楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

ルーツの旅(6) 二宮尊親(1)

2024-10-02 06:00:00 | 歴史
常磐道の開通で、はじめて滝蔵のルーツたる本家へ辿り着き、初対面のあいさつと小一時間の言葉を交わした。ほとんど私からの一方的質問だったが。そして、慌ただしく帰路についた。

桜が咲き始めた小春日和の午後の日差しも傾き始めている。
宇多川が相馬平野へと広がる出口で、インターに近づいた。
ふと道路脇に目をやると、「二宮尊親」との石碑が目に飛び込んできた。
「え?二宮尊徳と似た名だな」とおもった。

再び4時間飛ばし、深夜に帰宅した。

気になるので、ネットで調べた。

尊親は二宮金治郎こと二宮尊徳の孫だった。その孫がなぜ相馬に?

二宮金治郎は、子供時代に、目指すべき人物の鏡として教えられ、第2次世界大戦前はほとんど全ての小学校に像があった。薪を背負いながら書を学び、貧しい農家から這い上がり、世のため人のために働いた、と教えられた。
その像の多くは、戦争最末期、金属供出で消えた、という。

しかし、二宮尊徳は戦後の1円札の肖像だった。戦後復興に際し、再度人生理念として再び国民に染み渡ったのだ。

小田原藩の没落農民の子だった金治郎は、報徳仕法*を柱に武士百姓の区別なく、災害からの復興を成功させた。その名は天保の大飢饉の後、幕府にも轟き普請奉行にもなった。しかし、晩年は戊辰の内乱の影響を受けた。天保大飢饉災害復興で多大な恩を受けた相馬藩は、幕末、日光の天領に居た尊徳の妻子の避難先として手を挙げ、引き取ったのだった。なんせ日光街道は家康を祀る東照宮から会津攻め最前線。

孫の尊親は、明治期滝蔵の少年期、相馬の英雄となっていた。

*報徳仕法とは、Google AI
「報徳思想」とは「至誠(しせい)」を基本とし、「勤労(きんろう)」「分度(ぶんど)」「推譲(すいじょう)」を実行するという考え方で、この「報徳思想」を実践するのが「報徳仕法」です。 二宮尊徳は報徳思想を広め、実践することにより、ききんや災害などで困っていた多くの藩や村を復興しました。

(つづく)
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ルーツの旅 (5)滝蔵4

2024-10-01 06:00:00 | 歴史
滝蔵が12歳になり、高等小学校へ通う様になった時、家の一大事が起こった。
家長だった祖父・亀七が五十五歳で他界したのだ。
大家族の家長が逝去するのは大変なことだ。葬儀はもちろんのことだが、家督・戸籍の相続の問題は今と同様、大整理が必要だ。家長は嫡男だった滝蔵の父・亀松(三十六歳)が引き継ぐとして、祖父の亀七には、一六歳年下の後妻との間に、2男4女の子があった。

相続することになった滝蔵の父の亀松は先妻の長男だった。
ここで、先妻の子達のみを本家籍に残し、後妻と共にその子たちの籍を分離することとなった。

後妻の子供達、あわせて七人が亀七の長女の婿養子を筆頭として分家された。
この分家、その後、どうなったかはわからないが、一部は、北海道十勝の豊頃へ移住した。

後に滝蔵も北海道へ移住したように、相馬と北海道は繋がりが深い。そこには、江戸時代末期から明治にかけて、歴史的有名な偉人「二宮尊徳」一家が深く関係している。

(つづく)。
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ルーツの旅 (4)滝蔵3

2024-09-30 06:00:00 | 歴史
ルーツの旅 (4)滝蔵3

滝蔵の生まれた山間は狭い宇多川河岸と山と猫の額のような田畑の地。
農家が点在するが、尋常小学校のある集落までは片道数キロ。男子は遊びながらの通学。着物に草履に学帽を被り、軍歌に戦争ごっこの通学模様だったろう。女子は赤子を背負い子守りをしながら。途中の野山は遊び場。空腹を満たすには季節の野の実りを頬張る。宇多川は清流で、魚を獲り持ち帰ることも。

