GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「少女C(人生はギャンブル)」

2010年11月30日 | Weblog
あたいは絶対に生き残りたいの

いい学校を出ることは生き残るための十分条件よ

三角関数や漢文も関係代名詞も社会に出ても必要じゃないことなんか分かっている

算数と簡単な読み書き 片言の英語がしゃべれればOKよ

三角関数や微分積分も漢文も関係代名詞も みんなバカをふるい落とすためのもの

いい学校を出ることは いい人に出会えるための十分条件よ

pならばq(記号で表わせば,p→q)が成り立つとき

「pはqであるための十分条件」 いい学校pは生き延びるqための十分条件

「qはpであるための必要条件」

生き残るqためには いい学校pが十分条件であっても必要条件じゃないの

p→q q→p こんなことはないの

生き残るための必要十分条件なんて人生にはないの これくらい分かっててよ

いい? だから人生はギャンブルと思わない?

歩道を歩いていても突然車が飛び込んでくることだってあるの

飛行機も落ちれば電車も脱線するの

幸せに生き残ることはギャンブルと同じ

だからこそ まず生き残る確率が高いことが大切なの 

いい学校を出ていい人に出会う確率を上げるの

いい人というのは自分の好みを云っているんじゃないよ 勘違いしないで

生き残る確率が高い人のこと 

あたいを守り切ることができる男のことよ

女ができることはたかが知れている 世の中は不公平そのものよ

女が一人で生きて行くには 世間は冷たすぎるの

男女同権なんて絵に描いたモチよ 子供がでいれば辞めさされるのがオチ

子供はしっかり大切に育てたい 

だってそうでしょ 与えられる唯一の宝物よ

すべてじゃないけど男が働くことによって家族を守り 生き残ってきたんじゃない

女が一人でいい子を育てるなんて辛ら過ぎるし 幸せになる確率が悪すぎ

金があってもバカ息子や暴力的な奴、ギャンブル狂やアル中は絶対に避けなきゃ 

幸せにはなれないよ

いい男とは後ろ指さされない仕事を持っていて あたいや家族を死んでも守りきる奴のこと

それが愛されるということ 好きや惚れたはおままごとの世界


金や家系は人を守ったり幸せにもできないの

警察や国家も守ったり幸せにもしてくれないの

人よ 身近な人が人を守るの 幸せにしてくれるの 

これを知らないバカな女の子ばっかり

草食系だのイケ面だの金持ちだの高学歴だの バカばっかり 分かる?

土地も金も幸せも時間も無尽蔵じゃあないの 限られているの 知ってる?

だから勝者と敗者が生まれるの 先もの勝ちだからよ

生き残るためにはそれを掴む力が必要なの

人生は1回こっきりの生き残りと幸せを賭けたギャンブルよ 分かってきた?

女一人じゃ幸せを掴む確率が低過ぎるの

女が生き残って幸せになる高確率は いい男を選ぶこと これだよ

でも感情的に男を選んじゃだめよ 失敗するのがオチ

もともと女は感情的でバカで可愛い生きものなんだから


「少女B(ルーズソックス)」

2010年11月28日 | Weblog
いい子になんかなりたくない

無駄なことをするのも絶対にイヤ

やりたいことをやっていたいの

大切なのはお友だち

お友だちだけと暮らして行ければいい いつもそんな夢を見ている

だけとそんなことができないことは分かっている

暮らしていくために好きでもない仕事について金を稼がなきゃ

そんなこと誰だって分かっている

人が泣きながら生まれてくるのは 

暮らしていくことが苦しいことだと知っているから

大人たちを見ているとそのことがよく分かるよ

だから今は遊ぶの したいことをするの 云いたいことを云うの

だから私は友だちとルーズソックス


どんな人でも死んじゃうことが分かればやりたいことやるでしょ それとおんなじよ

いずれやりたいことなんかできなくなるのよ

それは死人と同じ 私にはそうなの

だから私は今のうちにルーズソックス


やりたいことをやり尽くすの

ババアなんかになりたくない だけどみんなそうなるんだから

ババアになってから後悔なんかしたくない

それが分かっているから私はルーズソックス


やりたいことやって何が悪いの

私の人生よ 誰にも文句はつけさせない

人に迷惑さえかけなければいいの

親は心配だろうけど かといっていつまでも心配してくれない

人はいずれ一人で生きなきゃだめなの

一人だからほんとに好きなことできるんじゃない

格好いい言葉で言えば自立よ

そうすれば誰にも後ろ指さされない

白鳥は見た目は優雅に見えるけど 水面下では必死に足で水を掻いているの

あれが大人の姿よ

だから今は私はルーズソックス 今を楽しむの

もう少しすれば 醜い白鳥になるんだから


「少女A」(マナーモード)

2010年11月27日 | Weblog
自分から声をかけたことなんか一度もない

振り向いてくれなかったら…

言葉を返してくれなかったら…

苦笑いされたら…

なんてことを想像する私は臆病だから

傷つくのが恐ろしいから

だから私はいつもマナーモード

家族と親友以外はでない

気持ちをさらけ出すのが怖い

否定されるのが怖い

使い捨てのライターなんかになりたくない

だから私の心はいつもマナーモード

ブルブル震えているのはまるで私の心のよう

苦笑いされるくらいなら遠くから見つめている方がずっといい

暖かい言葉を期待できるほど私は可愛くない

心のスクリーンではいつも私は自由奔放

どんな時でもあなたをまっすぐ見つめ いいたいことが云えるもん

寂しくなったらいつでも彼を呼んで抱きついちゃう

こっちの方がずっと楽しいし怖くなんかゼンゼンない

悲しくてうずくまっていると すぐに彼が寄ってきて慰めてくれる

スクリーンの彼はいつも暖かい笑顔だし 友人たちも決して裏切らない

だから私はいつもマナーモード

誰も無遠慮に入ってこれないマナーモード

ノックしてからいらっしゃい

私はじっと待っている

王子様とは云わないけれど 私をここから救い出してくれる人

それまでは心のスクリーンで遊んでいるの

こんな私を理解してくれる人を待っている

待つことは決して嫌じゃない

無理して失敗するのは怖いから

この場にいれば安全 安全

誰か私にノックして そして引っぱり出して

私はそんな勇気を持っている人を待ってます



「韓国映画アレルギーの人へ」

2010年11月26日 | Weblog
「シュリ」から始まり、「ブラザーフッド」で頂きに達し「タイフーン」で爆発。
「猟奇的な彼女」で驚き、「ラブストーリー」の展開の妙に驚愕し、
「イルマーレ」の繊細さと「王の男」の特異な物語に感嘆しました。



