所属教会で初めて、求道者のためのキリスト教入門講座を持ってから10年余。去年から私の事情もあって月2回の講座とかクラスというには申し訳ない、実は集いといったらいいのだろうか。
もともとはキリスト教入門のテキストを使って始めた。今でもはじめた時の緊張感を忘れたことはない。いつも「神の前でこうべを垂れて」道具としてお使い下さい、という祈りの気持ちに変わりはない。入門用のテキストを何冊か使い、ある時は聖書をテキストにルカ、マルコを読みながら要理のポイントを見つめたこともあった。
今、求道者が参加していないこともあって、今年の初めから「ゆっくりとヨハネ福音書」を読み始めた。今7章のなかば。洗礼を受けて何年にもなるご夫婦、5年目の方、3年目の方、2年目の方…そして今月から一人の求道者。準備はするものの、「ゆっくり」の言葉通り急がずに読み進めている。ヨハネ福音書は、マタイやるか、マルコの共感福音書と違い信仰者にとってはかなりしっかりと自分の信仰を見つめる霊的な福音書だと思う。毎回、イエスが「神に遣わされた」者として伝えたかった「神のこと」「神の思い」「神の愛」「神の正義」・・・イエスのなさったことの意味を深く考える機会を続けて与えて頂き感謝している。
毎回、【私の信仰告白】に終わらないで、私を通して「神」「イエス」理解を参加して下さる方と深めていくことができるように、私たちの信仰を確かなものにできるようにと祈りながら準備をして、ともにその時を過ごす。信じ、希望していることが腑に落ちてくるような瞬間があれば嬉しい…なかなか現実には難しいのだが、でも信仰を語り合える場があることは本当に恵みだ。
沢山の導きと支えの恵みに「ありがとう!!」と、応え切れていない「ごめんなさい」
もともとはキリスト教入門のテキストを使って始めた。今でもはじめた時の緊張感を忘れたことはない。いつも「神の前でこうべを垂れて」道具としてお使い下さい、という祈りの気持ちに変わりはない。入門用のテキストを何冊か使い、ある時は聖書をテキストにルカ、マルコを読みながら要理のポイントを見つめたこともあった。
今、求道者が参加していないこともあって、今年の初めから「ゆっくりとヨハネ福音書」を読み始めた。今7章のなかば。洗礼を受けて何年にもなるご夫婦、5年目の方、3年目の方、2年目の方…そして今月から一人の求道者。準備はするものの、「ゆっくり」の言葉通り急がずに読み進めている。ヨハネ福音書は、マタイやるか、マルコの共感福音書と違い信仰者にとってはかなりしっかりと自分の信仰を見つめる霊的な福音書だと思う。毎回、イエスが「神に遣わされた」者として伝えたかった「神のこと」「神の思い」「神の愛」「神の正義」・・・イエスのなさったことの意味を深く考える機会を続けて与えて頂き感謝している。
毎回、【私の信仰告白】に終わらないで、私を通して「神」「イエス」理解を参加して下さる方と深めていくことができるように、私たちの信仰を確かなものにできるようにと祈りながら準備をして、ともにその時を過ごす。信じ、希望していることが腑に落ちてくるような瞬間があれば嬉しい…なかなか現実には難しいのだが、でも信仰を語り合える場があることは本当に恵みだ。
沢山の導きと支えの恵みに「ありがとう!!」と、応え切れていない「ごめんなさい」