GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「メンターを探せ!」

2012年04月30日 | Weblog
 私の哲学の根底をなしているものは、<平等>ではないかと最近思うことがある。当然今までそのことに気づかなかったからこそ、そんなことを思うのだ。「平等」素晴らしい響きを持っているが、現実には存在しない。一番よく分かるのが容姿だ。背の高い人もいれば、低い人もいる。可愛い女性もいれば、そうではない人もいる。内面の良さや悪さは、見た目で分かるものではない。
 映画「卒業」で大スターの階段を登り出したダスティン・ホフマン。あの役は最初、ロバート・レッドフォードにオファーがあった。その時のレッドフォードの言葉がいい。「あんな童貞男なんか、演じられるか!」と断った。レッドフォードが断らなければ、ホフマンはその後の輝かしい将来を獲得できなかったかもしれない。その後のレッドフォードの話もしておこう。映画「明日に向って撃て」に出演した時だ。映画の製作時、サンダンス・キッド役は最初ポール・ニューマンにオファがあったが、ポールはブッチ役がいいと自ら変更した。そして、サンダンス役はレッドフォードに回って来た。そしてこの映画一本で、レッドフォードは一気に大スター街道を駆け上って行った。レッドフォードとポールの関係はポールが亡くなるまで良き友達だったという。当然だ。レッドにとって一生の恩人であるからだ。ホフマンは下積み生活が長く、どんな役(親子丼の童貞役)でも飛びついた。容姿端麗のレッドフォードは自分に合う役を待っていた。

                

 「平等」から少し話が逸れたが、人間は容姿が人生に大きく影響を与える唯一の生きものと云える。しかし、容姿がいいからと言って幸せになれるとは決して言えない。チヤホヤされて、不幸な人生を歩む場合も多い。いいも悪いも影響を受けることは確かだ。

 今日もまた3人のファミリーの中で一番早く起きて、朝日新聞を読んで妙な見出しが目に飛び込んできた。「伸びしろの要は、愛嬌だ」共感どころか、納得できない言葉だった。P.18の「仕事力」の欄の記事だ。副題に「キャリアの扉にドアノブはない」この言葉は共感できる。作家の内田樹(うちだ たつる)氏の記事だ。簡単にまとめてみる。

・成功する人は懐に飛び込んでくる。
・「学ぶ姿勢」のある人は、素直で、つまらない先入観を持たない。

・学びの3条件
    1)自分自身に対する不完全感 
     (自分は非力で、無知。この欠如を埋めたいという飢餓感を持つこと)
    2)その欠如を埋めてくれる『メンター(先達=先生)』を捜し当てられる能力を持っている。
     (メンターは人でも本や映画の中の人でもいい。生涯にわたる師でなくてもいい。
      ただある場所に案内してくれる「渡し守」のような人でもいい。
      自分を一歩先に連れて行ってくれる人はすべてメンターである)
    3)素直な気持ち。
     (「教えさせる」力、オープンマインド、もっと平たく『愛嬌』がある)

  ★1)、2)、3)をまとめると、「学びたいことがあります。教えて下さい。お願いします」   
    これがマジックワード。これをさらっと云える人は、どこまでも成長できる。

 『愛嬌』の意味がよく分かった。内田氏の上記の話にやっと共感できた。       

   ●若い人たちに知らせたい。
       素直さは将来のパワーとなるだろう。
       好奇心はその素直さから生まれる。
       メンター(師、言葉、名言、詩etc.)を探せ。


新聞の隣のページ(P.19)、100歳の現役医師で有名な日野原重明氏の記事も共感したので追加しておく。
・毎日をあるがままに生きています。(私と一緒。今を一所懸命に生きる)
・やりたくないものはなく、もうやりたいことことばかりで選択に困るくらい。(私と一緒)
・昼はご飯なし、朝もご飯もパンも食べない。(私と一緒、昨夜は今朝の5時に就寝、朝10時起床。14;30までブラックコーヒーのみ)
・集中して仕事をしていれば空腹感は感じない。(私と一緒。今はブログが私の仕事だ)
・「愛すること」愛し愛されて生きることが必要。(私と一緒。従業員も私の家族だとして愛してきた)
・やったことがないことを始める
 (私と一緒。俳句と写真の「あなたは迷写真家?」というコミュをmixiで以前からやっている。
  俳句には何故か惹かれるものがある。ただ直感に従っただけ)
・「耐えること」耐えてることで感性が高まって、苦しんでいる人をサポートすることができる。
 →この言葉は私にとって<メンター>となる言葉だ。

                     

 「平等」の要求は、人にプレッシャーと妬みを生じさせることがある。それが、私が大嫌いなジェラシーへと膨らむ。そして、ダースベイダーも落ちた暗黒の世界の住人となる。しかし、私の場合、現実との乖離が成長の糧となった。そして、それを補う心の支えとして常にメンターを探していたような気がする。映画や本にのめり込んだのもその為に違いない。そして、この時期に数多くのメンターに出会った。幸運だったと言える。
「人は行きつつある方向からやって来る」(エリザベス・ゲイジ作『真夜中の瞳』この言葉もメンターだ)

 中2の時、同じクラスになった初恋の圭子ちゃんは、住吉高校に入学するのが分かっていた。彼女は優秀だった。しかし、勇気のなかった私は告白できず、生涯で最大の片思いとなった。住吉中学校は、1学年15組680名以上もいる市立で、マンモス受験校だった。私の成績は250番から300番くらい。70番以内に常にいる圭子ちゃんと同じ高校(住吉高校)に行きたいという気持ちが原動力となった。中3の3学期には、頑張って学年で80番くらい成績があがった。
 担任の恩師井上先生に「おまえほど、アップした奴は見たことがない」と言わしめた。今考えても生涯で一番集中して勉強した1年だと断言できる。強い意志を持って、現実との乖離を圭子ちゃんへの想いに変えて頑張った。しかし、実際受験したのはワンランク下の今宮高校だった。

 あの頃、クラスの上位から順に成績(5.4.3.2.1)が決まる相対評価だった。クラスには最上位校(天王寺高校)を受験する仲間が5名もいた。結果として5名天王寺高校に入学した。井上先生と定年後お会いしたとき、「生涯で最高の自慢のクラスだった」とおっしゃっていた。私の内申書は、結果として4が多くなってしまった。井上先生は申し訳なさそうな表情をみせて、ワンランク下の今宮高校を薦めた。受験結果より、内申書重視の時代だった。この挫折感は私のそれまでの人生で最大のものだった。「何のためにあれだけ勉強したんだ…」 入学した今宮高校時代は私の歴史の中で陰に籠もった暗黒の時代となってしまった。

 この挫折感がギターや本、映画にのめり込ませた。当然、高校の成績は最悪だった。一浪して法政大学がやっとだった。高一の担任から「入学した成績は学年12番だぞ。なのにこの成績はなんだ!」としかられた。しかし、そんな言葉で動かされるような生易しい挫折感ではなかった。高一のGWに和歌山県の南紀白浜へ一人旅に出た。旅館に泊まろうとしたら、家出と間違えられ、白良浜で穴を掘り一夜を過ごした。しかし、今思い返すと、それが自分の人生を深耕させる第一歩となったような気がする。そして、数多くのメンターと出会った。今、思えばこの時期から日野原重明氏の語った「耐える」ことを学んで感性を伸ばしていったように思う。

       人生には平等などない。それをまず受け入れる事。
      それを決して妬たんではいけない。
      
      自分が何者であるか、
      これは一生かかっても分からない大きな命題であることを受け入れよ。
      だから若い頃はやりたいことを優先するのではなく、
      やるべきことを探し、将来のためにやれることを一所懸命にやろう。
      そうすれば本当にやりたいことが見えてくる。  

      GOOD LUCK!

