GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

< プレゼント >

2008年10月28日 | Weblog
「まだまだ欲しいものが一杯ある」
風呂敷が幾つあってもたりないと若い頃は思うものです

でも残念ながら風呂敷は何枚もないことに気づきます
さらに手に入れられないものが今まで以上に明らかになっていきます
(あきらめるという語源が明らかにすることだそうです)

やがて今まで風呂敷に入れてきたものが
重たくてこの坂道を上っていけないことにも気づきます

涙ながらに背負ってきたものを
優先順位に従って捨てていくしかないことを学びます

どうやらこれが大人になっていくことらしい
その事に気づかない人を少年・少女と呼ぶらしい

でも残り少なくなった命の時間だけは誰もが気づくようです
大きいと思っていた風呂敷が
穴だらけの小さな布きれになったことも

そして 哀しいかな
沢山の宝物に囲まれている人も
それらが無意味だったと気づくようです
あの世まで 持っていけないと気づくからです


幸福な人だけが風呂敷に入れられるようなものが
宝物ではないことに気づくようです

気づかない人は寂しいまま人生を終えるようです
殺伐とした氷の世界をさまよい続けるしかないようです


宝物とは<自分への暖かい心>

感じたられた人だけが幸せの国の住民になれるのです



<プレゼント>

そんな宝物をあげ続けたい
あなたにあげ続けたい

一緒に幸せ国の住人になるために……。

「愛とは?」3

2008年10月27日 | Weblog
宗教団体によって多くの貢ぎ物・お布施を必要なところがあるようです。
団体を維持するために当然なんでしょうが、あくまで競わせるものではありあません。
全ては一人一人の想い、感謝の深さが基準です。
「もっと、もっと!」と手を出したり煽るような宗派なら早々に退散した方がいいでしょう。


 カインのようであってはいけません。
 彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。
 なぜ兄弟を殺したのでしょう。
 自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。
               1ヨハネ3:12

私はこの話(日本語訳)も実は気になっています。
「彼は(カイン)は悪い者から出た者」とありますが、
悪い(?)ところから出た者はすべて悪いのでしょうか?
悪いところとは、今の言葉ではどう表現したらいいのでしょうか?

「なぜ兄弟を殺したのでしょう。
 自分(カイン)の行いは悪く、兄弟の行いは正しかった」

という解釈が本当に正しいのでしょうか?

人間の本質は、1949年ロバート・ペン・ウォーレンのピュリッツァー賞受賞作
「ALL THE KING'S MEN」で描かれたように「善人でもなければ悪人でもない、
 その間のどこかにいる不完全な人」だと思っています。

つまり、善人と思われている人も、人を裏切ったこともあれば、
悪人と後ろ指を刺されている人が、善行の経験が皆無ではないのです。
人は善と悪の中間を行った来たりしている不完全な心を持った生き物だということです。

そのために宗教が生まれたと思いたいのです。
許しを請うすべての人を受け入れるのが宗教だと思います。
悪人に肉親を妬み殺意を抱かせるような対応をしたとしたら
その責任はいったい誰にあるのでしょうか?

100万円持ってきた人が善人で、1万円しか出せなかった人は悪者?

悪人と思われている人が千円を、善人と思われる人が1万円を持ってきても受け入れ
善人が千円を、悪人が1万円を持ってきても受け入れ、
善人には今後も善行を続けることを話し、
悪人には悪行を改めるよう説得するのが、
宗教を携わる人の役目ではないでしょうか?

貢ぎ物やお布施というものは、信心することによって得られた心の安らぎや
生きる勇気と希望への感謝の気持ちだと思います。
大きな安らぎを得られたのならその気持ちを貢ぎ物に反映させればいい、
これが基本だと思います。
他の人と感謝の気持ちに差があっても当たり前のことだと思います。

善人だろうと悪人だろうと、金持ちだろうと貧乏だろうと、
妬む気持ちが起こりやすい人は怒り易いものです。
その心根を助長するような宗教は間違っているように思えてなりません。

カインの貢ぎ物を許す心が大切なんではないでしょうか。
そして貢ぎ物に悪意を感じても、すべての人と同じように接しながら、
その行いの是非を少しずつ自問自答させるのが宗教だと私は思っています。


「愛とは?」という問いに対しての答えが、少し横道に逸れたかもしれません。

<許し>が愛の本質であると最初に述べました。

そして、許せる心が怒りをおさめることも述べました。

カインとアベルの話についての解釈の相違を話して、
許しと嫉妬について語りました。

まだまだ「愛とは?」の答えに到達できたとは思っていませんが、
今、到達している私の答えは「許せる心」です。


先週10/19放映の「篤姫」で小松帯刀の愛人を許す妻が描かれていました。
竜馬の奥さんのお竜さんが

「あの人と出会えただけで幸せ、あの人が生きているだけで幸せ。」と云っていました。

この気持ちは、愛ではないでしょうか?

そこには「許せる心」が存在しています。

「おめでとう! 巨人原辰徳監督」

2008年10月26日 | Weblog
2008年10月25日
原辰徳監督は 8回東京ドームのグラウンドで空を舞った。
想定外の胴上げだったという。
原辰徳50歳、その心中はいかに…

2003年 阪神甲子園での最終試合。
星野監督の胸で泣いた日から5年の月日が流れていた。
「必ず、戻ってこいよ!」
星野監督は我が子のような思いで辰徳を抱きしめた。
タイガース応援団も原監督に心からエールを送った。
東京ドームでファンにお別れを云う機会も与えられなかったのに、
敵地阪神タイガースの本拠地甲子園球場で、星野監督から花束が手渡された。
あの時の感激は、
改めて自らの不甲斐なさと巨人ファンへの熱い想いとなって胸深く刻み込まれたはずだ。

2005年 堀内監督がチームの成績不振により引責辞任。

2006年、再び指揮を執った原監督。
開幕ダッシュには成功したものの、若手の経験不足もあり、
10連敗などの大連敗を喫し、2年連続Bクラスとなる4位に終わった。
10月10日のホームゲーム最終戦で東京ドーム創設以来初めて相手チーム
(落合博満監督率いる中日ドラゴンズ)のリーグ制覇の胴上げを見ることとなった。

2007年、チームは小笠原道大や谷佳知など他球団の主力が加入し、
打線の繋がり・得点力が向上。開幕投手を努めた内海哲也、
復活した高橋尚成・木佐貫洋の3人を中心とした先発ローテーションが安定、
故障で出遅れた上原浩治のストッパー起用が当たり、5年ぶりのリーグ優勝を果たした。
しかし、セ・リーグのクライマックスシリーズセカンドステージで、
ペナントレース2位の中日ドラゴンズに初戦から3連敗を喫し、
日本シリーズ出場を逃した。

2008年の秋、8回も空を舞った。
8回も舞った監督は今までに見たことがない。
誰一人カメラで仲間と記念撮影をしている選手やこちらを見ている選手はいなかった。

西武の優勝日も同じだった。

「球界の紳士であれ」と指導されていたからだろうか?
私にはそう思えなかった。
想定外にも胴上げが始まり、しかも80kgを越える身体が8回も持ち上げられた。
選手たちの気持ちが一つになっていたからに違いない。

その熱い想いを原辰徳監督は、
ドームの天井が8度も近づくのを見ながら感じたに違いない。
インタビューでついに男泣きしてしまった。

私はまだ残り試合もあるのに「泣くようなヤツは嫌いだ!」
いつもテレビ観戦していると家族の前で言い放っている。
だから今回も、妻も息子も同じように「泣いたらあかん」と洩らしていた。

(辰徳…今回は別だ、 泣いてもいいよ… 
 あんな場面で、込み上げてくる涙を我慢できる指揮官などいるはずがない…)