「殺人の記憶」の重厚さに黒澤監督を思いだし、「チェイサー」では ゾクゾクするような
緊迫したリアリティーに「天国と地獄」や「羊たちの沈黙」をも凌ぐものがありました。
映画として最高の域に達したように思いました。

             

TVドラマでは「冬のソナタ」で日本の物まねを完全に抜き去り
「チャングムの誓い」で頂点に達しました。そして「朱豪」では再び頂上を目指し、
「オオカミと犬の時間」では新しいジャンルへと大飛躍し、
「アイリス」へと着地していきました。


こんなに多彩な韓国映画・TVドラマに、本当に心から拍手したいと思います。
韓国映画アレルギーの人たちにどうか上記に作品を進めたい。



TVドラマの「サラン〜LOVE〜」での繊細なチャン・ドンゴンと
「友へ チング」、「ブラザーフッド」、の壊れていく情念の男を見比べて欲しいです。
こんな演技は日本では見たこともありません。


特に「ラストプレゼント」で売れない芸人を演じた貧相なイ・ジョンジェの演技と、
テロリストを追う海軍の特殊工作員を演じた「タイフーン」の彼の変貌を目の当たりにしたら、
きっと韓国アレルギーは吹き飛んでしまうでしょう。

               

これらをすべて集約した映画が「ブラザーフッド」です。
ここには韓国映画の粋がすべて詰まっていると云って過言ではありません。
私のお薦め韓国映画NO.1作品です。
(ただ、少し過激なシーンが多いのでそれらを見過ごせる勇気を持った人にお勧めしたい)

家族への深い愛情、特に弟を助けるために追いかけて戦場に向かう兄の気持ちがたまりません。
ブラピの最高傑作「レジェンド・オブ・フォール」を彷彿させます。
戦闘シーンはスピルバーグの「プライベート・ライアン」を凌ぎ、
戦争の狂気によって変貌していくドンゴンと若手ウォンビン演技は
「スカーフェイス」のアル・パチーノ、「ディア・ハンター」のクリストファー・ウォーケンをも
驚愕させるものがありました。

映画のアレルギーは見方によって治るものです。
一番近い国家、韓国の映画に対する入れ込みようは半端ではありません。
サッカーやその他のスポーツ親善試合でも日本への敵対心は尋常ではありませんが、
映画やTVドラマでも変わらぬ気持ちを感じます。
この気持ちが大きく飛躍させたに違いありません。

私はその仕掛け役に「シュリ」と「ブラザーフッド」の製作・脚本・監督の
カン・ジュキが中心にいるように思えてなりません。
彼が率いるShowboxという製作会社の作品の質が飛び抜けているように思うからです。
「王の男」もそうだし、最近テアトル系で見た「義兄弟」も非常に良くできていました。
皆さん、Showbox作品にはご注目を!

<アスファルト・ジャングルの孤独>(下)

2010年11月22日 | Weblog
 恋愛もまた失敗したり、恥をかいたりすることで経験を積んでいく大切な人生体験の一つだ。「邪魔くさい」「恥ずかしい」ことを避ける傾向がある若者たちにとって、恋愛はやっかいな一面を持っている。「便利さ」を利用するのは人の常。恥をかくような余計なアプローチが必要ない出会い系サイトを小利口に利用して、決して生の自分が傷つかないように試みる。名前や経歴を偽って、まるで仮想世界に舞い降りる気分で、出会いを実行に移す若い人たち。そして、犯罪を犯したり、巻き込まれる事件が後を絶たない。本当に哀しい出来事と云える。

 結婚相談所や合コン紹介所が繁盛するのは予想できる。自分で人を見極められないのは、自分の好みや感情が優先してしまうからだろう。違う表現をすれば、したいことはすぐに分かるが、やるべきことが見えてこないのだ。業者である紹介所の身上調査を安易に信じてしまい、TVのコメンテーターや新聞や雑誌の報道を安易に信じてしまうのも無理はない。
 世間には仮面を被った獣が徘徊している。れっきとした法治国家である日本の都会の真ん中でも、未開のジャングル同様に獣が徘徊しているのだ。ジャングルと違うのは見た目には獣に見えないところだ。そしてズル賢さを秘めた利己的人間の仮面を付けた獣だけに非常にやっかいと云える。




何故、こんなにずる賢い利己的な輩が増えてしまったのか。
情報過多の社会にも問題があるように思えてくる。
テレビやネットや携帯電話がない時代、家族や仲間を守って生きていたなら
現代の若者たちが陥る孤独など知ることもなかったように思えてくる。

アドレスを持ったが為に、毎日どれだけの悪徳メールが届くだろうか。
情報社会では、情け容赦なしにしかも無軌道に、豪雨のような情報が降り注ぎ続ける。
哲学や心がないコンピューターを使った悪魔の所業と云える。
マンションにいまだにピンクチラシが放り込まれたりする。 
善と悪の判断もつかない人格形成中の幼い子供たちがそれを手に取るのだ。
金を儲けて何が悪いという開き直った正義が多くの人の心を蝕んでしまった。

孤独なアスファルト・ジャングルに、欲望を突き動かす情報シャワーが降り注ぐ。
金を手にすることでこのジャングルからの脱出を計ろうとする輩たち。
そんなことでジャングルの孤独から抜け出せるはずがないことに気づかない。
己の欲を満たすため、弱き者に襲いかかる獣たち。
嫉妬が心の中を常に動き回り、人の善意まで疑い、
そのストレスを癒すために人を陥れる輩と変貌する。
獣には他の動物の痛みなどひとかけらも感じない、慈悲も情けもありはしない。
だからこそ獣であり続けるのだ。

孤独を持て余す年輩者たち。
わずかな年金をパチンコ等のギャンブルにつぎ込み、自己破産する人たちが後を絶たない。
孤独を紛らわすことは今や欲望の一種のように思える。
子供から年配者まで個人主義から快楽主義へと移行していくように見える。

ますます荒涼と化すアスファルト・ジャングル。
企業の欲望に翻弄される政治家たちの国、それが資本主義国家、わが国なのだ。
金儲けに汚染された国民は景気の底上げを最優先に考えしまう。
大多数の欲望が正義となったのだ。
少数の理想を大多数の希望にすることが政治家としての本領ではないか。
残念だが、荒涼と化すアスファルト・ジャングルに住んでいることを
我々は認知するべきなのかもしれない。

そして、まずは自らを守るべく心身を鍛えるしかない。
ひ弱な身体には、ひ弱な心しか育たない。
強固な身体にして降りかかる悪徳情報シャワーから身を守り、
自ら嫉妬や邪悪な欲望に侵略されない心を育てたい。