「最後の送別食事会」(西心斎橋 ゆうの)

2012年04月27日 | Weblog
 ハードスケジュールだった25日は、素晴らしい一日だった。朝からホームコース堺CCでのラウンド。ゴルフ仲間のK氏とN氏、そして元職場の上司で数年前に退職された元常務のS氏をお誘いしての気兼ねのないゴルフ。堺CCは松・竹・梅の27ホールあり、前回息子と回った同じ竹・松。5月の月例は、竹・梅なのでその練習にもなる。月例と言えば、タイガースGCではハンデ19.7だったが、堺CCでは21に決まり、Cクラスとなった。
 息子が生まれた翌年からゴルフを始めので30年経ってハンデ21だから大変なヘタクソだが、考えようによって、今からハンデを上げていく余地がたくさんあるのではないか。人様より楽しめる余地が多いのは得したことにならないか。生来の楽天的性格はハンデ21を大歓迎した。この日の堺CCの天候は、風もなくメンバーにも恵まれていたが、スコアは52.49の101という不甲斐ない成績だった。しかし、そんなことは全然気にならないストレス0の楽しいゴルフだった。プレー後、温かい風呂に入って身体をほぐし、ソフトドリンクで乾杯し、元S氏とも再会を約束して別れた。

 時刻は16:30。この後の食事会は心斎橋大丸前に17:50に待ち合わせだった。自宅で着替える時間はなかった。そんなこともあろうと車の中に好きなスーツを入れておいた。長年の知恵が功を奏した。

 西心斎橋の大丸が契約している駐車場に車を止めて着替え、帽子もキャップからハットに変えた。ファッションは人生を豊かにする。これは私の持論の一つだ。そして、清潔感のない人に私は知性を感じない。これは私の哲学の一つだ。「知性・感性・野性の三拍子揃った男は滅多にいない!」は、数年前大ヒットした『冬のソナタ』で、唯一印象に残ったセリフだが大いに共感した。
 大丸前に着くと17:15。まだ待ち合わせ時間まで30分以上あった。この付近に来るとどうしても逢いたくなってしまう人がいる。高校の大先輩で、ギターの師匠、今や人生の恩人、大丸でメガネサロンを経営されているあいらんど氏だ。

 あいらんど氏が<あいらんど食事会>(私が勝手に命名)で、これから行く<ゆうの>に初めて連れて行ってくれたのだ。2011年05月21日の事だった。あんなに感動した料理は生涯で初めてだった。そして、約3ヶ月後の8月3日、連れ添いの誕生日に食べさせてあげたくて、柚野氏(ゆずの)(ゆうのという店名はここからきていると推察している)に電話を入れた。予約が一杯だったが、3日でなくては意味がないので、K氏の名前を出して、無理矢理2名分の席を確保した。その時の料理も前回同様に感動した。あの感動を10年以上も私を支えてくれた大切な主婦3名にどうしても食べて欲しかったのだ。

      

 食べ物商売をする人にとって、一度来店したお客様が大切な人を連れて、再度来店してくれることほど嬉しいことはないのではないだろうか。<ゆうの>が提供する料理は、私が今まで経験してきたすべての店舗、『デニーズ』・カウンターしゃぶしゃぶ『お箸の国』(この店は私が店舗設計から全メニューに至るまで私のすべてをつぎ込んだ店)・高級和食伊勢エビ料理店『水琴亭』・フレンチ&イタリンアン『ラコント』で、支配人として提供してきたどの料理よりも遙かにすぐれた超弩級の料理だ。(『お箸の国』・『水琴亭』・『ラコント』は残念ながらいずれも廃業し、現在は存在していない。)
 『お箸の国』は『水琴亭』への突然の異動で、後任がいけなかった。今でも残念に思っている。阪神本線の駅施設で、チェーン店として展開していくつもりだったからだ。すべて私一人の考案であり、全従業員も私が一人で教育した。本当に手作りの店だった。だから他人が後を継げるはずがなかったのだ。

    
                 <付け出し>                       <先付け>              
    
 <貝の皿に乗った刺身>         <蕩けそうな鯛とそーめんのお吸い物>

 おまかせコース:「わさび」一人前、9,500円 4名でドリンクなしで38,000円。いくら私の送別会でも時給900円足らずの主婦達にそんな金額は出して貰うわけにはいかない。かといってすべて私が出すでは50歳を過ぎた主婦達も当然納得しないはずだ。そこで私は予約した時点から、彼女達に「私がこんな高級店を選んだのだから20,000円は出させて欲しい。残りを3名で割って欲しい」と頼んでいた。

     
 <鯛の中に[鯛の鯛]を発見!>               <のどぐろの焼き物の中にも発見!>

    
 <4人分を発見!>  <これが茶碗蒸し?>            <メインはイチボのやわらか肉>

 素晴らしい食事会だった。あんなに素晴らしい食事会が、送別会の最後に待っていた幸せを、つくづく強運の持ち主だと思わずにはいられなかった。また、予想もしかなった高額の図書券までプレゼントして戴き、本当にうれしく思った! きっと20,000円のお返しだ。分かっていても突っ返すわけにはいかない。「好きな本をこれで買ってください!」と云われてはありがたく頂戴するしかなかった。

      
 <Nさんは肉が苦手、店主はエビと魚介類のメインを提供>  <炊きたての福島産コシヒカリ>

    
 <3名はお焦げをおかわり! 私はもう満腹>  <イチゴアイスにバルサミコミソース添えには驚愕!>

 店を出た時、「これから、毎年、いや2年に一度でも、このメンツで食事会を開きましょう!」と提案すると3人は即座に賛同してくれた。私は「あいらんど食事会」にならって「グッドラック食事会」と命名しましょうと伝えると、「ダメ!」とすぐに言い換えされた。3人ともかなりアルコールが入っていたが、食事中は乱れる様子やハデな言葉使いは一切なかった。酒は飲んでも酒に飲まれるような人たちではなかった。大人の中の大人の主婦達だった。でもこのときだけは別だった。名前は「ゆうちゃん食事会がいい!」と3名が云ってきかなかった。私は、もはや彼女達の上司でもなんでもなかった。まさしく彼女たちの同士・仲間だった。「必ずやりましょうね」と云われ「第一回は来年中に開催する」と約束した。