一週間後、日本シリーズが始まる。

今年の西武野球は今後の日本野球を変えるかもしれない。
そして、かつてない爆発的な攻撃力と指揮官たちの明るさが際だった。
まるで「大リーグのようだ」そう感じた。

オリンピックで見た韓国野球と同じものを感じた。
一言で云えば「一球目から渾身の力で振り切る迫力」だ。

打席に立った打者は、まるで一球目は必ず振ると決めているような
豪快なフルスイングを全員が実行した。

「考えるのはツーストライクを取られてから」

指揮官からの単純明快な指示が、
考える野球という<呪縛>(じゅばく)から解き放った。


考える野球に初めて接したのは、
野村克也氏が現役を引退し解説者としてテレビに出演した時だった。
「バッター心理、ピッチャー心理、そしてキャッチャー心理」とは?
まさしく心理学を通して野球を分析して見せた。
この分析に私は感動した。
弱小チームが強大チームに勝つためには必要だったという。

監督として最初に教えるのは「情」だという。
当然この話について行ける若者はそうざらにはいないだろう。

それでもこの指導の徹底が、ヤクルトやタイガースをAクラスに引き上げた。
しかし、今考えれば天真爛漫な若者の出鼻をくじいたようにも思う。

長所は短所にもなるのだ。
典型的な例は、新庄選手だろう。
ノムさんには理解を超えた存在だったに違いない。
新庄選手はあまりにもけた外れだったため、
指揮に関わることもあり、あえて放出しメジャーへ挑戦させたようにも思える。

今阪神タイガースはまさに大きな分岐点にいる。
野村・星野・岡田野球の継承は、<呪縛>という警鐘を鳴らしたはずだ。
その<呪縛>こそ阪神が陥った穴のような気がする。
それはオリンピックでの不甲斐ない野球でも明らかにされた。

真弓新監督は新人の発掘と育成に全力を上げると共に、
どんな野球を目指すのか、全選手に明示しなくてはならない。
「考えるのはツーストライクから」のように明確でなければならない。
それができなければBクラスに低迷するヤクルトと同じ轍(てつ)を踏む。

韓国に負けた日本野球と巨人に負けた阪神タイガースの野球は
負けた要因が大変よく似ていると私は思っている。
その要因の中に、
新生阪神タイガースの目指すべき野球があるように思えてならない。

11月1日から始まる2008年の日本シリーズ。
今後の日本野球に大きな影響を持つ両球団の戦いでもある。

私はタイガースファンである前に、大の野球好きだ。
だから、巨人を宿敵などと思ったことは一度もない。
それぞれのチームがカラーを出して、いいチームを作り、
面白い試合(セパのクライマックス・セカンドステージのような試合)を見たい。それが希望だ。

巨人と西武に大きな差は感じない。

目指す野球は渡辺西武の方が明確だが、
この2年で若い選手の育成に成功した原巨人も、
新たなチーム像が確立したかのように見える。
そのチーム像は、今まで巨人の監督を歴任した多くの監督が、
目指そうとはしなかった新しいチーム像のような気がするのは私だけだろうか。

新生タイガース、どんなチーム作りがいいのだろうか?
そんな思いを胸に、一週間後の日本シリーズをじっくり楽しみたい。

「愛とは?」2

2008年10月26日 | Weblog
 もう一度云いますが、私はどの宗派にも属していませんが、
信じることで許せる心、穏やかな心、怒りをおめられる心のあり方を宗教力で
修整もしくは改善できるなら素晴らしいことだと思っています。

怒りを収める? 治める?どちらの漢字かなと思い検索してみました。

そこでこんなページに出会いました。
〇〇〇の教会:http://shiroyamachurch.blog22.fc2.com/blog-entry-446.html
 
・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

 カインのようであってはいけません。
 彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。
 なぜ兄弟を殺したのでしょう。
 自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。
               1ヨハネ3:12
  
・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
 
『旧約聖書の創世記に、カインとアベルという兄弟の話がでてきます。
 ある時、二人は神様に感謝のささげものを携えてきました。
 アベルは自分が世話をした羊の最良のものを感謝を持ってささげたのです。
 しかし、カインは、そうではありませんでした。
 どうでもいいような、賞味期限切れのような作物を持ってきたのです。
 神様は、これらのささげもののどちらに目を留められたでしょう。
 もちろん、こころを込めてささげたアベルの方でした。
 すると、カインはそれに怒って、文句を言い始めました。
 神様はカインのこころに語られました。
「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。
 しかし、あなたが正しく行っていないなら、
 罪は戸口で待ち伏せているから気をつけなさい」と。

 しかし、カインの怒りは治まりませんでした。
 なんと弟アベルを殺してしまったのです。
 聖書に登場する最初の兄弟殺人事件です。
 悲劇ですね。
 怒りをおさめることができないで、結果的に殺してしまったのです。
 人の姿は昔も今も変わっていませんね。
 今の時代は、ますますイライラが募り、
 怒りをおさめることができないような時代です。
 しかし、その怒りをきちんと治めることをしないと、
 それは、罪が戸口で待ち伏せしている状態なのだと聖書は教えているのですね。』

聖書をこのように分かりやすく解説された牧師の方のお話、
どこかおかかしくありませんか?
私は彼の解釈が間違っていると思えてなりません。
カインの怒りの根源は何なんでしょうか?

アベルは最良の羊(最も高価な物)を捧げましたが、
カインは賞味期限切れのような物(安い物)でした。
賞味期限切れのような物であって、期限切れの物・腐ったものではありません。
カインがもし貧しかったら神は彼を責めるでしょうか?
(私はカインがどんな人物か聖書をよく読んだ事がないので、
 善良な人として捉えています。
 しかし旧約聖書では「彼は悪い者から出た者で…」
 と書かれていいるのであまり素行がいい人ではないようですが…)

神が「安物を持ってきやがってっ!
もっと良い物を持ってこい!」などど怒るでしょうか?

私はカインの怒りの根源は、アベルへの嫉妬だと思います。
もし神が、カインの貧しい貢ぎ物を
(家族が食うに困っていたかもしれない、反対に金があったが粗末なものを持ってきた、
 私にはどちらでも同じだと思うのです)

「よく持ってきてくださった」と心からお喜びなさって、
「アベルへの怒りなど持ってのほかですよ。
 私はあなたの貢ぎ物で十分満足していますよ」

 とおっしゃっていたらカインは怒りなど生じなかったのではないかと思うのです。

他人の富や純粋な心を妬んだり、弄んだり、陥れたりしてはいけないのです。
それは自らを地獄に陥れるようなものだからです。
大きなきれいな壁に落書きしたり、
高級車のボディーをナイフで傷つけたりする行為をしてはいけないのです。
学校でも担任が平等に生徒と接しない場合、
同じような妬む心が子供達に生まれてしまいます。

また、日本の消費税のあり方とこの話はよく似ています。

金持ちと貧しい人から均一に取る日本の消費税のあり方に
大きな問題があると常々思っています。
一般の食品や医療への課税は、撤廃されるべきだと思っています。
キャビアのような珍味こそ、3ナンバーの付いた高価な車の税こそ、
もっと高い税を課していいのです。

企業は高級車の税を低くしてドンドン売って売上や利益率を上げたいでしょう。
しかし、そんな車を維持できない年収の方が高級車を見栄で買ってはいけないのです。
それはカインが犯した嫉妬を増加させることにつながるからです。
家族の衣料・飲食費、教育費を含めた家計に負担を強いることになるからです。
そして、その車を手放すことは嫉妬と生み、怒りへと姿を変えるのです。

アベルの最良の羊を貢ぐ行為は、高い税金を払う自然な行いと見るべきなのです。

嫉妬こそ、心を病む第一歩だと私は考えています。。

その事を云いたくて、カインとアベルの話が聖書に存在していると思いたいです。

あの教会の牧師が解説した
「神様は、これらのささげもののどちらに目を留められたでしょう。
 もちろん、こころを込めてささげたアベルの方でした。」

この解釈は間違っているような気がしてなりません。

カインの安価な貢ぎ物を<許す心>こそ、最も神が伝えたいことだと私は思います。

「愛とは?」

2008年10月25日 | Weblog
許せないから人は怒り、とんでもないことをしでかします。
そしてその怒りは、ストレスを増加させ成人病を誘発させます。

許せないことが増大しているのが現代の特徴のような気がしています。
こんな世で許せる心を育てるのは本当に無理なんでしょうか?

