GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「愛は先生がいなければ習得できない」

2011年10月27日 | Weblog
愛は本能ではなく 学ばなければ習得できない
先生がいなければ習得できないものだ

わが身を可愛がり過ぎて その愛を習得できない人
痛い、怖い、悲しい、楽しい、美味しいと自分は実感できても
他人の痛みや恐怖や悲しみに共感はできない

かまってもらえず放って置かれた長くて暗い孤独感
自分がどんなに求めても 
その想いが伝わらない
そのことが愛の習得を遅らせ
ついには愛を知らないままに大人になっていく

                               

他人や動物、植物、自然を大切にし
音楽や芸術の世界に足を踏み入れることは
愛の習得と同様に人間以外には決してできない
人間が万物の霊長たるゆえんだ

愛の習得は同情する気持ちから始まる
悲しい話に出会った幼い心
小さな波紋が時間をかけて大きな波となる
悲話に登場する人物に共感する気持ちは
やがて同情という気持ちに育っていく
私に最初の波紋を投げかけた悲話は『安寿と厨子王』(森鴎外:「山椒太夫」)
学校に上がり小学校の講堂で見たアニメ映画だった

豊かになった現代
悲しい話を耳にすることが少なくなった
親たちも幼稚園でも あえて悲話を伝えることが少なくなった
悲しい現実のニュースが溢れているせいかもしれない

テレビから流れる物語の多くが冒険物や探偵物や勧善懲悪もの
殴ったり蹴ったり殺したりするビジュアルゲームが散乱する
荒々しい気持ちには共感し興奮しても
悲しみを共感する気持ちや他人に同情する気持ちは少ないのではないか
これでは幼い心に同情心や愛の波紋が生じてこない

                              

蜂やアリがせっせと巣に食物を運び
子孫を残す女王に仕える姿から愛は見いだせない
母犬が自分の子に母乳を飲ませ 舐めるように可愛がる
その子犬が違う家にもらわれ 大人になって出会うと 
牙をむき出しながら争い 餌を取り合う
あの場面を思い出すと 今もとても悲しくなる

大切にしてくれた主人が亡くなったことが理解できず
渋谷駅に毎日迎えにきた忠犬ハチ公
犬は犬に愛を教えることはできない
しかし 人は犬に愛を教えることができる
愛情を注ぐことによって犬は情を返してくれる

「生みの母より育ての母」
子育ての間に悲しい話も楽しい出来事も
共有し共感しながら幼心に波紋が広がっていく
この波紋によって心は豊かになり
愛が育まれていく
だから生みの母より育ての母が優先する

若者がアルバイト先で
嫌やな先輩やイジメに遭遇する
すぐに辞めてしまう人と堪えようとする人がいる
明日のご飯や来月の家賃に迫られている人
目的を持っている人はそう簡単に辞めるわけにはいかない
嫌な職場でも感情を抑え我慢してでも給料を得ようとする
バイトを始めたそれぞれの動機が行動の違いを生む

                                            

豊か過ぎる時期を過ごしてくると
感情を優先する人が育ってしまうのではないか

夫の給料が足りず 働いて我が子を育てようとする人
夫の給料で自分を着飾り余暇を優先して楽しむ人
子育てを妻に任せっきりにする夫
離婚して女手一つで我が子を育てる人
離婚して男手一つで我が子を育てる人
親もそれぞれなら 我が子への愛もそれぞれ
子供たちはそんな親たちから
何かを感じ取っていく
そして 愛の波紋が生じたり
暗くて深い孤独の海に沈んでいったりする

日本が豊かになりすぎて
自分の欲望を消化する習慣を身に付けてしまった人
子育てはきっと重荷に違いない
結婚して家族を作るべきではないのかもしれない
豊か過ぎた負の遺産
本人たちはそのことに気がつかない
不幸の連鎖が始まっていく

「家庭の幸福は諸悪の根源」と語ったと云われる太宰治
明治末期に生まれ 大戦後に自殺した
豊かさを勝ち取るにはあまりに生命力が欠如していたのかもしれない
繊細な心はハングリーに生きるためには不必要というより
破壊を招くガン細胞のようなものかもしれない

                              

感情や欲望を優先するDoing志向の人がどんどん増加している現代
Beingから生まれる愛が欠乏していくのは悲しい現実

だからこそ愛は本能から生じない
文字や言葉、箸の使い方や自転車運転のように
習得しなければ得られないといいたい

親たちが先生でなければならないということはない
たった一人でいい
無償の愛を伝えさえすればその子は その若者は
人生のコーナーをみごとに曲がりきれるだろう

暗くて深く 冷たい孤独の海から
もがきながらも浮かび上がることができるだろう

「超大国の復讐」②

2011年10月24日 | Weblog
「中国初の空母」記事から「ベトナムの潜水艦購入」、「韓国への領海侵犯」ニュースも入ってきている。今や超大国となった中国、そして、中国を取り巻く東南アジアの国々、それぞれに国家が抱える諸問題があるだろうが、そんな状況下で首脳たちの思惑をも含めて、彼らの<恐怖の総和>が何を生じさせるのか、きな臭い匂いが少しずつ沸き上がってきているように感じる。

8月の時事公論で秋元千秋解説委員が、こう語っている。
『中国の軍事力の近代化は、空母だけでなく、空母を攻撃できる弾道ミサイル、レーダーに映りにくいステルス戦闘機、宇宙配備のシステム、さらに、サイバー空間でのサイバー戦能力の向上など、あらゆる分野でアメリカに対抗しようとしていて、アメリカ国防総省の報告書は、中国は、2020年までに最新兵器の装備を終え、近代的な軍隊に生まれ変わるだろう』

 日中国交の回復を図った田中角栄以来、日本は経済的に中国と手を結びながら、政治的には日米安全保障条約によって米国との関係を続けている。それはとても危なっかしい外交を強いられていることを意味している。いつかどちらか選択せよと二つの超大国が迫ってくる可能性があるからだ。日本の現政権は以前の自民党と比較すれば、かなり中国寄りに見える。元民主党最大実力者の小沢氏による300名を越える党員を連れての中国詣(中国国家主席の胡錦濤会見)があったが、あっという間に表舞台から引きづり降ろされた事件は、何を意味するものなのか。

 2011年、10月16日、野田首相が航空自衛隊の観閲式で、中国と北朝鮮が「脅威」であるとの認識を示し、不測の事態に備えるように訓示した。「タカ派」で知られる野田首相の外交姿勢は鳩山・菅両前首相や小沢氏とは一線を画している。「日米同盟」という大きな柱なくして国内の政治も一歩も進まないことを承知しているのだろう。自民党の安倍元首相、鳩山、菅前首相の辞任劇を間近に見てきた彼は、そのことを痛感しているに違いない。野田首相は日本と同じ価値観で中国と領有権争いを抱えるフィルピン・インドネシア・ベトナム・インドなどと「価値観同盟」を結んで、中国と対抗しようとしていることが伺える。内閣発足時の支持率から10%下降していることが気がかりだが、現在の姿勢を貫いて欲しいと願っている。スタンスは間違っていないと私は思う。

 第七回「北京-東京フォーラム」が8月22,23日、北京で開催されたが、これに参加した自民党政調会長で元防衛相の石破茂氏の話を紹介する。
「空母を有効に運用するには、その一隻につき三隻の軍艦が必要になり、その護衛のためにさらに多くの艦艇が必要となる。こうした編隊を配備することは難しく、実際の運用経験の蓄積も求められる。私はこれまで一貫して、装備は嘘をつかないと主張してきた。どの国が何を考えているかは、その武器を見ればわかるのだ。私は中国空母の発展が日本の安全利益の脅威になるとは思わない」

               
          第七回「北京-東京フォーラム」の石破氏

 この話は決して本心ではあるまいと私は思っている。平松茂雄氏(前杏林大学総合政策学部教授。専門は中国の政治、国防政策)は、8月18日付産経新聞の「正論」欄で「(中国は)『台湾統一』を達成した暁には、太平洋とインド洋に本格的に進出してくるだろう(台湾が日本の生命線)。そうなると、空母は必須となる。中国はそれに向けて国のすべてを注力している」と強調している。これが石破氏の本音だろうが、北京にまで行って平松氏のような話ができるわけがない。私は彼の話を(空母)一隻につき三隻の軍艦が必要になり、その護衛のためにさらに多くの艦艇が必要となる。こうした編隊を配備すれば、それは敵対行為として受け止める覚悟があると脅した言葉として受け止めている。