                       

 駐車場に4名で戻り、少し酔っていた彼女達を西宮市の自宅前までひとり一人送った。そして運転席を出て、彼女達ひとり一人としっかりハグして別れた。自宅前で見たこともないオッサンとハグする地元の主婦。彼女の知り合いが見ればおかしな噂が立つかもしれない光景だった。時間は23時前、人っけがないことを確かめたのはもちろんだった。私だけはノンアルコールだった。

 鳴尾浜ICから自宅に向かいながら胸が熱くなってきた。運転中だったので、目頭から溢れそうなものを止めるのに大変苦労した。最高の別れ方だったからだ。

 「いい別れ方」、これは以前、ブログの何処かで書いたが、私の哲学の一つだ。いい別れ方をするには日頃から誠実な接し方をしていなければ決してできないことだからだ。その自らの哲学を最後の職場まで貫くことができた。とてもうれしかった。そして、自分を褒めたかった。今夜の食事会は、人生で何度も経験できない至高の時となった。

 長い間、私を支えくれたSさん、Hさん、Nさん、本当にありがとうございました。
 心から感謝致します。
 
 そして、最後の送別会は、最高の食事会となった。    終わり!

 
 ●1回目の<ゆうの>のブログ

 ●2回目の<ゆうの>のブログ


「最高の記念日」

2012年04月21日 | Weblog
  

 今日は、息子と、ホームコースとなった堺カントリークラブでの初勝負。女性メンバーが一名一緒に回る予定だったが、雨予想60%のためかキャンセルが入り、二人だけになり、気兼ねのない最高に楽しいゴルフとなった。今日は若い息子(29歳)と同じバックティスタートで、本当の意味でのガチンコ勝負となった。

 結婚して1年1ヶ月後に生まれた子供は待望の男の子だった。私はどうしても男の子が欲しかった。仕事を休めなかったので、大阪から私の母が来てくれ、連れ添いの初産に付き添ってくれた。1982年、11月13日、仕事場で母からの電話を受けた。「今、生まれたよ! 男の子よ!」その頃、愛知県豊橋のデニーズレストランで店長していた私は、レジ下にあった電話を握りしめしゃがみ込んだ。涙が突然溢れてきた。生涯で最高にうれしい瞬間だった。


 あれから29年5ヶ月が過ぎた。

 私は3歳の頃から息子にゴルフを教えた。男の子は中学生になると、突然のように父親とは疎遠になる。一つの要因として、男の子特有の<夢精>という肉体的生理現象が起因していると私は思う。女の子の場合は<初潮>。しかし、<夢精>は父にも母にも知られたくないものだ。ここから男の子の秘密が始まる。それは<SEX>に直結するからだ。しかし、<初潮>を母に報告しない女の子はいないはず。小学校でも高学年になれば、男の子を排して保健授業として、女の子だけを集めて生理の学習し、先生や母に知らすことも教えられた。オナニーという行為も<夢精>から覚えることになる。女の子の場合は、<初潮>には不安と不快が伴うために、オナニーのきっかけになることはないだろう。オナニーを覚えた男の子は一気に男性としての機能を自ら知ることになり、自立への道が始まる。<夢精>より<初潮>の方が若干早いために女の子の自立は男の子よりも早くなるのは当然と云える。

     
     

 話は少し横道に逸れたが、私がゴルフをやり始めたのは、息子が生まれた翌年の29歳の時だった。3歳になった頃から息子に玩具のゴルフクラブを買い与え、ジャック・ニクラウスのゴルフプレーやジャンボ尾崎、青木、中嶋のテレビ中継を一緒に楽しんだ。特にゴルフのグランドスラム<マスターズ>は、ニクラウスがマスターズで復活優勝した1986年から今も録画を続けている一番好きな大会だ。私はテレビゲームが大嫌いだが、ゴルフゲームだけは買ってきて一緒に遊んだ。ゴルフゲームは足し算と引き算が必ず必要なゲームだからだ。また、ゼロやマイナスという概念も自然に覚えることになる。息子が小学校1年生の時、アーノルド・パーマーのジュニア用という本物のクラブも買い与えた。その頃のウッドは今のようなチタン製ではなく、パーシモン(柿)という木製だったが、そのドライバーもパーシモンでできていた。あのセットは、玩具のようにすぐに壊れず、小学校の5年生までしっかりと使用できた。ゴルフ場での息子の打球を見て、コースにも出られることを確信した私は、大阪の泉南カントリーに併設されている泉南パブリックコースを初ラウンドに選んだ。そして、ハーフだけの(9ホールを2度回る、距離も比較的短い)本式のコースに私の親友山下君と3人でラウンドすることになった。ゴルフを通して親子の会話を続けることを目的に息子にゴルフを教えてきた。

 二人のスコアは記憶に残っていないが、約100ヤードのショートホールがあった。息子がドライバーで打ったボールはグリーン手前のバンカーに入った。彼はまるで公園の砂場に入るように喜んだ。そして、サンドウェッジを選び、フェイスを開きながらしっかりと振り切った。ボールは砂と共に見事に浮かびながらグリーンに落ち、カップの2mほど手前まで転がった。黙って私は彼の姿を見つめた。(もし、入れたら人生初のパープレーとなるからだ) 
 彼はプロと同じようにしゃがんでラインを読んだ。そして、一番得意のパターでしっかりとパッティングした。ゴールはまっすぐ強めにカップに沈んだ。私は思わず「ナイスパー!人生初のパーだよ、真澄!」と大声を上げた。山下君も大喜びしてくれた。
 
 この日の帰り、私は大人になっても息子とラウンドしたいと思った。しかも、自分のホームコースでラウンドしたい。ゴルフの会員権を購入して、そのコースで一緒に回ると車の中で誓った。

    

    

 2012年4月20日金曜日。今日が自分に誓ったその日となった。この喜びも感動も当然私以外の誰も知らない。ゴルフ場への運転は彼に任せた。ローソンでいつものようにホットミルクティーを選んだ。そして、今日はシュークリームを選んだ。息子もドリンクと2品選んだ。しかし、何を選んだのか見ることもできなかった。車はゴルフ場へと向かった。私はだんだん胸が熱くなってきた。そして、ついに涙が溢れてきた。この日を迎えるまでに18年を要した。自分の誓いを達成できた感激と喜びの涙だった。涙はなかなか止まらなかった。後ろのポケットに入れていたブルーのバンダナを取り出し、運転する息子のすぐ横で59歳の私は声を漏らし、泣き出してしまった。
 5分ほどで落ち着きを取り戻し、おもむろに理由を話し始めた。そして、今まで話さなかったいろいろなことを話した。一人の男として<SEX>の話から大学時代の恋人の話、ママを選んだ理由やこれまでの私の想いやスタンスをスラスラと話すことができた。息子の前でむせび泣いた父に、話せないことなど何もなかった。息子はドリンクもほとんど飲めず、買った一品を食べるのがやっとだった。きっと胸を熱くしに違いない。

 私は記念のこの日のためにカメラを持参してきていた。2名でのラウンドなので誰にも気兼ねしなかった。したのは後の組の人たちだけだった。そして、1ホール目から最終ホールまで、二人で写真を取り合い、まだ残っていた美しい桜も写した。こんなに楽しい感動的なゴルフは生涯できっと最後かもしれない。真澄もきっと生涯忘れないに違いない。熱い父の思いがようやく29歳の息子にしっかり伝わった日となった。

  

人生に目的は必要なのか?