<許せることが愛の証>だと信じています。

つまり、裏を返すと「愛とは許せる気持ち(心)」ではないかと思っています。


許せないから人は多くの過ちを犯してしまいます。

殺人は決してやってはいけない最も愚かな行為です。
隣の車の追い越しを許せなくて、スピード違反をしでかす。
タバコの煙が許せなくて争いになる、
我が子の行いを許せなくて手をあげてしまう、
酔っていてぶつかった相手を許せなくて、殴ってしまう、
離婚も愚行ではありませんが、許せないからするのです。


怒る人は、愛が足りないのです。

離婚の原因としては
・行きすぎたギャンブル
・アルコール中毒&他の薬物の病気
・暴力
さすがに、この3つは許し難いものがあります。

(ギャンブル)
 父はこれが一番恐ろしいかもしれないと云っていました。私の従兄弟は歯医者をしていましたが、病院・家・その他の財産すべてをヤクザに取られてしまいました。今どこで何をしているのかも分かりません。今ではパソコンや携帯から日本中の公営ギャンブルに賭けることができます。病院のベッドにいてもそれができるのです。まさに恐ろしいシステムというほかありません。ギャンブル狂にはくれぐれもご用心を!

(アルコール中毒)
 過去、私の周囲に二人いました。二人とも商店街の店主で親父の友人でした。二人ともゴルフに行っても朝から冷や酒を飲んでいました。顔は黒く、肝臓をすでに蝕んでいたのでしょう。一人は飲酒運転で電柱に激突し死亡、もう一人も入院し若くして亡くなりました。仕事がら酔っぱらいとは何度も接していますが、彼らにはこちらの意志が通じません。ヤクザと同じです。そして身近の家族にも暴力沙汰にもすぐなってしまいます。

(暴力)
 暴力は習慣です。そして、だんだんエスカレートしていくようです。昔、自分が圧倒的暴力の前にひざまづいた為に、弱者の前ではその復讐を行ってしまうようです。かつて弱かったときの反動なのでしょう。残念なことです。最初から強い人は暴力で人を圧倒する必要はありません。暴力が家族や親族に及ぶようでは遠ざかる以外にないと思います。暴力はアルコールを伴う場合が多いようです。瞬間の苛立ちや怒りでも手を挙げてしまい過剰な暴力があるなら早々に離れた方がいいと思います。生命の危険があるからです。


よくある理由として「浮気」もあります。

 浮気で絶対に許せないのは、女(男)の家に入り浸り、我が家に帰ってこない。金を女(男)に貢つぐような場合です。家庭裁判所もすぐに離婚を認めてくれるでしょう。生活権を侵害されたからです。それ以外の場合で反省しているなら、許してあげて欲しいと思います。そんな場合は、長続きなどするはずがないのですから。家に帰ってくる、生活費を持ってくるなら……。しかし、それでも許せないのは愛がなくなっているのでしょう。愛があれば許せるはずです。

 大切なことは生き抜くことなのです。生き抜くために離婚し、生き抜くために離婚を思い止まる。ここが大切なような気がします。

 憲法二五条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
と書かれており、国民の生活権、生存権を基本的人権として保障しています。この生活権、生存権を奪われるなら(給料を持ってこない、家に帰ってこない、暴力を振るう、アルコールやその他の中毒のため危険であり、最低限の生活が営めない)離婚は成立するので、即座に離婚すべきです。

 しかし、別れたい感情が優先してしまって、人間であるまえに生きものであることを忘れてはいけません。食べて行かねばならないのです。その為には金を必要とするのです。親が金持ちの場合は容易に離婚に至るでしょう。しかし、親から考えれば我が子の幸せを願うのは当たり前とはいえ、かさの高い大人(娘や息子)が帰ってくるのは、考えようによっては迷惑な話です。自立したはずの娘や息子をまた、面倒みなくてはならないのですから。余裕がなければ当然のことです。そして、余裕がない親の方が断然多いことを知っておかねばなりません。

「寛容に出会った子どもは 忍耐をおぼえる」とドロシー・ロー・ホルトの詩の一節にありましたが、寛容とは<許し>に他なりません。

 愛情が豊かでなくては、決してできる行為ではありません。夫婦や恋人、友人関係においても同じです。許された夫や妻、許されたカップルの相手、許された仲間は忍耐・我慢を覚えます。つまり忍耐・我慢が寛容な心を作り、豊かな愛を育んでいくでしょう。許せない気持ちは、怒りや苛立ちを生み、許す以上にストレスを増加させるでしょう。しかも大幅に。

許すことが豊かな愛を育みます。

お金は使えば使うほど、目減りしていきます。
しかし、愛は決して目減りすることはなく、心を大きく豊かにしてくれます。
それは、愛の本質が<許し>にあるからだと思います。
許せない人の泉はどんどん減少していくのです。
求めるだけの人の泉も枯れていきます。

商売と違ってギブ&テイクでは泉の水は増えていかないのです。
きっと、商売もギブ&テイクだけではいずれ枯れていくにちがいありません。

許す気持ちは、その時は辛いかもしれませんが、いずれ人の懐を大きくしていきます。
理解していこう、理解したい、この気持ちを大切にしたいと思います。
どのように考えれば許せるのか、そう想い悩むからこそ、
人の心に一歩近づけ、思いやる気持ちが育ちます。
愛の泉はそんな心から生まれるような気がします。

                     (続く)

「女と男のいい関係とは?」3

2008年10月24日 | Weblog
 私は幼い頃から賢い女の子に想いを寄せる傾向がありました。今でも良く覚えているのはチエちゃんです。小学校2年から4年まで一緒のクラスでお母さんは美容院を経営し、お父さんは犬猫病院の医院長でした。我が家の愛犬もその医院で何度もお世話になりました。

 チエちゃんへの想いは、彼女が中学・高校と違った学校(私より一ランク上の高校に進学)へ進学した為、大きな高まりもなく、大学時代まで細々と続きました。チエちゃんはその後、全日空のスチュワーデス(SA)として海外を飛び回っていました。一浪して東京の大学に入学した私は、3年生の時、渋谷で再会し、その頃集めていた世界のトランプを何度かプレゼントして貰いました。しかし、その頃、大恋愛に陥っていた私は完全にチエちゃんとの関係を打ち切りました。

 また、中学時代に好きになった女の子はチエちゃんと同じ高校に進学し、その後薬剤師となりました。彼女とはまったくの片思いままで終了しました。高校時代はフォークソングとギターに明け暮れて、恋愛面では中学時代の片思いが後を引き、人生最悪の暗黒時代だったこともここで告白しておきます。

 不思議な偶然ですが、スチュワーデスのチエちゃんも大恋愛した女性もチーちゃんも、名前が漢字まで一緒だったことの偶然が、何故か大変思い出深いです。チーちゃんは大手都市銀行に就職し、一年後本店の人事部人事課に配属になったのですからしっかりした女性だったことは云うまでもありません。職場の周囲には東大・一橋・早稲田卒といった行員ばかりだったそうです。私のようなボンクラ学生ではあの当時、都市銀行など決して入社いや入行できませんでした。