軍事アナリストDaniel Goure氏の主張も紹介しておく。
●間もなく海に漕ぎ出そうとしている中国空母Shi Lang施琅は、米国の太平洋における勢力に何ら影響を与えるものではない。
●中国の空母は、「壮大な見栄のプロジェクト」であり、疑問だらけの(道楽息子の)スポーツカーであり、極めて脆弱なものである。
●中国軍は、単に旧ソ連から空母を購入したのみならず、旧ソ連時代の(古いビジョン)急進する国家は外洋海軍を保有せねばならないとの思考パターンまで購入したのだ。
●旧ソ連は外洋海軍建設の過程で、政治や軍事的に全く無意味な大海軍建造に膨大な資金と資源を無駄に投入した。中国も、旧ソ連やロシアと同様の大陸国家である。
●空母を保有することと、作戦面で有効な空母戦闘群を保有することは全く違う。中国が空母戦闘群を望むなら、全周の防空体制と対潜水艦作戦能力、洋上補給態勢、海空協力態勢等々の準備が不可欠である。中国には、E-2Cやイージス艦やC-2輸送機やロサンゼルス級攻撃潜水艦が存在するだろうか?
●むしろ米海軍は、中国海軍の外洋海軍建造を歓迎すべきではないか。

今は、石破氏の言葉、「装備は嘘をつかない」(行動は本音を表す)を信じたいと思っている。

「超大国の復讐」①

2011年10月24日 | Weblog
  

 2011年10月14日、香港のアジア・タイムズ・オンラインは「南シナ海:地政学上の新たな火薬庫」と題した記事を掲載した。今年の8月「中国初の空母」という記事を読んでいただけにとても気になった。

『レッド・ドラゴン侵攻!』『レッド・ドラゴン侵攻! 第2部 南シナ海封鎖』という小説を読み終えたばかりで、ラリー・ボンドをいう作家の先見性に非常に驚いた。彼は元米国海軍作戦将校で、分析官・対潜技術専門官でもあっただけに、元保険屋だったトム・クランシーと比較すると戦闘場面描写では一枚上手のように感じた。クランシーとの共著(「レッド・ストーム作戦発動」)は名高い。私はショーン・コネリー主演で映画化もされた『レッド・オクトーバーを追え!』を読んで以来、T・クランシーの大ファンになり何冊も彼の小説を読んだが、ラリー・ボンドもファンになりそうだ。

 小説の感想を述べると、元軍人の戦争小説とはいえ、『恐怖の総和』のT・クランシーほど重たくはなく、容易に女性の方でも読めると思う。しかし、これは訳した伏見威蕃氏の力量にもかなり影響があるようにも感じる。ラリー・ボンドの書いた『レッド・ドラゴン侵攻!』『レッド・ドラゴン侵攻! 第2部 南シナ海封鎖』は、超大国となった中国が現実に抱える問題を基に書かれており、近未来のミリタリー作品だが、海軍の分析官が書いただけに極めて信憑性のあるリアリティの高い小説と云える。

 あらすじを述べてみる。中国は石油資源の確保と食糧の確保を目的に、ベトナムを我がものにするために密かに侵攻するが、ベトナム側が先に侵略したと主張し、国際世論を味方につけようとする。国連からベトナムに派遣されたアメリカの気候学者が、中国との国境付近で中国の奇襲部隊に襲われる。彼は一人になって必死で逃げ惑いながらも、中国軍の非道な残虐行為をビデオ撮影する。中国首脳はその事実を隠すために、禅を学んだ優秀な中国奇襲部隊将校を使って、気候学者を執拗に追いかける。米国大統領は秘密裏にSELS(米海軍特殊作戦部隊)を派遣して救出に向かわせる。そして、ベトナム兵をも含めた三つ巴の戦闘が始まる。第二部のラストは中国軍の残虐行為を国連で発表しようとする主人公の気候学者と上院議員が乗るのリムジンが襲われる。ベトナムから単独米国にまで渡ってきた中国軍奇襲部隊の将校は、暗殺を実行するためにリムジンに向かってRPG-7(携帯式対戦車擲弾発射器)を発射したのだ…。

 さて、実際の中国はというと、『レッド・ドラゴン侵攻! 第2部 南シナ海封鎖』の訳者あとがきを少し引用させていただいて話を進める。
 日本のバブル絶頂期1990年以降、軍事力増強がめざましい。1992年2月公布、「中華人民共和国領海および接続水域に関する法律」で「台湾および魚釣島(尖閣諸島)を含む島々」を中国領とした。尖閣諸島周辺の埋蔵石油の発見にともない、70年代から所有権を主張しはじめ、この法律公布に至ったわけだ。この間に中国海軍力の増強がなされてきた。今年の空母所有のニュースもその一端だ。

こうした拡張主義には中国は国土が広い割に資源の乏しい国という背景がある。
・2009年、鉄鉱石輸入は前年対比40%増加(世界の鉄鉱石輸入の3分の2)
・2009年、石炭の輸入も前年比約3倍
・2009年、原油の輸入への依存度は50%、2020年には70%に達すると予測
・2010年、ベトナムから米60万トンを輸入
    (同年上半期の輸入量の3.44倍、まるで食糧難とも思える輸入量)

     

 これらの状況は20世紀前半、同じ目的で南方に進出していったアジアの小国を彷彿させる。アヘン戦争以後、中国が列強に奪われたと主張している領土は、ロシアの一部、朝鮮半島、琉球諸島、台湾、東南アジアの全域にも及んでいる。また、チベットやその他の少数民族の自治区では漢化を進め、パミール高原ではインドと対峙するなど多方面で火種を抱えている。このような事実はまるで19世紀後半から20世紀にかけて、列強の帝国主義による弱小国家への侵略行為を思い出す。辛酸を舐めてきた中国が、経済力と軍事力を身に付け、周辺の国家やあの時代の列強国に、強引とも思える外交を行使し始めたのだ。まるで復讐のように思えてならない。「お前たちが100年前にしたことを、俺たちは今しているだけだ。何が悪い」中国首脳たちは本音の部分でこう思っているに違いない。

 2020年には60歳以上の人口が、現在の倍近い2億5000万人になると予想され、中国はこれから本格的な高齢化社会を迎えることになる。日本と同様に今後ますます膨らむ社会保障費は、ふた桁の伸びを示し続けてきた軍事予算に影響を与えるに違いない。しかし、すでに巨大な軍事力を手にしつつある中国は、いつか日本を丸呑みするのではないか、そんな危惧さえ生じてくる。
 異常とも云える円高によって、生産工場を海外に設けることによって車や衣料品、食品加工に至るまで、日本の高度な技術力が特に中国に流れた。近年の中国経済発展はその恩恵と云えないこともない。アメリカは昭和初期から日本製品を何度もバッシングしてきたが、トヨタバッシングで一時中断して、今後は中国製品を中心にバッシングをシフトさせるだろう。円高もこうした背景からいずれは緩和されるだろうと私は考えている。元の見直しや増大する人件費は、中国の首脳を脅かしているに違いない。これが現在の戦争だ。いわゆる経済戦争だ。

 少し前に池上永一の琉球の歴史小説『テンペスト』を読んだが、始めて琉球側から見た薩摩や江戸幕府との関係、清国との関係を学ぶことができた。見る側の立場が変われば、<正義>は変わってくる。中国から見る西欧諸国や日本、イスラム圏から見る西欧諸国、歴史もまた見る側が変わればまったく様相が変わってくること知っておかねばならない。


映画つれづれ草子(7)「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」

2011年10月21日 | Weblog
10月の映画鑑賞に選んだ作品は、「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」。シリーズ1作目の「猿の惑星」を見たのは1968年、中学3年生の時だった。主演のチャールトン・ヘストンが女性と共に馬に乗って、不時着した惑星の渚を行くシーンを今でも鮮明に覚えている。惑星を支配していた聡明な猿たちが禁断の地と呼んでいた地域には、自由の女神の残骸をはじめ、人類が築いてきた文明のかけらが散らばっていた。不時着した場所は、未来の地球だったのだ。愚かな戦争が人類を滅ぼしたのだ。C・ヘストンが打ち寄せる砂浜に膝をついて泣きだすラストシーンは今も忘れられない。