「セント・オブ・ウーマン」の少年のように。



<アスファルト・ジャングルの孤独>(上)

2010年11月22日 | Weblog
映画「悪人」は、母親に捨てられ愛の存在を信じられない青年と、
出逢い系サイトで出会ってしまった孤独な女性との出口のない逃避行物語だった。

出会い系サイトや合コンを頼って、異性との出逢いを求める若者たち。
声をかけ、意志を示して近場の人との恋愛を始められない若者たち。

             

 人は学校で学び歳を重ねながら知識と経験が交錯して育ってくるように思う。自分の事を振り返れば、本や映画との出会いが随分役立ったように思う。それは最も多感な時期である中学時代から始まったと記憶している。我が家で初めてTVを見たのが小学校の3年頃だった。クリント・イーストウッドがチンピラカーボーイ役をしていたTV西部劇「ローハイド」(1959~1965年)、正義の味方「月光仮面」に夢中になり、淀川長治の日曜映画劇場ではキスや抱擁シーンがあれば、母がふざけて私の目をふさぎにきたものだった。漫画では少年マガジンの「ちかいの魔球」(ちばてつや作)が最初に心酔した漫画本だった。物語は勧善懲悪物がほとんどだった。

 今より圧倒的に情報量や遊びが少ないために、休みの日は仲間と野球に明け暮れ、夜は上記の番組やプロ野球放送、力道山のプロレス中継を見て家族で応援していた。テレビは一家に一台がやっとの時代だった。見る時は必ず誰かがそばにいたように思う。現代はどうだろうか? テレビを家族と見る人は何%くらいだろうか? 2台以上TVがある家は何%あるだろうか? 家にゲームソフトが10本以上ある家は何%あるだろうか? 親は子供がどんな番組を好み、どんなゲームにはまっているのか、知っているのだろうか?

 幼い頃、平気でやっていた小動物を虐めたり、ピンポンダッシュのような悪戯をできなくなるのは、「可哀想だ」、「悪いことだ」と理解できる感情や知識が芽生えるからだ。獣のような悪たれ小僧が、だんだん人間に移行していく。現代の若者は、生まれた時からTV放送が常に流れており、洪水のようにニュースを見て聞かされていた。本の漫画もアニメもすぐそばに溢れている。次から次へとゲーム機やソフトが未曾有に切れることなく出回っている。これらが幼児の頃から常に手の届くところにあったのだ。

 以前日記の中で、五木寛之氏が自殺したり突然切れたりするのは、知っている物語の数が少ないからだと語っていたことを紹介したが、私の頃と比較して、現代の若者の方が圧倒的に物語の数は多いように思えてならない。しかし、単純で勧善懲悪物は年配者向けの時代劇だけで、複雑な展開で、歪な性格を持った人物が登場し、死人が何人もでる暴力的で、しかも刺激的な物語が溢れている。
 今の若者たちの頭には不幸で悲惨な物語が溢れているのはないだろうか。家族を憎んだり、会社や組織を裏切ったり、警察の不正義や政治家の汚職、先生たちの悪戯ら弱者への虐めによる自殺、盗みや痴漢的行為、麻薬による事件のようなニュースばかりが話題を提供している。

 『デス・ノート』の夜神月や『白夜行」』の雪穂、や『幻夜』の美冬のような、歪でしかもしたたかな主人公に共感する人が多いことを嘆いてしまう。それはすでに、自らが歪であることの証明だからだ。同じ復讐物語でも山本周五郎が描いた『五瓣(弁)の椿』のおしの、松本清張の『霧の旗』の桐子とは大きく違っている。前者は荒涼とした冬のアスファルト・ジャングルで金を稼ぎ身の安全を確保するズル賢くて、非常に利己的な姿が目立つ。後者の女性には命を落とした親や兄を一途に思う熱い情念と自己犠牲の心が存在する。この差こそが現代の孤独が要因のように思う。

 学校で知識を吸収し学ぶことで自ら考える力を身に付ける時期に、圧倒的な物量で悪行の物語や情報が流れ込んできて、その善悪を自ら処理する時間もないままに次から次へとニュースが流れてくる。これらが触媒となって自分の生き方や将来を見据えていく若者たちに影響がないわけはない。ためになる話や心が洗われるよう物語より、圧倒的多数の不条理で不幸なニュースや物語が頭や心のフィルターを通過していく。子供たちに悪行の種類を教えているようなものだ。
 楽な生き方、損のない生き方を選ぶ人が多くなるのはいたしかないことのようにも思えてくる。失敗したり苦労することで人は学んでいくものだが、それを知識として持っていて、あえてイバラの道を選ぶ人がいるだろうか。



「龍馬暗殺後の日本の行方」(下)

2010年11月16日 | Weblog
 このような屈辱的な歴史背景を無視できない。劣等感にさいなまれ続けた民族、急速に巨大化することによって生じた異常なナショナリズムが、大きな高まりとなって渦巻き始めたのだ。沖縄・尖閣諸島(中国名・釣魚島)近くの日本の領海で対日限定戦争を目論む人民解放軍内の対日強硬派も少なくない。鳩山元首相が述べた東アジア共同体構想は夢物語であり、最近のアジア諸国の動きを見ても、完全に中国に向いているのが現実だ。

 中国船衝突事件を契機に日本と中国ははますます溝を深くしてしまった。日中首脳会議での両首相の表情はどう見ても芳しくない。日本は日米同盟を強化する方向へ傾く可能性が大と云える。民主党政権が覆ればその可能性がより高くなる。米国にとって日中関係の深耕は間違いなく脅威だったに違いない。中国国内での排日運動でさえ米国にはいいニュースだったかも知れない。日中関係は米国の思惑通り?ヒビが入ったような状況となった。

 11/14の「龍馬伝」で坂本龍馬が後藤象二郎や容堂公を許せたのは、憎しみから何も得られないという強い信念、理性に基づいていた。日本国を思う強い気持ちだ。これが誰もが容易ならイスラム原理主義とキリスト教の争い、中東で続く民族闘争やIRAの闘争、アフリカ各地での民族闘争は、遥か昔に解決していたはずだ。そして、龍馬も暗殺されずにいたに違いない。脈々と流れてきた血の流れは、理性をも遥かに越えるエネルギーが含まれている。西郷や大久保は龍馬より遥かに現実的だった。民衆の感情は、美しい高貴な理性など凌駕することを知っていたのだ。

だからこそ、だからこそ今、心から願う。
日本人、中国人、韓国人も、そして世界の国々の人も、
龍馬のような大きな度量と信念を持って将来を見据え、堅固な絆を構築していくべきだと。


