なおじい(HOBBY:カメラ・ビデオ撮影・DVDオーサリング/資格:ラジオ体操指導員・防災士・応急手当普及員)

身についている『ワザ 』でボランティア活動・地域社会とのコミュニケーション、楽しいシルバーライフ目標で有意義に過ごす 。

2018年8月から変わる、70歳以上の高額療養費制度

2018年08月01日 19時17分10秒 | 健康・病気

2018年8月から変わる、70歳以上の高額療養費制度

 

詳細情報:https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryouhoken/juuyou/kougakuiryou/index.html

     https://www.mhlw.go.jp/content/000333279.pdf

 


葉月」のはじまり、夏まっさかり、酷暑の中に涼を求める時節

2018年08月01日 16時11分58秒 | うんちく・小ネタ

葉月」のはじまり、夏まっさかり、酷暑の中に涼を求める時節

2018年08月01日

「葉月」のはじまり、夏まっさかり、酷暑の中に涼を求める時節
今年の夏は暑さがいっそう厳しく、先月の文月より酷暑となっている日本各地。いつ終わるとも知れない暑い日々が続いていますが、旧暦のうえでは、この葉月に「立秋」を迎えます。うだるような熱気と湿度の中に、そこはかとない涼を感じるのが、日本人の季節感。来る秋に思いをはせつつ、体調に気をつけて、この月を乗り切っていきましょう。
八月の古名は「葉月」。日本書紀にこの名、「はづき」がまず出てくるのですが、その由来には諸説あるようです。最も有力なのが、樹木の葉が落ち始める頃だから「はづき」だとか、黄色く色づく頃だから「はづき」になったといわれる説。このほか稲穂と関連づけ、稲が実る時期「穂張り月」「穂発月」を略して、「はづき」となったという説も。さらに、台風が多いことから「南風(はえ)月」。雁が飛んでくることから「初来月」ともいわれるようですが、由来はともかく、一年中で最も緑が濃い八月に、「葉月」という名はふさわしい気もします。今年も、炎天の陽ざしに萬木の緑がくっきり鮮やかに燃えたつ季節の到来です。

「田の実」転じて「頼み」。8月1日「八朔」は感謝を伝える日

旧暦八月朔日(ついたち)「八朔(はっさく)」は、別名「田の実の節句」。「田実(たのむ)の祝い」とも呼ばれます。その昔、農村などでは、新しく実った初稲を主の家や知人などに贈り、豊作祈願などを行っていたとか。この風習がいつしか武家社会にも広まり、鎌倉後期より八朔の儀が行われ始めました。これは、主従の間で贈答品を交わす儀式。諸大名や寺社から鎌倉公に贈答品を献上し、鎌倉公の方からも献上者に対して御礼の品々が贈られていたそうです。さらに、江戸時代には幕府の重要な儀式ともなり、現在でも、全国各地で八朔祭や八朔相撲が実施されています。また、京都の祇園では、芸妓や舞妓が踊りや三味線の師匠や茶屋へ挨拶に回るしきたりも。稲の実りを田の神に感謝していたものが、「田の実」転じて「頼み」となり、お世話になっている相手方へ感謝を伝える日となったのでしょうか。このしきたりにならって本日は、周囲の方に改めて感謝し、ありがとうと伝えてみてもいいですね。

8月7日「立秋」からは残暑。涼を呼ぶ残暑見舞いを送りましょう

二十四節気では8月7日に「立秋」を迎えます。夏のまっただ中に、旧暦の上では秋に入るというのは、少し不思議な気がするかもしれません。しかしながら、夏は最も涼を求める季節。そこはかとなく感じられる秋の気配や、涼しいという感覚を求めるのは、この時節ならではです。
冷えた麦茶の一杯に、チリンチリンと鳴る風鈴の音色に、白と藍に染められた浴衣に、一瞬の涼しさを感じるときこそが、葉月ならではの季節の趣。涼を呼ぶ絵柄や色合い、言葉を添えて、大切な方に便りを送るのも素敵な夏の楽しみ方ですね。立秋以降は「暑中見舞い」から「残暑見舞い」とになり、「残暑」というだけで、暑い日々もなんとはなしに残り少なく感じられます。年々苛烈になる酷暑だからこそ、互いにいたわりあって過ごしたいもの。涼を呼ぶ気持ちを伝え合い、積極的に季節を先取っていきましょう。

鎌倉の鶴岡八幡宮では、立秋の日に夏の無事に感謝し秋の訪れを奉告する立秋祭が行われます。宵の参道にはぼんぼりが灯り、神前には鈴虫が供えらるという、古都の夏の風物詩です。
また、朝顔をはじめ芙蓉や木槿など、青空のもと爽やかに咲く一日花が多いのも夏ならでは。一日咲いて、すぐにしぼんでしまうのですが、次々と花開いて私たちの目を楽しませてくれます。
そして、すぐに散るといえば思い浮かぶのが、線香花火。咲いては散って、咲いては散ってを繰り返す線香花火は、どこか夏の終わりを予感させます。くしくも現在、火星が大接近中。空にひときわ赤く輝く火星の姿を探し、夜の秋を感じて過ごすのも一興ですね。

「うなぎのタレだけ弁当」が生協に登場!