強い兵隊になることを夢見て、学校の軍事教練授業でも競っただろう。滝蔵は人一倍俊敏で、ガキ大将的存在だった。それが後に自らの運命職業選択に繋がる。

時は、日清(明治27年)から日露(明治37ー38年)戦争。滝蔵の子供時代(5歳〜15歳)と完全にダブる。

時代は富国強兵へ国全体が勢いよく進み始めた時。戊辰戦争の負け組だった奥羽越列藩の出身兵は、北海道屯田兵以来の第7師団(旭川)に見られるように、常に最前線で突入することで名を馳せていた。

西南戦争以降、小学校唱歌にもいち早く取り入れられた「抜刀隊」行進曲を歌いながら、朝、通学した姿が目に浮かぶようだ。

のびのびと育っていた滝蔵であったが、12歳の冬、家族に大異変が起こる。

(つづく)
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ルーツの旅 (3)滝蔵2

2024-09-29 06:00:00 | 歴史

相馬から福島に抜ける街道を中村街道という。相馬市から宇多川に沿って西の山間に進む。
重要無形民俗文化財の相馬野馬追の騎馬隊で、相馬の殿様を隊長として立てるのは宇多郷といって城近郊に住む侍。
相馬藩は、天皇になりそこねたと言われる平将門を祖に持ち、平安時代以来、武士の時代を通じて同じ場所に居続けた。
その勇姿は、祭りで再現され、その相馬の田園の水源が宇多川だ。

その宇多川を上流へ遡る源流は亘理伊達と福島が握る。亘理伊達では溜池で堰き止めている。国境をみるとかつて水騒動があったと想像できる。江戸時代、自ずと藩に序列ができていたであろう。
明治新政府は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が敗北した後に生まれたが、伊達は盟主であり、相馬も福島も負け組同盟の一員だった。明治二十二年紀元節(2月11日)、明治憲法が制定発布され、ようやく国の姿が整い始めた。

同じ明治二十二年春、紀元節後の3月、滝蔵はこの山間で、農家の次男として生まれた。滝蔵の祖父が今だ家長を務め、11名が家族をつく大所帯だ。

滝蔵の生まれた地は、亘理伊達、福島、相馬の三藩が山間で国境を接する場所。

廃藩置県、士農工商廃止、兵器狩り、廃仏毀釈、押し寄せた時代の荒波。
亘理伊達は殿様以下総出で、北海道へ移住、伊達市として今に残る。

時代の流れは、この山間へどのように届いただろう。
政治は武士の世界、などといってられただろうか? 農家は税の柱であった米を握っていたのだから。

宇多川上流の分岐点に滝がある。その守神の社の氏子総代を務める農家に滝蔵は生まれた。

その滝と社にちなんで名付けられた滝蔵はヤンチャだった。

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米中外務会談@アラスカ雑感:自由vs平等

2021-03-20 08:14:41 | 歴史

米中外務会談@アラスカ雑感

自由vs平等

シナリオ通りに行かない芝居 昨日の米中外務会談@アラスカ

シナリオを書いたのはアメリカ、破ったのは中国

の猿芝居 観客が見ている

まるで朝ドラの「おちょやん」歴史版

 

 世界の繰り返される対決の根幹は 自由平等の間のキャッチボール

それを綺麗に粉飾するための博愛

 

それを縦に並べるとトリコロール(フランス革命旗)

 

 序列をつけ、上から順に 平等・自由博愛と並べるロシア国旗

 

平等を前面に出し、人が大量に死んだ近現代・東世界

自由をそこそこ前面に出し、ゆっくりと死んで行った近現代・西世界

博愛前面に出し、穏やかに死んで行った全世界歴史

 

 この螺旋階段の歴史の中で、今また自由と平等の避けられない対立の局面

ただ舞台は、欧米圏内の対立から、本当の東西へ。人類進化全歴史の根にある理念の対立が一層剥き出しになっているとの「面白さ」がある。私は、もちろん 自由・平等・博愛の順序こそ、大量に殺し合った人類の知恵と思っている一観客

 

 

 

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