 昨夜ようやく軟禁から開放されたスー・チー氏が電話でのインタビューを受けていた。91年にノーベル平和賞を受賞し、2003年5月、遊説中に軍政翼賛団体に襲われ混乱を理由に自宅軟禁されたのだ。

「軟禁という長い拘束を受けていたにも関わらず、今後政府と話し合っていくのですか?」
という質問に対して、彼女はこう答えた。
「感情では解決しないのです。固い信念に基づいてしっかりと話し合っていこうと思います」


私の背筋に電流が流れた。
「龍馬伝」の龍馬の言葉や映画「インビクタス 負けざる者たち」での
ネルソン・マンデラ大統領の言葉を思い出した。

「過去の弾圧や差別や人々が犯してきた罪を<許す>ことが我が魂を自由へと解き放つ」
この精神の高みに辿り着くには彼の教養をして27年の牢獄生活を要したのだ。

この精神を具現化するシーンがこれだ。
大統領になってはじめて官邸入って行く場面。

官邸内では白人職員達が当然解雇されるものと思って自らのデスクを片づけていた。
それを見たマンデラ氏は官邸内に残っている全職員を急遽大統領執務室に集めてこう話しかけた。

「新政権で働きたくない人は去ってもいい。
 しかし私は君たちの手助けを必要としている。
 過去は過去だ。皆さんの力が必要だ。
 我々が努力すれば、我が国は世界を導く光となるだろう」

 
 しかし、その後の現実の南アフリカではこの崇高な志は抑圧され続けてきた感情をむき出しにした人たちには届かなかった。そして優秀な多くの白人たちが南アフリカから去っていった。しかも、抑圧されてきたはずの人が権力を握り、一部には同胞たちをそれまで以上に苦しめているという。とても哀しい話だが現実だ。だが、マンデラ氏の崇高な志が決して消滅したわけではない。時間がかかろうと南アフリカは本当の意味での民主化が始まっている。志は必ず信念ある人たちに引き継がれていくものだ。マンデラ氏やスー・チー氏のような偉大な人の信念は永遠に消え去ることはない。私はそう信じている。


「龍馬暗殺後の日本の行方」(上)

2010年11月16日 | Weblog
坂本 龍馬         (1836年1月 3日 - 1867年12月10日)
エイブラハム・リンカーン(1809年2月12日 - 1865年4月15日)

この二人が太平洋を隔てて同じ頃に暗殺されている。
そして暗殺された後の国の流れがとてもよく似ているように思えてならない。

 日本は列強諸国のプレッシャーを受けて開港し、1192年から675年も続いた武家政権の終焉を迎える。そして、積極的に産業革命を取り入れ一気に近代化が進んだ。アジアでいち早く産業革命を取り入れ、近代化を推し進めたのは日本が最初だ。この事が将来の工業国家の礎を作った。お隣の中国では、秦の始皇帝(武官)が、紀元前221年には史上初めて中国を統一しましたが、以来文官が政権を担ってきた。日本のように7世紀の長きに渡って武官の政権が続いた国家は、世界の歴史の中でも類を見ない。ここに日本の独自性があるように思う。


まず、リンカーン暗殺の背景とその後の米国の行方は?

 イギリスの産業革命によって綿工場が機械化され、大量の綿花を加工できるようになり、アメリカ南部の貴族たちはプランテーションと呼ばれる大規模農園経営によって大きな富を築いていった。それには奴隷の労働力が不可欠だった。アメリカの奴隷人口は1800年の89万人から、1860年には400万人に膨れ上がっている。一方、北部ではイギリスから機械技術を輸入し、自国での生産を目指し、輸入品に関税をかけることや国内産業を保護育成することを国に求めたのである。ここに南部と北部の対立(経済戦争)が始まった。これがリンカーンが名をあげた南北戦争の要因だ。そしてこの対立が共和党と民主党に受け継がれていった。

北部=資本主義社会、保護貿易、中央集権、奴隷制反対、共和党
南部=奴隷制社会、自由貿易、各州自治、奴隷制維持、民主党

アメリカの歴史・政治学者スチュアート・オースチンのこんな言葉がある。
「(南北戦争は)北部と南部の資本家・労働者・農民が、南部のプランター貴族を
 権力の座から追放した社会的大改革であった」

 戦争の結果、北部側の勝利となり、リンカーンは奴隷制廃止を実現させた。しかし、リンカーンが当初目指していたのは、「白人と黒人を分離し、別々の場所で暮らす」人種分離政策であったことを忘れてはならない。90年後の1955年にも今では信じられないこんな事件が発生する。アラバマ州都で公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み続けて逮捕されるという事件だ。この黒人女性が後にアメリカ公民権運動の母と呼ばれたローザ・パークス。
(詳しくはhttp://mixi.jp/view_diary.plid=1000634088&owner_id=3915793参照)


さて、龍馬が暗殺された後の日本はどう変わって行ったか。

 忍び寄る列強の国々から日本を守ろうとして龍馬が考えていた平和的政権交代(大政奉還)は、薩長武闘派による幕府討伐へと移行していった。西郷も大久保も岩倉もそうでなければ真の政権交代はできないと考えていた(それ故、江戸城無血開城はまさに奇跡的なことだと思う)。その後、明治政府は多くの政策を打ち出していく。明治4年(1871年)の廃藩置県、明治6年(1873年)の徴兵令、そして明治9年(1876年)の廃刀令。ここに来て、ついに旧士族の不満が爆発した(徴兵令で代々の武人であることを奪われ、帯刀と知行地という士族最後の特権をも奪われたことへの不満)。西南の役(戦争)という維新後、最大の内戦を経て日本は近代国家への道を突き進む。

 龍馬が夢想した議会制民主主義国家は、封建制度の打破が必要だった。しかし、倒幕後の明治政府の「殖産興業」・「富国強兵」策は、資本主義経済の骨格をなすものだった。明治13年(1880年)に軍関係を除く官営事業は三井、三菱など民間に払下げられ(財閥の誕生)、明治15年(1882年)には大阪貿易会社が設立されて紡績業が確立し、日清戦争、日露戦争の勝利により日本の産業革命が一気に進んでいった。

 1856年から57年にかけての安政の大獄という大弾圧が起こった。勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また徳川家茂を将軍継嗣に決定したことに反対した人たちへの弾圧である。多くの人物を排出した明倫館・松下塾の吉田松陰、橋本左内をはじめ、尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)たちにまで弾圧は及び、連座した者は100人以上にのぼった。人工頭脳を作る際、最後の作業に<哲学>注入が不可欠だという。映画や小説の世界では良く出てくる話だが、<合理性>だけでは心が存在しないからだ。