 映画が上映された時期はまだ、東西冷戦の真っ直中(ベトナム戦争:1960~1975年)。ただのSF映画ではなく、ショッキングなラストは痛烈な戦争批判として話題となり、大ヒットした。その後4本がシリーズ化されたが、2作目から5作目まではすべて駄作だった。この作品で6作目となるが、最新作は、良くできた作品だ。猿が地球を支配するに至る第一歩が描かれる。冷戦から始まった世界大戦が人類を滅ぼしたとされる一作目のラストとは違った内容になっているが、時代の流れとして受け止めるしかない。
 自我に目覚めていく聡明な猿シーザー、彼の目には明らかに心(=精神)が宿っていた。その心の動きをパフォーマンス・キャプチャー技術を駆使したリアルなVFX映像が見事に描き出していた。「猿の惑星」の原作者ピエール・ブールも、きっと驚くに違いない。



 名作を見た大阪の映画館は今でも脳裏に焼き付いている。「007」シリーズや「ターミネーター2」を上映した南街劇場。マックィーンのセーラー服が印象的だった「砲艦サンパブロ」は難波大劇場、三船敏郎主演の「赤ひげ」「用心棒」「椿三十郎」は東宝敷島、大好きな二人、ポール・ニューマンとマックィーンが共演を果たした映画、「タワーリング・インフェルノ」を上映したのは大阪唯一のシネラマ館、梅田のOS劇場だった。「ゴッドファーザー」もOS劇場だった。

 あの頃から40年以上が過ぎた。場所や名前を変え、シネマコンプレックスとして名前をついでいる映画館もあるが、紹介した当時の映画館は今は一つも残ってはいない。火災事故で多数の死人を出した千日前デパート1Fの天津甘栗店で、細長い枕ほどあるポップコーンを抱きかかえ、映画館をいくつもハシゴした記憶が残っている。中学2年の時、4本も封切り映画を見て、難波から南海電車に乗って帰宅途中、一つ手前の玉出駅の映画ポスターを見て思わず飛び降り、また玉出の映画館で2本立てを見たことがある。一日で6本も見たのだ。帰宅したのは夜の9時を過ぎていて、両親にこっぴどくしかられた記憶が残っている。朝の9時頃に家を出て、食べたのはポップコーンだけだった。あの頃の私はご飯も忘れるほど映画を見ていたかったのだ。映画が好きで好きでたまらなかったのだ。

                     
                      改装後の松竹座               

 一作目の「猿の惑星」を上映した映画館は、道頓堀のすぐそばにある松竹座だった。大阪松竹座は、大正12年(1923年)関西初の洋式劇場として誕生した。正面の大アーチが特徴的なネオ・ルネッサンス様式の建築は、大阪の顔として親しまれた。戦前は洋画を中心に、戦中と戦後すぐには邦画封切館として興行。昭和27年(1952年)7月からは洋画封切館として再発足し、数々の名作を上映し、平成6年(1994年)5月洋画封切館としての歴史の幕を閉じた。スティーブ・マックィーン主演の「大脱走」も、初恋のチエちゃんと初めて見た映画(「ある愛の詩」)もこの松竹座だった。他の映画館と違って松竹座は、左右の壁際の座席が出っ張っていて、この部分に座るのが何だか特別席のようで、子供の頃はとても素敵だと感じていた。かつて演劇も開演されていたことなど、その頃の私は知りもしなかった。新作の「猿の惑星」を見終わって連れ添いは、「やっぱりこの種の映画は私には合わないな」と呟いた。私は昔の松竹座のことを思い出していた.


  過ぎ去った時は 永遠に戻らない
  昔何度も行った映画館は今では何処にも残っていない
  楽しかった記憶でさえ消えていくのだろうか
  
  「永遠」という言葉は何故生まれたのだろうか
  きっと誰かの願望からきた言葉のような気がする
  この世に存在するはずのない言葉
  でも願わずにはいられない「永遠」

  オリバー・ストーンの映画「リトル・ブッダ」の中で
  幼いブッダ(仏陀)が高僧に尋ねるシーンがある

  「和尚、無常とは?」
  「今見える街並みの人達が、80年もすればすべてこの世からいなくなることだ」

  
  「永遠」と「無常」
  正反対のような言葉だが 何故か切なくなるほど重なった


若いお母さんへ <考える力>

2011年10月18日 | Weblog
 鶴亀算は、中国の数学書『孫子算経』のキジとウサギの数を求める問題が、江戸時代におめでたい動物のツルとカメに置き換えられてこの名前になった。

(例題)
鶴と亀があわせて6匹、足の数があわせて20本であるとき、
鶴と亀は何匹(何羽)いるか。ただし、鶴の足は2本、亀の足は4本である。

(方程式を使うと)     
鶴をX、亀をYとすると    
X+Y=6  2X+4Y=20
X=6-Y  2(6-Y)+4Y=20       
12-2Y+4Y=20  
2Y=8  Y=4
X+4=6 X=6-4 X=2     

Ans, 鶴2匹、亀4匹    

(鶴亀算を使うと)

一般的な鶴亀算の解き方
6匹とも鶴とすると
6×2 =12 …6 匹すべてを鶴とすると、足は12 本。
20-12 =8 …足の数は合計で20 本だから、8 本少ない。
8 ÷2 =4 …亀を1 匹増やすと足の数が2本増えるから、
亀を4 匹増やせば、不足の8 本が解決!
よって、亀は4 匹。
6-4 =2 …鶴と亀の合計が6匹で亀が4匹なので、
鶴は2 匹。

 中学生になって方程式を学び、この鶴亀算がとても楽にこなせたことを覚えている。しかし、今考えれば鶴亀算の方がとても論理的で答えに行きつく過程に共感が持てる。もっと鶴亀算のような解き方を指導するべきだと思う。化学の実験や物理の実験は、このような作業の連続のような気がするからだ。この場合はどうだろうか? これではうまくいかないな。ではこんな場合はどうだろうか? このトライ&エラーを繰り返すことで様々な考え方や新たな発想を産みだす。すぐに答えが出ない分、冷静で論理的な思考や大切な根気・辛抱が育っていく。



 この思考は人生の歩みにとって、とても大切な気がしませんか?

 やり方は行き当たりばったりではなく、まず数字の小さい鶴(足の数)で考えてから、数字の大きい亀の足の数の公倍数を捜していくのがベターだと問題をこなすと分かってくる。こうしたことが知恵となる。鶴亀算の問題は「鶴でまとめて考える」が問題を解くスタンスとなり、これがコツと呼ばれるものだ。

 知恵を絞りようやく正解に辿り着く。時間にして方程式の4倍以上を費やすだろう。この4倍の時間こそ、幼い子供達に考える力を身に付ける大切な時間ではないか。明治以降の近代化の流れは、いつの間にか現代人をせっかちにしてきた。常に何かに追われている気持ちが拭えない。それはまるで限られた時間で、人よりも多くの正解をしなくてはならない受験戦争と似ているように思う。鶴亀算のように様々な場合を考えてじっくりと時間をかけて正解を求めていくより、方程式を用いて最短で答えを導きだせる方法を知っている人が優秀とされてきた。これでは方程式では解けない壁にぶち合ったとき、手も足もでなくなる。よく似た状態の若者たちや大人たちに出くわす。



 私も子育ての最中は、こんなことなど考えたことはなかった。我が子が成人し、就職後も若い人たちを採用し教育してきたからこそ思う。考える力がいかに足りないか痛感してきたのだ。そして、この<考える力>こそが知恵と勇気を生むのだと。

 強い心が必要だと今まで何度も語ってきた。そして肉体と同じように心も鍛えるべきだとも。その基になるのが<考える力>ではないかと気づき始めた。この力が足りないから、短絡的にしか思考できず、行き詰まると自らの心をショートさせ、他人のせいにしたり、自らを殺める思考にまで走ってしまうのではないかと。

 行き詰まったとき、こんな場合はどうすればいいのか、鶴亀算を思い出し、まず数字の小さい鶴(足の数)で考えてから、数字の大きい亀の足の数の公倍数を捜していくのがベターだったから、まずはできることをこなしながら、公倍数的なことを捜し、そして進歩的思考へと移行できないだろうか。そんなことを考えた。

「人間は考える葦」と語ったのは病弱で、40歳に満たない若さで亡くなったパスカル。人間は葦のように自然の猛威や運命には無力かもしれないが、従順に従いながらも猛威をくぐり抜けて、また自らの姿で立ち上あがる。この柔軟性こそ、<考える力>であり、ただ猛威としてふるう無自覚の風や自然に較べ、人間は遙かに賢明で、自由な存在であるとした。

 <考える力>によって心は自由になり解き放たれる。この自由こそ、人間に与えられた最も崇高なものではないか。イジメがあるような環境、がんじがらめの予算や上下関係の激しい職場、病弱で動くことも容易くできない身体であったとしても、<考える力>によって人は心の自由を得る。そして、この自由こそが知恵と勇気を生み出すのだと思う。


