10月30日の朝日新聞朝刊、文化のページで風間杜夫氏の記事があった。1997年から始めた一人芝居の話だった。毎日5時間半、しかも8日間連続で演じるという。61歳の若々しい挑戦だ。風間氏がこんなことを云っている。
13年たって、「最初の頃は勢いで演じ、生な自分がでていたkれど、今では役を俯瞰する感覚になりました」。
「僕は自分自身の感性をさらし、それを見てもらっているだけ。修行して身につけた芸とは全然違う。あくまで役者が演じているものです。ではいい役者とは何だろう。その人が持つ本質的なものが役を通して観客の心に届く、ということかな。そういう役者になりたいですね」
私は以前風間杜夫という役者があまり好きではなかった。TVで見る彼の役柄がチンピラ的で下品な言動が多く、二枚目ぽいだけに拒否反応を持ったものだ。東映の子役で有名になり小学校時代からスターだったことが、薄く感じる演技に影響していたのかもしれない。しかし、1982年の日本アカデミー賞を獲得した「蒲田行進曲」を見てからだった。
「彼は実は演技が上手い?」
映画の始まりでの銀ちゃんの派手な言動が、まるでつかこうへいの舞台劇そのもののように見えて映画として見るには若干引き気味にだった。しかし、映画が進むにつれて、ヅラをつけた新撰組の近藤勇役の凛々しい表情もとても映えて見えた。そして、横暴で自己中心的な銀四郎の役柄がだんだんと切なく思えてきたのだ。その後の展開の中でも松坂慶子と平田満の名演技にも押されることなく見事に銀四郎を演じきった。ラストのストップスチールが今でも心に残る。「やられた!」そんな感じだった。1982年の作品だからあれから随分年月が流れた。
最近では2008年の「CHANGE」、2009年「ありふれた奇跡」の父親役、登場するたびに深みにあるセリフを聞き涙していたように思う。「蒲田行進曲」から25年以上も役者としての経験を重ねたのだから上手くなるのは当たり前かもしれないけれど。ただ良い年の重ね方をしなくてはあのように情感が籠もったセリフがでないように思えてならない。
そんな風間氏の言葉、<俯瞰する感覚>とは、自分が出演するステージでの関係を客観的に天井のような所から観察するもう一人の自分の目ことです。演劇用語で『ハイパーセルフ』と云います。 同じようなことをF1のシューマッハが語ったことがあります。F1のスタートは緊張の一瞬です。横から後ろからもスタートダッシュで少しでも順位を上げようとすべての車がせめぎ合います。「こんな時は自分の車を俯瞰的に見なくてはハンドルは握れません」
一つの頂点を極めた役者もレーサーも同じように<俯瞰>という言葉を使用しています。この言葉は社会でも人生でも通じるような気がしてならない。
「あなたが今いる環境を俯瞰的に、自分自身のもう一つの目で見てみよう。
そして、あなたは今何をするべきか、考えてみよう」
「いい役者とは何だろう。その人が持つ本質的なものが役を通して観客の心に届く、ということかな」という話もとてもいい。
幼い頃から役者として酸いも甘いも噛み分けてきた風間氏の含蓄のある話だと思う。
「今あなたがいる環境の中で、自分の本質的な良い部分を周囲に示していますか?」
私は風間氏の話をこのように置き換えてみた。
その道を極めた人の話は、あらゆる人生において通じるような気がする。
風間氏には聞こえないだろうけど、こう伝えたい。
「あなたが持つ本質的なものが役を通して私の心に届いていますよ」
13年たって、「最初の頃は勢いで演じ、生な自分がでていたkれど、今では役を俯瞰する感覚になりました」。
「僕は自分自身の感性をさらし、それを見てもらっているだけ。修行して身につけた芸とは全然違う。あくまで役者が演じているものです。ではいい役者とは何だろう。その人が持つ本質的なものが役を通して観客の心に届く、ということかな。そういう役者になりたいですね」
私は以前風間杜夫という役者があまり好きではなかった。TVで見る彼の役柄がチンピラ的で下品な言動が多く、二枚目ぽいだけに拒否反応を持ったものだ。東映の子役で有名になり小学校時代からスターだったことが、薄く感じる演技に影響していたのかもしれない。しかし、1982年の日本アカデミー賞を獲得した「蒲田行進曲」を見てからだった。
「彼は実は演技が上手い?」
映画の始まりでの銀ちゃんの派手な言動が、まるでつかこうへいの舞台劇そのもののように見えて映画として見るには若干引き気味にだった。しかし、映画が進むにつれて、ヅラをつけた新撰組の近藤勇役の凛々しい表情もとても映えて見えた。そして、横暴で自己中心的な銀四郎の役柄がだんだんと切なく思えてきたのだ。その後の展開の中でも松坂慶子と平田満の名演技にも押されることなく見事に銀四郎を演じきった。ラストのストップスチールが今でも心に残る。「やられた!」そんな感じだった。1982年の作品だからあれから随分年月が流れた。
最近では2008年の「CHANGE」、2009年「ありふれた奇跡」の父親役、登場するたびに深みにあるセリフを聞き涙していたように思う。「蒲田行進曲」から25年以上も役者としての経験を重ねたのだから上手くなるのは当たり前かもしれないけれど。ただ良い年の重ね方をしなくてはあのように情感が籠もったセリフがでないように思えてならない。
そんな風間氏の言葉、<俯瞰する感覚>とは、自分が出演するステージでの関係を客観的に天井のような所から観察するもう一人の自分の目ことです。演劇用語で『ハイパーセルフ』と云います。 同じようなことをF1のシューマッハが語ったことがあります。F1のスタートは緊張の一瞬です。横から後ろからもスタートダッシュで少しでも順位を上げようとすべての車がせめぎ合います。「こんな時は自分の車を俯瞰的に見なくてはハンドルは握れません」
一つの頂点を極めた役者もレーサーも同じように<俯瞰>という言葉を使用しています。この言葉は社会でも人生でも通じるような気がしてならない。
「あなたが今いる環境を俯瞰的に、自分自身のもう一つの目で見てみよう。
そして、あなたは今何をするべきか、考えてみよう」
「いい役者とは何だろう。その人が持つ本質的なものが役を通して観客の心に届く、ということかな」という話もとてもいい。
幼い頃から役者として酸いも甘いも噛み分けてきた風間氏の含蓄のある話だと思う。
「今あなたがいる環境の中で、自分の本質的な良い部分を周囲に示していますか?」
私は風間氏の話をこのように置き換えてみた。
その道を極めた人の話は、あらゆる人生において通じるような気がする。
風間氏には聞こえないだろうけど、こう伝えたい。
「あなたが持つ本質的なものが役を通して私の心に届いていますよ」