 安政の大獄で命を落とした人たちが、もし生きていたならば精神哲学が明治政府にもっと浸透されていただろう。そう思うと安政の大獄という大粛清が残念でならない。押し寄せてくる列強の帝国主義・資本主義に立ち向かうためには自らも同様の甲冑を身にまとうしか方法はなかったに違いないが…。そして自由民権運動を経て、議会制民主主義の実現にはもっと時間が必要だったことはその後の歴史をみれば明らかだ。

 お隣の大国、中華人民共和国でも同じ様な弾圧があった。1960年代後半から1970年代前半まで続いた、「文化大革命」だ。「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という名目で行われた改革運動だが、実質的には、政権中枢から失脚していた毛沢東らの大規模な権力闘争(内部クーデター)であると評価されている。安政の大獄のような100名というような数ではなく、桁違いの人々の命が失われたという。これによって中国の民主化が50年は遅れたという人もいる。

 中国人で初めてノーベル平和賞を獲得した中国の反体制作家、劉暁波氏も2008年に民主的立憲政治を求める零八憲章を起草して拘束され、2020年6月21日までの懲役刑の判決を受けて投獄されている。あの大弾圧から40年以上が過ぎたにも関わらず、毛沢東の亡霊がさまよっているかに見える。そして、今新たな民主化の嵐が吹き荒れている。年間3万件という暴動(昔で云う一揆)の数がそれを物語っている。

 暴動が高まりを見せると愛国主義と民族主義を煽り立て排日運動へと導く影の動きを感じてしまうのは私だけだろか。進出してきた日本企業に対して否定的な保守的企業家たちは決して少なくないはずだ。その背景には文化大革命当時と同様に中国政権内のし烈な権力抗争があるに違いない。保守派とリベラル派、もしくは革新派との闘争だ。しかし、その奥にある熱い庶民のエネルギーは長い侵略の歴史に堪えてきた漢民族による列強の国々への復讐心が根底にあるように思えてならない。

 最後の王朝だった清は、中国の歴史上では征服王朝の一つだ。異民族である満洲族の支配を漢民族が比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって明の皇室に取って代わったとの姿勢をとらず、明を滅ぼした李自成を逆賊として討伐し、あくまで明の後を継いだことを前面に出していた事が考えられる。

 とにかく、清の末期は、漢民族も満州族も列強の侵略による屈辱の歴史を堪え忍んできた。その屈辱の第一歩が阿片戦争だった。イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があった。インドの植民地で栽培した麻薬アヘンを中国に輸出することで三角貿易を成立させ、膨大な利益が英国にもたらされた。清は1796年に阿片の輸入を禁止したが、阿片密貿易は年々拡大し、中国社会での阿片の蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになった。
 そこで清朝はイギリス商人から阿片を没収して処分する強硬策を取ったが、阿片密輸によって莫大な利益を得ていたイギリスはこの機会に武力で阿片密貿易の維持と開国をさせる決意を固めて、1840年清国沿岸に侵入し阿片戦争を起こした。強力な近代兵器を持つイギリス軍に対し阿片で堕落した清軍は敗れ、1842年イギリスと不平等な南京条約を締結した。主な内容は、香港島の割譲や上海ら5港の開港、領事裁判権の承認、関税自主権の喪失だった。その後、1844年にフランスとは黄埔条約、アメリカとは望厦条約という不平等な条約を締結した。

「中国の苦悩」(コットン・バブル)

2010年11月14日 | Weblog
 中国で「コットン・バブル」起きているという。世界的な綿花の生産地、新疆ウイグル自治区でとれる標準綿は、1トン当たりの価格が昨年の2倍以上で、「歴史的最高値」(中国紙新京報)という。中国政府は8日、買いだめによる価格のつり上げを厳しく取り締まる緊急通知を出した。備蓄も放出し中国農業銀行も綿花産業向けの融資の規制を強めている。
                        (11月11日、朝日新聞)

 この事はいったい何を意味するものなのか。

 中国の急激な経済発展は今まで以上に沿海部と内陸部の賃金格差を生んでいるとも聞く。ちなみに河北省の田舎の賃金は、課長クラスの中間管理職が月給1000元位、(今日の為ああ替で換算すると約12,400円)普通の労働者で600元位(約7,440円)住み込みの店員だと450元(約5,580円)。広州で働く清掃員夫婦月収が2,あ700元(33,480円)、現在450元(5,580円)の部屋に住んでいるが、新しいアパートの家賃は3,000元(37,200円)を超えるという。年間で5,200万人を超える人たちが、バブルで手にした金を持って日本にやってくるが、まだまだ一部の富裕層だ。この不平等感が年間3万件を超える暴動の一つの要因になっていることは確かだ。( http://kabu9uma9.cocolog-nifty.com/bloghimk_kabuk/2010/04/post-e5c2.html・http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0226&f=politics_0226_002.shtml参考)

 米国は中国通貨の元を切り上げようとやっきになっているが、中国ががんとして拒み続けている。2009年12月末と11月9日を比較した対米ドルの上昇率も新聞に掲載されていた。中国人民元の上昇率はわずか2.7%、日本円は12.8%だ。ちなみにブラジルレアルが2.9%、インドルピーが4.8%、南アフリカランドが7.4%、オーストラリアドルが11.3%。しかし、いつまでも中国政府は世界の圧力を拒み続けることはできず、じりじりと引き上げられていくに違いない。そうなると「為替と人件費」で成り立っていた中国は、日本や韓国と同じ土俵の上で競争を強いられ、結局、「中国の一人勝ち」は、今しばらく続いた後に終焉するだろう。このことを中国首脳は十分承知しており、今のうちに国内産業の未成熟な技術力をアップさせたいに違いない。賃金格差やこんな国内の状況を踏まえて中国政府は人民元の切り上げに否定的なのだろう。

 私には今中国政府が大きな苦悩を抱えているように思えてならない。それは急激な経済発展が中央集権国家と社会主義の根底を揺るがせているからだ。賃金格差や貧富の差が広がり、大気や沿海部、河川の工場汚染も収拾がつかず、欲望をひたすら求めて突き進む資本主義国家の様相そのものに映るからだ。以前、日本が「エコノミック・アニマル」と罵倒された時代そのものだ。これは社会主義国家の根本の一つである統制経済が終焉を告げているということだ。

 レア・アースの制限は、実は中国政府の意志ではなく、中国企業の独自の判断ではなかったか。あまりの早さに中国政府の統制能力に驚いたものだったが、以前私はこのことに気づかなかっただ。レア・アースの件、マスコミから流れる情報では政府の指示ではないという表現を使っていた。調査すると言って時間を稼ぐ、大陸的したたかさと以前は分析していた。しかし、「歴史的最高値」となった「コットン・バブル」、これもまた中国政府の計画なのか、さすがにそうは思えない。人件費の高騰とコットンの最高値では、売価に影響して今までのように世界価格で優位に立てなくなる、それは輸出や雇用問題にまで発展する恐れがあるだけに政府も引き下げにかなりの努力をしているという。