幼い子供たちと毎日接し、孤軍奮闘してる若いお母さんや先生たちに伝えたい。

子供たちの<考える力>をじっくりと耕し、

どんな運命に遭遇しようが、

どんなトラブルにぶつかっても、

大切な<心の自由>を手にすることができるように

そして、知恵と勇気を手にすることができるように

子供たちを育てて欲しいと



「性格は宿命である」

2011年10月16日 | Weblog
「性格は宿命である」と云ったのは、アリストテレス。今まであまりそんなふうに思ったことはなかったが、最近、確かに宿命のような気がしてきた。

 子供の頃、私の家は商店街で2店の店を経営していた。父と母がその2つの店をそれぞれを守っていた。私は毎日その2つの店を何度も行き来していた。住み込みの従業員が多いときで男性が3名、女性が2名、通いの従業員が2名総勢で7名の規模だった。
 ある日、家で友だちと遊んでいた後のことだった。賄いのおばさんが、「あんな子とは遊んだらあかん」と云った。商店街の裏の狭い路地の古びた長屋のような家に住んでいる友だちだった。私は意味が分からなかった。理由を聞いても全く理解できなかった。いつもあまりに汚れた服装だったことが、おばさんには気に入らなかったのだと自分なりに解釈した。しかし、私はその後も彼とよく遊んだ。何度も彼の家にも行き、野球もよく共にした。母もまたおばさんと同意見だったが、私は人を区別するべきではないと、子供ながらに感じていた。区別や差別という言葉の意味も理解していなかったにも関わらずだ。

 金があろうがなかろうが、どんな家に住もうが、どんな生活をしていようが、俺たち子供の世界は平等だ、と本当にそう感じていた。どうしてこのような感覚を身に付けていたのか今でも理解できないが、本当に遊んでいる仲間を区別したことは一度もなかった。親や周囲の教えではなかったと思っている。ではどうして?

 こんな子供時代だったから<虐め>は大嫌いだった。小学校の片隅でそんな場面に遭遇すると必ず、泣き虫の弱者を守ってきた。弱者の母親が何度も店番にいる母に息子さんに助けられたとお礼を言いに来たそうだ。母や賄いのおばさん、他の誰かに教わったものでもなさそうだ。強いていえば、これもまた生まれながらに持っていた性格の一つとしか思えない。
 小学校の頃、低学年の頃から障害を持った子の面倒をみたので、卒業するまでずっとその子とは同じクラスだった。6年生になったとき、初めて聞かされた話だが、その子が私と一緒のクラスでなくては嫌だと云い続けたと担任の先生に母が云われたそうだ。私の息子にもまったく同じようなことがあった。間違いなく私の遺伝子を継いでいる。

 就職して人を採用する側に立っても変わらなかった。だから中国人も韓国人も、他の外国人も日本語が巧みに使えさえすれば、何人も採用してきた。今では多くの外国人を使う企業や店が沢山あるが、30年前にファミリーレストランで外国人がいる店は、決して多くはなかったはずだ。根底にあるのは「人は平等だ」という概念だ。それは今も変わっていない。幼い頃、母や賄いのおばさんが区別(=差別)を私に強要したが、間違っているとその当時から感じていた。今でも不思議でならない。「性格は宿命である」という言葉がよぎってくる。
              

『私がもっているゲノムは生命の起源から40億年ずっと続いてきたもの。その時間がなければ私はいない。しかも、その記録が私の中に入っている。誰の中にもです。象にも菊にも40億年が入っています。皆、元は同じ。蟻と私たちはそれぞれ特徴を持ちながら別のものではない。つながっているんですよ。そして、多様な生き方をし5,000万種もいる。進化は単なる競争ではなく、生きる力の発揮なのです』と語ったのは生命科学者の中村桂子さん。

 私たちのゲノムには、海から生命を授かってきた遺伝子が詰まっている。海中の微生物から魚類が生まれ、突然変異によって両生類が生まれた。そして、新たな突然変異を繰り返し、爬虫類、哺乳類へとして進化を遂げてきた。この生命の大きな流れを、ほ乳類から大きな進化を遂げた人類が、<エゴ>という特有の思考によって蛇行させてきたように思えてならない。人種差別、民族闘争、他人との競争を強いて損得勘定を優先し、しかも多様性を否定するような社会が広がってきてしまった。私のような平等主義者には残念でならない。住み難くてしかたがない。

 私は運命論者ではない。運命の支配者でありたいと思っている。しかし、宿命である性格からは逃れられないと思い始めている。ただ、自らの性格を分かるにはかなりの年月を必要とするようだ。私も半世紀以上も生きてきてようやく自覚できるようになった。性格が生き方に大きな影響を与えてきたはずだ。たとえ大病を患ってもそう簡単に生き方を変更ができない友人がいる。頑固者ほどその傾向は大きい。そして、大器ほど変更できないようだ。小器の私にそう思える。

 川を渡ろうとしたサソリが、カエルにおぶってもらって川を渡り始めた。
 サソリはやっては駄目だと分かっていながら、カエルの腹を毒針で刺してしまった。
 悲しい習性だ。サソリはカエルと共に川の中に沈んだ。


 映画の題名は忘れたが、ラストシーンでこんな話が語られた。大器である彼の性格とサソリの習性を同列に考えた訳ではないが、何故か、この話を思い出してしまった。アリストテレスの言葉の話を書こうと思っていたが、こんな話に行き着いてしまった。
 
 病院を退院した親友は、夜明け前に起きて、昼過ぎまで会社に通っていると元気な声で電話してきた。「会社にいた方が元気になれる」彼はそう付け加えた。奥さんや家族は心配でならないはずだ。しかし、組織を作ってきた彼には、組織の中にいて初めて生きている高揚感が得られるのかもしれない。私から見れば哀しい習性としか思えない。きっと身近な家族ですら理解できないかもしれない。
 
 大学最後の年、彼は「今が戦争時代ならよかったな」と呟いたことがあった。私は理解できず、「なぜ?」と尋ねた。「就職を考える必要がないから」と学生時代を惜しむ言葉を発した。私は虚をつかれた。私の方は不況が続く第二次石油ショック後の日本で、伸びる産業がないかと自分なりに真剣に模索していた時期だった。そして、二人で学生時代最後の旅行を計画していた時だった。私は当然のように彼の車(シビック)での旅行を考えていた。しかし、彼は「学生時代しかできない旅行をしよう」と云って鉄道でのゆっくりした旅行がいいと云いだした。私には反対する理由がなかった。

 あんなに学生時代を惜しんだ彼が重責を担うバリバリの企業人、組織人となった。そんな将来をその頃の彼からはとても想像もできない。私は最後まで現場を愛し、部長職ではあるが専門職として組織人を終えようとしている。しかし、彼は会社全体をみる総合職としての道を歩んできだ。その差が宿命である性格から来るものなのか、今の私には判断がつかないが、お互いに想像もできない人生の歩みだった。ただ二人に共通して云えることは、その道に悔いはなかったという点だ。充実した人生だと想っているからこそ、先日の再会は素晴らしい時間の共有だった。

     

 彼らは10月9日が結婚記念日。
 私たちは10月4日が結婚記念日。
 彼らは31年間、私たちは30年間の結婚生活だ。
 二人と接していると、きっと一度も離婚など考えたことがないような深い絆を感じた。
 私たちも一度も考えたことはない。
 献身的な彼の奥さんや私の連れ添いもきっと素晴らしい時間を共有した。
 今、このことがとてもうれしい。
 ふた組の夫婦が素晴らしい時間だと共感できたからだ。



「親友との再会」(4)

2011年10月10日 | Weblog
 7日朝、彼は疲れたこともあってモーニングをパスして寝ていた。起きてきた彼はそんな顔も見せず、「飛行機の出発時刻まで時間があるから、フェニックスCCを見に行こう」と云って、ゴルフ好きの私の心をくすぐった。最後の日まで気配りの行き届く言動だった。大の親友とはいえ、私はあくまで今回はゲストだった。彼の誠実な仕事ぶりが伺えた。家に帰った彼は妻に気遣いできないほど疲労する日々を送ってきたに違いない。

