームと云えるかもしれません。
一度きりの人生ゲームではゴールは幸せです。
ルールは複雑と思えば複雑と云えますが、基本は<信じる>ことだと思います。
他にも法律や社会規範、昔からの習慣・伝統、親の教えというルールも存在します。
決して後戻りできず、プレータイムが約80年という長期間のゲームです。
だから裏切られたり、ミスの連続でも、数年のロスなど実はどうってことはないのです。
「もう誰も信じない」
これでは決してゴールにはたどり着けません。
だったら<信力>(私の造語)を磨き、人生ゲーム、
いや現実の人生に挑む方が前向きではないでしょうか。
人は人を騙したり、裏切ったり、脅したり、腐敗したり、復讐したり、
そして、許したり、愛したり、励ましたり、信じたりできる生き物です。
そしてそれらは太古の昔から人間の原動力となってきたのです。
私たちは善人でもなければ悪人でもない、その間の何処かにいる生き物。
そしてこれが人間の本質だと思っています。
私たちはは天使や悪魔ではないのですから、
善人であり続けることも、悪人であり続けることもできないように思います。
だからこそ、原動力の一つ<信じる>(信力)を磨くことによって
騙したり、裏切ったり、脅したり、腐敗したり、復讐しないでいたいと強く想っています.
ドラマの「篤姫」が自分の生きる道を見出し、
それを信じ、人を信じきった人生を歩みました。
前には道がありませんでしたが、
振り返れば一本道だったように思います。
信じる力が自らの羅針盤となると信じています。
彼女のパワーの源はなんだったろうか?
私は<信じる>力だったように思えてなりません。
母やお菊、斎彬をはじめ、出会ってきた多くの人の真心を信じ、
言葉を信じ、人を信じてきたからこそ、大義を成せたのでしょう。
私は誰かを信じ、誰かを想うことで心の暖炉に火がともるように思います。
その暖かさは、いずれ周囲まで暖めるのではないか、そんなふうに思っています。
しかし、闇雲に信じたり想うわけではありません。
その人の言葉や行動、態度は隠しきれないものがあります。
氷山の一角をみて全体を計るのは難しいことですが、
一対一でのコミュニケーションではなく、
人目を気にしていない何気ない言動の中に、
集団行動での目立たない言動に中に、
人の本質が表れるような気がしています。
私の<信じる>判断基準の一つです。
「誰に対しても、どんな人に対しても同じ応対ができる人」
(友人には笑顔で、知らない人にはぶっちょう面、
表の顔、裏の顔、二枚舌、上司にはぺこぺこ、
部下には偉そうに振る舞う人、
目下にみた話ぶりや接客者に対してお客様ぶる人、
は好きではありません)
一対一で判断するのは最も危険なような気がします。
逢った瞬間恋に落ちる、俗に言う「一目惚れ」など危険極まりないと思っています。
誰かを信じて裏切られることを恐れ、恋ができない人がいる。
きっと過去の経験や知識がそうさせるのかもしれません。
「人が人を騙す」
残念ながらあらゆる人間関係で存在します。
詐欺犯罪がその最たるもです。
振り込め詐欺がいまだに横行しています。
本当に悲しい現実です。
このような人々と私たちは一体となって生活していることを
自然体で受け入れることが大切なような気がします。
しかし、人を信じられないで、時を過ごすのではなく、
<信じる>ことは心を暖かくし、
勇気まで与えてくれることを大切にしたいと思います。
酸素や塩も与えすぎれば害となるように
<信じる>も過ぎてはよくはありません。
そのために私は<信じる>基準を心の中に構築して行くべきだと考えています。
喩えがあまりよくありませんが、
ゲームのオセロはルールが簡単で幼い子供達にもすぐプレーできますが、
囲碁や将棋や麻雀はすぐにはできません。
幼い子が独り立ちできないことを似通っています。
囲碁や将棋は攻めと守りが一体となったゲームですが、
麻雀の勝敗は攻めと守りの他に運が大きな要因の一つとなります。
そう言った意味では一番人生と似ているゲームと云えるかもしれません。
一度きりの人生ゲームではゴールは幸せです。
ルールは複雑と思えば複雑と云えますが、基本は<信じる>ことだと思います。
他にも法律や社会規範、昔からの習慣・伝統、親の教えというルールも存在します。
決して後戻りできず、プレータイムが約80年という長期間のゲームです。
だから裏切られたり、ミスの連続でも、数年のロスなど実はどうってことはないのです。
「もう誰も信じない」
これでは決してゴールにはたどり着けません。
だったら<信力>(私の造語)を磨き、人生ゲーム、
いや現実の人生に挑む方が前向きではないでしょうか。
人は人を騙したり、裏切ったり、脅したり、腐敗したり、復讐したり、
そして、許したり、愛したり、励ましたり、信じたりできる生き物です。
そしてそれらは太古の昔から人間の原動力となってきたのです。
私たちは善人でもなければ悪人でもない、その間の何処かにいる生き物。
そしてこれが人間の本質だと思っています。
私たちはは天使や悪魔ではないのですから、
善人であり続けることも、悪人であり続けることもできないように思います。
だからこそ、原動力の一つ<信じる>(信力)を磨くことによって
騙したり、裏切ったり、脅したり、腐敗したり、復讐しないでいたいと強く想っています.
ドラマの「篤姫」が自分の生きる道を見出し、
それを信じ、人を信じきった人生を歩みました。
前には道がありませんでしたが、
振り返れば一本道だったように思います。
信じる力が自らの羅針盤となると信じています。