2018年08月01日 16時09分26秒 | 食・レシピ

「うなぎのタレだけ弁当」が生協に登場!

2018年07月31日

 

「うなぎのタレだけ弁当」が生協に登場!

高価なうな重……

ほどよい焦げ目にタレのかかった照り、そして腸(はらわた)にしみわたるあの匂い……。
夏バテ気味でもあの匂いをかぐと、生唾ごっくんではないでしょうか。食べたいけれど値段を見ると、伸びた手も引っ込んでしまいがちですが(笑)。でも、温かいご飯にあのタレだけでも、空腹の時ならあの匂いだけでも……ご飯が食べられそうですよね。

7月20日の「土用の丑の日」に続き、明日8月1日も「土用の丑の日」ですが、この時季(7月16日〜8月3日)限定で、関東・甲信越エリアの大学生協約80店舗で販売されているのが、ご飯にうなぎのタレがかかっただけの「土用のたれめし」198円なんです。タレだけなのに、なんと大学生協のお弁当コーナーで好調な売れ行きのよう! 実際の「うなぎのタレだけ弁当」とはどのようなものなのでしょう。
うなぎといえば「土用の丑」ですね!  

うなぎといえば「土用の丑」ですね!  

うなぎの枕詞(まくらことば)でもあるかのような「土用の丑」……。
夏のイメージが強いかもしれませんが、「土用」とは、立夏、立秋、立冬、立春直前の約18日間の「期間」を示し、昔の暦では日にちを十二支(子、丑、寅、卯……)で数えていました。

つまり、「土用の丑」とは、「土用の期間におとずれる丑の日」を指しており、四季それぞれに「土用の丑」があるのですね。

土用の期間は毎年違うので、土用の丑も毎年違います。
ちなみに今年の土用の丑は、1月21日、2月2日、4月27日、7月20日、8月1日、10月24日、11月5日です。7月20日にうなぎを食べ損ねた人は、明日も土用の丑なので夕食にぜひ!(笑)。

そこで本題ですが、今夏の土用の丑(7月20日、8月1日)を狙った「土用のたれめし」の販売戦略を企画したのは、大学生協東京事業連合だそうです。絶滅危惧種かと危ぶまれ、その生態が解明されていない中での価格高騰……を反映したなかなかのアイデアですね。

絶滅危惧種に指定されたうなぎ

2014年、IUCN(国際自然保護連合・スイス本部)がうなぎ(ニホンウナギ)を絶滅危惧種、絶滅の恐れのある生き物として指定しました。理由は、あまりに速いペースで生息数が減少していること。

ニホンウナギはこの30年間で生息数が少なくとも50%以上減ったという報告もあります。その要因としては、乱獲(獲りすぎ)、海洋環境の変化、河川環境の悪化……などが挙げられています。

ただでさえ、「ご馳走」感のあるうなぎが、まさしく『うなぎ上り』の高値になっているのもこのせいのようです。そんな中、日本は世界最大のうなぎ消費国。万葉集にもうなぎが登場するほど、うなぎは古くから日本人に親しまれてきました。
うなぎが、私達の食卓から消えていくなど、考えられない……考えたくありませんね。

「うなぎ」に「土用の丑」をキャッチコピーにしたのは平賀源内

「コピーライターの元祖」とも言われる天才、平賀源内

「コピーライターの元祖」とも言われる天才、平賀源内

夏の暑さを乗り切るため栄養価の高いうなぎを食べるという習慣は、万葉集にも詠まれています。土用の丑の日に食べる習慣は、諸説あるなか、江戸時代に平賀源内が発案した説がよく知られています。

もともとうなぎの蒲焼は、味が濃くてこってりしているので、夏にはなかなか売れませんでした。そもそもうなぎの旬は、秋から冬。旬からはずれた夏のうなぎは、いまひとつ人気がなかったようです。