 フェニックスCCでは来月半ばよりダンロップフェニックストーナメントが開催される。周囲の道路にその旗が数百本も翻っていた。名門らしく低い2階建て。正面から入ると右手に記念館があり、歴代の優勝者の写真とその時使ったドライバーやアイアンが飾られていた。タイガーウッズの手形もあったが、意外にこじんまりした手だった。練習グリーンを見てカットの具合を確かめた。まだトーナメントは1ヶ月以上先だ。当日は恐ろしく早いグリーンに変身して、遼君を含めた一流ゴルファー達を悩ますに違いない。ティーグランドに立ってみた。せり出してくる松林がとても恐ろしく見えた。一度浜名湖のシーサイドでプレーしたことがあるが、松林に入ると出て来れず、100叩きをした覚えがある。帽子に付ける磁力のボールマーカー、ボール跡を直すスティックのセットを2つ買った。留守番の息子へのお土産だ。1セット2,520円、こんなに高いセットは見たことがない。ニクラウスやセベ、タイガーやジャンボ尾崎が座ったかもしれないゆったりした椅子に二人並んで座った。そして彼と約束を交わした。

「必ず、二人で回ろう」
「入院で弱った筋肉をリハビリするよ」彼は元気に応えてくれた。


 
 宮崎空港でラーメン(この豚骨ラーメンの味は良かった)を食べ、見送られるのが嫌いな私は送ってくれた彼らと正面入口で別れた。別れ際、再会時と同じように握手して肩を抱き合った。「頑張れよ!」「ありがとう!」言葉は短かったが気持ちは一つだった。そのあと奥さんをハグして元気づけた。しかし、元気をもらったのは実は私の方だったと別れたあと思った。彼女の献身的な看病やなりふり構わず子供達や夫に尽くす姿に感銘を受けたからだ。

   草の輝くとき
   花美し咲くとき
   再び戻らずとも嘆くなかれ
   その奥に秘めたりし力を見いだすべし


 秘めたりし力とは<生命力>のこと。奥さんと過ごした3日間で溢れるような母性愛を感じた。そしてその中に潜む力強い<生命力>を感じた。彼が惚れたのはこの力強い<生命力>だったんだと気づいた。夫婦はお互いにないものを求めるもの。このことに気づいたとき、二人の絆はより強くなるのだろう。

15時35分、宮崎空港から伊丹に向うJAL2436の中から奥さんにメールした。

「これからも溢れるような母性愛と強い生命力を彼に注ぎ続けて下さい。
 お願い致します。どうかお願いします! 
 来年フェニックスCCを夫婦で一緒に楽しく回るために。
 そして、また極上の手料理を楽しむために!」

「親友との再会」(3)

2011年10月10日 | Weblog
 この日の夕飯は昨夜のすき焼きの残りを肉じゃがにした料理と豚肉と白菜の蒸し煮(白菜は口の中でとろけるようだった)。干した桜海老の佃煮は奥さん自慢の一品(写真の右中央)。これは売り出しても絶対に売れると思ったほど絶品だった。とにかくこんな美味しい料理の数々は初めてだった。夜はまた二人のギターと歌三昧。妻達は片づけを終え、私たちの回りに座り込んだ。私は準備してきた歌詞カードを開いて新作「天からの贈り物」「シャボン玉」を披露した。奥さんはとてもいい曲だ、詞がいいいと絶賛してくれた。次に彼の宴会芸「神田川」をもじった「変田川」を歌い出した。奥さんは初めて聞いたといいながら笑い出した。「…あなたがかいたマスターベーション。うまくかいてねと云ったのに…」ここで笑い過ぎてイスからズリ落ちた。そして「こんな人とは思いも知らなかった」と大笑いした。そして、極め付きの一曲、30年ぶりにさだまさしの「関白宣言」を唄うように迫った。1,2番は彼も順調に唄ったが3番はそうはいかなかった。

   俺より先に 逝ってはいけない
   何もいらない 俺の手を握り
   涙のしずく ふたつ以上こぼせ
   お前のお陰で いい人生だったと
   俺が言うから 必ずいうから
   忘れてくれるな 俺の愛する女は
   愛する女は 生涯お前ひとり
   忘れてくれるな 俺の愛する女は
   愛する女は 生涯お前ただひとり


最後のフレーズまでは歌えなかった。
「この現状でこの歌は唄えないよ」と感極まって泣き出した彼を奥さんが抱きしめた。
すぐ横にいた連れ添いも声を上げて泣き出した
カメラを持っていた私も手が震え、堪えきれず泣いてしまった。

「俺の愛する女は生涯おひとり…」彼は今までの気持ちを歌を通して奥さんに伝えた。
こんな瞬間が訪れるなんて、歌い出した時は想像も出来なかった。
素晴らしい瞬間だった。
本当に素晴らしい天からの贈り物だった。
亭主関白だった彼は、この詞の意味を人一倍感じたはずだ。
抱きつく奥さんの姿をカメラの画像を通して見ていた私は撮影を止めた。

 彼は人が集まるとサービス精神旺盛になる性格で、飲めないくせに宴会芸は得意だった。私の方は反対に人が集まると静かになるタイプたっだ。だから二人のコンサートステージではいつも彼がMCを担当した。会社でも得意のようだった。常に準備し、いつ順番が回ってきても披露できるのが彼だった。しかし、そんな彼を奥さんはあまり見たことがないように思えた。家では亭主関白の彼が奥さんにそんな姿を見せることは少なかったようだ。こんな彼を奥さんに見せられたこと、この一つだけでも今回の宮崎旅行は価値があったと思っている。

 こんな想い出深い旅行は生まれて初めての経験だった。生涯の宝物になるだろう。その想い出を4人が共感し、共有できたのだ。人生を自分なりに懸命に、そして誠実に生きてきたから得られる、まさに<天からの贈り物>だと思う。9日、奥さんからお礼のメールが届いたが、私の方が感謝したいくらいだった。この日は二人の結婚記念日とのこと。私がプレゼントした韓国映画「ラブ・ストーリー」と英国映画「ラブ・アクチュアリー」を二人で見るとのこと。必ず一緒に見るようにと彼には伝えたが、その約束を実行してくれそうだ。これからはもっともっと奥さんとの時間を持って欲しい。3ヶ月24時間看護してくれる妻など、世界には一人もいないような気がする。彼も病院にいてそのことに気づいたはずだ。

 子供や親を大事にするのは血が通っているから当たり前の話だ。しかし、他人であるからこそ妻は一番大切に接しなければならないと思う。「釣った魚に餌はいらない」と考えるのは亭主関白のバカ親父。釣った魚を食べる場合はそれでもいいが、その魚に世話をしてもらうのは旦那なのだ。諺を取り違えると大変なことになる。私は実の父親を見ながら子供の頃からそう思ってきた。この気持ちを彼に伝えたかった。これが今回の旅行の最大唯一の目的だった。この目的が達成されたかどうかは、今後の彼の言動にかかっている。そうは云っても半世紀以上生きた来た男のスタンスが、簡単に変わることなどない。今後も亭主関白を続けるに違いない。しかし、「俺の愛する女は 愛する女は 生涯お前ひとり」と泣き崩れた彼。家での重役面はやめるよう付け加えた。
 今後は意識して妻にねぎらう温かい言葉を投げかけ、プレゼントや旅行に連れていってあげて欲しい。これらはすべて彼は会社の従業員に対して行ってきたこと。やろうと思えばすぐにでも可能ななずだ。

 三国志長坂橋の戦いで、妻や子供を捨ててまで大切な家臣と逃げた劉備玄徳。多くの名将・名軍師が彼の元に集まるような三国随一の人徳・魅力を持っていたかもしれないが、私はそんな劉備を今では許せないと思っている。
「妻や子供はいつでも持てる。しかしお前達大切な家臣は得難いのだ」

 こんなセリフに三国志を読んだ若い頃は大義に胸が高まったものだが、いまでは飛んでもない奴だと思ってしまう。歳を重ねるとこんな気持ちになるのかもしれない。妻や子供を守れない大義などないのだ。60歳を前にすると多くの人はこんな気持ちになるに違いない。いっておくが彼が子供や妻をないがしろにしてきたワケではない。関白宣言の1番、「忘れてくれるな。仕事もできない男に家庭が守れずはずなどないってことを」彼は家庭の基盤作りのために仕事一番に考えてきた男なのだ。しかし、「それはもういい」とこの2日間彼に言い続けた。もう十分やってきたと。そして、「身体を壊して大病まで患うのは、お前の美学であっても自己満足に過ぎない。妻や周囲の子供達はたまったものではない。考えを改める必要がある」と助言した。