 ダラダラと長くなりましたが、とにかく、幼い頃から20歳を過ぎても、賢い女性・しっかりした女性に惹かれていたことは確かです。しかし大恋愛が破局し、(お恥ずかしいですが)性生活が乱れ始めていた時期に、一生の連れ添いになる妻と出会います。そのときの心境は決してしっかりした女性が最優先ではなかったように思います。妻に初めて声をかけたのは好きな映画への誘いの言葉でした。「いいですよ」そんな返事が笑顔で飛び込んできました。内心、OKと即答した彼女の無防備な天真爛漫さに驚きました。天真爛漫は、私の女性選びの優先順位の上位にはランクされていませんでした。

 親密な関係への移行も極めて早かったと思います。当時の私の経験度は、大学時代の一穴主義(?)とはほど遠い状態にありました。つまり、相対的人物感、いや相対的肉体感の基準ができつつあったように思います。その後、妻と遠距離恋愛になったこともあり、何人かの女性とつき合いだしますが、親密にはなれず彼女との関係だけは途切れることはありませんでした。

 さてここで妻の想いはどうだったかを以前、尋ねたことがあったのでご紹介しておきましょう。一番印象に残っているのは、「あなたに好きだから逢いたいのか、抱かれたいから逢いたいのか分からない時期があった」と云う言葉です。まさに天真爛漫な彼女でしか吐けない言葉だと思います。また、遠距離恋愛(名古屋と東京)となって、私が別の女性と恋に落ちてもしかたない、自分には私を引きつけておくだけのものがないとも云っていました。大学生だった彼女は大学を去ってでも私の元に行きたいとは思わなかったとも云っていました。ここにとてもリベラルな性格、冷静な性格が感じられます。

 私が彼女に声をかけたのは彼女の人への接し方やその時の笑顔でした。その笑顔が自分より年下の高校生、年配の人たち、上司やお客様でもまったく変わらないところでした。それは裏表のない性格、無防備といえるほどの天真爛漫さからくるものと感じていたのです。

 私はその頃、大恋愛が破局し女性不信に陥っていたかもしれません。彼女と同時期に他の女性と付き合っていた瞬間もあったことは認めますが、そんな状態だったからこそ、彼女の天真爛漫さが際だったのは間違いないようです。彼女もまた他の男性に移行する機会がなかったわけではなく、リベラルな性格が彼女に相対的人物感を学ばせ、男性の性格や人物をかぎ分ける能力が身についていったことも確かなようです。

 人に対して「自分の感情をごり押ししない」という私の態度を、自分の領域を侵さないでとても大切にしてくれる人と感じ、しかも嫉妬・束縛しない人と思ったそうです。セックス行為の中でも同じように感じたそうです。また、長くて辛い仕事にも関わらず、決してグチを云うでもなく、反対に楽しそうに話す私の態度に好感を持っていたそうです。(これらの話や今回の記述に関して改めて妻に再確認し、この日記の内容をすぐ横で楽しそうに読んでいることもご報告しておきます。また今回の日記を息子が読んでいることも追記しておきます。)


さて、いよいよ「女と男のいい関係とは?」の結論です。
 
 パートナーとの肉体関係は非常に重要です。我が夫婦の恋愛の切っ掛けは、肉体関係がスタートだったと妻も認めているように、私はセックスが人生の中で占める割合が大変高いと若い頃から直感していました。だから体験する前から多くの官能小説を読みました。川上宗薫から始まって阿部牧郎、豊田行二、富島健夫らの本を乱読し、自らの体験に備えました。高校時代の暗黒の青春時代があったからこその反作用だったかもしれません。

 セックスが男女のいい関係を継続するために大きな役割を果たすという若い頃の直感が、実生活において当てはまっていた事実を、これからパートナーを見つけようとしている人たちに知っておいて欲しいのです。セックスは理性的でなく感情的なものという大前提を認識しておいて決して無駄ではないということです。妻もこの意見に賛同しているからこそ、自らの恥ずかしい想いを告白してくれたと信じています。

 ソクラテスが「無知の知」を知らしめるものこそ「理性」であると喝破しました。また彼は、人間が自由であるためには何よりも受動感情から脱して、理性ないし知性の支配を確立せねばならないとも説いています。そんなソクラテスも「理性とは、感情という名の大海に浮かぶ一片の木の葉のようだ」と嘆いています。感情とは本能から発した心の叫びだからでしょう。セックスの願望も、本能の叫びに違いありません。

 もう少し突っ込んだ話をすると自分がS的要素を持っているならM的要素を持った人を選ぶべきなのです。また、セックス行為から本音の性格的要素を感じ取れます。ソクラテスは心の自由を得るためには感情を脱して強い理性が必要だといっておきながら、感情とは大海のごとく大きなものだと嘆くのは、感情からその人の本質を見極められると思っていると思えてなりません。

 相手を思いやる人、自分だけ満足すればいい人、好奇心旺盛な人、大ざっぱな人、きめ細かい人、清潔好きな人、乱暴好きな人、リベラルな心の持ち主、セックスが嫌いな人・好きな人など。経験の少ない若い人に、その最中に相手を分析するなど、ほとんど不可能なことですが、動物的感覚からどのように感じたかは自覚できるはずです。

 行為の中で暖かい愛を感じられる行為を見つけるのは、決して難しくはないはずです。ただパートナーシップにおいて肉体関係の比率が高いとは云え、決して50%を超えるわけではありません。育ってきた環境や今までの生活レベル、知的レベルの相違や将来への願望の相違、二人を迎える環境など、その他大切な事柄はいくつもあります。

 そういった意味で、いい関係を維持する為に最も大切なことは、
<お互いの本音を知り合う気持ち、お互いを尊敬し合う気持ち、
 お互いを信頼し合う気持ちを、新婚初夜から幸せになるために
 構築していこうというお互いの意思の疎通だ>と思っています。

その為には「セックスの相性がいいことがとても有効です」という
一つの意見を知っておいて下さい。

「女と男のいい関係とは?」2

2008年10月23日 | Weblog
何を基準に自分のパートナーを選ぶのがいいのか?

例えば「相手が可愛くないとダメ」という思いの男性が、
そんな女性と結婚したとする。

ところが、いざ家庭に入ってみると掃除や料理がまるでダメだった。
そして自分の周囲に、見た目は10人並だがとても家庭的な女性がいて、
彼女といると居心地が良いことに気がついた。

こんな場合は、可愛いことが優先で相手を選んだが、
実は家庭的な女性を求めていたことに気づかなかったということです。

ある女性はひどく貧しい生活をしてきたため、
自分のパートナーは絶対に裕福な生活を維持できる相手を選びたいと思っていた。
そして金持ちの男性といっしょになった。

ところが男性に金の他に時間ができてくると女遊びが始まった。
こんなとき、本当に裕福な生活が優先(本音)している場合は、
なんとか我慢できるのではないだろうか?