 安い、高い、あれがないけどこれはある、こういった情報が瞬時にキャッチできるネットによって、グローバル化の効用は、さらに格差社会を広げているように思う。今や世界中の混乱はグローバル化の負の功罪と言えるのではないか。金を儲けることが新しい正義となり、人々の欲望を満たすことが権力者の正義となって、社会主義国として牙城のひび割れを必至に補修しても仕切れない姿こそ、今の中国の姿ではないだろうか。

 中国の沿海部でも深夜の通勤バスや深夜の出前専門の飲食店が繁盛していると聞く。以前、韓国のTV報道番組でも見たことがある。夫婦共稼ぎでしかも幾つも仕事を掛け持ちして、今住んでいる小さな部屋から大きな部屋へ、可能ならば新築マンションへと生活レベルを上げるために必至に働く人たちが頻繁に利用するからだ。女性のファッション雑誌部数も鰻登りで上昇し、周囲に物が豊かになり、購買欲をさらに刺激される社会となったのだ。新しい社会主義国としての歩みを模索する中国政府は「エコノミック・アニマル」と化した庶民の急激な流れを、もはや押しとどめることなど不可能に見える。

 今回の中国漁船衝突事故は、ジャーナリスト藤田洋毅氏の情報では、
「事件の実態は、酒鬼(酒乱)の暴走に過ぎない。
 だが日本は一歩踏み込んできた。妥協する選択肢は、ありえなくなった」
                         (中国国務院幹部)

 これが真実ならば日本の勇み足と云えるかもしれない。留置場でアルコール検査がなされたのか、しなかったのか、今ではこれさえも報道できない状況に陥り、国家間の領土問題に大きな禍根を残すことことになった。流出問題は内部告発と同時に第3者の影を感じずにはいられないが、衝突問題はその後の中国の過剰に見えた中国の言動、検察の単独判断での釈放や政府の言動を考えると、まんざらニセ情報ではないような気がする。

 このように現状を分析すると、「中国の苦悩」が見えてくる。国家がこのような状況になると右よりの思想が操作してリーダーシップを握る連中が跋扈する歴史を見てきている。 そんな国と韓国に次いで最も関係の深い歴史を持つ日本も、かつて高度成長期の防衛費拡大について世界から批判を受けてきた。両国の首脳が手を握ぎるべきだと理性的に計画しても、衝突事件や流失事件が起こるようでは、まだまだ両国間には冷え冷えとした大きな川が存在するようだ。そして、清朝以来、長い長い屈辱の時代を堪えてきた民族の咆哮は、まだまだ続くに違いない。私たち日本人は、向こう岸から聞こえる咆哮を呆然と見送る以外に方法はないのだろうか。こう考えると切ない気持ちが充満してきた。

「中国漁船衝突と映像流出事件」(下)

2010年11月12日 | Weblog
 菅首相からは「中国も日本もお互いに慎重にならなければならない」という言葉を度々耳にした。これは一部の中国軍関係者による暴走だと把握して「恐怖の総和」に慎重になろうという意思表示に違いない。しかし、船長を釈放した時「あれは検察が判断したことだ」と自らの指示でなかったことを明らかにしたが、あの言葉で自らの無能さを世間や中国に示してしまった感が拭えない。それに比べて船長をはじめ乗組員を逮捕されてからの中国の強気な言動は見事なものだった。不当逮捕を最初から声高々に宣言し、次々に難題を投げかけきた。そして日本政府は後手後手の対応をせざるを得なくなった。特にレア・アースの輸出制限は見事な巨大な経済的脅しだった。しかし、中国政府はこの制限を否定しているが、その真偽は不明だ。自由主義国の日本では問題があった国に対して、商社や貿易会社に命令して、法律に抵触しない限り瞬時に輸出制限することはできない。その後のDVD流出騒ぎは、日本の管理能力欠如をまざまざと露呈してしまい、海上保安庁の規律やモラル低下さえ疑われることとなった。

 内部告発と云えばまだ聞こえはいいが、海保内の情報に対して管理不能状態であることは事実と思われてもしかたがない。それでなくても度々自衛官の情報漏れや警察官のテロ情報流出が騒がれており、警察官のモラル、公務員としての守秘義務、特に国益に関する情報や犯罪捜査に関わる重要な情報でさえ、誰もが回覧でき、まるで私物のように持ち帰えりできる管理体制では話にもならない。虚無的な個人主義が蔓延り、排出し続けるクソを再び口にしても何も感じない状態が国民や国防に関する人たちにまで蔓延してしまったのかと憂いてしまう。そして、そんな輩が感情に突き動かされて交戦的になることに大きな危険を感じる。

 海保からの流出が明らかになった今、いずれYouTubeに投稿した犯人も浮かび上がるはずだ。個人なのか、背後関係があったのか、その際に金銭の授受があったのか、菅政権を陥れる政権的謀略なのか、はたまたアメリカの陰謀なのか、真相は決して浮かび上がることはないように思う。ただ海保の職員が歯がゆい政府の対応に我慢できなくて、個人の意志で「海上保安庁は不当逮捕はしていない」と訴えたかった、こんな単純な真相はではないような気がする。もっと複雑で組織的な動きがあったように思えてならない。

 昔から政治がらみの事件に「偶然はない」と云われている。個人の意志での流出ならば、海保職員のモラル低下、海保の管理能力不足と結論されるだけだが、2年前、日本の過去の植民地支配を正当化する論文を発表して航空自衛隊の田母神俊雄航空幕僚長が更迭された事件があった。彼が航空自衛隊の現役時代、航空幕僚長として発した言動を信じていた部下が殆どだったに違いない。つまり多くの航空自衛官が田母神俊雄航空幕僚長と同じ様な気持ちだったということだ。『亡国のイージズ』にあった自国を憂う集団が存在してもしかりなのだ。ただ組織立っていないだけに違いない。今回のように歯切れの悪い政府首脳の対応に対して現場にいた海上保安庁の隊員達や陸海空の自衛隊の隊員はきっと歯がゆい思いだったに違いない。TVやYouTubeで状況を見た多くの庶民の方も流出を好意的に受け止めている姿をTVで見てその想いを増幅させたに違いない。