小さな可能性のある目標を自分で設定して、達成していくことで自信をつけ、
より高いレベルを目指すためには、目標設定は必要だと過去に書いた。
 <●新解釈「ウサギとカメ」
 

しかし、定年を前にした頃から「今を一所懸命に生きればいい」という考え方を受け入れた。
ゴルフハーフで40を切ることはまだ目標として残っている。
オリジナル曲をまたステージで歌うことも目標にある。
連れ添いと一緒にフランス旅行に連れて行くと約束したことも目標だ。
私の場合、それらは<今を一所懸命に生きる>道の先に見えている。
つまり同一線上にある。これが私のオリジナルの生き方であると自認している。

    


●本日の堺カントリー成績(竹・梅) 天候:小雨

   OUT パター数  IN パター数 TOTAL P-TOTAL
父  53  (19)   45  (14)   98    (33)
息子 51  (19)  53  (14)   104   (38)

*後半息子が崩れたのは、今月の大雨の11日、タイガースGCで左膝を痛めていたからだ。
 一昨日の桜の通り抜けも、実は昼ゴルフ練習もしたことで、歩くのがかなり辛かったそうだ。
 今日のゴルフから帰ってすぐに彼は医者に直行した。医者から左膝靱帯の炎症だと云われ、
 包帯でしっかり左膝をカバーして帰ってきた。
 左膝炎症が逆転負けになった要因だったことを彼の名誉のために付け加えておく。

  
 
夕食は近くの「さと」で、今日の私の大きな記念日を祝うために「すき焼き」を食べに行った。
一昨夜に続き、忘れられない夕食となった。

 

「息子との勝負」と「造幣局桜の通り抜け」

2012年04月21日 | Weblog


今日は、息子といつものスミノエゴルフで打ちっぱなしの練習。
しばらく練習して50ヤード先のグリーンに向かってどちらがピンに近いか10回勝負を始めた。
息子はアプローチが一番不得意。私は左腕の調子が悪いので、短いアプローチしか勝負は挑めなかった。
最初は私の方が3勝1敗で有利に進んだが彼の反撃をくらい、
とうとう9勝9敗まで行き着き最後の1打は私がピン1m右、息子は少しトップ気味に入り、
グリーンの手前から転がり、ピン1m奥に止まった。
勝負はドローと二人で判定。(こいつ、いつの間にこんなに腕をあげたのか)

決着をつけるためにサドンデスに突入した。なんと11回目もドロー。
勝負は12回目でついた。
彼のボールはグリーンを外れ、私のボールはピンに近かづいた。
何とか親の対面を繕うことができた。

ふと息子が朝刊の記事の話をした。
「造幣局の桜の通り抜けで、2年ぶりに夜間ライトアップが復活したんだって」
「真澄、桜の通り抜け、見に行くか?」尋ねると、
「行ってもいいよ!」という返事がすぐに出た。







最近、私と行動を共にするのはゴルフだけだっただけに内心驚いた。
どうやら私の「びわ湖周辺、桜の名所七カ所巡り紀行」を見たことが影響しているように感じた。

私は少しうれしくなって、二人で練習していた打ちっぱなし場から連れ添いの携帯で連絡を入れた。
「真澄が<造幣局の桜の通り抜け>に行きたがっているんだけど、行くか?」と尋ねると
これもまた「うん!」という心地よい返事が帰ってきた。
30分ほどして、連れ添いが息子の赤いトレーナーを持ってやってきた。
私は連れ添いに判定を依頼し、再度アプローチ50ヤード勝負を息子に挑んだ。
息子に母の目というプレッシャー勝負をしたかったのだ。
一緒に遊べる時間は、もうあとわずかしかない。
そんな気持ちが心の中で湧き上がってきた。

今回の勝負は4勝4敗2引き分けでまたもサドンデスの突入した。
11回目息子は以前のミス(身体が硬直し体重移動が早くなってトップになる)が出てしまい連敗した。
息子は非常に悔しがったがプレッシャーはこんなときにミスはでるものであることを教えたかった。

ミスは苦手な気持ちがミスを呼び込む。
ミスを無くすためには結局、ミスと対決し一所懸命にする練習以外に逃れる方法はない。

私も今でも本コースで同じようなミスが何回もしている。
ただ以前の頃とはミスの数が格段に減っている。
コースに出た数が息子より多いことが最大の要因であることは云うまでもない。
まずは体験の数、ミスの数だ。

そのミスの原因を追及し、独自の改善に努める。
そして、何よりもそのミスに立ち向かう勇気こそが、次の階段への踊り場となる。

以前にもこの日記で引用したが、チャーチルの言葉を思い出す。

   「お金を失うことは小さく失うことだ。
    名誉を失うことは大きく失うことだ。
    しかし、勇気を失うことは全てを失うことだ」


今年の11月に30歳になる息子に、もう教えることなどほとんどない。
後は彼の後ろ姿に向かって「生き抜いて行って欲しい!」と願うだけだ。
ただこの「勇気」と「強さ」や大切さだけはまだ彼に伝え切れていないと感じている。
彼が中学生の頃、人生で最も大切なのは「強さ」だと語ったことを今でもよく覚えている。

「強さ」と「勇気」は同意語に近い気がする。
人には耐えるべき時期が必ずある。
「耐える勇気」ではうまくはまらない。
「耐える強さ」ははまる。

しかし「切り捨てる強さ」でもうまくはまらない。
この場合は「切り捨てる勇気」がはまる。
やはり、どちらも必要なチカラと言っておこう。






連れ添いと息子の後ろ姿





 



     久しぶりで家族そろっての食事      息子の選んだ料理


連れ添いが選んだ料理 私の選んだ料理


今日のゴルフ練習と造幣局の通り抜けは、何故か、一生忘れないような気がした。
そんな楽しい一日だった。  

「びわ湖周辺、桜の名所七カ所巡り紀行」(2)

2012年04月16日 | Weblog
●宿泊
18:00過ぎ、宿泊予定の「びわ湖ファ○○1」に到着。
(17:00から宿泊可能。こんなファッションホテルはまず見あたらない。ほとんどが20時以降から)
到着時間は18:00一泊7,890円の部屋をチョイス。全国的なホテルチェーンで、即日会員となり、
ワンドリンクサービスとショートケーキを戴いた。

