西野了ブログ テキトーでいいんじゃない?

日々浮かんでくる言葉をエッセイにして・・・・・・。小説は「小説を読もう 西野了」で掲載中です。

オンボロ車は死語なのでしょうか?

2014-08-17 23:17:46 | Weblog
 国道56号線を走ってみると、ふと気づいたことがある。ふーむ、みんな綺麗な車に乗っているなあ・・・・・・と。皆さんの乗っている自動車がカッコイイというわけでなく、つまりボディが凹んでいたり、ガラスが割れていたり、マフラーから火が吹き上がっていたりする自動車はないということです。
 
 ちょっと前までは、そんなんで走っていいんかい! と思えるような車を時々見かけたような気がするのですが??? ボディが凸凹の車は一般道を走ってはイケナイと道路交通法にそう定めているのであろうか? それともおまわりさんが「その車止まりなさい!」と因縁をつけるのであろうか?

 発展途上国ではもう根性だけで走っている、文句あるか!といった気合の入りまくりの自動車をテレビ映像でよく見かける。そうなのだ。自動車は走ればいいのだ。それなのに最近の我が国に車はやれナビだ、ステレオだ、自動走行だ、ぶつかりそうになったら勝手に止まるなどなど、余計なものが多すぎる!(カーステレオはいるけど)
 あの村上春樹さんも「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」でおっしゃったように、余計なものはいらない、買い物用に車がほしいと言っているではないか。村上春樹さんがそう言っているので、このことは、つまり自動車には余計なものはいらないということは120%正しい。

 しかし自分がどんな車に乗っているのか、運転している身ではわからないのに、みんな綺麗に乗っている。僕にしても自家用車が停車中に後ろからコツンと追突されて、バンパーに少しだけ傷がついただけなのに、相手方の保険で直してもらった。その手間を保証するお金も少しだけど自ブウの自動車保険から出た。日本人ってこういう処理が得意なのでしょうか? それとやはり自動車の外観に関しても世間体みたいなものが存在するのかな。
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毎日のお買い物は意外と楽しい

2014-08-16 08:54:58 | Weblog
 僕は今、主婦的な立場にあり家事を結構やらねばいけない。娘と二人暮らしなので、ほぼ毎日スーパーに買い出しに行く。歩いて2分の所にフジグランがある。大体仕事帰りに寄る場合が多いが一度マンションに帰って冷蔵庫の中身を確認して行く場合もある。

 僕は簡単な料理しか作れないので、お惣菜とか弁当類を見て回るのだがこれが思いのほか楽しい。フジグランくらい大きなスーパーだといろんな企画をするものである。と言っても企画物の食品は値が張るので、たまにしか買わない。先日は牡蠣を甘辛く煮たものを買ってしまったが、何故か岡山産だった? ここは愛媛県なのに広島産じゃなくて岡山産? まあでも美味しかったからいいのだけど・・・・・・

 しかし食品の種類が豊富だと、目移りして余計なものを買ってしまう場合があり、そのあたりは主夫としては初心者である。僕の場合はビールのつまみをついつい余計に買ってしまう。天敵は「柿の種」である。このつまみはコーヒーやコーラと同じように中毒性がある。小袋に分けてあるが、1袋で食べるのを止めるのは至難の技だ。もしそういうことができる人がいるのなら、その人は人格が完成された老師にほかならない! これさえ止めればメタボに引っかからないと担当の保健師さんも言っていたのに。

 話が逸れたが、毎日ちょっとずつ買い物をすることは、結構ストレスを解消してくれる。おつとめ品で好きなチャーハン・焼きそば弁当が半額になっているのを買うと相当に嬉しい。あとフルーツゼリーを2個買うと20円引きになったりするうと、ホイホイ買ってしまう。(お釈迦様の掌でジタバタしている孫悟空状態である)

 仕事で遅くなって8時半とか9時くらいに行っても、かなりの人が僕と同じようにおつとめ品をチェックしている光景を見る。すると「おお! 同志よ!」と一人感慨にふけってしまう。彼らー同志たちも多少僕と同じような感情を胸に抱えているのではないか!?

 こんな状況に置かれると外食が多くなると思っていたがほとんど家で夕食をとっている。帰宅して、洗濯をして洗い上げをして、部屋の片付けをして、シャワーを浴びて、あれこれ細々なことをしなければならないとなると、時間はとても大切だ。だから外食しないのだろう。一人暮らしで自炊できる人は本当に偉いというか凄いとしみじみ思うのだ。
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プラスティックゴミを処分することで日が暮れる

2014-08-10 10:59:47 | Weblog
 諸般の事情で最近一人暮らしっぽいことになっているが(本当は二人暮らし)、家事をしているとあまりにプラスティックゴミが大量に排出してしまうことで、しばし呆然としてしまう。村上春樹さんは世界の海はクラゲで溢れていると言っていたが、世界はプラスティックに覆われているのだ。

 スーパーのフジに毎日のように買い出しに行くが、もちろんマイバックである。しかしお惣菜は発泡スチロールのトレーに乗っているし、ビールのつまみのおかき類はビニール袋に入っている。納豆もところてんもめかぶも全てその容器は、プラスティックゴミに分別されるのだ。プリンもゼリーも豆腐もそうだ。牛乳パックだけは違う!(牛乳はやはり偉いのだ、パチパチ)

 上記のプラスティックゴミを処分するためには、一応水で洗い流さなければならない。松山市は21世紀になっても水不足の危険がある日本で唯一の都市なので、一市民として納豆パックを洗い流すときに胸が痛む。自分自身がつ疲れているときなどは、エイッと燃えるゴミに入れてしまうのだ。納豆の粘り気は疲れた体にはツライ。

 食品関係だけでなく、プラスティックゴミはあらゆるところで溢れかえっている。娘がよく買う化粧品関係の容器なんかも、そうだ。部屋の臭い消し製品、シャンプー類、ファーマルなシャツを買ったときなどにはあちこちにプラスティックのピンみたいなものが付いている。

 そう言ったモノを見つけて、その都度プラスティックゴミとしてまとめて透明なゴミ袋に入れるのだが、そんな自分がなんとなくこまねずみのように感じてしまう? こんな習性が身についてしまったことは良いことなのだろうか?

 日々の生活体験で思うのは、電気自動車がかなり一般化してガソリンの需要が減ってしまっても、プラスティック製品の需要はすぐには減らないのではないかということだ。それはあまり良いことではないけど、人間やはり楽な方がいいのだろう。実際、僕もお惣菜なんかを買うときは、かなり助かっている。でも別にプラスティックじゃなくて、紙類で包装してもいいんだけどね。まあ今となっては食品管理上の問題なんだろうけど。
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