そこでうなぎ屋が、夏でもうなぎが売れるように、知恵者で有名な平賀源内に相談したところ、源内は「精のつくうなぎは夏を乗り切るのに最適」をセールスポイントに、うなぎ屋の店先に「本日丑の日」と書いて貼ることをすすめます。

町を行く江戸っ子が、「何でぇ、こりゃあ?」と店の前で足を止め、すかさずうなぎ屋の店主が、源内から授かった宣伝文句で客を引き込み、かくしてうなぎ屋は大繁盛。それを見た他のうなぎ屋も真似するようになり、以来、土用の丑の日にはうなぎを食べる風習として定着したそうです。

「本日丑の日」の貼り紙が功を奏した理由としては、これも諸説ある中、「丑の日に『う』の字がつく物を食べると夏負けしない」という風習があり、うなぎ以外には瓜、梅干、うどん、うさぎ、馬肉(うま)、牛肉(うし)などを食する習慣があったとされます。

「土用丑の日」というのは、今でいうところの「キャッチコピー」、平賀源内は「コピーライターの元祖」とも言われているそうですよ。

「土用のたれめし」は「たれめし」(焼き肉のたれ味)に続く第2弾

身だけではなく、タレも美味しい?

身だけではなく、タレも美味しい?

大学生協東京事業連合が、「丼ぶり弁当の商品開発の中で『このタレなら肉なしのタレだけでイケる』ということで5月に発売しました」というのが、ご飯に焼き肉のタレをかけただけの「たれめし」。

販売結果は(話題性も)イマイチでしたが、この「土用のたれめし」は、それに続く第2弾。
「うな丼って店の前のアノにおいだけでも飯食えるよね!』『美味しい蒲焼のタレができれば、たれめし第2弾を販売しよう!』 となり、米飯販売店さんと開発を進めて『旨いタレができた』ので販売しました」ということのようです。

「そうだよ、『うなぎが美味いんじゃないんだよタレがうめーんだよ!』という声に応えた弁当で日本人の多くが求めていたものだと思う」
「話題の土用のたれめしですが、そこに卵黄を落とすとこってり感が増してさらに美味くなるのでもっと広まってほしい」
「『土用のたれめし』という、うな重のご飯部分だけを売ってるらしい。これ、めっちゃいいじゃん……うなぎも美味しいんだけど、ぶっちゃけこのご飯とタレが凄いと思う(笑)」
……など、Twitterで大きな話題になっているとか。
──「タレ」にこだわった「土用のたれめし」……。お財布にも優しいし、話のネタにもなりますね。気になる人はぜひ食べてみたいところですが、やっぱりご飯を覆い尽くすように、うなぎがドンとのったうな重やうなぎ丼が食べてみたいのが本音……。ところでみなさんは、もううなぎを食べましたか?

王子さまは星に帰れたのでしょうか?7月31日・サン=テグジュペリが地中海に消えた日

2018年08月01日 16時05分58秒 | うんちく・小ネタ

王子さまは星に帰れたのでしょうか?7月31日・サン=テグジュペリが地中海に消えた日

 

2018年07月31日

王子さまは星に帰れたのでしょうか?7月31日・サン=テグジュペリが地中海に消えた日
第二次世界大戦の戦火がますます激しくなっていた1944年。7月31日のこの日、コルシカ島から飛び立った自由フランス空軍の一機の偵察機が、地中海マルセイユ沖でドイツ軍の戦闘機により撃墜され、地中海に没しました。偵察機に乗っていたのは著名な作家で操縦士でもあったアントワーヌ・マリー・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine Marie Roger de Saint-Exupéry)。「夜間飛行(Vol de Nuit)」や「南方郵便機(Courrier Sud)」、そしてあの有名な「童話」である「星の王子さま(Le Petit Prince)」の著者であるサン=テグジュペリです。
星の王子様ミュージアム