朝食も無料でトースト・目玉焼き、サラダの他にホットとオレンジジューズ付き、
女性にはマンゴとピーチの香りのスキンクリームまでプレゼントされた。
昨夜ネットで1,000円割引クーポン券を持参して来たので、ワンドリンクを翌朝飲んだだけなので、
部屋代+ドリンク代+サービス料+消費税+(-1,000円)、端をカットして二人で8,500円で終わりました。

部屋の大きさも先月長崎で一泊した元全日空の有名ホテルの倍以上の広さと、
明るく美しい風呂(3倍)にも満足できました。
浴槽の床暖房と、洗い場のサウナスチーム放出には本当に驚きました。
真冬の際の浴槽の寒々しさはここでは皆無にちがいなりません。
食事は取りませんでしたが、とてもリーズナブルでシルバー会員に入会したのですが、
今後は20%の割引もあるそうです(今回はクーポン割引のみ)。
びわ湖ファ○○1では、ファミリーや女性だけでの宿泊を積極的に勧めており、
一流ホテルが朝食付きで、一人で6,000円で営業を始め出しているのも、
このようなファションに対抗する施策と思われます。
びわ湖大橋大橋のすぐ手前にあるファッションホテル群の手前にあった同様にホテルが、
廃業しているのを見ましたが、業界の競争は予想を超えた激戦があるにちがいありません。

 
○4月14日(土)

     
     

 今日は余分の3カ所の桜巡りのつもりでした。それが、予想を超える展開となりました。こんな素晴らしい桜に出会うとは期待していませんでした。ホテルから長等公園(自宅から310km)にはついたときは、まるで桜の桃源郷に迷い込んだような気持ちになりました。何が良かったのかというと、観光化されていなかった点です。地元の人だけの憩いの場所のように感じたのです。ふとトム・クルーズ主演の映画「カクテル」でエリザベス・シューと二人だけのデートで全裸で飛び込んで抱き合った人里離れた小さな滝のある泉を思い出しました。

     
    
    
  

 こんな公園の近くに住んでみたいと本当に思ってしまいました。地元の人たちの憩いの場所、滑り台や小さなアスレチックのような遊びもある、幼い子供たちとっては危険な車も人物も入ってこない最高の公園のように思えました。こぢんまりした公園でしたが、今回のびわ湖桜の名所巡りでは、至高の桜と公園に出逢えました。

     
     
     
    
    
    
     
          

 長等公園から3,4kmのところに三井寺(自宅から約313km)があり、びわ湖疎水の上部のところにうまく無料で駐車できる場所を見つけ、快晴だったので軽装でまずは三井寺に徒歩で向かいました。土曜日ということもありまるで紅葉の頃の京都嵐山状態のようでした。和歌山の紀三井寺を思わせるような階段や坂を上がりながら、多くのカップル、年配者夫婦、バックパックを担いだ若い人たちの集団、若い女性たちの集団も多く、何回私たち夫婦の写真を撮ってもらいながら、私も「撮りましょうか?」と云いながら、「今日はどちかからですか?」と尋ねると、100%「地元です」と答えたことも京都との印象的な違いでした。

     
 
 車に戻って駐車違反の切符を切られていないことを確かめて、最後のびわ湖疎水見物に向かいました。京都ではこんな場所には駐車できないでしょう。疎水の周囲は車も人でも非常に多く、ボランティアの年金受給者らしき人たちが沢山でており、交通整理に忙しく動いていました。応対したどの人たちも、よくこの地に観光に来てくれましたという感謝の気持ちが感じられとても好感を持ちました。私たちの写真を撮って下さった地元の若い学生たちや老夫婦、若い主婦たちにも温かい気持ちを感じました。滋賀県人に好感を持ちました。大きな収穫だったように思います。

スペシャルムービー

●長等公園(至高の公園)

●三井寺の鐘の音

●びわ湖疎水のボランティアらしきおじさんとの会話

●びわ湖疎水

                                     <これにて大長編紀行、おしまい!>

「びわ湖周辺、桜の名所七カ所巡り紀行」(1)

2012年04月15日 | Weblog
 退職後の初旅行は滋賀県<びわ湖周辺の桜名所巡り>に決めました。近年は毎年のように桜見物に出かけています。今回はじっくり2日間かけて、桜100選にも選ばれている海図津大崎、長等公園も含めて7ヶ所を巡ります。びわ湖を上部の北方面から右回りして最後は大津で三ヶ所を訪ねる予定です。

●この順序で巡ります。
1)海津大崎(桜100選)
  ・ソメイヨシノ 約800本 
   滋賀県高島市マキノ町海津 (社)びわ湖観光協会 0740-28-1188

2)豊公園(長浜城)
  ・ソメヨシノ 長浜城一帯に700本
   滋賀県長浜市公園町 長浜市都市計画課 0749-62-4111(代)

3)国宝・彦根城
 ・ソメイヨシノ 約1,200本
   滋賀県彦根市金亀町 彦根市観光振興課 0749-22-1411(代)
   旧彦根藩主・井伊家35万石の城一帯は国の特別史跡とされており、
   1,200本もの桜が彦根城を国宝にしています。(これは私見です)

4)延命公園 (安土城近くなので行ってみるかな)
  ・ソメイヨシノ 1,000本
   滋賀県東近江市八日市松尾町 東近江市観光協会 0748-48-2100 

●宿泊

5)長等公園(桜100選)
   ・ソメイヨシノ ヤマザクラ 900本
    滋賀県大津市小関町 大津駅観光案内所 077-522-3830

6)園城寺(三井寺)
  ・ソメイヨシノ ヤマザクラ シダレザクラ 1,500本
  滋賀県大津市園城寺246 077-522-2238(三井寺) 駐車場500円

7)琵琶湖疎水
  ・ソメイヨシノ ヤマザクラ 約200本
    滋賀県大津市三井寺町  大津駅観光案内所 077-522-3830
  びわ湖から京都へ続く人口水路。5年の歳月をかけて
1890年(明治23年)に完成。

★桜フォトコンテスト2012にお花見写真に投稿予定。
  http://www.rurubu.com/season/spring/sakura/contest.aspx


2012 4.13(金) 8:00自宅を出発

 最初に行ったのはびわ湖北部の海津大崎(桜100選)。大阪の自宅から162km。例年に比べて1週間から10日ほど、開花が遅れているという話でしたが、実際にまだ2,3分咲きでした。しかし、沢山の観光バスや自家用車をびわ湖湾岸の比較的細い道路に一杯ですれ違いや歩行者道もないので、非常に危険を感じました。しかし、この桜が満開なら本当に壮観な桜道となったであろうと容易に想像できました。びわ湖湾岸に沿って数キロの桜道、そして海津大崎観音という少し高台からの眺めも今回は残念な結果でしたが、いつかもう一度来てみたい気持ちにさせられました。
 
    
    