しかし、我慢できず離婚し、
貧しいが家庭的で自分を最優先に想ってくれる男性と出会い再婚した。
こんな場合は「自分を最優先に想ってくれる暖かい家庭を築ける人」を
初めから選ぶべきだったのかもしれません。

また、金持ちの生活を経験して物質的欲望が満たされてしまうと、
初めて想われる暖かい生活の幸せを知ることもあります。
幼さのため最初から相手を選ぶ基準が違っていたということです。

日記に何度も書いてきましたが、
「自分の本音を探すことが人生の旅だ」と私は思っています。

その大切な道行きのパートナーを選ぶとき、
わずか30年足らずの時間(結婚までの期間)で
自分の本音に人はたどりつけるのでしょうか?
私の場合から考えると大変難しいように思うのです。
だからパートナー選びは<大きな賭け>というしかありません。

そして、運命共同体となった二人のそれぞれが持っている運にも
大きく左右されるに違いありません。

ただ云えることは、人生最大の決断(半世紀を生きてきて私はそう思っている)
するのですから少なくともその時点での自分の本音だけは
しっかりと自覚しておく必要があるように思うのです。

たとえその後、上記のような過ちに気づいたとしても、
きっと誰のせいにするわけでもなく受け入れられるような気がするのです。
その受け入れる気持ちこそが、
相対的人物感の構築やその後の将来に対して大きな糧となり役割を果たすでしょう。

私が就職活動する時点の条件は2点でした。
1)将来伸びる業界・産業の伸びる可能性のある会社。
2)上場できる会社。

私が就職した1977年から31年が過ぎました。
12年間勤めましたが、その間一度も辞めたいと思ったことはありませんでした。それは自分の最初の条件2点を確かめたかったからです。上場前に辞める同期の連中がいかに多かったか。120名入社した同期が12年後5,6名になっていたことからいかに肉体的にも精神的にもきつかったことがわかりますが、その時点の思いが強ければ乗り切れるのです。
今、外食産業という業界は1977年の市場規模9兆円から約3倍に伸ばし、
在籍する間に就職したD社も上場も果たしました。

 ただ、私のような想いが強ければ、十分体験しその結果を見届けると(ファミリーレストランの限界が見えた)次の段階に進みたくなるのもいたしかたありません。つまり当初の目標をクリアーし、新たな目標を求め始めたのです。そして子供の小学校入学という転機も私の転職を奨励しているかのように思えました。今のままでは異動のため引っ越しを伴い、転校を余儀なくさせるからでした。

 故郷大阪に帰り(自宅で両親の自営業を手伝う)、1年半後創立100年というような電鉄会社から声がかかり、今までD社で得た最先端の飲食店経営の知識と経験が活かせる職場への復帰が決まりました。1990年、関西の企業ではまだバブル経済が最高潮を維持しており、そういった時期が復職の大きな追い風になったと今では感じています。

「女と男のいい関係とは?」から私の就職・転職の話に移行しましたが、
次回は、いよいよ実際の私のパートナー選びについて、
赤裸々なお話をいたします。ご期待下さいませ。

「女と男のいい関係とは?」1

2008年10月23日 | Weblog
 私の大学時代、「エマニエル夫人」というフランス映画が大ヒットしました。ストーリーは、外交官の夫が妻の貞淑なエマニエルを、もっと奔放で官能的女性に仕立て上げようとするお話です。夫の指示でレズの女性や多くの男性が、エマニエルを翻弄していくうちに、官能的資質が開花していくのですが、若いハンサムな男性に心まで奪われていくのではと、夫はだんだんと嫉妬するようになってしまい、とうとう別れてしまいます。エマニエルは自分勝手の夫の束縛から解き放たれ、自立した女性に成長していったというエンディングでした。テーマ音楽と共に大ヒットし、その後も数多くの続編が作られました。

 パートナーの身体と心の成長を喜ぶ気持ち、人間的に成長したパートナーが心から自分を選んで欲しい、そんなパートナーと生活を共にしたい、それでこそ、心と身体がつながり合った平等で自由な関係と云えるのではないか。あの頃、映画を見終わってこんなふうな想いが頭を駆け巡りました。そして嫉妬という感情が酷く下等なものに感じました。

 同じようなストーリーに映画「マイ・フェア・レディ」があります。酷い訛のある花売り娘を言語学者が、英国上流階級の言葉遣いができるように仕立て上げられるかという賭けをする物語でした。オードリー・ヘップバーンが汚れ役から変身していく様子が、見事な映像と音楽がマッチして大ヒットしたミュージカル映画でした。

 もう一つ、似たストーリーを知っています。渡辺淳一の文芸物で映画化もされた『化身』です。文芸評論家でもある大学教授は、若い銀座のホステスと関係をもち、やがて彼女を自分好みの女に変身させることに夢中になっていきます。しかし、やがてしっぺ返しをうける、男の身勝手でどこか切ない物語でした。

 この三つのストーリーの共通するのが自立していく女性が男性以上に強くなっていく点です。当初は圧倒的に男性優位でいるのですが、だんだんとそのバランスが変わっていきます。女性が男性を愛するとき、「頼る」気持ちと「愛情」の境目が極めて曖昧に思えてなりません。これはいい意味で私は感じています。しかし、その頼りがいや尊敬心が薄れていくにつれて、女性の愛情も薄れていくように感じるのが残念でなりません。

 客観的に考えてみて下さい。男性は以前と変わらないのに女性の方だけが急速に成長して男性をいつの間にか見下して?しまうのです。この<急速の成長>に課題があるようです。上記の3人の男性が自分の成長を無視しているのはいかがなものかと思いますが。

 相手の人格度を見誤ったのは自分にも関わらず、相手への愛情を失っていくのは、どこかおかしくありませんか? 軽薄さと幼さは紙一重です。その差は人に対する姿勢だと感じています。軽薄さは人への尊敬心がなく安易に考え人をバカにする傾向がありますが、幼さは敬語の使い方を知らない、尊敬心を知らないことが原因です。尊敬や信頼の意味することを理解できれば幼さは解消できるのです。

 昔、森進一と大原礼子のビッグカップルが破局したとき、森が「男が家に二人いるようだった」というコメントを残しましたが、同じ意味のことを云っているのではないでしょうか。

 とにかく男女のいい関係作りにはかなりの時間が必要な気がしています。そして二人のどちらかが仕事や子育てで追いまくられているようでは大変難しいような気がします。

いい関係作りのための良くない条件を整理してみました。
1)お互いの日頃の苦労が明確に伝え合えないという点。(子育ての苦労や仕事上の悩み)

2)どちらかの稼ぎが大きすぎたり、一方的だと、どうしても相手に無意識に隷属的姿勢や恩着せがましい態度になってしまう点。

3)肉体的欲望のバランスが男性の方に傾きがちな点。(反対の場合も少なくない?)

4)二人を取り囲む環境の不平等な点。(義理の姑・舅等の関係)

この4点が多くの不和を発生させているように思います。
時間がかかると云ったのは、この4点が消滅するための時間の経過です。

私の大好きな冒険作家A・J・クィネルがある小説の中でこんなことを書いていました。
「最も親密な関係とは、同じベットに寝ていても何もしない関係」
これはセックスを卒業し、なんの不安も欲望もない関係のことを意味します。(これは3の解消を意味します)

1)が解消されるには、子育てを終了しまったく心配がなくなった状況を意味します。(子供達が所帯を持って自立する)

2)が解消されるには、稼がなくてならない環境から脱皮する、もしくは年金受給生活に入って初めて得られる環境を意味します。

4)が解消されるには、二人の親が他界した状況を意味します。

 これらのために時間がかかるのです。つまり老夫婦になって初めてその外部環境が整うのです。このとき初めて、「心と体がつながり合った平等で自由な関係」となりうるのです。

 つまり、それだけ若い二人がいい関係を維持するには難問がいっぱいありますよ、お互いの思いやりや創意工夫、なにより時間が必要ですよ、と云いたいのです。

「女と男のいい関係とは?」

 女性は常に賢くなければならないようです。男性に頼っていると思わせている妻は、その反対以上に夫婦関係はうまくいき、周囲からの信頼も得られるようです。だからこそ女性は男性以上に賢さを要求されるように思うのです。(これはあくまで私の女性に対する願望ですが…)


 大学生の頃「心と体がつながり合った平等で自由な関係」こそ、そんな関係だと思っていましたが、四半世紀以上、連れ添いと人生を共にしてきましたが、どうだったのでしょうかね。

私の連れ添いにこんな質問をしたことはないですが……。
(返ってくる答えが怖いから?)

