・大将は目にも鼻にも、
こまかな灰が舞い入って、
あたまも真っ白になり、
何も考えられない。
衣装をはらうと、
あたり一面、
もうもうと灰が舞い立った。
人々は、
あわてふためいて、
火種を拾っているが、
焦げくさい匂いがただよう。
北の方を取り鎮める人々、
大将の衣装を脱がせる人々、
大さわぎになった。
「北の方さまは、
ご正気ではございません。
物の怪がなせるわざで、
ございます。
どうか、
北の方さまを、
お悪くお思いにならないで、
あげて下さいまし」
と、北の方付きの女房が、
けんめいにとりなしていう。
大将は手伝わされて、
衣装を着替えているが、
何しろ、灰まみれになって、
これでは六条院を訪れることは、
出来ない。
大将は、
愛想もつき果てる思いがした。
しかし、
ここで自分が怒り狂って、
手荒な態度に出ては、
狂乱の北の方を、
よけい狂わせるだけである。
大将は自分のほうこそ、
怒鳴りたいのをぐっとこらえ、
口をつぐんでいた。
「出られるものなら出てごらん。
さあ、その姿で女どもに、
笑われに行くがいい、
灰かぶりの殿といって、
世間の物笑いになるだろう。
いい年をして、
若い女に狂った報いだ、
あはははは・・・・」
北の方の狂おしい哄笑は、
邸内にこだまする。
誰もかれも、
耳をふさぎたい思いである。
身分高く気品ある、
深窓の貴婦人にとりついている、
物の怪はよほど下品で邪悪な、
たちの悪いものであるらしい。
いちばん耳をふさぎたいのは、
大将である。
金切り声をあげている、
北の方を見ると、
蒼白な顔に目は血走って吊上がり、
唇は強く噛みしめているので、
血がにじんでいる。
頬はこけ、
凶暴な目がぎらぎらとみなぎって、
まるで鬼としかいいようがない。
大将は情けなくあさましくなり、
北の方への嫌悪感を、
抑えることが出来ない。
ついさっきまで、
いとおしく思っていた心も、
さめ果ててしまう。
だからといって、
大将は北の方を、
突き放して、
打ち捨てることの出来る、
性格ではない。
「よし、わかった、わかった。
静かにしなさい」
大将は狂った妻を、
なだめながら、
「私は今夜は出ない、
どこへもい行かぬから、
鎮まりなさい・・・」
北の方は、
ふだんはあえかな人であるのに、
いまは恐ろしい力で暴れまわり、
大将の男の腕力を以てしても、
おさえかねるほどである。
大将は、
うつつ心のない北の方に、
爪でかきむしられたり、
叩かれたりしながら、
人々に、
「早く呼べ、
加持祈祷の僧を、早く」
と叫んだ。
北の方は、夜一夜、
祈祷の僧たちに祈り伏せられ、
数珠で打たれ、引き倒された。
僧たちが打っているのは、
北の方ではなかった。
北の方の体に入り込み、
とりついている物の怪を、
責めているのだった。
物の怪は、
僧たちの祈祷に弱まったのか、
やっと明け方、北の方は、
うとうとと眠りにおちた。
大将は吐息をついて、
静かになった邸内に、
凝然としている。
北の方が落ち着くと、
六条院のことばかり考える。
大将は玉蔓に手紙を書いた。
「昨夜は急病人が出ました上に、
雪空で、出かけそびれました。
よんどころない事情で、
夜離れでしたが、
お怒りにならないで下さい。
空に乱れる雪のように、
心は乱れ、冷えております。
早くお目にかかりたい」
べつに風情もなく趣もないが、
男らしく、立派だった。
玉蔓は、
大将が来ないことなど、
何とも思わないので、
手紙を読みもせず、
返事もしなかった。
大将の方では、
わくわくしながら、
返事を待っていたのに、
何も来ないので、
落胆している。
北の方が正気でいるときは、
やさしい、
いじらしい女人であるのを、
大将は知っているからこそ、
こうして看病が出来るのである。
そうでなければ、
とても我慢できない。
大将をはじめ、
人々の看病のせいで、
北の方はやや落ち着いて、
一日おとなしくしている。
やがて日暮れになった。
北の方がおさまったとみると、
大将はじっとしていられない。
玉蔓のもとへ出かけようとして、
身支度したが、
装束を充分に、
ととのえることが出来ず、
見苦しいことになった。
新しい直衣が間に合わないので、
昨夜のを取り出させると、
焼け穴だらけで、
しかも焦げくさい臭いがして、
とうてい着られない。
よんどころなく、
古い衣装を着て、
出ることになったが、
今度は下着にも焦げくさい臭いが、
しみついていて、
大将は入浴し直したりして、
六条院へ出かけた。
(次回へ)