 次に向かったのは太閤さんでもゆかりの深い豊公園の中に位置するびわ湖に面した美しい長浜城。自宅から217km。ここまでの道のりにも素晴らしい桜並木が続き、いったい何本の桜が植えられているのだろうか、と驚かされました。もしかしたら、滋賀県の面積比率で、桜の木の多さは日本一ではないだろうかとさえ思えたほどでした。豊公園の桜は、ほとんど満開で大いに感激しました。そして、びわ湖と城と桜の見事なマッチに言葉を失いました。太閤さんの像を見つけ、一人の男の一生としての改めて想いを深めました。浅井家代々が祭られているびわ湖に浮かぶ小島()を眺め、お市方の一生やその後の数奇な三姉妹の一生にも想いをはせました。歴史を知っての名所巡りは格別な趣があります。外国に行くより日本の歴史を辿る旅行の方が私たち夫婦には向いているようです。

     
     


 さて、次は今回の桜巡りにメインイベント、国宝・彦根城の桜見物です。長浜インターから高速道路で約30分。自宅から230km。彦根城、直前の道路は金曜日にも関わらず、大渋滞。駐車場まで行き着けず、市民センター横のセブンイレブンで弁当を買い車中で昼食を取り、車はそこに置いたまま、わずかな距離だったので彦根城に歩いて向かった。さすが35万石の城だけあって、大阪城を思わせる美しい堀や城壁に井伊家の威勢が忍ばれた。天守閣への急な階段には驚いた。姫路城をはるかに超える急角度に年配者達にはかなりの危険度を感じた。上がるときも降りるときも誰もが驚かれるに違いない。

      
    
      


 ますます雨を感じさせる天候に不安を感じたので、次の延命公園へと急いだ。自宅から260km。しかし、この延命公園だけは誤算だった。踏切の手前に見事な色に染まったしだれ桜を発見。狭い道だったが何とか車を脇に止めて一枚だけ撮った。延命公園にはわずかな桜しかなく、帰ろうとしたら、老夫婦が車で同じ所に止めたので、「ここの桜は大したことないですよ」と云うと、「踏む切りの手前にあるしだれ桜を見られましたか?」と反対に尋ねられました。誰とでもすぐに話しかけられる私は地元の方だと判断し、「大阪から来たのですが、この辺りで美しい桜はありますか?」と尋ね返しました。「大阪からですか、どうもありがとうございます」とお礼を云われました。そして「隣にある天台宗の成願寺の桜は美しいですよ」と付け加えてくれました。小雨がパラつき出してきたので、急いで車に乗ってその成願寺に向かった。云われたように車でぐるりと山を登って降り際に成願時を発見。参道にも桜並木が続き思いもしない桜のプレゼントを戴いた。車に乗り出すと急に雨が強く降り出した。本日の予定をすべて消化した時点の雨に、思わず感謝してしまいました。

  
                                    (つづく)

「今年最初の花見」

2012年04月09日 | Weblog
2012年 4月 8日 (日)

今日は連れ添いと南津守のコーナンまでちょっとした買い物に出かけた。
コーナンのすぐ横の公園に美し桜が見えたので寄ってみた。
何度も来ているコーナンにも関わらず、近くに公園があることもまったく気づかなかった。
公園の名前は<南津守中央公園>初めて知った。
人は聞こうとしなければ聞こえないように、見えていたのに見ようとしていなければ見えないものなのだ。
これからきっとこんな経験が増えるだろう。

    

    


自宅近所の住之江公園にも桜が咲き始めているのに気づいた。
日曜日の昼過ぎに時間も気にせず、のんびり買い物することなどかつて一度もなかった。
サービス業に長い間身を置いてきた私は、今、曜日の感覚を失ったような気がしている。
咲き始めた桜に目がいくような気持ちになった心境の変化も少しずつ慣れていくのかな。
目的の商品を探しながら、連れ添うがこんな思い出話を始めた。


「あなた、毎日のように真澄がショッピングセンターを出るとき、
 出たくないと泣いて嫌がったことなんか、ぜんぜん知らないでしょ?」

「俺と行ったときは一度もなかったな」

「あなたが休みだということを知っているから、遊んでくれると思っていたからよ」

「そんなに帰るの嫌がったのか?」

「毎回、恥ずかしかった。 
 行くと必ずエスレーターを必ず一回は登っては降りるの、知らないでしょ。
 あなたが私を呼ぶように、何処でもマサコー!と呼ぶのよ」

「……」(この話は何度か聞いていた。
間違いではないので「マサコと呼ぶな」としかったことはない。彼女はそんな女性だ。



息子が5カ月から3歳半頃まで大阪の堺、大泉緑地の近くに住んでいた。

「(1歳半の頃)昼過ぎに(大泉緑地に)行こうか? というと帽子を自分で持ってきてかぶり、
 玄関に座って自分ではまだ一人履けない靴の前で足をブラブラさせて待っているの。
 可愛いったらありゃしない。でも帰りが大変」

「ブランコに乗ってコックリコックリしているので、帰ろうかと云ってもいつも顔を横に振るの」

  
私も何度か車や自転車で大泉緑地に連れて行ったが、
私と車や自転車に乗るのが大好きな息子はそんな姿は一度も見せなかった。

休みには大阪中の全遊園地に連れて行ったと自負していたが、
以前息子にどの遊園地も行った記憶にないと云われ、とてもショックだった。

3歳くらいまでは一般的には目が話せなくて大変な時期だ。
しかし、、最も可愛いと呼ばれている時期でもある。
そのどちらも連れ添いの7分の1も私は知らない。
連れ添いの子育ての大変さも楽しみも7分の1しか感じなかったに違いない。
近くの公園や桜の美しさに気づかない、仕事人間だった。
    

     

    

女性は一度に多くのことをうまくコントロールしながらこなせるが、
一つのことで頭が一杯になって優先順位もそこそこに、
目の前の一つの仕事をこなしていくのが男性だとよく云われている。
間違いなく私はその代表的な男性と云えそうだ。
<一所懸命・夢中病>が仕事だけに集中して、子育てまでには行き届いていなかった。
それは私の長所であり短所であると十分承知しているつもりだが、
子育ての楽しみが連れ添いの7分の1では損したような気持ちだ。

私がしてきた子育ては生まれたての息子を毎日風呂にいれたことだけだ。
私が知っている遊びの独楽回しからトランプ、ポーカーや花札、ゴルフ、ボーリング、野球、ギターを教えてきた。
息子と一緒に遊んだ記憶だけはきっと平均以上だろう。
このおかげていまだに彼とは仲がいい。

もう一度人生があるなら子育てをしてみたいと、連れ添いに以前話したことがあるが、
ショッピングセンターを出るとき、「嫌だ!」と泣くじゃくる息子を前に
私はどんな対処や言葉をかけるのだろうか。

ブランコに揺られながらコックリ、コックリする息子に帰ろうと云っても
「まだ帰りたくない!」という息子をどうやって説得するのだろうか?