星の王子様ミュージアム

サン=テグジュペリは1900年に、フランス中部の都市、リヨンの地方貴族の家系に5人兄弟の3番目として生まれました。12歳の夏休み、はじめて飛行機に搭乗体験をし、その体験をもとにした詩や、作文では才を発揮しましたが、総体的にはあまり成績はよくなく、ぼんやりとした性格と思われていたようです。勉強が苦手なため、志望していた海軍兵学校にも不合格になっています。21歳のときに兵役で航空部隊に配属され、除隊後はセールスマンなどをしていましたが、26歳のときに「南方郵便機」で作家デビュー。
当時、航空機便時代の黎明期としてアフリカ、南米などへの航空郵便の新路線開発が盛んになっており、サン=テグジュペリも航空会社に操縦士として就任、ヨーロッパとアフリカ、南米の空路開発に尽力しました。
以降、「夜間飛行」「人間の土地(Terre des Hommes)」等を著し、ベストセラー作家となってプルースト、ジッド、カミュ、セリーヌ、ジュネ、コクトー…と錚々たる二十世紀フランス文学の顔ぶれの中でも燦然と輝く星の一人としてその名をとどめています。
特にもっとも有名で、その代名詞とも言ってもいい「星の王子さまLe Petit Prince」は、彼の44年の生涯のほとんど「晩年」、43歳のときの作品。当時、ドイツと講和(降伏)し、傀儡のヴィシー政権でかろうじて主権国家の体面を保っていた母国フランスから、亡命したアメリカで書き上げられ、アメリカの出版社から出版されました。

数々の矛盾をかかえたエキセントリックな王子さま。その言動にはどんな意味が?

サハラ砂漠

サハラ砂漠

「星の王子さま」を、その有名な挿絵は知っていても、内容は未読の方のためにごくおおざっぱにあらすじを解説しておきます。
飛行機のパイロットである物語の語り手「ぼく」は、あるとき単独で飛行中飛行機が故障、サハラ砂漠のど真ん中に不時着します。途方にくれている「ぼく」のところに、その場に似つかわしくない華奢な金髪の少年が忽然と現れ、「羊の絵を描いてほしい」と話しかけてきます。自分の星に生えてくる雑草を食べてくれる羊がほしいのだ、と。話を聞くとその男の子ははるか宇宙の小惑星の一つが故郷の「王子さま」で、星に生えているたった一つの花であるバラの花と仲たがいして星を出奔、地球にたどり着いたのだが、ほぼ一年間地球に滞在して、残してきたバラに対する「責任」を果たすために再び故郷に戻ろうと考えているのだというのでした。「ぼく」は少年の語る不思議な身の上話を聞きながら、次第に心引かれていくのですが、少年がある決意をしていることにうすうす気づいていきます。男の子は、地球に落ちてきてちょうど一年目になるその日に、落ちた場所である「砂漠に隠された井戸」の場所で、毒蛇に咬まれて命を落とし、魂だけで星へ帰ろうと決意していたのでした…。

「おねがいします。ぼくに羊の絵を描いてよ」と唐突に語りかける登場の場面から、王子さまは終始一貫して情緒不安定でエキセントリックの塊です。かたや「ぼく」も、人間社会になじめず、自分の描いた「ゾウを飲み込んだ大蛇の絵」を、帽子だとしか見ない大人たちに絶望しているという一癖ある人物。王子さまは「ぼく」の描いた羊の絵をことごとく却下するのですが、困り果てた「ぼく」が空気穴の開いた小箱を描き、「この中に羊がいるよ」と言うと大喜びして覗き込み、大層気に入るのです。そんなかわいい、無邪気な王子さまですが、ところが、ときに実に老成した変な発言をするのです。王子さまは「ぼく」の言動が「くだらない大人みたいな口の聞き方だ」とかんしゃくを起こしたりしますが、正真正銘の子供ならば、相手が大人じみている、と非難したりはしないでしょう。その意味でも、王子さまは生粋の子供ではないのです。かと言って大人でも、老人でもない。

「花の言うことなんか聞く必要なかったんだ。(中略)ぼくは全然理解できてなかった!言葉じゃなくて行いで判断すべきだった。彼女は星を香りで満たして、ぼくを晴れやかにしてくれた。ぼくは決して逃げ出すべきじゃなかった!彼女の哀れなずる賢さの背後に隠れている優しさに気づくべきだった。花ってものはとても矛盾しているものなんだから!でも、そうやって彼女を愛するべきだったと知るには、ぼくはあまりにも若すぎたんだ」

ここでは、子供であるはずの王子さまは、自分の星に置きざりにしてきたバラのことについて、なぜか恋人または妻との関係の拗れで悩む成人男性であるかのように語りだし、「自分は彼女を理解するのには若すぎた」などというのです。
このバラには実際にモデルがいました。南米エルサルバドルの女流作家で妻のコンスエロです。サン=テグジュペリとは30歳のときにアルゼンチンのブエノスアイレスで知り合い、一目で恋に落ちたといわれています。それ以降の死までの14年間、二人は添い遂げていますが、わがままで贅沢なコンスエロの振る舞いは、サン=テグジュペリ側からすると彼を傷つけ憔悴させたようです。コンスエロ側も、後年「バラの回想」という回顧録の中で、生粋の飛行機乗りで地上に居場所が無いかのように所在なげで、何事につけ不器用で自分勝手なサン=テグジュペリに翻弄され、言い寄る女たちとの不倫にも苦しめられた、と振り返っています。家庭内別居や完全な別居も繰り返していて、この二人の関係が、そのまま物語の王子さまとバラの花に置き換えられているのです。
このように理解すれば、王子さまが地球に来て庭園で出会った5000本のバラは、サン=テグジュペリの数々の浮気相手たちであり、王子さまがその地を立ち去るときにその何の罪も無いバラたちに「君たちは空っぽで誰にも愛されていない」と冷たく言い放つ不可解な箇所の理由も、コンスエロへの贖罪とけじめのために必要だったくだりだとわかります。