 かくいう私も今まで二つの大きな株式会社に身を置いてきた。その30年以上の過程で4人の社員の首を切った経験がある。私より年上2名を含め、彼等の顔を忘れられない。組織を守るという大義を背負っての行為だったが、いまだに忘れられないのはその後ろに家族の顔がちらつくからだ。今でも間違った行為ではなかったと言い切れるが、決して後味がいいものではない。本当に大義だったのか。ただの<自己満足>ではなかったのか。自分が思うほど、組織は自分を守ってくれないのが普通だ。何処かで見切りつける必要が生じる。「見切り千両」と云って、見切ることの難しさを語ったのは、私が最初に所属したIYグループの会長伊藤雅俊氏だった。この「見切りの難しさ」は最後の日に彼に伝えた。彼に伝えることはすべて言い尽くしたように思う。

「親友との再会」(2)

2011年10月10日 | Weblog
 10月6日、快晴、8:30起床。コテージの横にあるレストランでモーニングバイキング。モーニング付きで1泊一人10,000円。モーニングバイキングを少し楽しみにしていたが、予約客も少ないせいか、内容的にはイマイチ。珍しいものもなく、また取り立てて美味しいものもなかった。できれば地域特産のものがあればいいかなと商売柄思ってしまった。

 腹ごしらえが終わり、日南海岸、飫肥城見物に出発。昨日の雨が嘘のようだ。気温28度。絶好のドライブ日和、この快晴にまたまた感謝。シーガイアリゾートを抜けて、しばらく走り堀切峠を越えると左手に雄大な太平洋が見えてきた。大阪湾の汚い海には決して見られない真っ青な色。右手上方にモアイの像を見上げながら(瞬間しか見えないが)、道の駅フェニックスに到着。洗濯板のような見事な海岸が目の前に見える絶景の場所。 海岸まで降りようと云いだした彼は、登りのことを忘れていたようだ。しかし、言い出したら聞かない亭主関白の重役、部長の私は逆らえない。でも海岸まで降りて良かった。透き通った海の色。あの有名な鬼の洗濯板を間近に見て、とても感激した。写真を撮ろうとすると必ず奥さんが彼にしがみつくように寄り添う。その度に愛の深さを感じた。(本当に幸せな奴だ)
 
 次に向かった先は、NHK連続テレビ小説「わかば」で一躍有名になった<九州の小京都>と呼ばれている飫肥の城下町。五万一千余石の城下町飫肥は、町の中央部に清らかな酒谷川が流れ、男鈴・小松などの山々に囲まれた景観と静かなたたずまいを漂わせていた。観光客が少ないこともあって、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのようだった。日本の近代外交の礎を築いた明治の偉大な外交官、小村寿太郎記念を見つけた。「坂の上の雲」で彼の偉大な業績を知っていただけに、彼が宮崎出身者であることが、何故かうれしくなった。廃藩置県の後、藩主が住んだ武家屋敷を見学。京都の二条城のような作りだと思ったら、やはりその通りで、二条城を真似て建造されたとのこと。こんな発見が観光をより楽しくしてくれる。豊後竹田城や京都二条城を参考にして作られたことを後で知る。江戸時代初期の書院造り。建物内は御座の間・御寝所・涼櫓・茶室・湯殿・台所など二十室以上の部屋がある。このうち涼櫓には、こけら葺の総檜造りの湯殿がある。これは聚楽第から移築された建物であるといわれる西本願寺の飛雲閣にある、豊臣秀吉が使用したと伝えられる湯殿と同じものを復元。飫肥城を始め武家屋敷通り周辺は、伝統的建造物群保存地区と共に日南市の指定文化財になっている。城や城郭が好きな私は、御三家の紀州和歌山城より大きな大手門に驚いた。城の作りも一回り大きいように感じた。飫肥藩は島津藩から長い間、武力攻勢を受け続けていた。秀吉の九州平定によってようやく島津藩からの侵略はなくなる。飫肥藩城の堅固さがそれを物語っているように感じた。

 歩き疲れたので駐車場入口にあるお店で飫肥名物の飫肥天が付いたうどんセット食べた。天ぷらの味はイマイチだった。(淡路島の天ぷらの方が間違いなく美味しい)出汁は関西風の薄口しょう油味で美味。(これは旨い)うどんは冷凍麺だったが、腰もあり及第点(冷凍の方が、のどごしや歯ごたえのいいものが多い)。同じ店のおみやげ屋で<飫肥せんべい>を購入。これも残念ながら及第点以下だった(後日談)。奥さんの絶品手料理のお陰で、この日の味評価はかなり厳しくなったようだ。(笑) 武家屋敷通りは、歩き疲れたので割愛した。

 帰ろうとすると駐車場横に弓矢を射ることができる場所があり、好奇心旺盛の私はそこに行って、トイレ休憩の3人が戻ってくるのを待った。(この日の午前中にTOKIOの山口君が来て、射て帰ったとのこと。近日中に飫肥でのテレビロケが見られるはず) 

●<四半的>飫肥地方に伝わる武道弓技で、正確には「四半的弓道」という。標的の直径が4寸5分(約13.6cm)、弓矢の長さが4尺5寸(約1.36m)標的までの距離が4間半(約8.2m)と4.5を基準に作られている。
 10本の矢で300円。彼が「うちの奥さんは弓道の元国体選手だよ」と突然の報告がある。ホントなのかウソなのか、未だに謎のまま。とにかく、私たちはびっくり仰天。嫌がる奥さんも、とうとうやり始める。礼儀正しく的に向かって直角に正座。背筋を伸ばして正しく弓を引く姿勢はさすが。的まで13.6m。久しぶりの奥さん、緊張してか的を外してしまったが姿は美しかった。その後、何本か彼も射てみるがなかなか的を射れず。残った弓は5本。ようやく私の出番だ。初めての弓。緊張した。外れ、外れ、外れ、外れ。残すはあと1本。連れ添いがデジカメムービーを撮っていたが、諦めて電源を切ってしまった。しかし、ようやく慣れてきた私は最後の1本に集中。弓を頬まで引き、指を静かに放つとようやく13.6cmの的を射ることができた。左腕の肘の内側が青痣ができていた。奥さんが、その青痣を見て、左手首を内側に曲げながら「弓はこのように持つの」と教えてくれた。(もっと早く教えてくれよ)
 弓道はもともとやってみたかった武道。剣道・柔道はかなりの腕前(?)。特に柔道は2段の奴を延長戦に2回も引きづり混んだ経験があり、その後、柔道担当の先生が勧誘に来た武勇伝がある。中学1年の夏が終わるまで水泳部。2学期は剣道部。3学期から卒業するまで柔道部に所属。他校試合5回の成績は、3勝2引き分けの負け知らず。先鋒の鬼(?)と呼ばれた。マジで弓道を習おうかと思ってしまった。


「親友との再会」(1)

2011年10月10日 | Weblog
 10月5日9時40分、宮崎空港に迎えに来てくれた彼は、階段を降りてきた私をすぐに見つけ、ガラスごしに私と目を合わせた。突然、30年前にタイム・スリップする。私はサイモンとガーファンクルが主題歌を歌って大ヒットした映画「卒業」の冒頭シーンと同じようにバックとギターがコンベアーから流れてくるのを連れ添いと待った。心の中でかつてない熱い鼓動が高まった。俺たちはお互いの肩を抱き合い熱い握手を交わした。

  Hello,darkness my old friend.
  こんにちわ、僕の古い友だち、暗闇よ。
  I've come to talk with you again.
  また君と話をするためにやって来た。
  Because a vision softly creeping.
  何故なら、幻影がそっと忍び込んで、
  Left its seeds while I was sleeping.
  私が眠っている間に種子を残していったから。
  And the vision that was planted in my brain
  そして、私の脳細胞の中に植え込まれた幻影は、
  Still remains.
  今なお息づいている。
  With in The Sound Of Silence.
  静寂(沈黙)の音の中で。


 ひとまず空港内で、マンゴジュースが1,200円もする高級な喫茶ルームに入った。彼は昔からスリムだったが、大病で3ヶ月も病院にいたためにかなり痩せていた。しかし、懐かしい声は昔のままだった。元気で明るい奥さんとは結婚式以来だったが、そんな長い時を感じさせない気さくさは、初対面のときと同じく変わらなかった。
 喫茶ルームでの30分。親友の妻も私の連れ添いをも30年の時を同時にタイムスリップさせてくれたような不思議な空間となった。私と親友とは当たり前だが、奥さんと連れ添いもまるで30年来の友人同士となったのだ。とても不思議な感覚だった。すべて気さくな奥さんのおかげだ。彼はこの気さくさと彼女の純朴さに惚れたのだろうと改めて強く感じた。