「篤姫」のここが面白い!2

2008年10月18日 | Weblog
<薩長同盟>の場面に小松帯刀が在席していた史実に驚きました。ただ、薩摩の財力で武器を提供し、長州を懐柔し、しかも面子を守るために米をいただく話は、相手の立場を考え、最後に小松・西郷の方が先に桂に頭を下げる場面は説得力がありましたね。

 人はどうしても自分の立場からしか物事を見ようとしない欠点を持っているようです。勝(アメリカに行った経験と多くの知識、一匹オオカミ)や竜馬のような立場(脱藩者で藩のためではなく、何かをしたい、純粋で一匹オオカミ、勝に感化→「日本が危ない」)では、多くの家臣を持った経歴がないので合理的思考を受け入れ易い。

 しかし桂や西郷・大久保には薩長連合という合理的発想はどうしても生まれ得ない。勝や竜馬の師である佐久間象山は、若い頃熱心に数学を学んでおり、勝は自分の妹を彼の妻にしているくらいですから、かなりの影響を受けたはずです。竜馬も 「僕の血を継いだ子供は必ず大成する。そのため、僕の子供をたくさん生めるような、大きな尻の女性を紹介してほしい」と象山から頼まれたことがあるくらいだからきっと思想的に感化されているに違いありません。

 門弟と家臣では大きな差があります。それは子供に対しての祖父母と両親と似ています。親という直接的立場と祖父母という間接的立場が、子育てに微妙な違いが生じる所以です。佐久間象山の門弟に勝や竜馬の他に、吉田松陰、小林虎三郎、河井継之助、橋本左内、加藤弘之などいますが、その後の彼らの活躍を思うと日本を大きく軌道修正した偉人だったことが分かります。

 佐久間象山という師の数学的発想が「薩長連合案」を生み、そして幕府を倒し、急いで近代国家を設立しないと日本が危ないという信念になっていったのでしょう。しかし、西郷も大久保も桂(木戸)も武家社会の中で育ち、数学の合理的な発想とは最後までなじめなかったのではないでしょうか。維新後の政府が藩閥政治(西南諸藩:薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩に対する批判的呼称)へと進んで行ったのはそのためだと思います。竜馬暗殺の犯人探しは、明治政府以降も唯一引き続けられましたが見つけられませんでした。それは明治政府の中に犯人がいたからだとしか思えません。

 すこし話が逸れましたが、人は自分の立場からなかなか逃れられないということをいいたかったのです。篤姫のように幼名・一(かつ)から島津斉彬の養女:源 篤子(みなもと の あつこ)に、近衛忠煕の養女:藤原 敬子(ふじわら の すみこ)そして天璋院へと変化し、その度の変化に見事に対応しています。この成長ぶりが、私を始め多くの人の心を捉えるのだと思います。

 犬猿の仲のだった薩長が組んで江戸幕府に向かってくるなど篤姫には寝耳に水だったに違いありません。しかしその恐れを本能的に感じている場面で今回は終了していました。次回にその動向をどのようにと受け止めるのか、大奥では情報や知識が入ってこないのです。つまり自分が立っている場所が何処だか客観視できないのです。ここでも、いつもの将来を見据える篤姫の真骨頂が発揮されるはずです。

 江戸のそのまた奥の大奥から見た日本、薩摩や長州から見た日本、世界の中から見た日本では発想の根本が違います。そして時代の流れや風を背にするのと、向かうのも大きな違いが生まれます。竜馬だけがその風を背にし、多くの家臣の将来を背負った小松、西郷、大久保、桂はその風を背にしていても立場のために、藩や藩閥政治へと向かっていきます。西郷はその姿に限界を感じ下野します。なんとも男の切ない切ない物語が続きます。

 これからの展開にワクワクしながら
 終了日が迫っているのを感じると悲しくなりますね

「夢の途中」

2008年10月16日 | Weblog
「もうじき卒業だね」
「……」
「そんな悲しい顔をするなよ」
「せっ、先生……」

「さよならは別れの言葉じゃなくって、再び逢うまでの遠い約束だよ」
「そんなことを言って… 私の気持ちを知っているんでしょ。 
 どうしてそんなことを言うの?」

「いいか、僕が君の愛をそのまま受け入れられるわけはないだろ。 君は僕の生徒だよ」
「でも、世間では先生と生徒の、けっ…なんてよく耳にしますよ」

「いいかい、よく聞きなさい。君はまだほんの夢の途中にいるんだよ。
 これからもっと多くの人と出会って、いろんな経験をして、
 そして、いろんな恋をする、そんな夢の途中にいるんだよ」

「いま君の胸には私への想いが一杯詰まっているでしょう。
 しかしね、人の心はどんどん大きくなっていくんだよ。
 そして、今の想いの比率がどんどん下がっていくんだ。
 それが生きて行くということなんだよ、分かるかい」

「分かるわけないでしょ。そんな先のことなんか。
 私はこれからも先生と一緒に居たいの。それだけが望みなの。」

「そこが問題だといっているんだ、いいかい。 
 幼い君の心には僕だけしか見えないだろうけど、
 心の隅には、もっとこんなことがしたいとか、
 どこか外国に行ってみたいとか、あんなことをしたいとか、
 そんな想いが隠れているんだよ。」

「そんなこと絶対にないよ」
「僕はそんな自分の心の奥も覗けないおバカさんは嫌いだよ。
 もっとじっくり自分の心の奥を覗いて欲しいんだよ。
 そこには夢や希望が潜んでいるんだよ」
「私の夢や希望は先生だよ」

「違うよ。人にはそれぞれに自分だけの夢や希望があるんだ。
 決して人や物ではないものだよ。
 それをこれから探して欲しいいんだよ。」

      スーツケースいっぱいつめこんだ
      希望という名の重い荷物を
      君は 軽々と
      きっと 持ち上げて
      笑顔見せるだろう

「もっと多くの人と出会って 
 もっと素晴らしい人と恋をして欲しいんだ。」
「私は、先生がいい」

「あなたがもっと大人になって、
 そして、出会った多くの男性の中から僕を選んでも遅くはないよ。」

「……」
「そして、私を愛してくれたように、
 愛した男たちを 想い出やかがやきに替えられるくらい 
 力強く生き抜いて行って欲しいんだ。」
「……」
「私はいつもここにいる。もし疲れた果てたらやっておいで。」


 このまま 何時間でも 抱いていたいけど…
 ただこのまま 冷たい頬を 暖めたいけど…
 
僕はそっと君の背中を押すしかできない


まだ君は夢の途中だから…

まだ、ほんの夢の途中だから…


   いつの日にか 僕のことを 想い出すがいい
   ただ心の 片隅にでも 小さくメモして……



      (『夢の途中』 作詩:来生えつこ 作曲:来生たかお より)

「秋空の下で」

2008年10月12日 | Weblog
人は遭遇する出来事を、
結局はたった一人で処理するしかないようです。

どう受け止め、どうかみ砕くか。

かみ砕けなかった事は、
いつまでも堅い石ころとなって心の中に残ってしまいますが、
そのことをバネにしていく心構えが出来ていれば
その小粒の石ころはいずれ消化され、排出されるようです。
それが生き抜くための方法のような気がします。


毎年レントゲンで腎臓の石を見るたびに
何故か、いとおしくなります。

私の腎臓には小指の先ほどの結石が存在します。
大きすぎて爆発できないそうです。

爆発後の欠片が、大きくて尿管に詰まると大騒ぎになるからです。
「持って死んで下さい」以前、医者にそういわれました。

あの石はどのような心境の時に生まれたのか、
ストレスを受けている時に間違いないようですが、
今になっては明らかにはなりません。

結局、墓場まで人知れず持って行くしかないようです。


消化しようとしても仕切れなかったことが
体内の残っているのでしょう。

秋空の下で、それはどんなことだったのか、想いが巡っています。

(*写真は、私の職場から見たこの夏一番の空)

