「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

26、真木柱 ⑦

2024年01月09日 09時01分42秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳








・大将は目にも鼻にも、
こまかな灰が舞い入って、
あたまも真っ白になり、
何も考えられない。

衣装をはらうと、
あたり一面、
もうもうと灰が舞い立った。

人々は、
あわてふためいて、
火種を拾っているが、
焦げくさい匂いがただよう。

北の方を取り鎮める人々、
大将の衣装を脱がせる人々、
大さわぎになった。

「北の方さまは、
ご正気ではございません。
物の怪がなせるわざで、
ございます。
どうか、
北の方さまを、
お悪くお思いにならないで、
あげて下さいまし」

と、北の方付きの女房が、
けんめいにとりなしていう。

大将は手伝わされて、
衣装を着替えているが、
何しろ、灰まみれになって、
これでは六条院を訪れることは、
出来ない。

大将は、
愛想もつき果てる思いがした。

しかし、
ここで自分が怒り狂って、
手荒な態度に出ては、
狂乱の北の方を、
よけい狂わせるだけである。

大将は自分のほうこそ、
怒鳴りたいのをぐっとこらえ、
口をつぐんでいた。

「出られるものなら出てごらん。
さあ、その姿で女どもに、
笑われに行くがいい、
灰かぶりの殿といって、
世間の物笑いになるだろう。
いい年をして、
若い女に狂った報いだ、
あはははは・・・・」

北の方の狂おしい哄笑は、
邸内にこだまする。

誰もかれも、
耳をふさぎたい思いである。

身分高く気品ある、
深窓の貴婦人にとりついている、
物の怪はよほど下品で邪悪な、
たちの悪いものであるらしい。

いちばん耳をふさぎたいのは、
大将である。

金切り声をあげている、
北の方を見ると、
蒼白な顔に目は血走って吊上がり、
唇は強く噛みしめているので、
血がにじんでいる。

頬はこけ、
凶暴な目がぎらぎらとみなぎって、
まるで鬼としかいいようがない。

大将は情けなくあさましくなり、
北の方への嫌悪感を、
抑えることが出来ない。

ついさっきまで、
いとおしく思っていた心も、
さめ果ててしまう。

だからといって、
大将は北の方を、
突き放して、
打ち捨てることの出来る、
性格ではない。

「よし、わかった、わかった。
静かにしなさい」

大将は狂った妻を、
なだめながら、

「私は今夜は出ない、
どこへもい行かぬから、
鎮まりなさい・・・」

北の方は、
ふだんはあえかな人であるのに、
いまは恐ろしい力で暴れまわり、
大将の男の腕力を以てしても、
おさえかねるほどである。

大将は、
うつつ心のない北の方に、
爪でかきむしられたり、
叩かれたりしながら、
人々に、

「早く呼べ、
加持祈祷の僧を、早く」

と叫んだ。

北の方は、夜一夜、
祈祷の僧たちに祈り伏せられ、
数珠で打たれ、引き倒された。

僧たちが打っているのは、
北の方ではなかった。

北の方の体に入り込み、
とりついている物の怪を、
責めているのだった。

物の怪は、
僧たちの祈祷に弱まったのか、
やっと明け方、北の方は、
うとうとと眠りにおちた。

大将は吐息をついて、
静かになった邸内に、
凝然としている。

北の方が落ち着くと、
六条院のことばかり考える。

大将は玉蔓に手紙を書いた。

「昨夜は急病人が出ました上に、
雪空で、出かけそびれました。
よんどころない事情で、
夜離れでしたが、
お怒りにならないで下さい。
空に乱れる雪のように、
心は乱れ、冷えております。
早くお目にかかりたい」

べつに風情もなく趣もないが、
男らしく、立派だった。

玉蔓は、
大将が来ないことなど、
何とも思わないので、
手紙を読みもせず、
返事もしなかった。

大将の方では、
わくわくしながら、
返事を待っていたのに、
何も来ないので、
落胆している。

北の方が正気でいるときは、
やさしい、
いじらしい女人であるのを、
大将は知っているからこそ、
こうして看病が出来るのである。

そうでなければ、
とても我慢できない。

大将をはじめ、
人々の看病のせいで、
北の方はやや落ち着いて、
一日おとなしくしている。

やがて日暮れになった。

北の方がおさまったとみると、
大将はじっとしていられない。

玉蔓のもとへ出かけようとして、
身支度したが、
装束を充分に、
ととのえることが出来ず、
見苦しいことになった。

新しい直衣が間に合わないので、
昨夜のを取り出させると、
焼け穴だらけで、
しかも焦げくさい臭いがして、
とうてい着られない。

よんどころなく、
古い衣装を着て、
出ることになったが、
今度は下着にも焦げくさい臭いが、
しみついていて、
大将は入浴し直したりして、
六条院へ出かけた。






          


(次回へ)

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