『セロ弾きのゴーシュ・グスコーブドリの伝記』
小学生の頃、中学生の頃、高校生の頃…
宮沢賢治は教科書に載っていたり、課題図書だったり…
誰もが何度も出会っていると思う。
私も何度も出会ってる。
でもね、正直言ってあんまり引き込まれなかった。
そして、今この歳になって読んでみて、
すっごく良い!(前にも同じ事書いたような気がしてきた…)
そうしたら、解説欄に 『大人の童話』って書いてあった。
うん、納得
でもね、中学生の時に、教科書に載っていた 『春と修羅』の中の『永訣の朝』って言う詩は好きだった。
っていうか…
なぜか忘れられない(諳んじてる訳じゃ…ないよ)
それで今、探してみた ↓ (『』の中が詩で、後は解説です。)
この異常な烈しい心のぶっつけ合いは、どうしても爆発するところまで行かずにはすまない。
とし子は、いきなり、枕元にあった二つの欠けた陶椀を賢治の胸元に突きつけて、
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」と叫ぶ。「雨雪を取って来てちょうだい」と叫んだのである。
この陶椀には青い蓴菜(じゅんさい)の模様がついている。小さいときからこの兄妹は仲よく
この二つの陶椀でご飯を食べてきた。この欠けた陶椀は兄妹の変らぬ愛情の象徴なのである。
その時賢治は、曲った鉄砲玉のように、あっちへぶつかり、こっちへぶつかりしてやっと
戸口から外へ飛び出した。
暗いみぞれの中に立って初めて賢治は、妹の真意をさとる。
このまま妹が死んだら、賢治は生涯返すことのできない負債を負うことになる。
妹さえも安心させ得なかった者がどうして他人をしあわせにできるかという思いが生涯つきまとう
ようになる。そうさせないために、兄の一生を明るいものにするために、泣くような思いで
妹は陶椀を突きつけたのだと、賢治はみぞれの中でさとるのである。かれはこう歌った。
『 けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
( あめゆじゅとてちてけんじゃ )
うすあかくいっそう陰惨な雲から
みぞれはぴちょぴちょふってくる
( あめゆじゅとてちてけんじゃ )
青い蓴菜のもようのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
( あめゆじゅとてちてけんじゃ )
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといういまごろになって
わたくしをいっしょうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを・・・・・・』
こうして賢治は、二つの御影石の置いてある場所へやって来て、その上に危く立ち上る。
それから手を伸ばして、松の枝に降り積んだみぞれを二つの陶椀の中にそっと移し入れる。
みぞれ、それは雪でもなければ、水でもない、雪と水との二つの相を持ったもの、
いいかえると、天上的なものと地上的なものとの二相系を保っているものである。
これこそ死んで行く妹にふさわしい食物といえよう。
賢治がこの雪のようなみぞれを取ろうとした時、それはもう、どこを選ぼうにも選びようがないほど、
どこもかしこもまっ白であった。どこもかしこも仏の世界であったといっていい。
あんなに恐ろしい乱れた空から来たとは思えぬほど純白な雪の姿であった。賢治はそれをこう歌う。
『・・・・・・・ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまう
( Ora Ora de shitori egumo )ほんとうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびょうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらぼうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ 』
賢治はこの二椀の雪を妹のところへ持って行った。
「これを食べれば、おまへは安心して仏さまのところへ行かれるのだよ」という思いをこめて、
この雪を妹に食べさせたのである。その時、とし子はこう云った。
『 うまれでくるたて
こんどはこたにわりゃのごとばかりで
くるしまなぁよにうまれでくる 』
(また生まれて来るのなら、今度はこんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれて来る)
「今度生まれて来る時は、こんなに自分のことばかりで苦しまず、
ひとのために苦しむ人間に生まれて来たい」
と云うこのけなげな妹のために、賢治は祈らずにはいられなくなる。
『 おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜率(とそつ)の天の食に変って
やがておまへとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいわひをかけてねがふ 』
二椀の雪を妹にもたらした賢治は、もう、曲った鉄砲玉のように飛びだした賢治とは違う。
迷える修羅ではない。修羅は修羅ながら、すでに仏のいのちを生きている修羅であった。
生死の迷いをみぞれの中に払い落としてきた兄からうけとった二椀の雪は、
賢治の祈りを待つまでもなく、もうすでに兜率天の百味の飲食(おんじき)であった。