「Rの決断」(後編)

2008年10月10日 | Weblog
 当時、創業者の優遇措置として社員に対しても割り当て株の購入が認められていた。その知識は大学時代に読んだ小説や母の話(知人が上場前の自社株を買ってかなりの財産を作った)から、入社当初から貯金はまったくせず、買える限り未公開の自社株を購入し続けた。店長になっても部下にもこう云った。
「貯金するなら必ず自社株を買え。銀行の金利以上に会社が負担して株を購入してくれる。そしてせめて上場するまで退職の事など一切考えるな。」
「会社に対するロイアリティー(忠誠心)を示すことは会社に対しても有効であり、辛い思いがいずれ報われるという安心感にもつながる。」
「もし、100万貯めたなら上場後にはきっと500万以上になる。」

 D社に就業した12年間、まったくその株売らずに、しかも給与での株購入の天引きを続けておれば、数千万円にはなったと思う。しかし、結婚式や車の購入に約半分が消えていったが…。(もし、SE社の割り当て株を購入し、その後も給与天引きで株を買い続けていれば、1億円を遙かに超えていただろう。入社当時、D社、IY、SE社の3社の内一社だけ購入できた。まじめな私は当然自社株を購入した。もう少し将来を見極めていたら、今思えば残念、苦笑)12年後、私は外食産業の限界を感じてD社を退職した。120名の同期入社の仲間は5名になっていた。それほどきつ意業務だったが、私には大きな財産が残った。その最たるものは人の中で生き残るすべだった。 そして、そのおかげで一年半後、1990年(バブル最盛期)の10月、H社から声がかかった。

 17歳の決断と、21歳の決断の差には大きな違いが生じるはずです。その間の4年間に様々な貴重な知識や経験を経るからです。私の4年間がそうであったように。周囲に多くの先輩達や広範囲から集まる学生が存在するのが大学である。卒業した大先輩たちともクラブ活動と通して出会う場が存在する。社会人に混じってアルバイトという接点も高校生の時とは違ったものとなるはずです。それは与えられる仕事の内容や責任が変わってくるからです。また、大学で自ら選んで受講する姿勢も、高校生活とは大きな違いがあります。これらが大学生活での重要な価値がある点だと思います。

 ウィスコンシン州に帰ったRの決断がどうなるのか、私には分かりかねます。gooのHPや私のPCアドレスを教えましたが、その後の連絡はありません。聡明なRは、自分で判断を下すのでしょうが、私は2回の夏を一緒に過ごしたRを、どこか親戚の娘のように思えて、将来の決断が気になってしかたがありません。

 若き日の恋愛と就職の選択では同じ範疇の決断とは云えませんが、半世紀以上を生きてきた人達から見れば、若い頃の決断ほど危ういものはないと思っているはずです。それは、その頃の判断が後の人生に大きな影響を与えることを知っているからに違いありません。
 専門学校を卒業したが、そこで学んだことが役に立たない業界に就職する若者が、私の周囲に数多くいました。容易な方に流れた、友人と共にした、よく考えなかった、そして知識が足りなかったことが起因しています。

 行けるのであれば最高学府に進学した方がいい。何故ならより多くの知識を学ぶことができる、先生・教授と名の付く人との出会い、多くの同輩、先輩たちとの出会い、そういう素晴らしい機会があるのです。20歳を過ぎてからの正しい知識や経験は、その後の決断に非常に役に立つ場合が多いのです。一方的な熱い情熱だけの判断ではないからです。

 聞こえはしないが、アメリカのウィスコンシン州で最後の高校生活を送っているRにもう一度こう叫びたい。
「進学できるなら進学して多くのことを学んで欲しいを願っている。」


 Rのことを想うと、名作「ニュー・シネマ・パラダイス」を思い出します。

「二度と帰ってくるな。
 こんな田舎に帰ってきてもおまえの為になるようなことは一つもない」

そんな意味のことをアルフレードは汽車を待つトトに伝えます。
故郷を捨て背水の陣で頑張れ(俺が果たせなかった夢をつかめ)と云いたかったのでしょう。
トトに約束の場所に彼女は来なかったとウソをつき通す事は彼の揺るぎない信念であり、二度と犯してはならない(幼い子に映画技術を教えた事)という
深い愛情に満ちた父親的行為だったのです。
トトに嘘をついてまで故郷を去らせたアルフレードに、
私は深い愛情を感じずにはいられません。
その後、サルバトーレと云う名の大人に育った彼は、
監督として映画界に大きな功績を残す名画を何本も作り上げます。
彼女への深い想いを振り切るために映画作りに没頭してきたからでしょう。
ラストシーンの彼の涙は、映画作りへの熱い想いが再び込み上げてきた涙と私は取りたい。私もアルフレードのついたウソが正しい行為だったと思うからです。
さて、若い人があの映画を観て、アルフレードがついたウソをどう思うでしょうか?
(http://blog.goo.ne.jp/goodluckyuji713/e/4016e02d46180d40f9306aeec0216072より)


「最も永く続く愛は、報われない愛である」(サマセット・モーム)



「Rの決断」(前編)

2008年10月10日 | Weblog
時が流れるに連れて、人はさまざまな知識を得ながら 
さまざまな経験の中で失敗と成功を繰り返します。

得た知識の中には大切な知識もあれば不必要なものもあります。
しかし、その時点では、必要・不必要の区分は分かりません。

若い頃、浅き知恵でこんな知識は必要ではないと放棄し、
大手を振って学べる季節が過ぎてから、もう一度、学びたいと思う人が数多くいます。
とても残念なことですが、多くのことが後になって、時が流れて初めて、
分かってくるのが人生の難しいところです。

 今年の夏も、両親を飛行機事故で亡くした子が、アメリカのミシガン湖南部のウィスコンシン州から叔母とやってきました。向こうでは、夏バイトするところが少なく、昨年と同様に帰郷と共に私のいる施設に稼ぎにやってきたのです。在日韓国人の母とアメリカ人との間に生まれたRは、大変聡明で美しい娘さんです。この一年での成長ぶりも目に見張るものがあり、どんな仕事もいとわず誰と仕事をしても周囲の仲間を明るくしてくれました。日本で育ったRは、日本語は100%で、私の書く日記も他の連中と一緒に読んでいます。夏の終わり、伯母がこんな事を私に頼み込んできました。

「アメリカでの大学入学資格を取っているにも関わらず、関西の専門学校(ペット美容)に行きたいと言い出しているんです。どうか大学を出てからなら何処へ行ってもいいからなんとかアメリカの大学に入学するように説得して欲しい」

 Rの叔母さんから頼まれてから一週間ほどして、Rと二人っきりなった機会があったのでこんなふうに切り出した。
「R、専門学校に行きたがっていると叔母さんから聞いたんだけど…、ホント?」
「えっ、あ、はい。まだ考えている最中ですけど…。」
「私には多くの仲間がいるけど、大学を卒業して大学を悪く云うヤツは一人もいない。社会にでる準備期間としてとてもためになった。今も広範囲に多くの友人達がいる、と云っている。高卒や専門学卒の友人は、できれば大学に行きたかったが行けなかった。専門学校に入学したが、思っていた内容と違っていた。高校生の時の想いと20歳を過ぎての想いとは大きな開きがあった。だから大学での4年間があったならもっと専門学校を真剣に考えただろうし、その後の選択に困らなかったかもしれない。」

