・三月二十日過ぎ、
もう春も闌けようとというのに、
ここ六条院の春の御殿の庭は、
いまなお、盛りの美しさだった。
ほかの御殿の人々は、
遠くから垣間見てあこがれていた。
源氏はそれで思いついて、
かねて造らせてあった唐風の船を、
彼女たちのために急いで装飾させ、
池におろすことにした。
はじめて船を池に浮かべる日は、
雅楽寮の人を召して、
船楽を奏させた。
親王たち上達部なども大勢来られた。
中宮(亡き六条御息所の姫君)はこのごろ、
お里帰りしていられる。
いい折なので、
源氏は春景色をお目にかけたいと思ったが、
ご身分がら、中宮はそれがお出来になれない。
同じ邸内ではあるが、
軽々しくあちこちお歩きになることは、
出来ないのであった。
それゆえ、
美しいものを見るのが大好きな、
若い女房たちだけを船でこちらへよこされた。
南の池は春のお庭と通じているが、
小さい山が間にあって、
庭をへだてている。
船はその山のさきを漕ぎまわって、
春の御殿へ着く。
春の御殿の紫の上のほうでは、
東の釣り殿に若い女房を集めていた。
彼女たちはここから乗り込む。
竜頭、鷁首の船を飾り立て、
舵取り、棹さしの童もみな唐風の装束。
そんな船に乗り込んで、
大きな池の中に漕ぎだしたときは、
若い女房たちは、
まるで夢の国に迷い込んだように、
うっとりした。
ここからは春の御殿の庭が見わたせた。
青々と緑の糸を垂れた柳、
紅い霞のような花々、
よそでは散った桜も、
ここでは今が盛りだった。
渡殿をめぐる藤も、
濃紫の花房をゆたかに垂れ、
澄んだ池水に映る山吹は、
岸に咲きこぼれている。
水鳥はつがいを離れず、
幾組も池に浮かんでいた。
女房たちは夢中になって楽しんだ。
夕暮れになって、
まだ興奮のざわめきのうちに、
船は釣り殿にさし寄せられて、
人々は下りた。
この釣り殿は質素だが、
上品な造りであった。
そこが、若い美しい女房たちでいっぱいになった。
中宮方、紫の上方の女房たちの、
それぞれの華美をつくした衣装、
顔かたち、さながら水上に浮かんだ、
大きな花束のようだった。
夜に入っても歓は尽きず、
庭にかがり火をたき、
正面の階の下の苔の上に楽人を招し、
上達部や親王たちみなそれぞれ、
お得意の楽器をとられて合奏がはじまった。
その楽の音色は春の夜空に吸われてゆく。
夜もすがら、音楽会は続いた。
やがて夜があけた。
中宮ははるか離れた御殿で、
この世のものならぬ楽の音を、
うらやましくお聞きになっていられた。
しかし、見ぬものにあこがれ、
ゆかしく思っていられるのは中宮ばかりではない。
春の宴に招かれた青年貴族たちは、
みなこの邸の西の対に迎えられたと聞く姫君、
玉蔓に心焦がしていたのである。
いつも魅惑的な六条院ではあるが、
今まで青年たちのあこがれをそそる、
妙齢の姫君のいないことだけが、
物足らなかった。
自分こそ、と自負している人は、
女房に手づるを求めて手紙を送ったり、
あからさまに意中を打ち明けたり、
しはじめていた。
ひそかな思慕を胸に抱いて、
口に出せない公達もいるようであった。
その公達の中には、
内大臣(かつての頭の中将であり玉蔓の実父)の長男、
中将・柏木もいた。
彼は事情も知らないまま、
玉蔓が異母姉とは夢にも思わず、
思いをかけていた。
(次回へ)