 小雨が降っていたこともあり、私はコテージ・ヒムカに連絡を入れ、チェックインの時間を早めてくれないかと連絡を取った。係の女性はいったん上司に確認したようだが、すぐに11時前のチェックインを了承してくれた。小雨の中、彼のグリーン色の愛車ローバーでコテージヒムカに向かった。

 ヒムカは11月半ばから始まるダンロップゴルフトーナメントが開催されるフェニックスCCとトム・ワトソンGCと隣接する同じ海岸沿いの松林の中にあった。BBQ施設と子供達が遊べるプールもあった。夏の仕事を終えたばかりで、小雨降る静かな水面にキンモクセイの香りを漂わせていた。受付でキーをもらい4人はコテージ・ヒムカのグループBの部屋に入った。俺たちは互いのギターケースから愛器ギター(S-YAIRI 302-M、YAMAHA FG-580)を引っ張り出しチューニングを開始。今や、まるで古くからの親友のようになった奥さん達は食事のための買い出しに出かけた。

 二人はどこまで買い出しに行ったのか、しばらく帰って来なかった。俺たちは昔のオリジナルをつま弾きながらお互いの現状や今までの歴史を話し始めた。彼が話し出した企業人生は、県下で1番のブロイラー企業となる過程だった。そして彼の武勇伝は、OA化とM&Aの推進に重大な役わりを果した証と云えた。

 彼は今まで社長の右腕として重責をこなしてきた。しかも、鳥インフルエンザや口蹄疫騒ぎは彼の肉体に大きなストレスを与えたのだ。体を壊した要因は私の想像通りだった。彼はmixiの<親友に逢いに行く>を読んでくれていた。そして「とてもうれしかった。書いてある通りだ」と云った。辞めるわけにはいかなかったのだ。

 二人がようやく帰ってきた。すき焼きのために宮崎和牛と蒸し煮用の豚肉等を大量に買い込んできていた。俺たちがギターをつま弾く間、愛妻たちは缶ビール片手に調理を始めた。学生時代の合宿を思い出した。私の連れ添いは、かつて私たちの結婚生活を「合宿生活みたいね」と表したが、4人のうち解けた雰囲気は、まさに学生時代のクラブ合宿、そのものだった。食事は最高に楽しい晩餐となった。まるで夢のような時間だった。朝の11時から夜中の3時頃まで続いた会話は、30年間の時の流れを遡り、その後の欠落した時を埋めるために充実した時間となった。


     今日の雨に感謝した
    彼も同じことを口にした
    雨のおかげでこんな素晴らしい濃密な時間を過ごせた
    晴れていたなら何処か観光に行くことになったかもしれなかった
  
    お互いの想いは一つだった
    <共感>はこうした時に生まれる
  
    輝くような学生時代を共有した友
    逢いに来て本当に良かった

    この瞬間が永遠に続いて欲しいと願った
    しかし 限りある至福の時は静かに流れていく

    限りあるからこそ惜しむ気持ちが生まれる
    そして かけがえのない愛に気づく

    雨に感謝する気持ち
    すべてを許せるような大らかな気持ち
    こんな時 愛する気持ちもより深くなる




「身心を鍛えろ」(全米オ-プンテニスを見て)

2011年10月04日 | Weblog
 私たちは多種多様、複雑怪奇とも云える社会に生きている。何を選び、誰を愛し、どう決断するか、何を信じ、何を守ろうとするのか。迷うのは当たり前のような気がする。だからこそ、生き方や考え方、人間性はできるだけシンプルに作り上げるべきだと思う。そのシステムが、ストレスの少ない生き方にもつながるようにも思う。常に人のせいにしたり、社会のせいにしていては、成長もできず心は衰え、悪意を生じさせるだけだ。

 人は元来ひ弱な生命体だ。赤ん坊は一人では決して生きることができない。人は、文字や言葉を覚え知識を与えられ経験を重ねて、生きる力を身につけていく。生まれたときから強き人がいるわけではない。本人が自覚して鍛えたかどうか、その差だけだと思う。筋肉は決して一日で付くものではなく、何ヶ月も何年もかけて身体を鍛えなければ身に付かない。心の筋肉もまた同じだと思う。心もまた鍛えるべきなのだ。

「開き直る」という言葉がある。この思考は不思議な効果をもたらすことがある。
今年の全米オープンテニス、セミファイナル。ジョコビッチ対フェデラー戦。
最終セットまでもつれ込んだ。
5-3で迎えたフェデラーのサーブ、カウント40-15。
2つのマッチポント。サービスをキープすれば勝利。
フェデラー絶対有利の場面。
私はフェデラーの勝利を確信していた。

フェデラーのファーストサーブ。
ジョコビッチは信じられない起死回生のリターンエースを放つ。
彼は何でもないと言いたげに喜びも見せず、うつむき加減で歩き出す。
しかし、ミラクルリターンエースに観衆の大声援が沸き上がる。
ジョコビッチはそれを受けて両手を広げて応えた。
(凄いショットだったね。自分でも驚きだ。身体が勝手に反応したんだ)
ジョコビッチは観客を味方につけた。
40-30。
まだ1本、フェデラーのマッチポントがある。
ジョコビッチはコートから出て白いタオルで汗を拭った。
そして、コートに戻りフェデラーのサーブを待ちながらニヤリと笑った。
この時だ。ジョコビッチは開き直ったに違いない。

手に汗握りながら見ていた私は驚愕した。
フェデラーもあの不敵な微笑みを見たに違いない。
フェデラー絶対有利はまだ変わらないはず。
なのにあの微笑みは、どんな思考から生じるのか?

大声援が静まるわずかな間。
この間に崖っぷちに立っているのはジョコビッチからフェデラーに移った。
(気持ちを立て直し、サービスエースを決めるのだ)
フェデラーも開き直ったに違いない。
あと1本獲れば勝利だと脳裏をかすめたかもしれない。
しかし、エースは出ず。しかも、フェデラーはサービスゲームまでブレイクされる。

テニスの恐ろしさはここにある。
欲しいポイントでエースが獲れなかったり、ファーストサービスが入らなくなるのだ。
原因は肉体的低下と負けるかもしれないという恐怖だ。

4-5としたジョコビッチ。
サービスをキープして5-5、勢いは彼に。
ブレイクした直後のサービスゲームに勝ってこそ、ブレイクの価値がある。
その後、フェデラーのサービスを再びブレイク。
流れは完全にジョコビッチに移った。

ゲームカウント、ジョコビッチの6-5。
今度はジョコビッチが40-15で、2つのマッチポントを握る。
自分のサーブで、しかも、マッチポイント2つを獲れなかったフェデラー。
彼に跳ね返す力はもう残っていなかった。
最後のショットもフェデラーのアンフォーストエラーで終わる。
デュースにも持ち込めない不甲斐ない負け方だった。

あの起死回生のリターンエースが、勝利を引き寄せたと云っていい試合だった。

http://blog.livedoor.jp/pooon2010/archives/66873619.html
(ミラクルリターンエースから始まり、不敵な笑顔が見られます)

起死回生のウィナー。
起死回生のサービスエース。

 グランドスラム(四大大会)で優勝するためには、この二つの起死回生と思えるようなショットを身に付けなければならない。大会終了後、同じWOWOW放送で「ジョコビッチの覚醒」というドキュメント番組を見た。彼の生い立ちや激しい練習風景、食事療法に取り組む姿だった。フェデラーとナダルに勝てない万年3位の選手と呼ばれ続けた数年間、彼はセルビアという小さな国家を背負い、家族全員の願いと夢を実現するために何を鍛えてきたのか。
 試合中、彼が肩で息をする場面を何度も見てきた。体調不良でリタイアすることもあった。検査しても異常は見つからなかった。ところが、ある医者が呼吸に問題があるのでは、と云ってきた。調べた結果グルテンアレルギーと判明した。体調不良の原因はアレルギーからくる呼吸障害だった。その後、ジョコビッチはその医者をチームに迎え、トーナメントに帯同してもらい食事療法を進めた。
 ダブルフォルトの多かったジョゴビッチのサーブをコーチ陣が分析した。ボールを上げたとき、右腕の肘が伸びていることに原因があったが、体調不良により体が思うように動かなかったのだ。食事療法により体調不良(呼吸障害)が改善され、右肘を曲げてタメを作るフォームに修正できた。結果、その後ダブルフォルトは半分以下に減った。また、後ろ向きのジョコビッチにコーチが地面にボールを落とし、バウンド音と共に振り向き、ワンバウンドでボールをキャッチすることで厳しい局面での体の使い方を磨いた。この練習が足を伸ばして打つ苦しい姿勢でのショットにつながった。こうして、さらに深く鍛錬したのだ。今シーズンの41連勝は(グランドスラム年間3勝を含む)は、史上2位の記録となった(1位はマッケンローの42連勝)。ジョコビッチはアレルギーを克服し、弱点をさらに鍛えることによって覚醒したのだ。