「私はもし叔母さんが大学に行かせてくれるなら、そしてRにその資格があるのなら大学に進学して4年間色々なことを学ぶべきだと思う。動物が好きなら獣医という職業の選択もあるはずだ。今の想いは大学卒業してからでも十分追いかけられるよ。大学での4年間は決して直接ペット美容には必要ないかもしれないけど、より幅広い知識を得て、多くの先生や新しい仲間との出会いは、ペット美容店をオープンさせたとき、きっと役に立つはずだと私は思うよ。行きたくても行けない子が多いんだよ。もう一度ゆっくり考えてみなさい。」

 9月から新学期が始まりました。その期間にRがどう決断するのか?
聡明な子ほど自立心の成長が際だっており、叔母や他人の私の話など心の奥に届かないだろう。ただ、Rにとって人生の一つの岐路と云える大きな決断をしなければならないことは間違いない。しかし、本人にはその意識が少ない。


 私が就職活動の際考えた会社の条件は、今後大きな飛躍が期待できる業界の会社、上場可能な会社の2点だった。大学4年の12月、第二次ドルショックの影響で、現在のような就職難の時期だったが、四次面接の末、ようやくS社とD社の採用通知を手に入れた。
 外食産業は当時9兆円の市場規模(電化製品も同じ9兆円)でした。会社説明会では、外食産業の市場規模は将来20~30兆円になると豪語していました。この言葉を信じるか、人生の岐路としての決断でした。私はD社を選んだ。

 2点目の上場できる会社という条件も、D社はIYグループの傘下にあり、I.Y.は世界の投資家が注目しているAAAの優良企業で、日本でも名が通っていた。「きっと上場ができる」という可能性も高く、条件をクリアーした。大学4年の12月半ば、人生最大の決断(今思えば)である就職を決断した。(もし、S社を選んでいたら一生を共にする妻とも出会えなかったから最大の決断といえるはずだ)

 IYを筆頭とした流通業と外食産業は、オイルショックという外部からの大きな経済打撃を受けながらも、凄まじい勢いで伸び続けた。マイホームを獲得するという社会的な流れを背景に、夫の低所得を補うための主婦の積極的社会参加は、新たな就業形態(契約社員)を作り出した。SE社を筆頭に24時間営業のコンビニエンスストアーの出店が相次ぎ、24時間営業のレストラン出店を加速化させた。便利(=コンビニエンス)という強い発想は、究極の資本主義と呼ばれる個人主義と同調して、瞬く間に日本人に浸透していった。その象徴が24時間営業店であり、ウォークマンのような気がしている。

 何故、上場できる会社?(続く)

「子供たち 2」

2008年10月09日 | Weblog
以前、紹介した素晴らしい詩です。

<子供たち>

『批判ばかりされた子どもは  非難することをおぼえる
 殴られて大きくなった子どもは 力にたよることをおぼえる

 笑いものにされた子どもは ものを言わずにいることをおぼえる
 皮肉にさらされた子どもは 鈍い心のもちぬしとなる

 しかし、激励をうけた子どもは 自信をおぼえる
 寛容にであった子どもは 忍耐をおぼえる

 賞賛を受けた子どもは 評価することをおぼえる
 フェアプレーを経験した子どもは 公正をおぼえる

 友情を知る子どもは 親切をおぼえる
 安心を経験した子どもは 信頼をおぼえる
 可愛がられ抱きしめられた子どもは 世の中の愛情を感じとることをおぼえる
                       by ドロシー・ロー・ホルト』
(http://blog.goo.ne.jp/goodluckyuji713/e/1d9063b85bae1357a03a871760a0b1e0)

この詩の内容は決して子供たちへの接し方を歌っているだけではなく、
人の心の弱さを嘆いているとも私は感じています。

例えば、批判というプレッシャー(苦痛)を受けてきた子供は、
今度は他人を非難して自分を守り、
殴られたプレッシャー(苦痛)を受けてきた子供は、暴力を手に入れて自分を守る。
人は、苦痛を避け、快楽を望んでいる生き物だと思います。

そして、あの詩は、作用あれば、反作用が生まれるという
人の世の常を説いているとも思っています。

こんな言葉が幼い頃から私の心に残っています。
「麦は踏まれるほどに育ち、人は困難に堪えて伸びる」
別れ行く友人やいっしょに働いてきた仲間に色紙を送るとき、
いつもこの言葉を書いていましたが、今思えば前記の詩とよく似た内容です。

批判ばかりされた子どもに、批判とは何か? その奥には嫉妬心が? 
それで何かを構築できるのか? それは本当に健全なことか? 

殴られて大きくなった子どもに、痛みを忘れるな、
殴る快感は悪であり、苦痛に耐えることこそ、
自らを強くする、 暴力で相手を圧倒してもそれは外見だけ。
殴って得た快感は麻薬と同じ悪である。

もしこんなふうに教え諭すことができたら?
幼い子には難しいかもしれませんが、言葉を変えて分かりやすく、
何故なのか、作用の発端の理由は?
つまり、何故、批判されたのか? 批判とは? 
考えようによっては自分の成長つながらないか?
何故、殴るのか? 暴力とは? うまく教え諭すことができたら……。

作用のあとに起こる「反作用をコントロールする」ことが大切なのではないでしょうか?
反作用は世の常、起こるべくして起こるのです。その向きをコントロールするのです。
その怒りや快感をコントロールしようと試みるのです。

その力が「自律心」だと思います。
人は易きに流れるのが人の常なのです。
金ができれば、贅沢したくなるのです。美味しいものばかり食べたくなる。
そこそこにコントロールできればいいのですが、どんどん欲望に流されていく。

川を下る船が方向を定めるには、川の流れ以上の早さが必要です。
その早さこそが「自律心」であり「心の強さ」になっていくのだと思います。

「作用があれば、反作用が生まれます」
しかし、その反作用の根元をじっくり考え、
180度の向きに反作用の力(復讐や嫉妬:その力は強いが幸せにはなれない)を
向けるのではなく自分自身が向上する力、
自分自身や周囲が幸せになる方向を見定める力、
その方向に持っていける力を身に付けていきたい。

「批判ばかりされた子どもは 非難することをおぼえる」
「殴られて大きくなった子どもは 力にたよることをおぼえる
反作用が180度に向いた結果です。その向きを変えてあげるのです。

「激励をうけた子どもは 自信をおぼえる」
激励は苦痛ではなく、快感です。
快感はさらなる快感を追い続けようとするのも人の常です。
プラスはプラスを呼ぶのです。GIVE & TAKE ではなくGIVE & GIVE、
誉めることが人の教育の基本だと云われるのは、
慣性の法則(物体がその運動の状態を続けようとする性質。質量が大きいほど大きい)
を利用しているのかもしれません。

こういった心の作用・反作用の仕組みを理解し、
どのように反作用の方向を修整すれば自らが成長し、
幸福になっていくのかを冷静に、COOLに考えて行きたい。

「反作用を利用して角度を変える」
例えば、誰かにテニスに負ける 当然悔しい。その悔しさをバネに苦しい練習を積む
しかし、負けた相手を嫌うのではなく、自分自身のテニスの向上の励み・触媒にする。
人を嫌うのではなく、その人が持つ強いところを意識して挑戦する
そういった意識を持てば尊敬心が生まれ、
その反作用として慈悲の心が生まれ、人を憎まなくて済む。

「嫌いなものが増えるたび、
 受け取れるはずの幸せの量が減るのかも知れない」

あなたも私も易きに流れる習性を持っている人という生き物です。
獣だった生き物が人になったのは
<理性という名の自律心>を持ち得たからだと思っています。
つまり、自律心を失ったら獣に戻ってしまうのです。
強い心を持ってその習性・悪習に立ち向かわねばなりません。

今、世間には人と獣の垣根を行ったり来たりしている恐ろしい輩が徘徊しています。
ある時は人の仮面を被った獣たちが…。
弱き心ではいつの間にか彼らの同類になってしまうのです。