 私の恐怖はここにある。国防に命を懸けてきた日本の陸海空の真摯な自衛官が、今までの政府首脳の言動に不信感を持っている事実。海保からの流出騒ぎも発端はここにある。純真な自衛官が熱い言葉、甘い言葉に騙されて流出した可能性も高いと見ている。中国軍関係者から船長に尖閣諸島にて日本海上自衛隊を挑発していいと許可もしくは黙認されていたはず。双方の軍関係者や国防の任に就いている人々が双方共に非常に交戦的である状態こそ、一番の恐怖なのだ。日本政府がDVDを一般公開しなかった最大の理由がここにある。中国からのニュースは殆どが愛国主義に基づいた交戦的な叫びだ。釈放された船長はすでに中国では英雄扱いされている。中国企業への統制は取れても13億の国民への統制など、インターネットが盛んな中国では取れるはずがないのだ。そんな状況下で日本国民に交戦心やポピュリズムを煽るようなDVDを流すことなど政府としてできるはずがなかったのだ。そして、外交カードの一つとして政府は駆け引きに利用することが念頭にあっただずだ。そんな政府の姿勢を感じて中国首脳は先手を打ったのだ。ヤクザな人とおとなしい人が車同士の交通事故を起こした際に起こる状態と似ていると云える。

 多くの自衛官は今まで自国の領空・領海を侵犯してくるジェット機や船舶に対して年に何回もスクランブル発進を実施している。昭和42年度~平成21年度までの領空侵犯事例34件、スクランブ(=緊急発進指令)の回数は年間数百回ある。冷戦時代の昭和59年度には944回を数えた。今回はジェット機でもなければ潜水艦でもなく、不審船でもない。民間の漁船がまさに挑発的に領海侵犯してきたのだ。カニやマグロの漁獲目的の侵犯ではないのだ。まさに先代未聞の衝撃的侵犯事件と言える。海保として逮捕するのは当たり前の行動だ。これを政府首脳の許可なく検察の単独で無罪放免するとは一体なんたることか。現場隊員達と中国人船長達の熱い想いが尖閣諸島でぶつかりあった事件だが、しかけた人たちの心の奥はそう簡単には覗けない。


11月9日の夕刊にこんな記事が掲載されていた。

「原則は(映像)公開されるべきだが、何でもおおぴらにすればいいとは言い切れない。政府は映像を非公開として外交カードにしてのでは。内部告発が仮にマスコミに情報提供された場合は、ジャーナリズムがこれを適切に判断することができる。だが、今回のような同動サイトへの投稿では、反響も直接的になりやすく、極端なポピュリズム(民衆の利益が政治に反映されるべきという政治的立場)を招く危険がある」(ジャーナリスト:斎藤貴男)
「むしろあの内容で、なぜ政府が非公開にしたのか疑問だ。議論の材料を隠す方がおかしい」(東京都内の会社員31歳)
「いくら捜査情報といっても、事件自体の公共性が強い。流出した映像は国民が判断するためにも必要な情報だ」(上智大学の田島泰彦教授)
「(映像が)出てこないよりも良かった」専修大学メディア論山田健太准教授


海上保安庁:日本の官公庁のひとつ。国土交通省の外局である。略称は海保。国土交通省の外局。主に、海難救助・交通安全・防災及び環境保全・治安維持が任務の内訳となるが、現実には海洋権益の保全(領海警備・海洋調査)をも任務としている。諸外国の艦艇に対応する任務は、海上自衛隊が担当し、船舶に対する任務は海上保安庁が負う。

海上自衛隊: 防衛省の特別の機関である。略称はJMSDF。日本国内では、憲法上、戦力の不保持と交戦権の否認が明記されているため海軍としての機能は発揮できないが、諸外国からは「JAPAN NAVY:日本海軍」として受け入れられている。

「中国漁船衝突と映像流出事件」(上)

2010年11月12日 | Weblog
 衝突事件が起きたのは9月7日、海上保安庁の巡視艇「よなくに」が、操業中の中国の大型トロール漁船「閔晋漁五一七九」を発見し、退去命令を発した。が、漁船は突然、「よなくに」に船体を接触させて逃走。追跡に加わった巡視船「みずき」にも船体をぶつけて抵抗したが、最後は停船させられ、其雄船長が、公務執行妨害で逮捕された。
 
 船長は福建省出身。亡き父親も船長を務めた人物で、自らも16歳で海に出て、22歳の時に船長に抜擢されている。ここで忘れてはならないのは、中国の漁船は、戦争等の非常時には海軍に組み込まれるシステムになっているということだ。漁船とはいえ、大型トロール船の船長や機関長クラスになると、党の勉強会への出席を義務付けられ、時には軍の指示を受けて情報収集にも協力しなければならない。このため、船長は尖閣諸島問題をよく理解しており、日本の領海を侵犯し、尖閣諸島へ接近すれば、日本の巡視艇に追い払われることも十分に知っていたはずだ。「釣魚島は中国古来の領土で、その海域で漁をして悪いはずがない」といった個人的な思いや、軍当局の黙認があったと見てよかろう。                  リベラルタイム11月号 「CHINA WATCHER」

 もしこの情報が正確なら軍の暴走を中央の党指導者が掌握できていないことになる。東シナ海でのガス田共同開発に向けた日中両国の話し合いは、胡錦濤国家主席自らが主導して動き始めたとされている。日中関係を前進させることが、中国の国益に繋がると考えたからだ。今回の衝突事件でも、胡主席は楊潔外相一人に任せず、信頼を置く副首相級の戴秉国国務委員を、日本側との交渉責任者に充てた。これは異例なことで中国国内の反日運動の激化や、軍の暴走を抑えるためだったと思われる。

 世界最大の軍事費をつぎ込んで陸海空と強大な軍事力を構築してきた中国。近年、東シナ海で限定的戦争を想定した軍事訓練を繰り返しており、中国の北海艦隊はこの3月、東海艦隊は4月、沖縄本島と宮古島の海峡を通過しその軍事力を誇示している。かつて日本帝国陸軍も中国において暴走した過去がある。戦争の勃発は軍事力の均衡が崩れた時に危険状態となる。中国の党指導部が戦略的に今回の事件を起こしたとは思っていないが、軍部のタカ派幹部達が計画的に起こした事件とも見えてくる。つまり北京内部で権力闘争が起こっているかもしれないのだ。


