「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

20、初音 ③ 

2023年12月12日 09時00分35秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・新年の騒がしさが少し落ち着いたころ、
源氏は二條院の東の院を訪れた。

末摘花は、
何といっても常陸宮の姫君という身分なので、
源氏は人前だけでも鄭重に扱う風を見せた。

末摘花も若盛りを過ぎ、
どんな人にも劣らなかった黒髪も、
はや抜け落ち、
おびただしい白髪がまじっていた。

源氏は気の毒で、
まともに見ていられない。

彼女に贈った正月の晴れ着・柳がさねの小袿は、
思ったように似合っていないが、
ありていに言えば、
着手が悪い、
というべきであろう。

艶も失せて黒ずんだかい練の、
さわさわと音のするほど糊のきいた衣を、
一枚だけ着て、
その上に柳の織物の小袿を着ているのだが、
ひどく寒そうでみるからに哀れである。

普通なら、
かい練の下に袿を幾重にも重ねて着るものであるが、
なぜ袿は着ないのであろう・・・

鼻の色ばかり、
真っ赤になっている。

源氏はため息を洩らして、
几帳を引き寄せ二人の間の隔てとした。

今は、末摘花のほうが、
源氏に対して恥じらいを失っていた。

長いこと心変わりせず、
面倒を見てくれる源氏の大きな愛情に甘えて、
安心していた。

昔、あんなに臆病で内気で、
恥ずかしがりであったのが、
今はすっかり源氏になれて、
うちとけひたすら頼りにしているのも、
源氏にはあわれであった。

そういう幼稚なあわれさ、
普通の女人より一拍ずれたのを、
自分でも気づかぬ物悲しさが、
彼女にはある。

(自分が先々まで面倒を見ないと、
この人はどうなることか。
決して見捨てまい)

と源氏は思う。

男の誠意というよりも、
彼の天賦のやさしさのせいなのだろう。

源氏のそんな心も知らず、
末摘花は何かと話していたが、
ひどく寒そうで声もふるえている。

源氏は見るに見かねて、

「お召し物を世話する人はいますか?
人も来ないお住居だから、
格好もかまわず、
くつろいで柔らかい綿入れでも、
着ていらっしゃるほうがいい。
体裁をつくろって薄着をするのは、
よくないです」

と、現実的な日常の注意までする。

末摘花はさすがに恥ずかしそうに、
ぎこちなく笑った。

それは皺の多い、
盛りを過ぎた女の笑顔である。

「醍醐の阿闍梨の君のお世話をしておりまして、
自分の縫い物まで手が廻りませんものですから、
狩衣まで借りてゆかれまして、
寒うございます」

というのは、
これは法師の兄君のことだった。

女人の素直なのはいいというものの、
あまりに表も裏もない、
少しは見場よく、
いいつくろった方が女らしいのに・・・
と源氏は思う。

しかしここへ来ると、
源氏はすっかり色気抜きの、
実直な人間になっている。

「それよりあなたはもっと、
着物を重ねて着なさい。
白い衣なら惜し気がないから、
何枚でも重ねなさい。
入用のものがあれば催促して下さい」

と、源氏はいって、
二條院の倉をあけさせ、
絹や綾を取り出して末摘花に与えた。

空蝉のところも源氏は尋ねた。

この人は得意顔をする人ではなく、
小さな部屋にひっそり住み、
母屋のほとんどを仏間にして、
ひたすら勤行につとめていた。

青鈍の喪の色の几帳もしみじみなつかしい感じ。
佳き人は几帳のかげに深く隠れて、
ただ年末に源氏が贈った衣の、
梔子色の袖口だけが、
ほのかに見える。

「尼姿のあなたを、
遠くから思うだけで、
訪ねるべきではなかったかもしれません」

源氏は胸痛くつぶやいた。

「思えば昔から、
悲しいめぐりあわせの二人でした。
しかし、こうやって時折、
話を交わすことのできる縁が、
続いているだけでも、
私は嬉しいのです」

尼君の空蝉も、
さまざまな感慨が胸にあふれた。

「あなたさまに、
こうしてお頼りする運命になりましたのも、
浅からぬ前世の因縁でございましょう」

「あの頃の恋の罪の報いを、
あなたは仏に懺悔しておいでなのでしょうか。
しかし、今ではおわかりになったでしょう。
男というものは私のように純情な者ばかりでもない、
ということが」

そう言われると、
空蝉も、昔、継息子のよこしまな恋に、
苦しめられたことを源氏は知っているのかと、
恥ずかしく、

「こんな尼姿をお目にかける以上の、
つらい報いがどこにございましょうか」

と泣いた。

いろいろな世間話を交わしながら、
せめて末摘花も、
これくらいの話相手になってくれれば、
と思わずにはいられなかった。

こんな風に源氏の庇護で、
生きている女人は多かった。

源氏はひとわたり訪れて、
やさしい言葉をかけた。

どんなにでも傲慢になり得る、
現在の源氏の身分であるが、
思い上がらずどの女人にもやさしくするので、
みなそのやさしさに慰められて、
年月を送っていた。






          


(了)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 20、初音 ② | トップ | 21、胡蝶 ① »
最新の画像もっと見る

「新源氏物語」田辺聖子訳」カテゴリの最新記事