「星の王子さま」には男性しか登場しない⁉

バオバブの木

バオバブの木

無辜なバラたちに「君たちは空っぽだ」と言えと進言したのは、「ぼく」をのぞけば王子さまの地球上での唯一の友人のキツネです。このキツネは「星の王子さま」の出版にも関わった愛人兼パトロンヌのエレーヌ・ド・ヴォギュエ(サン=テグジュペリは「ネリー」と呼んでいたようです)がモデルといわれます。キツネは数々の賢しげな人生教訓を王子さまにさずけますが、物語中一番の名言として有名な「大切なことは目に見えない」も、キツネが王子さまに語る言葉です。
指摘する論者が見当たらないのですが、「星の王子さま」に出てくる登場人物は、重要な役から端役まで、すべて男性です。意外な感じがしませんか?でも事実、人間の登場人物はすべて男性です。女性とおぼしきキャラクターは花として登場します(キツネは愛人エレーヌがモデルではありますが、本人が男性名で作家として活躍していたのにあわせるように、オスギツネとして登場します。)。これはどうしてでしょうか。
訳者の堀口大學が「夜間飛行」のあとがきで「彼の心性は武士であり、その行動が英雄であることは、彼を知るほどのあらゆる人々の認めるところである」と記し、「南方郵便機」の序文を書いたアンドレ・ブークレルは、「サン=テグジュペリは、寡黙な、遠慮深い、長身の青年だ。人が彼について何を言おうと、少しも彼は感動しない。理由は、彼の肉体が、恐怖に対して不感であると同時に、賞賛に対しても不感だからだ。」と記し、サン=テグジュペリという人物が、危地をものともせずに飛び込むきわめて大胆な勇士であり、一言で言えば「男の中の男」として彼を知るものに賛嘆されていたことをうかがわせます。
キツネは王子さまにこういいます。
「忘れたらいけないよ。君は自分が飼いならしたものに対して常に責任を負わなくちゃいけないんだ。君は、君のバラに責任を負っているんだよ」
王子さまにとってはバラは飼いならした(飼っている)ものであり、飼った以上は責任をまっとうしなくてはいけない、と言うのです。互いに対等に相手を支え、頼りあう伴侶ではなく、王子さま(男性であるサン=テグジュペリ)にとってはバラ(女性)は自分が守ってやらなくてはならない「か弱い存在」であり続けるのです。だからこそ、もう戻れないということを内心では知っている王子さまは、せめてもの贖罪にとヘビに咬まれてこの世を去るのです。

海底から発見された「バラ」の正体

1998年、長い間「行方不明」とされてきたサン=テグジュペリの搭乗機が、ついにマルセイユ沖のマン島海域の海底から発見されます。発見されたブレスレットには、サン=テグジュペリ本人の名と、妻コンスエロの名が刻まれていました。彼にとっての「バラ」の名が、そこに刻まれていたのでした。
サン=テグジュペリは、祖国フランスと「星の王子さま」の献辞を捧げた親友であるユダヤ人のレオン・ヴェルト(その二つもまた、彼にとっては守るべきバラでした)を脅かす、三本の悪しきバオバブに喩えられたドイツ、イタリア、日本の枢軸国を倒すため、自由フランス軍の偵察機に乗り込み、コルシカ島から発進します。それは英雄とたたえられた彼の性情としては当然の行動でした。まるでそれは、自分の故郷の一本のバラを守るために命を落とした王子さまとまったく同じ行為だったといえるでしょう。44歳と言う年齢は、既に操縦士としての停年間際でした。

サン=テグジュペリは軍に所属する際には常に最前線を希望し、危地で率先して働きました。けれども戦闘機には乗ることは常に拒否したといわれます。彼の「勇気」が「悪いやつをやっつけてやる」というありがちの蛮勇ではなく、ただ自分が出来る正しい行いを遂行し、愛するものを全力で守る、その思いだけだったのでしょう。