家で飼っている11歳のウサギが死んだ。
ウサギは平均寿命が10歳前後ということだから、11年以上生きたのだから天寿をまっとうしたというところだろうか・・・
このウサギの兄弟が5、6匹いたのだが最後まで生き延びていたのが我が家のウサギだった。
白内障で2、3年前から視力がほとんどなかったのに、よくここまで生きていてくれたというのが率直な気持ちだ。若い頃は脱兎のごとくという形容がぴったりの素早い動きをしていたのだが、歳をとると落ち着くのはどの生物でも同じである。(もっとも最近は老人になっても、総理大臣というかなり責任のある仕事を嫌になってやめてしまう、精神的に未成熟で落ち着きのない人もいるが・・・・・・)
このウサギは目が見えなくなってから、鼻と耳をたよりに生きてきたわけだが、以前のようにダッ!と駆け出すことはなくなった。(しゃれではない)そのために裏庭に放しがいにしても逃げ出すことがないので、面倒をみるのも楽になった。僕は椅子に座って、ウサギが雑草をむしゃむしゃ食べたり、ときどき土を前足でがっがっと掘ったりするのをのんびりと眺めていた。
今年の暑い夏も何とか乗り切り、冬は大丈夫かなぁと心配していた矢先の死だった。幸い学校が休みだった娘と妻が最期を看取ってくれたので、ウサギも淋しくはなかったと思う。
死ぬ一週間前くらいから、背中に金蝿が2、3匹止まっていて不審に思っていたのだが、僅かに死臭が漂っていたのを蝿たちは敏感に嗅ぎ取っていたのかもしれない。死ぬ前日には、いつもいるウサギ小屋に敷いているすのこに上手く立つことができず、ラビットフードも食べることができなかった。家族全員が心配していると、性格の悪い白猫のメイも神妙な顔をしてじっと見ていた。娘がりんごの切れ端を口に持っていってやると寝たままもぐもぐと食べた。それが最期の食事となった。
その翌日僕が仕事に行っていると娘から「10時10分に亡くなりました」とメールが入った。最期まで面倒をかけずにころっと逝った大した奴だった。
夕方、家の畑をみんなで掘ってウサギを埋めた。大好きな草や祖母が持ってきたラビットフードをいっしょに入れた。埋めた土の上に大き目の石を数個立てて墓の代わりにした。
ウサギは犬や猫のように人間とそれほどコミュニケーションできないが、世話をしたりその動きを見たりするとこちらの気持ちが落ち着いてくる。11年以上、家という同じ空間にいて、その存在がなくなったということはやはり欠落感のようなものがある。
あのウサギはうちの家で暮して幸せだったのだろうかと、ふと思う。
ウサギは平均寿命が10歳前後ということだから、11年以上生きたのだから天寿をまっとうしたというところだろうか・・・
このウサギの兄弟が5、6匹いたのだが最後まで生き延びていたのが我が家のウサギだった。
白内障で2、3年前から視力がほとんどなかったのに、よくここまで生きていてくれたというのが率直な気持ちだ。若い頃は脱兎のごとくという形容がぴったりの素早い動きをしていたのだが、歳をとると落ち着くのはどの生物でも同じである。(もっとも最近は老人になっても、総理大臣というかなり責任のある仕事を嫌になってやめてしまう、精神的に未成熟で落ち着きのない人もいるが・・・・・・)
このウサギは目が見えなくなってから、鼻と耳をたよりに生きてきたわけだが、以前のようにダッ!と駆け出すことはなくなった。(しゃれではない)そのために裏庭に放しがいにしても逃げ出すことがないので、面倒をみるのも楽になった。僕は椅子に座って、ウサギが雑草をむしゃむしゃ食べたり、ときどき土を前足でがっがっと掘ったりするのをのんびりと眺めていた。
今年の暑い夏も何とか乗り切り、冬は大丈夫かなぁと心配していた矢先の死だった。幸い学校が休みだった娘と妻が最期を看取ってくれたので、ウサギも淋しくはなかったと思う。
死ぬ一週間前くらいから、背中に金蝿が2、3匹止まっていて不審に思っていたのだが、僅かに死臭が漂っていたのを蝿たちは敏感に嗅ぎ取っていたのかもしれない。死ぬ前日には、いつもいるウサギ小屋に敷いているすのこに上手く立つことができず、ラビットフードも食べることができなかった。家族全員が心配していると、性格の悪い白猫のメイも神妙な顔をしてじっと見ていた。娘がりんごの切れ端を口に持っていってやると寝たままもぐもぐと食べた。それが最期の食事となった。
その翌日僕が仕事に行っていると娘から「10時10分に亡くなりました」とメールが入った。最期まで面倒をかけずにころっと逝った大した奴だった。
夕方、家の畑をみんなで掘ってウサギを埋めた。大好きな草や祖母が持ってきたラビットフードをいっしょに入れた。埋めた土の上に大き目の石を数個立てて墓の代わりにした。
ウサギは犬や猫のように人間とそれほどコミュニケーションできないが、世話をしたりその動きを見たりするとこちらの気持ちが落ち着いてくる。11年以上、家という同じ空間にいて、その存在がなくなったということはやはり欠落感のようなものがある。
あのウサギはうちの家で暮して幸せだったのだろうかと、ふと思う。