・私は船場の旧家へ嫁入りして、
旧来の権式を鼻にかける姑にことごとく嫌味を言われ、
いやになるほど皮肉られたので、婚家の土蔵にあった、
おびただしい書画骨董、珍宝什器などが大嫌いになったといえる。
ところで、それらの家代々に伝わるものはどうなったか、というと、
戦後ののれんの復興の際、私が思い切って売り払ってしまったのである。
船場の店も邸も空襲で焼失した。
舅、姑は老いぼれてしまい、頼りになる夫は、
大事にされて育ち、実力もないまま来た人だから、役に立たない。
私は、今は亡くなった番頭の前沢と力を合わせ、店とのれんを守った。
それと共に、姑にいびられた船場の古いしきたりも一掃されてしまった。
そういう歴史があるので、
古い骨董には何の興味も愛着もなくなってしまった。
それに私は新しいものにいつも好奇心がある。
姑を見て、ワビ、サビ、日本趣味に反発し、反動したせいか、
私は何でも目新しい感覚が好きだ。
雨戸をくるよりアルミサッシがええわい。
フローリングの床がええわい。
紙の障子よりガラス障子がええわい。
そして私は、今さらのごとく気づくのである。
日本建築のよさ、和風の暮らしの快適を唱う人は多いけれど、
あれは女中衆(おなごし)さんや丁稚がいっぱいいて、
その人たちの手によって、辛うじて機能するというもの。
昔の奉公人は転職など出来なかった。
そういう人々によって、タタミ、障子、雨戸、フスマと、
手のかかる和風建築が維持されていたといえる。
戦前の船場の仄暗い居間、
姑が自慢げに拡げていたお茶道具を思い出すと、
(うわっ!もう古いもんはこりごりや)
私は骨身に染みた。
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・そんな私であるけれど、
ふらりと入ったところが西洋骨董の老舗の出店であった。
(えっ!こんなに楽しい骨董があるのんか)
と目を開かされた。
家具、ガラス類、装身具、時計、食器、人形・・・
あざやかな色があふれ、目にも心にも近しいものばかり。
西洋七宝(エマーユ)のブローチ、それらが、
百年ぐらい前のもの、と知って、
私は初めて西洋骨董の面白みを知った。
パリの、のみの市やニューヨークの骨董ビルで、
私は装身具や人形を買った。
ロンドンでは、
西洋七宝の女の絵があしらってある小箱を買った。
こうして私はいつとはなく、
西洋骨董になじみ、愛用するようになった。
それでまた私は発見した。
日本建築が若い体力と人手がなくては維持できないごとく、
日本骨董には、老女向きのものは、
(あれへんやないの!)という恨みをこめた発見だ。
日本骨董は、オール、あげて「お爺ん」のためのものなのだ。
安物の明治の印判、皿かガラスの氷皿、むやみに高価で、
あとは仏像や七福神、鶴亀の置物、鎧甲に刀剣、
キセルのあれこれ、印籠・・・
それで私は、
宝塚観劇をするのと同じように、西洋骨董を楽しむ。
もう一つ言いたいこと。
昔の骨董品のアクセサリーの留め金は、
単純で大まかでしっかりして、着脱しやすいのが嬉しい。
現代のアクセサリーは若い女性向きで、
留め金が小さくて細かい。
目もうすく、指先もぶきっちょになった老女への配慮は不十分。
老女はアクセサリーなんか買わない、
と思っているのであろうか。
(次回へ)