そんなことを考えながら満開になりかけている桜をずっと眺めていた。
これは間違い幸せな時間だった。
息子への言葉や考えつかなかったが、それだけは実感できていた。


 

「自由人初日&最後の出社」

2012年04月04日 | Weblog
                                    

 4月1日 自由人になった初日は、連れ添いと母の墓参り。ここまで大きな病気をせず、東京の大学行きや連れ添いとの結婚を許してくれたのはすべて母のおかげだった。どうしても初日は、母に感謝を述べたかった。生前に自宅から車で10分で行ける帝塚山に墓を用意してくれたおかげでいつでも気が向いたときにくることができる。送別会や会社での送別式でいただいた花束を持って行った。彼岸のあとだったせいか、とても墓地はいつもより花やかだった。

            

 健康な身体に生んでくれてありがとう。中学の時、アメリカに渡りたいと相談したが、「それだけは勘弁してくれ」と云われ、「東京の大学なら行かせるから」と約束してくれた。大学卒業後、大阪に帰って来いと云われても、ヨーカドーグループのデニーズ・ジャパンに就職を決めたときも、「ヨーカドーって、羊羹屋か?」と父は云っていたが、株売買をしていた母は「イトーヨーカドーの子会社なら信用できる」と云って私の選択を無条件で祝福してくれた。結婚の際も「おまえが好もきな子なら、私がなんとしてももらってあげる」と云って結婚を反対する彼女の両親の前で父と共に頭を下げて頼んでくれた。しかし、結局了承は得られず駆け落ちすることを決意した私を真っ先に許してくれたのも母だった。結婚式は私の親族と私の会社の上司や同僚だけで行った。式は自己資金で賄ったが、哀れに思ったのか、札束を用意してきてベッドやタンスを二つ、や茶箪笥、ライティングデスク、電話台、ドレッサー(兄夫婦)を1時間くらいで名古屋の百貨店で買い集めてくれた。妻も私と同様に感謝しているに違いない。
 「ありがとうございました、お母さん」


 2日は、まず頸椎ヘルニアのリハビリへ。左の肩から腕、指先にかけてのしびれが治らなくて、こんなことは初めての経験です。痛みが酷くなれば、手術も必要になるとのこと。脅かされました。

  

 
 



 その後、野田にある本社へ社章・社員証・保険証を返しに行きました。外様入社の私には縁がなかった本社ですが、梅田の本局郵便局横にあった格調高い旧本社での辞令式が、思い出されます。1990年の10月半ばの入社でした。私で途中入社が4人目だとか。純血主義(定期入社)経営で有名な明治以来の会社でした。旧本社は太い柱が多く窓の小さい暗い建物で、役員室の前の廊下には赤い絨毯が敷き詰められていました。入ったことなどありませんが、まるで映画で見た宮中のような雰囲気でした。


 
 


 長く阪神タイガースの名物オーナーでもあった今は亡き久万社長から係長の辞令を直々戴いたことは忘れられない思い出です。21年と5ヶ月、過ぎてしまえば一所懸命のひとときでした。イトー○ーカドーグループのデニー○ジャパンに入社したのは1977年でしたから、父との一年半の商人生活をはさんで、サラリーマン生活は都合で33年間となります。デニー○での12年も今思え返せば一瞬でした。退職届けを提出してもなかなか辞めさせてもらえず、社長以外の全役員が私の慰留にきてくださり、結局退職するのに1年を要しました。

 何だか自慢話のようになりましたが、とてもいいサラリーマン生活だったといいたかったのです。私は店という現場を守るために、デニー○で店長1名、アルバイト2名、阪神では社員3名の首を切りました。6名とも私が採用した人物ではありませんが、あの6名は今も重たくて冷たい石ころになって心の中に残っています。

 社長や役員は会社を守るために一つや二つ部門を 切り捨てなければならない時があるものです。現場を愛した私にはできない決断です。私の現場は80%以上がパート・アルバイトで占められるからです。デニー○時代の上司や仲間、アルバイトとはいまだに10名、年賀状を交わし続けています。阪神ではその何倍もの年賀状を交わしています。
ずっと続けていきたいと思います。

   何度云っても言い尽くせませんが、本当に皆様ありがとうございました。
   心から感謝しています。皆様の将来に幸多かれとお祈りします!

           

その帰り道、左の握力もないのに例の如くゴルフスミノエで打ちっ放し。
組織人を無事終えたことを一人で噛み締めました。

               

「低くすぎる! EPA(経済連携協定)の看護師国試合格率」

2012年04月03日 | Weblog
看護師国試、EPA(経済連携協定)の合格者は 47人-前回比31人増、合格率11.3%

*経済連携協定(EPA)
物流のみならず、人の移動、知的財産権の保護、投資、競争政策など様々な協力や幅広い分野での連携で、両国または地域間での親密な関係強化を目指す条約。

 東日本大震災後の日本の将来のあり方として、少し前に英語の普及と少子化問題の改善に努力する必要があると書いた。現在の看護師の国家試験は日本語が必要不可欠だ。よって外国人の合格率は極めて低い。漢字・ひらがな・カタカナがある日本語は他の母国語よりはるかに難しいのだ。これまでにわずか19人しか合格者が生まれていない外国人看護師。しかし、今後は日本の医療現場に欠かせない存在となってきている。もし英語での試験や受け入れ体勢が整ってくれば、合格率は大きく変わってくるに違いない。そのためには日本の現場での英語の普及もかかせない。

           

 厚生労働省は、EPAに基づきインドネシアとフィリピンから来日している看護師候補者の国家試験合格率を上げるため、2013年に実施する次の試験から、試験時間を延長し、すべての漢字に平仮名を振る方針だという。小宮山洋子厚労相が3/232の閣議後の記者会見で、この特例措置を指示したことを明らかにした。

 英語の普及に国家レベルで力を注いだ韓国にいまや遅れを取りかけているのも、日本政府の保守的なスタンスが災いしていると思う。日本語の壁が取り除かれるようなことになれば、日本人による仕事目的の海外渡航がもっと増加すると共に、介護や医療現場でも多くの外国人が働けるようになるだろう。

 医療や介護の現場は現在の<3K>と云われるほど、過酷な状況に置かれている。だからこそ、政府はEPAのような協定を締結したはずだ。厚生労働省が2年に1度行う「医師・歯科医師・薬剤師調査」よると、1984年から2004年の間に、医師総数は17万3,452人から25万6,668人と約32%増加しているにもかかわらず、産婦人科医は、1万2,181人から1万555人と約15%も減少している。医師を目指す頭のいい連中だけに少子化を見定めた将来設計という面もあるかもしれないが、休みや昼夜を問わない妊産婦の待ったなしの医療を嫌うことも引き金になっているとも云われている。

 今後も職業訓練目的の外国人がどんどん入国してくるだろう。医療・介護のような高レベルの教養が必要な現場だけでなく農業を初めとする第一次産業の現場で働く人も欠如している。限られた知識とマニアルを習得できれば、わずかな日本語力で働けるコンビニやレストランのような第三次産業にも多くの人たちが浸透してきてる。しかし、これに比例して日本語を習得できない人も数が増えることになる。そこに目をつけるヤクザが当然のように出現し、風俗産業への誘いも後を絶たない。英語の普及は闇の連中たちが跋扈する可能性も高まる。残念だが否定できない事実だ。

