2001年(平成13年)
・8月20日(月)
Nさんに送ってもらい帰宅。ウチで昼食(カレー)
Nさんは「おっちゃんによろしく」と帰っていった。
そのおっちゃんは午後、ショートスティから送られて帰ってきたが、
連絡帳にかなり多めの血が口から出ました、とある。
病院へ、とにわかにあわただしく決定。
知人がいる伊丹の病院に電話すると、
すぐ来られるか、とのこと。
夕食も摂らずにタクシーで行く。
夜の間、パパを見てもらっているUさんに直接病院へ来てもらう。
レントゲンを撮り、個室を押さえてもらい、とりあえず入院。
「大丈夫よ、検査だけ。心配しないで」
私は力づけたが、パパは呆然とベッドに腰かけたまま、
そのさまは、過ぎ来しかたを悔やむようでもあり、
ここまでなだれ落ちた運命がどうしても腑に落ちない、
というようである。
近来、ものを言わないのがクセになり、
まわりにすっかり下駄を預けっぱなし、
あなた任せが身についてしまったので、
一人にされると途方に暮れる、
というパパのたたずまいだった。
帰宅。
どっと疲れた。食事はビールで流しこむ。
・8月21日(火)
台風が来ている。
二時、読売新聞の取材。
病院からUさんの電話で、
明日、口腔外科の先生が話があるとのこと。
上顎部に腫瘍とのこと。思いもかけない。
私は、パパの両親とも脳血管の病で亡くなっているので、
てっきりそれだろうと思っていた。
癌というのは意外。
夜はすきやきだったが、私は箸がすすまず、
老母一人健啖である。
・8月22日(水)
夕方、指定された四時過ぎ、病院へ行き、
口腔外科でF先生の説明を聞く。
上顎、下顎とも腫瘍あり、
場所が場所だけに手術は出来ないので、放射線でとのこと。
しかし、体力も弱っているので堪えられる限界で、との話。
その話にショックを受けるよりもまず、
臨機応変の対策を、という発想が頭に浮かんだ。
ショックはそのあと、
一人でゆっくり味わおうというのが、
正直なところ。
たぶん、私の過ぎ来しかたの人生はいつも臨戦態勢の非常時だった。
私の四十代半ばから五十代、六十代、しのぎを削る白兵戦の時代だった。
昭和54年に夫が最初の発病をして以来、
病人を看て、私一人で計画中だった家を建て、
子供たちの身のふり方、診療所閉鎖のさまざまの折衝、手続き、
そのあいだも、毎月、胸の悪くなるほどの、
物すごい執筆量であった。
締め切りは常に遅れ、
FAXもない時代だから、自身、空港まで届けに行ったりした。
どのくらい、出版社や新聞社に迷惑をかけたかわからない。
小説雑誌の全盛時代で、書いても書いても注文があったころだ。
まるで、刻々変わる戦況にかかんに対応して、
ともかく、この場をしのごうと悪戦苦闘中の作戦参謀みたいなもの。
そのクセが今も出る。
先生はもう一度、詳しい検査を、とのことなので、私は、
「主人の弟が外科医ですので、呼んでおきますから、
結果やあとの予定をお聞かせください」
とお願いした。
私は明後日の講演をキャンセル出来ないし、
義弟も病院を持っているので、
すぐにこちらへ来ることも出来ないだろう。
日を決めて、みんなで先生のお話を、と思った。
病室へ行って、うつらうつらしているパパの顔を見ると、
やっぱり、よよと泣けない。
作戦参謀たるものはヤワなことしていられない。
でも、涙は出て来るので、すそへまわって、
「足、だるくない?」とさすっていた。
病院へ詰めて来てくれている家政婦会のU夫人は、
家事よりも病院の方が手慣れているらしく、
きびきびとして、看護士さんたちとも打ち解け、
パパの世話を焼いてくれる。
しかし、私としては、
どうかして家で死なせてやりたいと思っている。
・8月23日(木)
明日の講演の準備で夢中。
パパの容態は安定しているとのU夫人の電話で、
病院へは行かず。パパは重湯と具の入っていないみそ汁を、
おいしい、といってあまさず飲んだ由。
・8月24日(金)
恒例の講演会。
テーマは古典の楽しみ。
まあまあの出来。
すっかり疲れ、新潮社の人を誘って伊丹まで帰って寿司屋へ。
帰宅してみると、留守中に老母が足の具合を悪くして、
妹夫婦らが近くの整形へ連れて行ってくれた由。
「大丈夫だったから」と妹たち。
私は礼を言ったが、いや、伏兵あらわる、
と思わずにいられなかった。
いつか私は、「神サマは寝首をかく名人だ」と書いたことがある。
神サマに対抗するのは大変だ。
・8月26日(日)
今日は日曜でミドちゃんはお休みだから、
私一人で病院へ行った。
お見舞いの花、いろいろに埋もれている。
テレビを見たり、うつらうつらしたり、
パパはそれほど弱っていないように見えるが、
なぜか心が身から離れ出し、
「ワシの出る幕ちゃうわ!」という風に見えた。