 トム・クランシー原作『恐怖の総和』を映画化した「トータル・フィアーズ」という映画を見ていただければ、現在の中国と日本首脳の苦悩がよく分かる。物語は一つの核が武器商人の手に渡る。その核が米国に持ち込まれ、米国大統領が入場したスーパーボール会場で爆発する。CIA分析官の主人公ジャック・ライアンは被爆地まで行ってその核が米国製であることを突き止める。同じ頃、ロシア大統領も自国が発射した核ではないことを確認する。米国政府はロシアと判断し報復を考えるが、J・ライアンは分析官としてロシア大統領を以前から分析しており「米国を攻撃するような人物ではない」と報告する。しかし、一人の分析官報告など米国政府高官は信じようとはしない。自国で発射した核でないこと知っているロシア側でも米国の報復攻撃を恐れ、先制攻撃をしなければロシアは滅ぶと主張する軍幹部とそれを諌める政府高官との衝突が沸騰していく。超大国2国の軍部と政府高官たちの増幅する<恐怖の総和>が物語の主題だ。

 今回の衝突事故は故意に、海上保安庁の巡視艇「よなくに」と「みずき」にぶつけていることを日本政府はDVDを見て分析したときから承知していたはず。しかも船長たち乗り組み員の態度に当局の許可やもしくは黙認を感じさせる態度が見て取れる。中国政府は日本の領海内での起こった事件であることを百も承知しているが、それを認めて謝罪すれば尖閣諸島や東シナ海でのガス田共同開発の条件が大きく変わって来るのは必至。天然ガスがあるなら石油埋蔵の可能性も非常に高いのだ。かと云ってあの事故は船長が勝手に「やったことだ」とは胡錦濤主席は絶対にいうはずがない。それは13億の世論を敵に回すことであり、政治家として「私は管理能力のない無能者だ」と云っていることに他ならないからだ。

 映画「トータル・フィアーズ」でもロシアの首相がこう云っている。「政治家として無能より恐ろしいと思われる方がよっぽどましだ」というセリフだ。政治家にとって無能、バカと思われれば、政治生命は終わりだということ感じさせる素晴らしいセリフだ。(続く)


「結婚したい人たちへ」

2010年11月06日 | Weblog
 今まで結婚しない人たちを数多く見てきた。その多くは結婚はしたいけれど、理想を落としてまで結婚をしようとは思わないという。この言葉を分析すると、「結婚は最優先ではない」という言葉に突き当たる。また「私の心を奪う人にも出会わなかった」という。ここには「待ちの姿勢」を感じる。あせり気味の連中が<婚活>という予備軍になっていく。

 以前日記の中で「結婚とは<偶然の産物>である」と自身の想いを語ったことがある。お互いの気持ちが一緒に居たいという熱い気持ちになることがまれであるからだ。そして、若いうちはお互いの心の内をさらけ出すことが容易だが、結婚適齢期となって年齢を重ねれば重ねるほど心の内をさらけ出すことも困難になっていく。言い換えれば自立すればすれほど自己の心の体積や質量が増えていくために、相手の気持ちを優先することが難しくなる傾向があるからだ。

                        

 阪急グループの創始者、小林一三氏は「どんな職業でもいい。結婚相手はその仕事自体が好きなのか。成功したい出世したいから、やむなく仕事をしているのか。そこを見ろ。自分の職業が好きで楽しみ夢中になって働く人を選べ」とタカラジェンヌに話したという。

 男性が自分の仕事を楽しみ夢中になって働いている時期というのは、若い時期のような気がする。30歳を越えて部下や上司に挟まれる年代に入ると、やむなく仕事をしている姿が決して少なくない。今の仕事が天職がと思う人の数は決して多くはなさそうだ。結婚を望む女性軍は、そんな男性軍を見て、「幼すぎる」、「やむなく仕事をしている」という印象を持つのではないか。また、実際に自分の仕事を楽しみ夢中になって働いている男性軍も少ないかもしれない。また、同じ25歳でも男性と女性の精神的年齢はかなりの違いがあるように思う。価値観の違いはこうした差からも生まれてくる。

 ここまでが私なりの一つの分析だったが、http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1011/02/news080.htmlの『イマドキ独身女子の、恋愛事情に迫る』の記事を読んでみると、意外な面が見えてきた。そして、その結果を私は好意的に受け取った。それは心の繋がりを優先することだった。

 結婚の条件ベスト3が、1位「信頼が持てる」、2位「価値観が近い」、3位「安心できる」だった。かつて“3高”と言われた「年収が高い」は28位、「背が高い」は33位、「学歴が高い」は45位、と大きく様変わりしたのだ。

 アンケートに答えた23~49歳の独身女性(1,184名)なら一度は社会に出て仕事をした経験を持った社会的に大人と云える。社会の不平等や不条理を少なくとも経験した人たちと云っていいだろう。日本は世界の中で最も平等な国の一つと数えられながら、現実の社会ではコネ入社がまかり通ったり、男女平等・機会均等といいながらまだまだ遠い現実に直面したり、学歴や学閥、男女の差が採用・昇格に影響したり、ただ美人であるだけてチヤホヤされることを自分の目で確かめてきた人たちだ。そして、いい加減な大人の男たち、信頼できない男の上司たちを自分の目で確かめてきたに違いない。

 かつての“3高”(年収・背・学歴)は、目で確かめられるものだった。しかし、現代の彼女たちが求める結婚の条件ベスト3が、「信頼」「価値観」「安心」だった。これは目に見えないものだ。心で感じるものだ。社会進出が遅れた女性軍が男性軍を評価するには目で見えるもので決断を下すしかなかった。しかし、社会進出を果たし、多くの男性軍と共に働くことによって、生涯の伴侶には「信頼」「価値観」「安心」が大切だと感じたに違いない。

 以前ViViという雑誌が「3K男子急増中!」を特集で取り上げたことがある。3Kとは、仕事に対して:「危険」「汚い」「きつい」だったが、この特集では「小ぎれい」「こだわる」「枯れ気味(SEXしたがらない)」だそうだ。
 この3Kにも「信頼」「価値観」「安心」が影響しているように思える。とにかく高度成長期経て、ようやく日本の女性は男性軍を間近に見られる時代に突入に、自らの判断で配偶者を選べる時代になったことは確かなようだ。このことを私は好意的に受け取ったのだ。

 気になる報告もあった。「彼氏がいる――30.7%」という報告だった。また恋愛に対し「相手からのアプローチを待つ方だ」という女性は73.3%。ちなみに独身男性も64.0%が「待つ」タイプと答えており、お互いが待っている状況のようだ。さらに恋愛の必要度合いでも「恋愛はしてもしなくてもよい」(58.2%)という人が「恋愛は必ず必要である」(41.8%)人を上回った。

 
 お互いに<待ち>の状態であることを知っておいて損はない。積極的にアプローチするのは学生時代は容易でも、社会に出てからは難しいと百も承知している。しかし、しかしだ。お互いに<待ち>の状態を知ったのなら、緩やかに一歩でも踏み出していいと思わないか。私は穏やかでも積極的な一歩をお奨めしたい。