教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

天皇が「ブルーギル」での謝罪発言

2007年11月11日 | 「大人のフリースクール」公開講座

陛下「外来魚繁殖心痛む」 琵琶湖畔で異例のお言葉 (共同通信)

と題し、共同通信に次のような記事が掲載されたようだ。 *********************************************************
 天皇、皇后両陛下は11日、大津市の琵琶湖畔で開かれた「第27回全国豊かな海づくり大会」の式典に出席された。天皇陛下は琵琶湖で問題となっている有害外来魚の繁殖に触れ「ブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したもの」とし「食用魚として期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています」と異例の言葉を述べた。
[ 2007年11月11日13時23分 ] *********************************************************

ブルーギルに関するこの事実は世間では「公然の秘密」であったが、天皇自らがこのことを公の場で口にするのはおそらく初めてのことではないだろうか。共同通信がこれを指して「異例のお言葉」と言うのはそういうことである。

では、このお言葉の何が「異例」であるのか。今までならば首相や政府の高官にとどまらず宮内庁においても国民に向けて直接謝罪の言葉を述べることはまずなかった(新聞が天皇の言葉を直接的にではなく間接的に紹介するという手法も続いていた。このテレビ主流の映像の時代においても)。「すまなかった」「わるかった」ということはなく、「遺憾に思う」とか言って適当に誤魔化すのが常套の手段であった。 しかし、今の世代は天皇が雲の上の存在であることを望んではいないし、謝罪すべきことを回避してうやむやな言葉でお茶を濁すようなやり方を快くは思っていない。どのような地位や立場にあろうと、事実として謝罪すべきことはきっちりと謝罪する、それが望ましいやり方である。

天皇一家は日本の皇族であるが、天皇・皇后にせよ英国流、クリスチャン系の教育を受けている。この点は裕仁天皇の場合とは明らかに違い、象徴天皇でありながら良くも悪くも日本的ナショナリズムに没することのない帝王学を身につけている。天皇一家の皇室外交については様々な意見があるが、もはやその言動において古き伝統の悪しき因習にまみれていないのは事実であろう。

国内にブルーギルを持ち込んだという今回のかなり率直な天皇の謝罪の発言は、今までの感覚からすれば「異例」のものかもしれないが、国民の大部分には極めて納得のいく謝罪表現ではないだろうか。今後、象徴天皇制が維持されるとするならば、それは法による後ろ盾のみならず、国民一人一人の支持があるかどうかが大きな意味を持つであろう。

それにしても、他の新聞社の腰の据わらない報道の姿勢はどうしたものか。現時点で、朝日新聞には天皇の行事に出席の記事はあるが、「故意に?」この報道を避けている。読売新聞と産経新聞にはそれに該当する記事が見当たらない。毎日新聞は短いけれどこのお言葉を紹介している。日本経済新聞はこの共同通信の記事をそのまま載せている。それぞれ天皇に対するスタンスの違いが見て取れる。これは一記者の記述によるものか、それともデスクによる取捨選択が行われた結果であろうか。なかなか興味深い。新聞・マスコミは決して客観的でなんかないことの好例であろう。 もしかすると新聞等のマスコミの感覚が一番ワンパターンであり、遅れているのかもしれない。


大江健三郎氏の『沖縄ノート』をめぐる記述について

2007年11月11日 | 「大人のフリースクール」公開講座

大江氏「軍の命令」 沖縄集団自決訴訟 原告側、証言に「憤り」(産経新聞) - goo ニュース

沖縄の集団自決が果たして軍の命令であったか否か…この訴訟は、島民の集団自決の行為を日本軍による強制によるものとした高校日本史の教科書の記述(来年度から使用される)を文科省の検定で修正させる根拠ともなったが、その後、教科書会社が削除された記述を自主的に復活させる訂正申請を出す動きとなっている。

 ということは、沖縄県をあげての書き変えの抗議運動が起きたこともあり、また福田首相も軍の命令を認めるような発言をしていることからも、もはや沖縄島民の全体的な感情からすれば集団自決を迫る「軍の命令があった」ということは自明のこととなったと言えるだろう。これが歴史的事実として定着することは間違いなかろう。

 ただ、そのことは個々の軍人の中に「死ぬな」「命を粗末にするな」「生き延びろ」というような命令を出した軍人がいたことを否定するものではない。その意味で、あたかも軍人のすべてがそうであったかのような記述には違和感を覚え、その人物の名誉回復のために訴訟を起こしたということは分からないではない。必要な視点でもあろう。しかし、それをもって軍の命令説を否定することは出来ない。その人たちが命令したしないにかかわらず、軍の命令とされた集団自決があったのは事実なのである

9日付の産経新聞の解説にも次のようにある。 *******************************************************
【用語解説】座間味、渡嘉敷両島の集団自決 

 沖縄戦開始直後の昭和20年3月下旬、座間味島と渡嘉敷島に上陸した米軍から逃げた多数の住民が、手榴(しゅりゅう)弾のほか、鎌(かま)、鍬(くわ)などを使い自決した。武器や刃物を持っていない者は縄で首を絞め、肉親を殺害した後に自分も命を絶つ者が出るなど悲惨を極めた。死者は座間味島で約130人、渡嘉敷島で300人余とされるが、正確な人数はわかっていない。 *******************************************************

 「歴史」というのは「ヒストリー」の訳語であり、文字通り人類社会の物語のことである。ところが、それが物語であるが故に時の為政者に都合よく解釈されがちなのも否めない。しかし、それが学問的な研究の一環であるならば、そのような政治的な利害に惑わされない視点を持たなければならない。それでなければ研究そのものの墓穴を掘ることにもなってしまう。

 そろそろ時の政府も「事実は事実」と認める度量を持って欲しいものだ。もはやそういう姑息な手段をとる為政者は国民の信頼を得られなくなっているという事実を知るべきであろう。今後の為政者は国民を誤魔化そうとするのではなくて、国民に支持されるためには国民の信を得ることがもっとも必要な要件となるのではないだろうか。