今日はもう10月。祖卿 人吉では国宝の青井阿蘇神社の秋祭り大祭が始まる。今年は3日から~9日までが所謂『おくんち』らしい。もう何十年もお祭り行ったことはないが小学6年生のとき、たずねた多良木の郷土史家の高田保先生の話の面白かったこと。麓町まで降りてきたら水車小屋があって『九いっち 九いっち」と叫びその横に「ことしゃみせん」 と木札がぶら下がっていた。今年は殿様が九日祭りは見せんらしいと慌てて村に帰ったそうだ。そんな話をしてくださった。郷土史の勉強でたずねたときの話だ。
彼岸花が咲き,少し涼しい風が吹き始め 新米の香り 栗の味覚 柿の色が染まってくると 故郷のそばまで帰ってきているのに故郷が懐かしく感じてくる。
お彼岸の少し前に八方ヶ岳の棚田に行ったが,彼岸花は少し早かった。お彼岸になってからと思っていたら、我が家の庭先に白い花が咲き始め毎日の様にチョウチョが遊びにやって来た。相変わらず柚の木に卵を産みつけているが多分冬越しの蛹になるのだろう。
☆己の陰と戦うカマキリ☆
何だかチェンジと言って世の中が変り始めているがどんな風に変っていくのだろうか。歴史は生活の知恵で変化するものだと信じていたが、何だか思いつきで変っていくみたいで気味が悪い。昨年古希を迎えた我々は戦時中は国民学校1年生だった。東京に出たのは昭和32年。戦後復興の息吹を感じ日本人は素晴らしいと自然に自信と誇りを持てた。実社会にでたのは昭和37年である。先日,旧い本の中に挟まれた採用通知の書類が出てきた。その会社の仲間に今年政界を引退した総裁になりながら首相になりそこなったあの運の悪かった河野洋平氏もいた。父親が東京オリンピックを成功させた父河野一郎がいて子息に河野太郎がいる。
然し、オイルショックで世の中が混乱していた頃、彼が「新自由クラブ」を旗揚げした時は格好良かった。爺は職場を変えていたが設立資金を数口寄付したのは昔の仲間として当然だった。長男の太郎君は爺の息子と同世代だ。おかげで我が息子は○太郎と名付けしたし、二人の孫も○太郎となってしまっている。あの当時映画界の大映の社長(俗名永田ラッパ)が名づけたと記憶している。洋平氏も社会党の村山氏を総理に頂き、近隣諸国に謝り続け売国政治家と名指しされながらもリベラル派を自認しながら弁解することなく静かに引退した。こんな事からもやっと爺も爺の生きていた時代が終わったと確信した。
住宅ローンも済んでいるし、己の葬式の費用も保険会社に頼んだ。食べて気ままに過ごすだけなら、今の年金で充分だ。子供達もそれぞれに似合った教育を受け、今はそれぞれに独立している。爺が転勤と転職を重ねた結果、故郷を持たない子供達は爺と同じようにいつかは自分の拠点を作り出すことだろう。別に墓所はいらない。その近くの納骨堂に収めて、思い出したように供養してくれればそれで良い。そんな事を思いながら、市場競争の原理 自己責任を先輩に叩き込まれ、そう信じた40年間の現役時代も否定されてしまったが仕方のない事と諦めた。在日外国人に参政権が渡ろうと夫婦別姓になって家族の絆が薄まろうともうオレの時代ではないからと諦めてしまった。子供達は子供手当がもらえると喜んでいる。それが民意とかで今はそんな時代になってしまった。これも民主主義の贈り物だろう。どちらにせよオレ達の時代は終わった様だ。時折一緒に食事する2児の母の娘と、口うるさいバア様から「もう貴方は過去の人」と呼ばれては喧嘩にもならない。せいぜい新聞社に文句を言って新聞を止めてしまった。ニュース番組もお笑い番組に代わってしまったようだ。
我が家の小さい庭に咲く小さい花やそこに遊びに来る昆虫達と会話するのは大変楽しい ☆ご近所の手入れされた庭には三色の彼岸花が咲いていた☆
彼岸花が咲き,少し涼しい風が吹き始め 新米の香り 栗の味覚 柿の色が染まってくると 故郷のそばまで帰ってきているのに故郷が懐かしく感じてくる。
お彼岸の少し前に八方ヶ岳の棚田に行ったが,彼岸花は少し早かった。お彼岸になってからと思っていたら、我が家の庭先に白い花が咲き始め毎日の様にチョウチョが遊びにやって来た。相変わらず柚の木に卵を産みつけているが多分冬越しの蛹になるのだろう。
☆己の陰と戦うカマキリ☆
何だかチェンジと言って世の中が変り始めているがどんな風に変っていくのだろうか。歴史は生活の知恵で変化するものだと信じていたが、何だか思いつきで変っていくみたいで気味が悪い。昨年古希を迎えた我々は戦時中は国民学校1年生だった。東京に出たのは昭和32年。戦後復興の息吹を感じ日本人は素晴らしいと自然に自信と誇りを持てた。実社会にでたのは昭和37年である。先日,旧い本の中に挟まれた採用通知の書類が出てきた。その会社の仲間に今年政界を引退した総裁になりながら首相になりそこなったあの運の悪かった河野洋平氏もいた。父親が東京オリンピックを成功させた父河野一郎がいて子息に河野太郎がいる。
然し、オイルショックで世の中が混乱していた頃、彼が「新自由クラブ」を旗揚げした時は格好良かった。爺は職場を変えていたが設立資金を数口寄付したのは昔の仲間として当然だった。長男の太郎君は爺の息子と同世代だ。おかげで我が息子は○太郎と名付けしたし、二人の孫も○太郎となってしまっている。あの当時映画界の大映の社長(俗名永田ラッパ)が名づけたと記憶している。洋平氏も社会党の村山氏を総理に頂き、近隣諸国に謝り続け売国政治家と名指しされながらもリベラル派を自認しながら弁解することなく静かに引退した。こんな事からもやっと爺も爺の生きていた時代が終わったと確信した。
住宅ローンも済んでいるし、己の葬式の費用も保険会社に頼んだ。食べて気ままに過ごすだけなら、今の年金で充分だ。子供達もそれぞれに似合った教育を受け、今はそれぞれに独立している。爺が転勤と転職を重ねた結果、故郷を持たない子供達は爺と同じようにいつかは自分の拠点を作り出すことだろう。別に墓所はいらない。その近くの納骨堂に収めて、思い出したように供養してくれればそれで良い。そんな事を思いながら、市場競争の原理 自己責任を先輩に叩き込まれ、そう信じた40年間の現役時代も否定されてしまったが仕方のない事と諦めた。在日外国人に参政権が渡ろうと夫婦別姓になって家族の絆が薄まろうともうオレの時代ではないからと諦めてしまった。子供達は子供手当がもらえると喜んでいる。それが民意とかで今はそんな時代になってしまった。これも民主主義の贈り物だろう。どちらにせよオレ達の時代は終わった様だ。時折一緒に食事する2児の母の娘と、口うるさいバア様から「もう貴方は過去の人」と呼ばれては喧嘩にもならない。せいぜい新聞社に文句を言って新聞を止めてしまった。ニュース番組もお笑い番組に代わってしまったようだ。
我が家の小さい庭に咲く小さい花やそこに遊びに来る昆虫達と会話するのは大変楽しい ☆ご近所の手入れされた庭には三色の彼岸花が咲いていた☆