「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

21、胡蝶 ①

2023年12月13日 09時01分39秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・三月二十日過ぎ、
もう春も闌けようとというのに、
ここ六条院の春の御殿の庭は、
いまなお、盛りの美しさだった。

ほかの御殿の人々は、
遠くから垣間見てあこがれていた。

源氏はそれで思いついて、
かねて造らせてあった唐風の船を、
彼女たちのために急いで装飾させ、
池におろすことにした。

はじめて船を池に浮かべる日は、
雅楽寮の人を召して、
船楽を奏させた。

親王たち上達部なども大勢来られた。

中宮(亡き六条御息所の姫君)はこのごろ、
お里帰りしていられる。

いい折なので、
源氏は春景色をお目にかけたいと思ったが、
ご身分がら、中宮はそれがお出来になれない。

同じ邸内ではあるが、
軽々しくあちこちお歩きになることは、
出来ないのであった。

それゆえ、
美しいものを見るのが大好きな、
若い女房たちだけを船でこちらへよこされた。

南の池は春のお庭と通じているが、
小さい山が間にあって、
庭をへだてている。

船はその山のさきを漕ぎまわって、
春の御殿へ着く。

春の御殿の紫の上のほうでは、
東の釣り殿に若い女房を集めていた。

彼女たちはここから乗り込む。

竜頭、鷁首の船を飾り立て、
舵取り、棹さしの童もみな唐風の装束。

そんな船に乗り込んで、
大きな池の中に漕ぎだしたときは、
若い女房たちは、
まるで夢の国に迷い込んだように、
うっとりした。

ここからは春の御殿の庭が見わたせた。

青々と緑の糸を垂れた柳、
紅い霞のような花々、
よそでは散った桜も、
ここでは今が盛りだった。

渡殿をめぐる藤も、
濃紫の花房をゆたかに垂れ、
澄んだ池水に映る山吹は、
岸に咲きこぼれている。

水鳥はつがいを離れず、
幾組も池に浮かんでいた。

女房たちは夢中になって楽しんだ。

夕暮れになって、
まだ興奮のざわめきのうちに、
船は釣り殿にさし寄せられて、
人々は下りた。

この釣り殿は質素だが、
上品な造りであった。

そこが、若い美しい女房たちでいっぱいになった。

中宮方、紫の上方の女房たちの、
それぞれの華美をつくした衣装、
顔かたち、さながら水上に浮かんだ、
大きな花束のようだった。

夜に入っても歓は尽きず、
庭にかがり火をたき、
正面の階の下の苔の上に楽人を招し、
上達部や親王たちみなそれぞれ、
お得意の楽器をとられて合奏がはじまった。

その楽の音色は春の夜空に吸われてゆく。

夜もすがら、音楽会は続いた。

やがて夜があけた。

中宮ははるか離れた御殿で、
この世のものならぬ楽の音を、
うらやましくお聞きになっていられた。

しかし、見ぬものにあこがれ、
ゆかしく思っていられるのは中宮ばかりではない。

春の宴に招かれた青年貴族たちは、
みなこの邸の西の対に迎えられたと聞く姫君、
玉蔓に心焦がしていたのである。

いつも魅惑的な六条院ではあるが、
今まで青年たちのあこがれをそそる、
妙齢の姫君のいないことだけが、
物足らなかった。

自分こそ、と自負している人は、
女房に手づるを求めて手紙を送ったり、
あからさまに意中を打ち明けたり、
しはじめていた。

ひそかな思慕を胸に抱いて、
口に出せない公達もいるようであった。

その公達の中には、
内大臣(かつての頭の中将であり玉蔓の実父)の長男、
中将・柏木もいた。

彼は事情も知らないまま、
玉蔓が異母姉とは夢にも思わず、
思いをかけていた。






          


(次回へ)

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