YASUKOの人生珍道中

2006年秋、新しく始まるYASUKOの人生はブリスベン!この先どうなることやら…珍道中

ありがたきお言葉

2011-12-13 23:13:39 | Weblog
さっき、新宿の行きつけ(だった)のバーの、飲み友達からメールが来ました。

このお友達と、ママと私は3人姉妹!
みたいに、いつもバカな事言いながら…
いつも私はママに「ヤスコのバカヤロウが!」って、怒って貰うのが嬉しくて…
よく、夜中(朝かな?)まで飲んだくれてた。

『今、Soda で飲んでいます。オーストラリアの話題がでています。日本は寒くなる一方ですが、そちらはこれから夏ですね。元気ですか?』

『元気ですよ~! ありがとう!
こっちは、夏…の…はずなんだけど…
まだ、最高気温は20度の後半。
最低気温は20度前後。と、まだちょっと頼りない感じ(笑)
この2,3年は雨も多く、なんとも、ブリスベンらしくない、今日この頃 です。』

『いいじゃん。東京は最高気温が10度台、最低が5度台です。日本を思い出した?』

『そっか~。
こっちの真冬の気温だね。
未だ、こっちの真夏のクリスマスは信じられないけど、日本の寒さも、信じられない!
なんか、こっちにいると…
人間…ゆるむ ね(笑)』

『曽田ママからのメッセージです。あなたは、どこにいても一緒でしょ!って。』

↑ このメールを読んだ瞬間に、思わず独りで噴出しちゃった 

そして、〆に 
『「はは~!!参りました!」
私よりも、よく私を知ってる。
さすが。我が姉御(笑)』 


上の写真はたんぽぽみたいなお花の綿毛。
で、

今日、街の中を飛んでた 『綿毛』

でも、ちょっと大きいから…タンポポのじゃ…ないよね?



百田 尚樹(ひゃくた なおき)

2011-12-13 20:11:29 | Weblog
『永遠の0(ゼロ)』

出来れば知らないで済ませたい…
戦争のお話。

それも『零戦』に乗って戦った人達の体験談を、その時に亡くなった兵士の孫が自分のおじいちゃんの事が知りたくて、体験者を探し、訪ね、それを本にして書き残す。
というストーリー。

先ずは、書き出しの文章の中に
『戦友会も会員の高齢化に伴い、この数年、多くの会が解散していると言うことだ。今まさに戦争経験者が歴史の舞台から消えようとしているのだった。』と言うところがある。

本当にその通りだ。
今、聞いておかないと…

私の父もその戦争経験者の一人だった。
明治39年生まれだから…何戦争だったんだろう…?

私は、そんなことも知らない。

飲んで、酔うたびに父の話す戦争の話が…嫌いだった…聞きたくなかった。
私の生まれた家の物置には、父の兵隊時代の物ががいっぱいあった。
防寒コート、ゲートル、ブーツ、水筒、帽子…千人針…
それらは、幼い私のおもちゃだった。

そして、壁にかかった、丸めがねをかけて兵士の制服姿の若かった父の写真。

物心付いてからは…見ようともしなかった。

もう、父が亡くなって、23年(?)

もっともっと、父の話を聞いておけば良かった と、これだけは本当に 後悔 してる。


心に残った文章です。

『晩年に自らの人生を振り返って初めて、若い頃の輝きが見えてきたということかもしれません。あなたもいずれ年老いて、人生を振り返った時、今の自分がまったく違って見える時が来るでしょう。』

『いいか、良く聞け。時間があれば休め。たっぷり食べて、とにかく寝ろ。どれだけ休めるかが戦いだ。』

『それを知った時、米軍と日本軍の思想はまったく違うものだったのだと知った。「VTヒューズ」は言ってみれば防御兵器だ。敵の攻撃からいかに見方を守るかという兵器だ。日本軍にはまったくない発想だ。日本軍はいかに敵を攻撃するかばかりを考えて兵器を作っていた。』

『ペーパーテストによる優等生って、マニュアルには物凄く強い反面、マニュアルにない状況には脆い部分があると思うのよ。それともうひとつ、自分の考えが間違っていると思わないこと。』

抜きだしちゃうと、ちょっと分かりにくい文章達なんだけどね。

やっぱり、日本人として、今を生きている私たち、そしてその次の世代の人達、そしてまたその次…の人達も、
戦争に関しては、少しでも多く、知るべき だと 私は思う。