 同じようにEPA(経済連携協定)もTPP(環太平洋経済連携協定)も諸刃の剣であることは誰もが承知してる。今後も有識者が意見を交わしてメリット・ディメリットを議論していかなくてはならない。グローバル社会では、いいとこ取りをし続けることなどできないのだ。日本民族は世界に類を見ない勤勉さと緻密なチームワークとイノベーション能力によって大きな発展を遂げてきたが、世界からみればまさにいいとこ取りしてきたかに見えるはずだ。その反動として北米でトヨタやホンダ、ソニー、任天堂がバッシングを受けてきた。その効果もあって米国の屋台骨である自動車産業もようやく明るい兆しが見え始め、失業率も改善しつつある。イラン問題もまるで計ったように石油の高騰を招き、米国の石油産業も潤ってきたようだ。すでに米国ではリーマンショック以前の株価に戻りオバマ大統領の続投の可能性も高まった来た。こんな状況を踏まえて日本は生き延びる手だてを熟慮して難しい舵取りを求められている。いつまでも政権闘争に血道をあげている場合ではないはずだ。


「サラリーマン 最後の出勤日」

2012年04月01日 | Weblog
    


 営業中に時間を割いて私の送別式が行われたのですが、話し出すと長くなるので、一言だけ感謝とお礼を述べて終わりました。その後役員も含め全社員にこのような手紙を書いて渡しました。

 仕事に対する哲学を最後にお話します。私は「仕事とはアイデンティティの構築」だと思っています。自分の専門分野の能力をレベルアップさせて仕事量を増やし、質を上げることによって会社に貢献していくという意味です。最低限のルーティンワークを身につけたら、与えられた職場でオリジナルを追求して行って下さい。オリジナルとは新たな視点、独自の視点で合理化や経費の削減を考え、売上を上げられる商品やシステムの立案・実行です。

     

 例えばOさんが考案した今まで無料だったフェイスタオルとバスタオルを有料にする新システムです。お客様からの苦情もなく新たな売上確保につながりました。退職して結婚し今は京都で幸せな家庭を築いているMさんが考えた地下に会員専用のショップを設けることによって、会員さんが気軽に買い易くなり売上アップに繋がりました。
 Y君が考案して駐車場に泊まり番があったのを止めることによって年間で800千円の人件費の削減に成功し、今期も彼の考案で西駐車場の全スタッフ削減することによって年間の人件費累計は、予算比較で2,800千円の削減はできるはずです。経費は▲1,500千円なので、合計で4,300千円の削減ができる予定です。これだけの利益を上げるには営業損益率(74.24%))で割り返すと5,791千円もの売上増したことと同じことになります。大変な貢献であることを理解して戴けると思います。(こういった計算方法も以前担当者会議で若い人たちには指導してきました)
 この削減では当初、私の説明が不十分だったので、フロントの方々にはご迷惑をかけたことも多々ありましたが、4,000千円以上の利益改善計画を実行する強い信念が吉田君も私にもありました。最初はトラブルもありましたが、乗り切ることができてうれしく思っています。

 
 
2階から4階へお客様を誘導することも3年以上かけて事務所の許可を得て実行に移すことができました。ラコントパックは関西ウォーカーに取り上げられるほど大成功しました。カツ丼や親子丼をレンジで調理することで、メニュー化することができ、メニュー数の増加や味の向上に貢献できました。海づり大会の開催やライフジャケットの購入、公園内でのゴミ箱削除も同じ発想からです。

 オリジナルの仕事とは、少しでも現場を良くし、現場の数字を改善できる計画を立案し、実践するということです。現場はいまのままを好む習性があります。新しいことは一言で云えば邪魔くさいのです。それを誠実な熱意で押し切るのです。(「大誠意は人を動かす」)この成功が自信を生むのです。成長とは言い換えると自信が付くことを意味します。上司の大切な役目はここにあります。けなしてばかりの上司は、大切なことを分かっているとは到底思えません。自信をつけさせるには上司として何をすればいいのか、これが上司としての最大の役目だと私は思います。
 計画を立案して周囲の許可を得ることも必要です。「NO!」と云われれば「YES!」になるように改善し、また資料を揃え、納得させるのです。「NO」の要因を潰していくのです。この鍛錬が心の筋肉となるのです。それでも理解しない上司ならば役員に直接実行したい熱意を直接訴えるのです。これは組織人としては違法ですが、当社のような小さな組織では、それくらいの熱意を持ってオリジナルを考案し、実行していく勇気を持って下さい。このオリジナル作りが必ず自分の仕事を楽しくし、自らの救いとなるでしょう。

   

 上司というのは、高い視点で現場や会社を見ているために、たびたび現場の優先順位とは違った指示や命令を発するものです。しかし、現場を良くしたいという気持ちと、会社を良くしたいという気持ちは、実は同一線上にあり、ここには矛盾がないのです。つまりやるべき事(=会社・上司の指示)と現場でのやりたい事(=オリジナルの追求)を常に同一線上に置くことを自分で意識しながら、そして、コントロールしながら仕事をすればストレスは軽減できるものです。

 これが私のスタンスであり、哲学です。そして、このような仕事への姿勢がアイデンティティの構築となるのです。この考え方は人生でも家庭でも同じです。今を大切にしながら先にやるべき事に着手して、次にやりたい事をその先の同一線上に置くのです。この順序を間違ってはいけません。自分にとって大切な言葉はいつも心地よいものとは限りません。しかし、それを受け入れる度量を持ち続けて下さい。人はいつまでも未完成なのですから。

        

 私は無神論者でどの宗教にも属していませんが、ある本の中で「色心不二」というお釈迦さまの教えを知りました。幼い頃は心は一つだったのですが、年を重ねていくと理想や良心、他に欲望や嫉妬や煩悩と呼ばれるコントロールしがたいものが生じてくるものです。それを色と心に分けました。そしてこの色と心は本当は一つであるべきなのですよという教えです。もっと分かりやすく云うと本音と建て前を分けるのではなく一つでなくてはいけませんよという意味です。

 この「色心不二」という言葉との出会いは、私の哲学である「<やるべき事>と<やりたい事>を同一線上に置く」と相似しているように感じて、とても勇気づけられました。私は本人の前で云えないような悪口や雑言は嫌いです。いつも本音でやってきたつもりです。二枚舌や腹黒いと云われるものいやです。万年天然青年でありたいと思い続けています。

今年も当社は大変な改革を必要とされています。決して平坦な道のりではないでしょう。こんな時期の私の退職を本当に申し訳ないと思っていますが、M本部長を中心に後任のN部長の新しい手腕を借りがら新しい料飲部、新しい当社の構築に頑張って下さい。

             


本当に長い間お世話になりました。
 感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございました。 
 


 GOOD LUCK!            平成24年 3月31日