西野了ブログ テキトーでいいんじゃない?

日々浮かんでくる言葉をエッセイにして・・・・・・。小説は「小説を読もう 西野了」で掲載中です。

日本バレーを弱くする過剰演出のテレビ放映

2007-12-02 12:13:15 | Weblog
現在男子バレーのワールドカップが日本で開催されているが、1試合を残し3勝7敗で8位以下が確定している。(12月1日現在)
スポーツジャーナリストの永井洋一氏のコラムで、日本バレーを弱くしているのは、日本のバレーボール協会とテレビ局ではないかという、なかなか興味深い指摘があった。
 日本ではバレーボールの主要な世界大会がよく開催される。(オリンピックを除いて)どこかの独裁国家のマスゲームを思わせる日本一辺倒の異様な応援と、タレントの歌謡ショーもどきの演出、選手をアイドルタレントのように扱うテレビ局、負け続けても他の競技のように厳しい批判を受けない甘やかされた環境など、日本選手が弱くなる要素はたくさんある。逆に他のチームは完全アウェイ状態で、精神的にもフィジカル面でも厳しい状態に置かれ、絶好の試練の場となる。ゆえにここ一番の大事な場面で世界の強豪国は、競り勝ち日本はメンタル面の弱さを露呈し、負けてしまうのだ!というのが永井氏の主な言い分である。(表現上の脚色は私です)なるほどと大いに納得してしまったわけである。
 以前、ミュウヘンだったかモントリオールだったか忘れたが、男子バレーがオリンピックで優勝したことがあった。職場関係の研修会でそのときのチームキャブテンを務めた田中氏の講演を聞く機会があった。数年前の話だが、いまだに覚えていることがある。
 当時の主力選手、大古、横田、森田など錚々たるメンバーだが、みんな物凄いエネルギーを持っていたようで、ハードな練習後でも、(まあ夜のことですね)暴れまくって(何のことでしょう?)キャプテンはそれを上手に処理することが大変だったようです。
 それから、バレー以外に監督が選手に指示したことは、世界の超一流の施設や遺跡を見学しろということ。具体的にはルーブル美術館やアウシュビッツ収容所だったと思うのだが・・・つまり最後の最後、土壇場に追い込まれたときに、(オリンピックの決勝戦の競った場面)そのような経験が必ず生きるという監督の信念のようなものでしょうか?
 この話はなかなか面白い発想だ。4年に1度というオリンピックの大舞台という緊張する局面を打開するには、人間の根源的な強さが必要であり、そのために人類の普遍的な財産に(それが負の財産であろうとも)接することが不可欠だったのだろう。
 こんな話を思い出すと、バレーボール協会もそろそろ発想を変える時期ではないのか。それともテレビの視聴率が、打出の小槌のように、多くのものを協会に与えてくれるのだろうか?
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本当の音楽とは? 「アワ・マン・イン・パリ」

2007-12-01 11:59:39 | Weblog
 僕はジャズも好きで、とくにモダンジャズのCDをちょくちょく集めている。長い間いろんなCDを聴いてくると、やはり自分の愛聴盤というものが出てくる。
 最近よく聴いているのがディクスター・ゴードンの「アワ・マン・イン・パリ」だ。精神的に疲れているときに彼のサックスを聴くと、何となく落ち着くのだ。
 聴いていても聴いていてもあきない。
 僕のCDはボーナストラックがなく5曲だけだが、よく続けて2回聴く。変な言い方だが、このCDはうるさくない。ゴードンのサックスもバド・パウエルのピアノも音楽として十分機能している結果だろうか。
 以前、管弦楽のトリオのライブでモーツァルトを聴いたときも、同じような印象を受けた。自分の感情とは別の次元で音楽が成立していたのだ。
 ゴードンのCDも真剣に聴けば、ブロウするテナーサックス胸がドキドキ、バクバク、そしてバラードにはジーンときてしまうが、いい加減に聴いても、ちゃんと音楽に聴こえてしまうとは、すごいものである。
 このCDは1963年の録音のものだが、この時期ゴードンのようなジャズジャイアントがまだ他にもたくさん存在したというのは、音楽の神様の気まぐれだろうか。
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