ファイナルセット、フェデラーのサーブ、2つのマッチポイント。
この究極とも云える土壇場。
起死回生のリターンエースは、
苦しい姿勢でのショット練習がもたらした結果だった。
あの不敵な笑いは食事療法と厳しい鍛錬が生んだ精神的余裕だったのだ。

「打てた! 鍛錬のおかげだ。 
 どんなサーブを打ってきてもリターンできるぞ。
 さあ、こい! フェデラー!」

 私は肉体的弱さが、心の弱さや悪意を生じさせると思っている。「心技一体」という言葉があるが、「技心一体」に置き換えたいくらいだ。ストレスも同じだ。1キロ走った場合、鍛えている人とそうでない人では、ストレスに雲泥の差がでる。仮に、心も肉体も同じ一つの物体と考えれば、心の筋肉を鍛えるという意識を持つことによって鍛えることが可能となる。物事は物理的に考えればとてもシンプルになる。肉体と心(=精神)を別ものと考えるからさまざまな症状が生じてしまう。心も肉体と同じように鍛えられるのだ。まずは肉体を鍛えるべきだ。基本は練習によって鍛え上げられた肉体にある。そして、同じように心も鍛えるのだ。

「開き直る」という心の思考とは、本当の土壇場を迎えた時、曇ってきた(=負けるかもしれないという気持ち)心の迷いが一掃され、澄みきった状態の事だ。今までの厳しい鍛錬があってこその心理状態だと思う。「人事を尽くしたのだ。後は自身の肉体の反応に任せる」。まさに「心技一体」となった瞬間と云える。

ファイナルでは好調なナダルと激戦の末、全米オープン初制覇。
この試合も大激戦だった。
勝利の要因は、どんなボールに対しても対応できるフットワークと深くコースをついた鋭いショットだった。
しかし、ジョコビッチはショットでもサーブでもネット際でもナダルを上回り、
フットワークでもナダルに勝っていた。
このグランドスラム優勝は、ジョコビッチを誰も追随を許さない高みへと押し上げるに違いない。
フェデラーとのセミファイナル、ナダルとのファイナル、この2試合は、
私を含め多くの人々に、「鍛えれば不可能と呼ばていたことが可能になる」
そんな勇気を伝えてくれた素晴らしい試合だった。

「親友に逢いに行く 2」

2011年10月02日 | Weblog
 今度の水曜日、彼に逢うために九州に向かう。昨夜S-YAIRIギターを引っ張り出してマーチンの新しい弦に張り替えた。私たちはいつもマーチン弦を使用していた。弦を張り換えたばかりのギターの音色は特別だ。バリーンという響きは、経験がある人なら<共感>できるはず。しかし、この<共感>を人生で味わうことは決して多くはないことを知っている。残念だがこれは事実だ。同じ映画を観ても<共感>を得られないことがそれを物語っている。

 大学1年生の時、彼は同じクラブに入部してきた。新入部員は歓迎会で必ず先輩達の前でギターを弾いたり歌を唄うことになっていた。私自身何をやったのか全然覚えていないが、とにかく一曲披露した。彼の出し物は「コキリコの唄」だった。ギターのアルペジオは決して滑らかではなかったが、歌声は私の心を捉えた。まさに心に<共鳴>し<共感>した。唄い終わった後、彼に近づいて「一緒にやらないか」と言葉を投げかけた。「いいよ」とニッコリ笑って即座に承諾してくれた。生涯の友を得た瞬間だった。

 私は中学2年以来、一目惚れで人を好きになったことがない。想いを寄せることに慎重になったせいだ。自分の感性が成熟していないことを学んだこともその要因だ。しかし、人は必ず初めての出会いで何らかの第一印象を持つものだ。その第一印象が長く続くとき、自分の感性の習熟度が高まってきたことを知る。直感力が磨かれてきた証と云える。

 彼の「コキリコの唄」を聞いた第一印象は彼の誠実さだった。声がいいとか巧く歌えるようなテクニックではなく誠実な人間性を感じたのだ。この印象はその後の大学生活でも変わらなかった。その証拠に3年生になったとき、彼は金庫番の経理担当として全員一致の推薦を受けた。最も信頼厚き仲間の証だった。周囲も私と同じような視線で彼を見ていたのだ。彼は自分でそれを自覚できなかった。鏡という道具を使わない限り自らの姿を捉えられないことと似ている。30年以上たった今も彼の印象は変わらない。社会に出ても彼はその誠実さを買われ、大きな会社の経理担当重役にまで登りつめる。軍隊でいえば将官だ(上級大将・大将・中将・少将・准将の総称:陸軍や空軍では将軍、海軍では提督と総称される)。彼は大学を卒業して就職したとき、まさか自分が経理分野で活躍するなど想像もしなかったはずだ。

 私の場合はコンサートマスターという役職の推薦を受けた。本当にまさかと思ったものだった。私も自分自身の姿と捉えられていなかったのだ。映画や舞台ではで云えば脚本も担当する監督だ。就職したのは外食産業で、店長を経験し、地区マネジャーまで昇格した。軍隊で云えば佐官(代将・上級大佐・大佐・中佐・少佐・准佐)の少佐くらいだろう。(陸軍では主に大隊長または中隊長等を務める。海軍では主に軍艦の副長や分隊長、艇長および潜水艦艦長等を務める。空軍では主に熟練した航空機操縦士や軍の幕僚等を務める)現場の責任者という立場だ。

 組織の中で、周囲の仲間たち、特に人事権を握る上司たちが自分をどのように捉えているかを把握するのは決して容易ではない。20代ではたぶんわかり得ないだろうと思う。30代も後半になってようやくそれらしきものを自覚でいればいい方だろう。だから会社や組織が求める自分、そして、やるべき事がまだ不明瞭な場合が多い。「どうして俺がこの仕事に選ばれたのか?」「何故、他の奴ではなくて俺なんだ?」こんな疑問が生じるのだ。姿見の鏡がまだぼやけているのだ。しかし、役職が上がるに連れて、自分の置かれている位置に気づき、やるべき事が明らかになっていく。会社の方向性もより明確になっていく。重役ともなれば自分のやるべき事がさらに明確に違いない。やるべきことに集中し、やりたいことを削ぎ落としてきたからこそ、重役になったのだ。しかし、下す判断が本音と大きく乖離してきたとき、どんな人でも質量のあるストレスを溜め始める。ここに会社や組織の難しさあり、人生の難しさがある。「やりたいこととやるべきこと」を一致させることは役職を上がれば上がるほど至難の技となる。たとえばハイジャックされたジャンボジェット機が突っ込んでくると判明したとき、即座に「打ち落とせ!」と命令できる人たち。私にはとてもそんな役職は勤まらない。親友のことを想うとき、このことが浮かんでくる。

 10年以上前、彼から一度だけ連絡があったことがある。会社を辞めて農業がしたというのだ。私はとても驚いた。彼の会社の状況や仕事での役割を正確に把握できる情報などあろうはずがない。彼もまた親友の私にそんなことを詳しく知らせてくるはずもない。彼はふと本音を誰かに云いたくなったのだと思う。独断的だが、経理の責任者としてリストラを進めなくてはならない立場だったに違いないと推測した。誰もそんな仕事を手を上げてやりたいというはずがない。立場上、彼は辞める以外にその役目から逃れる方法はなかったのではないか。そんな想いやグチを電話で私に伝えてきたのではないか、そう思っている。しかし、歩むべき道はすでに決まっていた。結婚しその地に居を構えたとき、そして、重役になったとき、彼のような誠実な男に会社を守る以外の道を選ぶことなど不可能だった。 
 
せめて歌に私の気持ちを託そうと思った。そして、彼にこんな曲を作って送付した。

「生きる」
人は泣きながら   生まれてくる
生きる苦しみを   知っているのか
人は多くのことを  学びながら
何故か人を傷つけ  涙まで失う

人の群の中で 心に羅針盤を
人の群の中で 花に心奪われ
人の群の中で 哀れを知り 我を知る


人は悲しみながら 心を深くする
生きている喜びを じっと噛みしめながら
人は笑いながら 心を育てる
過ぎゆく時の流れを そっと惜しみながら

人の群の中で 心に羅針盤を
人の群の中で 花に心奪われ
人の群の中で 哀れを知り 我を知る