ふわり、ふわりと風のふくままに・・日記

感性がキラリと輝くような毎日を過ごしたいけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。小さな喜びに敏感でありたい。

ベルリンの壁はどうして壊されたの?

2010-09-18 05:25:10 | 日々の出来事
先日、妹がいきなり、《ベルリンの壁が壊された時に、何で急に壊れたの? 壁を壊す話なんて、聞いていなかったからびっくりした。あれは暴動だったの?確か、あの壁を越えたら殺されたりしていたのに、何で壊して大丈夫だったのかしら?事前になんかあった?》と母と話していた。台所で聞きながら、あれはいつのことだったか、ずいぶん前の話だし、東西冷戦状態の世界情勢が変わった、その象徴のような話だけれど、何も知ろうとしていなかった妹みたいな人もいるんだ、ということに驚いた。

当時も、また毎年のように、その時の様子が映像として流れたり、何周年といって新聞にも特集が組まれたりしていたのだけれど…そしてきっと、若い人だったらすぐにネット検索をかけるのだろうけれど。いもうともぱそこんをいじるので、そのご調べたかもしれないが・・・

1989年11月9日、東ドイツのご報道が壁の崩壊につながったというのは、有名な話。「旅行許可書発行の大幅な規制緩和」今までの東西の厳しい行き来の帰省をちょっと緩和しようという話があった所を、「自由化」と話して、しかも方向性の話であったのに11月9日からと報道官の記者会見で言ってしまったのがことのはじまり・・・とか。私が覚えているのは、ニューズで多くの市民が壁に殺到していた場面。戦争で理不尽にも同じ民族が壁によって分断され、しかも資本主義社会と共産主義社会と政治・経済体系が違うゆえに行き来もできず、経済・生活状態もかなり格差ができてしまっていた。ずっとオリンピックも別々の国としてでていたと思うし、東西冷戦の象徴のような存在だったような気がする。いつかドイツの統一は多分ドイツにとって悲願だった、かもしれないけれど、この「ある日突然」壁が壊されて、(あの壁、本当に暑かったんですよね)、国民はすごい興奮状態になって、特に生活が苦しかった浸しドイツの人々はこれで西と同じになれる、と大きな期待を持って東になだれ込んだのだと思う。

とうのドイツのコール首相をはじめ、政治家たちはもう次の年には西ドイツが東ドイツを吸収(面倒みるっていう感じだったなぁ)して統一度いる連邦をつくりだしていく話し合いに入り、翌春にはその道筋ができてしまったというスピード感のあるものだった。ゴルバチョフ、パパブッシュ、の時代、拿二次大戦から半世紀ちかく、世界は何かというとロシア・アメリカに象徴される冷戦状態の緊張感がいつもあった頃だったから、ベルリンの壁崩壊の現実は目からうろこ、それまでたまりにたまっていた市民の間のマグマが誤報道に動いたということになるのだろうか。 

1990年の秋の統一ドイツの誕生の式典の様子が生放送で流れた時を、なんだかすごいことが起こるんだという高揚感でテレビの前に座り続けていたことを覚えている。20年前、「妹はその頃私、何をしたのだろう…」といっていたが、妹の子供は小学生・・・きっと新聞を読む余裕はまだなかったころだったのだろうか。 うちの子たちは中高生だった。実際には東西ドイツができても東ドイツの経済状態はすぐに良くなった訳ではなかったので、大変そうだとおもったっけ。

歴史の出来事、近現代に起きた出来事、知っているような気になっていて、知らないことは一杯ある。 

去年の民主党と自民党の政権交代、政治も生活も経済もすぐに変わらないと思うけれど、長く続いた一党政治が変わった事実は多分少しずつ国民一人ひとりの意識と生活を変えるのだろう。昨日、どこかのニュースで20年ぐらいたたないと、一党政治ではなくて時代によって政権が交代することに皆が慣れないだろうと言っているのを聞いた。 色々なことのスピードに流されてしまいそうだけれど、スピード感を持って替えなくてはいけないところと、じっくりと腰を落ち着けて変えていくところを識別していくことは政治家も国民にも求められているのだろうと思った。